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菜の花のからし和えを盛りつけた器を棚に並べると、湯気の向こうで炊きあがった釜から、ほこりのように光が立ちのぼった。良太が蓋を開け、しゃもじをそっと入れる。米が静かにほぐれ、炊き場全体の空気が甘くやわらいだ。
「今日のこの釜、すごくいい香りです」
「湯気に香りがある時は、米が自分の芯を出した証拠です」
「芯を出す……」
「米はね、押さえつけると崩れるし、放っておくと締まる。けど、うまく火が抱いてくれると、自分で立って、香りを出すようになるの」
「火が抱く……うまいこと言いますね」
「うまいのは、米ですよ」
良太がしゃもじで飯をすくい、飯椀に軽くよそった。よそいながらも、目は炊き場の奥を見ていた。そこに、何か気配を感じ取ったのか、手を止めて私に小声で尋ねた。
「おし乃さん……あの人、また来てます」
良太の視線の先には、のれんをくぐった男の姿があった。あの、三日連続で通っている男。けれど今日は一人きり。連れもなく、迷いもなく、ただまっすぐにこちらを見ていた。
「いらっしゃいませ。炊きたての米がございます」
「それが目当てです。今日は菜の花があると聞きました」
「八百屋の忠吉さんが、朝一番で持ってきてくれました」
「春の匂いがする頃だと、耳にして」
「からしと酢で和えてあります。口を通る風をお楽しみください」
私は盛りつけを終えたばかりの菜の花を盆に乗せ、良太のよそった飯と味噌汁を添える。器の配置を整え、間を空けすぎず、けれど詰めすぎないように。男は膳に手を合わせ、黙って箸を取った。
菜の花を一口。噛んだ瞬間、微かに眉が動いた。次に飯を一口。そして、味噌汁で口を落ち着けた後、再び菜の花へ。
「……これは、春ですね」
「口で季節を感じていただければ、本望です」
「苦味が、生きている味です。優しいだけじゃない、芯があります」
「寒さを越えた味ですから」
「三日通って、四日目にようやく春を食べる……」
男が飯椀を持ち直し、もう一口含んだ。その様子を見て、私は次の献立を考えた。夜が近づけば、胃に負担をかけず、けれど満足感のあるものを求められる。
「今日の夜は、何を出す予定ですか?」
「干し海老と青菜の炊き込みを考えております」
「ほう。香り勝ちですね」
「音のある味がほしくなります。海老が煎られる音と、炊き上がる時の香り。それだけで、酒がいらなくなります」
「……では、夕方にもう一度来ても?」
「はい。米が喜びます」
男は器を置き、静かに席を立った。のれんをくぐる背中が、いつもより軽く見えた。
「おし乃さん、あの人、今日はなんだか……」
「風が変わってます。春の風は、知らぬ間に背を押します」
「……僕も、今、ちょっと押されました」
私は良太の言葉にうなずきながら、次の準備に移った。釜の中を確認し、まだ炊ける余力があることを確かめる。夜に向けての海老と青菜の支度は、少し早めに始めた方がいい。
干し海老は軽く炙ってから細かく刻む。香りを飛ばさぬよう、火から離れるまで目を離さない。青菜は塩で揉み、色を閉じ込めてから、炊きあがりに混ぜる準備をする。
良太が横から手を伸ばし、鍋を支えた。
「この海老、炊く時に何を合わせます?」
「酒と塩。醤油は入れない。焦げますから」
「了解です。米は三合で?」
「今日は、四合炊きましょう。夕方は混みます」
「はい」
良太が米を研ぎ、私は干し海老を鍋で煎る。香ばしい匂いが一気に炊き場を満たし、それが戸の隙間から外へ漏れていった。
「……これ、外に匂いが漏れるだけで、客が呼べそうですね」
「そう。海老は音と香りで人を連れてくる。音が鳴る食材は、それだけで強いです」
釜に米を移し、煎った海老を乗せ、酒と塩を合わせて水加減を整える。火を入れ、蓋をして、あとは待つ。火が語り、米が応える時間が始まった。
私は鍋の中で湯を沸かしながら、刻んだ青菜を指でまぶした。冷水で締めてあるので、歯ごたえが残っている。その歯ごたえを、海老の香りと合わせて噛ませる。それがこの炊き込みの要だった。
「おし乃さん、火、弱めていいですか?」
「まだ。音が変わってから。いまはまだ水の音」
