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囲炉裏の火がゆるやかに鳴っている。炊き場の奥に置いた鍋では、根深とちくわの煮ものが音も立てずに味を含んでいた。私は火加減を確認してから、蓋を少しだけずらした。湯気が立ち上る。その中に、甘さと塩気が入り混じった香りがふわりと広がる。
良太が手拭きを腰に差したまま、火の側にしゃがんでいた。左手には竹の盆。朝から下げられた器をまとめ、今はそれを丁寧に拭いている。
「湯にくぐらせた後、布で拭く時の手加減が、まだ少し強いです」
「強いですか?」
「力を抜いたつもりでも、布の繊維が器に残ります。それでは、仕上がりが濁る」
「……やっぱり、見てるんですね。全部」
「器の手入れが悪ければ、料理の印象がすべて曇りますから」
「なるほど……。料理を出す前に、もう勝負は始まってるんですね」
「そうです。炊く前、煮る前、盛る前。全部、始まっているのです」
良太が目を細めて、手元を見直した。その顔にはもう、焦りも迷いもなかった。
戸の外で足音がした。すっとのれんが揺れて、顔を出したのは桶屋のお初だった。朝にも一度来ているのに、また訪ねてきたようだった。
「おし乃さん……お母ちゃんが、お礼にって」
そう言って、お初が抱えていた風呂敷を広げた。中には、小ぶりの桜餅がいくつか、丁寧に並んでいた。
「今朝のお弁当が、主人にたいそう好評で……お母ちゃん、うれしくて仕方ないって」
「ありがとうございます。甘いものは、午後の合間にちょうどいいです」
「良太さんにも、どうぞって」
「えっ、俺も?」
「もちろん。だって、今日のお弁当は、おし乃さんと良太さん、ふたりで作ったものですもの」
「……うれしいな。いただきます」
お初は籠に風呂敷を畳んで、囲炉裏の前にちょこんと座った。炊き場の香りに包まれて、満足そうな顔をしている。
「この匂い、好き。毎日ここにいたいくらい」
「その言葉、薪と米が喜びます」
「でもね、今日来たのには、もうひとつ理由があるの」
「理由?」
「今朝、うちに来た人がいてね。『やわらぎ亭ってどこだ?』って」
「どんな方でした?」
「たぶん、お武家さま。すごく静かな人だったけど、目がね……すごく鋭かった」
良太と私は顔を見合わせた。先ほどの、あの品のある女と、その付き人。もしかすると、その関係者かもしれない。
「名前は?」
「名乗らなかった。でも、お店の中をずっと見てた。柱とか、のれんとか。……あたし、なんか、ぞくってした」
「なるほど」
「でも、悪い人じゃなさそうだった。ただ……なんか、意味ありげだったの」
「ありがとうございます。そういう話は、知っておく方が助かります」
「うん。気をつけてね」
お初はぺこりと頭を下げて帰っていった。
私はその背中を見送りながら、炊き場に戻った。良太も静かに椅子に腰を下ろし、湯気を眺めている。
「おし乃さん、ここって……いろんな人が見てるんですね」
「のれんを出すということは、誰にでも見られるということです」
「でも、料理を出してるだけですよね」
「その“だけ”が、一番見られます」
「……やっぱり、料理って深い」
「深くありません。ただ、奥行きがあるだけです」
私は次の米を研ぎ、指先で米粒を転がす。水が少し白く濁り、やがて澄んでいく。それを何度も繰り返す。
戸の外が再び揺れた。今日はひとがよく出入りする。のれんの向こうから入ってきたのは、近くの駄菓子屋の女将だった。手にしていたのは、布で巻かれた小さな箱。
「おし乃さん、こんにちは。今日もお忙しそうね」
「ありがとうございます。どうぞ、火のそばでお休みください」
「いや、ちょっとだけ……。これ、持ってきたの」
箱の中には、干し柿が数個。砂糖をまぶしたように白く、手作りの風情がある。
「ご近所さんがね、いつもやわらぎ亭のおかげで元気が出るって。……だから、うちの柿でお返しできたらって思って」
「ありがたいです。干し柿は味噌と相性がいいので、煮ものにも合います」
「良かったら、お茶のときにでも」
「もちろんです。ちょうど今、煮ものが仕上がるところです」
「じゃあ、また来ますね」
女将が帰ったあと、良太が私の手元を見ながら言った。
「こんなに、いろんなものが集まってくるんですね」
「飯を出す店は、味だけで成り立っているわけではありません」
「……火と水と、客と、近所と」
「そうです。そして、見ている目と、差し出す手と。――どれが欠けても、炊けない米があります」
