【読者賞】江戸の飯屋『やわらぎ亭』〜元武家娘が一膳でほぐす人と心〜

旅する書斎(☆ほしい)

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やわらぎ亭の料理人として、初めての「敵情視察」。良太の心に渦巻く黒い雲を吹き払うための、大きな賭けが、始まろうとしていた。私の胸の中には、不思議と、一点の不安もなかった。

翌日の昼下がり、店の賑わいが少し落ち着いたのを見計らって、私と良太はそっと暖簾を下ろした。

「良太、行きましょうか」

「は、はい、おし乃さん……」

良太の声は蚊の鳴くようだ。その顔は青ざめ、手は小刻みに震えている。無理もない。彼にとっては、これから向かう場所は処刑場のようなものなのだろう。

私はいつもより少しだけ上等な小紋の着物に袖を通し、良太には新調したばかりの清潔な着物を着せた。これから向かうのは戦場ではない。お客様として、ただ純粋に料理を味わいに行くのだから。

やわらぎ亭の真向かいに掲げられた、『風のま』の藍色の暖簾。深呼吸を一つして、私はその暖簾を静かにくぐった。良太も、意を決したように私の後ろに続く。

からん、と涼やかな鈴の音が鳴る。
店の中は、外から見た印象通り、隅々まで掃き清められた清潔な空間だった。磨き上げられた白木のカウンターに、ほんのりと香る檜の匂い。やわらぎ亭の、煙と出汁と人の温もりが混じり合った匂いとは、全く違う世界だった。

「いらっしゃいませ」

店の奥から現れたのは、年の頃は二十代半ばだろうか、涼やかな目元をした、きりりとした顔立ちの若い料理人だった。彼が、この店の主、剣心なのだろう。その立ち居振る舞いには、一分の隙もない。

「お二人様ですか。どうぞ、こちらへ」

剣心は、私たちを店の奥にある二人掛けの席へと案内した。

「何にいたしましょうか」

卓の上に置かれた品書きは、美しい和紙に達筆な文字で記されている。そのどれもが、洗練された響きを持っていた。良太は、その品書きを前に、ただ固まっている。

「では、『鱸の洗い 肝醤油仕立て』と、『鴨と九条葱の小鍋立て』を、お願いできますでしょうか」

私が店の看板料理であろう二品を注文すると、剣心は「かしこまりました」と短く応え、すぐに炊き場へと戻っていった。その背中は、己の腕に対する絶対的な自信に満ち溢れていた。

「おし乃さん……。なんだか、俺、生きた心地がしません……」

良太が、小さな声で私に囁く。

「大丈夫ですよ、良太。私たちは今日、ただのお客様なのですから。堂々と、この店の味を確かめましょう」

やがて、目の前に最初の一品が、静かに置かれた。
涼しげな瑠璃色の硝子の器に、まるで雪の花のように盛り付けられた、鱸の洗い。

「……美しい……」

良太の口から、ため息のような声が漏れた。
氷水で締められたのだろう、半透明の鱸の身は、きらきらと光を反射している。添えられた肝醤油の、深い飴色との対比が見事だった。

「さあ、どうぞ。冷めないうちに」

いや、冷たい料理だから、温まらないうちに、と言うべきか。
私は箸を取り、鱸の身を一切れ、肝醤油にさっとつけて口に運んだ。

その瞬間、私の舌の上で、驚きが広がった。
こりり、とした心地よい歯ごたえ。その直後にやってくる、鱸の上品で、繊細な甘み。そして、その甘みを追いかけるように、肝醤油の濃厚なコクと旨味が、口の中いっぱいに広がっていく。臭みなど、微塵もない。ただ、魚の持つ生命力そのものが、完璧な仕事によって芸術の域にまで高められている。

「……どうです、良太。美味しいでしょう」

「はい……。……美味しい、です……」

良太も、おずおずと鱸を口に運んでいた。その目が、信じられないものを見たかのように、大きく見開かれている。

「なんだ、これ……。俺が今まで知っていた魚とは、全く違う……。歯ごたえも、甘みも、香りも……。それに、この肝醤油……。ただ濃厚なだけじゃない。後味は、驚くほどすっきりとしている……」

彼の声は、もはや感嘆を通り越して、呆然としていた。
無理もない。これは、ただ美味いだけではない。作り手の、揺るぎない自信と哲学が込められた味だ。

次いで運ばれてきたのは、小さな土鍋でぐつぐつと音を立てる、鴨の小鍋だった。
蓋を開けると、ふわりと、鴨の野性味あふれる力強い香りと、九条葱の甘い香りが立ち上る。

厚めに切られた鴨肉は、美しい薔薇色。葱は、その緑を少しも損なうことなく、つやつやと輝いている。出汁は、どこまでも澄み切った黄金色だ。

「……これもまた……」

良太は、もはや言葉もないらしい。
私は、鴨肉と葱を一緒に小鉢に取り、その出汁を一口すする。

「……っ!」

鴨の、濃厚で野性味のある脂の甘み。それを、九条葱の鮮烈な香りと甘みが、きりりと引き締めている。そして、それら全てをまとめ上げる出汁の、なんと奥深いことか。
これは、ただの一番出汁ではない。鴨の骨からも、丁寧に旨味を引き出しているのだろう。それでいて、少しもくどくない。