「わかりました」
良太が火のそばにしゃがみ、耳を澄ませる。彼の背中が、まるで釜と話しているように見えた。湯気が肩にまとわりつき、音だけが店の中に響く。
今日もまた、飯が答えようとしている。私はそれに応えるべく、次の椀を用意するための手を動かし続けた。
「今日のこの釜、すごくいい香りです」
「湯気に香りがある時は、米が自分の芯を出した証拠です」
「芯を出す……」
「米はね、押さえつけると崩れるし、放っておくと締まる。けど、うまく火が抱いてくれると、自分で立って、香りを出すようになるの」
「火が抱く……うまいこと言いますね」
「うまいのは、米ですよ」
良太がしゃもじで飯をすくい、飯椀に軽くよそった。よそいながらも、目は炊き場の奥を見ていた。そこに、何か気配を感じ取ったのか、手を止めて私に小声で尋ねた。
「おし乃さん……あの人、また来てます」
良太の視線の先には、のれんをくぐった男の姿があった。あの、三日連続で通っている男。けれど今日は一人きり。連れもなく、迷いもなく、ただまっすぐにこちらを見ていた。
「いらっしゃいませ。炊きたての米がございます」
「それが目当てです。今日は菜の花があると聞きました」
「八百屋の忠吉さんが、朝一番で持ってきてくれました」
「春の匂いがする頃だと、耳にして」
「からしと酢で和えてあります。口を通る風をお楽しみください」
私は盛りつけを終えたばかりの菜の花を盆に乗せ、良太のよそった飯と味噌汁を添える。器の配置を整え、間を空けすぎず、けれど詰めすぎないように。男は膳に手を合わせ、黙って箸を取った。
菜の花を一口。噛んだ瞬間、微かに眉が動いた。次に飯を一口。そして、味噌汁で口を落ち着けた後、再び菜の花へ。
「……これは、春ですね」
「口で季節を感じていただければ、本望です」
「苦味が、生きている味です。優しいだけじゃない、芯があります」
「寒さを越えた味ですから」
「三日通って、四日目にようやく春を食べる……」
男が飯椀を持ち直し、もう一口含んだ。その様子を見て、私は次の献立を考えた。夜が近づけば、胃に負担をかけず、けれど満足感のあるものを求められる。
「今日の夜は、何を出す予定ですか?」
「干し海老と青菜の炊き込みを考えております」
「ほう。香り勝ちですね」
「音のある味がほしくなります。海老が煎られる音と、炊き上がる時の香り。それだけで、酒がいらなくなります」
「……では、夕方にもう一度来ても?」
「はい。米が喜びます」
男は器を置き、静かに席を立った。のれんをくぐる背中が、いつもより軽く見えた。
「おし乃さん、あの人、今日はなんだか……」
「風が変わってます。春の風は、知らぬ間に背を押します」
「……僕も、今、ちょっと押されました」
私は良太の言葉にうなずきながら、次の準備に移った。釜の中を確認し、まだ炊ける余力があることを確かめる。夜に向けての海老と青菜の支度は、少し早めに始めた方がいい。
干し海老は軽く炙ってから細かく刻む。香りを飛ばさぬよう、火から離れるまで目を離さない。青菜は塩で揉み、色を閉じ込めてから、炊きあがりに混ぜる準備をする。
良太が横から手を伸ばし、鍋を支えた。
「この海老、炊く時に何を合わせます?」
「酒と塩。醤油は入れない。焦げますから」
「了解です。米は三合で?」
「今日は、四合炊きましょう。夕方は混みます」
「はい」
良太が米を研ぎ、私は干し海老を鍋で煎る。香ばしい匂いが一気に炊き場を満たし、それが戸の隙間から外へ漏れていった。
「……これ、外に匂いが漏れるだけで、客が呼べそうですね」
「そう。海老は音と香りで人を連れてくる。音が鳴る食材は、それだけで強いです」
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「おし乃さん、火、弱めていいですか?」
「まだ。音が変わってから。いまはまだ水の音」
「わかりました」
良太が火のそばにしゃがみ、耳を澄ませる。彼の背中が、まるで釜と話しているように見えた。湯気が肩にまとわりつき、音だけが店の中に響く。
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