良太がゆっくりうなずきながら、また器をひとつ手に取った。私の釜では、次の米がちょうど湯気を上げはじめていた。しゃもじを準備しながら、私はこの炊き上がりをどう盛ろうかと考え始めた。器、菜、塩気、香り。ひとつずつの加減が揃えば、また一膳、うまくいく気がした。
良太が手拭きを腰に差したまま、火の側にしゃがんでいた。左手には竹の盆。朝から下げられた器をまとめ、今はそれを丁寧に拭いている。
「湯にくぐらせた後、布で拭く時の手加減が、まだ少し強いです」
「強いですか?」
「力を抜いたつもりでも、布の繊維が器に残ります。それでは、仕上がりが濁る」
「……やっぱり、見てるんですね。全部」
「器の手入れが悪ければ、料理の印象がすべて曇りますから」
「なるほど……。料理を出す前に、もう勝負は始まってるんですね」
「そうです。炊く前、煮る前、盛る前。全部、始まっているのです」
良太が目を細めて、手元を見直した。その顔にはもう、焦りも迷いもなかった。
戸の外で足音がした。すっとのれんが揺れて、顔を出したのは桶屋のお初だった。朝にも一度来ているのに、また訪ねてきたようだった。
「おし乃さん……お母ちゃんが、お礼にって」
そう言って、お初が抱えていた風呂敷を広げた。中には、小ぶりの桜餅がいくつか、丁寧に並んでいた。
「今朝のお弁当が、主人にたいそう好評で……お母ちゃん、うれしくて仕方ないって」
「ありがとうございます。甘いものは、午後の合間にちょうどいいです」
「良太さんにも、どうぞって」
「えっ、俺も?」
「もちろん。だって、今日のお弁当は、おし乃さんと良太さん、ふたりで作ったものですもの」
「……うれしいな。いただきます」
お初は籠に風呂敷を畳んで、囲炉裏の前にちょこんと座った。炊き場の香りに包まれて、満足そうな顔をしている。
「この匂い、好き。毎日ここにいたいくらい」
「その言葉、薪と米が喜びます」
「でもね、今日来たのには、もうひとつ理由があるの」
「理由?」
「今朝、うちに来た人がいてね。『やわらぎ亭ってどこだ?』って」
「どんな方でした?」
「たぶん、お武家さま。すごく静かな人だったけど、目がね……すごく鋭かった」
良太と私は顔を見合わせた。先ほどの、あの品のある女と、その付き人。もしかすると、その関係者かもしれない。
「名前は?」
「名乗らなかった。でも、お店の中をずっと見てた。柱とか、のれんとか。……あたし、なんか、ぞくってした」
「なるほど」
「でも、悪い人じゃなさそうだった。ただ……なんか、意味ありげだったの」
「ありがとうございます。そういう話は、知っておく方が助かります」
「うん。気をつけてね」
お初はぺこりと頭を下げて帰っていった。
私はその背中を見送りながら、炊き場に戻った。良太も静かに椅子に腰を下ろし、湯気を眺めている。
「おし乃さん、ここって……いろんな人が見てるんですね」
「のれんを出すということは、誰にでも見られるということです」
「でも、料理を出してるだけですよね」
「その“だけ”が、一番見られます」
「……やっぱり、料理って深い」
「深くありません。ただ、奥行きがあるだけです」
私は次の米を研ぎ、指先で米粒を転がす。水が少し白く濁り、やがて澄んでいく。それを何度も繰り返す。
戸の外が再び揺れた。今日はひとがよく出入りする。のれんの向こうから入ってきたのは、近くの駄菓子屋の女将だった。手にしていたのは、布で巻かれた小さな箱。
「おし乃さん、こんにちは。今日もお忙しそうね」
「ありがとうございます。どうぞ、火のそばでお休みください」
「いや、ちょっとだけ……。これ、持ってきたの」
箱の中には、干し柿が数個。砂糖をまぶしたように白く、手作りの風情がある。
「ご近所さんがね、いつもやわらぎ亭のおかげで元気が出るって。……だから、うちの柿でお返しできたらって思って」
「ありがたいです。干し柿は味噌と相性がいいので、煮ものにも合います」
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「もちろんです。ちょうど今、煮ものが仕上がるところです」
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「……火と水と、客と、近所と」
「そうです。そして、見ている目と、差し出す手と。――どれが欠けても、炊けない米があります」
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