「参りましたね……」

私は、心の底からそう呟いていた。
この若い料理人、剣心。彼の腕は、噂以上だ。

良太は、黙々と、しかしどこか打ちのめされたような顔で、小鍋を平らげていく。
その背中は、やわらぎ亭に来たばかりの頃のように、小さく、頼りなく見えた。

全ての料理を味わい終えた後、私は、会計のために帳場に立った剣心に、静かに声をかけた。

「見事なお料理、ごちそうさまでした。本当に、美味しかったですわ」

私の、心からの称賛の言葉。
剣心は、その涼やかな目元を少しだけ和らげ、「お口に合いましたようで、何よりです」と、静かに応えた。

「ところで、一つだけ、お伺いしてもよろしいでしょうか」

「何なりと」

客からの、さらなる賛辞を期待したのだろう。彼の声には、かすかな得意の色が浮かんでいる。

「あなた様は、この素晴らしいお料理を、どなたに一番食べていただきたいと願って、作っておいでですかい?」

私の、あまりにも素朴な問い。
その瞬間、剣心の自信に満ちた顔が、虚を突かれたように、ぴたりと固まった。

「……どなたに、と申されますと……?」

「ええ」

「それはもちろん、お客様に、でございますが……」

当然の答えを、彼は少し戸惑いながら口にした。

「ええ。ですが、そのお客様の、どんな心を温めたいと願いますか?」

私は、彼の目をまっすぐに見つめて、重ねて尋ねた。
その問いに、剣心は完全に言葉を失ってしまった。
彼の、美しいまでに整った眉が、わずかにひそめられる。

彼の頭の中には、最高の食材を、最高の技術で、いかにして「最高の一皿」に仕上げるか、ということしかなかったのだろう。
その一皿を口にした客が、どんな人生を歩み、どんな心を抱え、そして、どんな明日を迎えるのか。
そこまで、彼の想いは至っていなかった。
彼の料理は、不特定多数の客の「舌」に向けられたものであり、目の前にいる、たった一人の客の「心」に向けられたものではなかったのだ。

しばらくの沈黙の後、剣心は何も答えられないまま、ただ深々と、私に頭を下げた。

店を出て、やわらぎ亭へと戻る道すがら、良太は一言も発さなかった。
その肩は力なく落ち、顔は俯いたままだ。彼の心が、完全に折れてしまっているのが、痛いほど伝わってくる。

やわらぎ亭の暖簾をくぐり、いつもの炊き場に戻った時。
良太は、その場に崩れるように、へたり込んだ。

「……おし乃さん。……俺たち、敵いません……」

絞り出すような、か細い声。

「あの人の料理は、完璧です。味も、見た目も、香りも……。俺たちが、毎日心を込めて作っているつもりの料理なんて、あの人の前では、まるで子供のままごとのようです……」

私は、そんな彼の隣に、そっとしゃがみ込んだ。

「良太」

「……はい」

「あの方の料理は、『点』です」

「……点……?」

「ええ。その一皿で完結する、見事な輝きを放つ、一点の芸術です。食べた者の舌を、心を、その一瞬、確かに天上の世界へと連れて行ってくれる。……それは、誰にでもできることではない、素晴らしい才能ですわ」

私の言葉に、良太はますます俯いてしまう。

「それに比べて、私たちの料理は、『線』なのです」

「……線……?」

「そうです。私たちの料理は、お客様一人一人の、過去と、今と、そして明日へと続く、その人生の『線』に、寄り添うためのもの」

私は、店の壁に飾られた、一筆斎文吾の浮世絵に、目をやった。絵の中では、弥之助や忠吉さん、源五郎さんたちが、楽しそうに笑っている。

「私たちの料理は、一皿では終わりません。お客様が、子供の頃に食べた母の味を思い出し、明日への活力を得る。夫婦が、一杯のだし巻き玉子で、絆を取り戻す。若者が、故郷の汁で、再び夢を追う勇気を得る。……私たちの料理は、お客様の人生と共に、これからもずっと、続いていくのです」

私の静かな言葉が、しんと静まり返った店の中に、染み渡っていく。
良太は、はっとしたように顔を上げた。
その大きな瞳が、何かを掴んだように、強く、強く輝いている。

「……点と、線……」

「ええ。目指すべき道は、違います。けれど、どちらが上で、どちらが下ということもない。どちらも、人を幸せにしたいと願う、尊い料理人の仕事ですわ」

やわらぎ亭の料理の、真髄。
良太は、その意味を、改めて、心の底から理解したようだった。
彼の心に渦巻いていた、焦りや嫉妬、そして劣等感といった黒い雲が、すうっと消えていくのが、私にはわかった。

「……おし乃さん。……俺、目が覚めました」

すっくと立ち上がった良太の顔にはもう、迷いの色はなかった。

「俺は、やわらぎ亭の料理人です。この店の味を、おし乃さんの心を、守り続けていきます。……それが、俺の道です」

その、あまりにも頼もしい言葉。
私は、にっこりと微笑み、力強く頷いた。
私の自慢の一番弟子が、また一つ、大きな壁を乗り越えた瞬間だった。
その顔は、深川の夕焼けのように、晴れやかに輝いていた。
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