【読者賞】江戸の飯屋『やわらぎ亭』〜元武家娘が一膳でほぐす人と心〜

旅する書斎(☆ほしい)

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囲炉裏の火がゆるやかに鳴っている。炊き場の奥に置いた鍋では、根深とちくわの煮ものが音も立てずに味を含んでいた。私は火加減を確認してから、蓋を少しだけずらした。湯気が立ち上る。その中に、甘さと塩気が入り混じった香りがふわりと広がる。

良太が手拭きを腰に差したまま、火の側にしゃがんでいた。左手には竹の盆。朝から下げられた器をまとめ、今はそれを丁寧に拭いている。

「湯にくぐらせた後、布で拭く時の手加減が、まだ少し強いです」

「強いですか?」

「力を抜いたつもりでも、布の繊維が器に残ります。それでは、仕上がりが濁る」

「……やっぱり、見てるんですね。全部」

「器の手入れが悪ければ、料理の印象がすべて曇りますから」

「なるほど……。料理を出す前に、もう勝負は始まってるんですね」

「そうです。炊く前、煮る前、盛る前。全部、始まっているのです」

良太が目を細めて、手元を見直した。その顔にはもう、焦りも迷いもなかった。

戸の外で足音がした。すっとのれんが揺れて、顔を出したのは桶屋のお初だった。朝にも一度来ているのに、また訪ねてきたようだった。

「おし乃さん……お母ちゃんが、お礼にって」

そう言って、お初が抱えていた風呂敷を広げた。中には、小ぶりの桜餅がいくつか、丁寧に並んでいた。

「今朝のお弁当が、主人にたいそう好評で……お母ちゃん、うれしくて仕方ないって」

「ありがとうございます。甘いものは、午後の合間にちょうどいいです」

「良太さんにも、どうぞって」

「えっ、俺も?」

「もちろん。だって、今日のお弁当は、おし乃さんと良太さん、ふたりで作ったものですもの」

「……うれしいな。いただきます」

お初は籠に風呂敷を畳んで、囲炉裏の前にちょこんと座った。炊き場の香りに包まれて、満足そうな顔をしている。

「この匂い、好き。毎日ここにいたいくらい」

「その言葉、薪と米が喜びます」

「でもね、今日来たのには、もうひとつ理由があるの」

「理由?」

「今朝、うちに来た人がいてね。『やわらぎ亭ってどこだ?』って」

「どんな方でした?」

「たぶん、お武家さま。すごく静かな人だったけど、目がね……すごく鋭かった」

良太と私は顔を見合わせた。先ほどの、あの品のある女と、その付き人。もしかすると、その関係者かもしれない。

「名前は?」

「名乗らなかった。でも、お店の中をずっと見てた。柱とか、のれんとか。……あたし、なんか、ぞくってした」

「なるほど」

「でも、悪い人じゃなさそうだった。ただ……なんか、意味ありげだったの」

「ありがとうございます。そういう話は、知っておく方が助かります」

「うん。気をつけてね」

お初はぺこりと頭を下げて帰っていった。

私はその背中を見送りながら、炊き場に戻った。良太も静かに椅子に腰を下ろし、湯気を眺めている。

「おし乃さん、ここって……いろんな人が見てるんですね」

「のれんを出すということは、誰にでも見られるということです」

「でも、料理を出してるだけですよね」

「その“だけ”が、一番見られます」

「……やっぱり、料理って深い」

「深くありません。ただ、奥行きがあるだけです」

私は次の米を研ぎ、指先で米粒を転がす。水が少し白く濁り、やがて澄んでいく。それを何度も繰り返す。

戸の外が再び揺れた。今日はひとがよく出入りする。のれんの向こうから入ってきたのは、近くの駄菓子屋の女将だった。手にしていたのは、布で巻かれた小さな箱。

「おし乃さん、こんにちは。今日もお忙しそうね」

「ありがとうございます。どうぞ、火のそばでお休みください」

「いや、ちょっとだけ……。これ、持ってきたの」

箱の中には、干し柿が数個。砂糖をまぶしたように白く、手作りの風情がある。

「ご近所さんがね、いつもやわらぎ亭のおかげで元気が出るって。……だから、うちの柿でお返しできたらって思って」

「ありがたいです。干し柿は味噌と相性がいいので、煮ものにも合います」

「良かったら、お茶のときにでも」

「もちろんです。ちょうど今、煮ものが仕上がるところです」

「じゃあ、また来ますね」

女将が帰ったあと、良太が私の手元を見ながら言った。

「こんなに、いろんなものが集まってくるんですね」

「飯を出す店は、味だけで成り立っているわけではありません」

「……火と水と、客と、近所と」

「そうです。そして、見ている目と、差し出す手と。――どれが欠けても、炊けない米があります」

良太がゆっくりうなずきながら、また器をひとつ手に取った。私の釜では、次の米がちょうど湯気を上げはじめていた。しゃもじを準備しながら、私はこの炊き上がりをどう盛ろうかと考え始めた。器、菜、塩気、香り。ひとつずつの加減が揃えば、また一膳、うまくいく気がした。
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