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炊き場の火が落ち着き、米の音が少しずつ変わってきた。ぱちぱちという跳ねる音から、湯の下でじゅわっと鳴る音に変わる。水が引き、米が自分の重みで鍋の底に落ち着いていく。火を止めるのは、その一歩手前。私はしゃもじを手に取り、蓋に指をかける。
「……いまです」
蓋を外すと、炊き場が白く包まれる。湯気の向こうから、炊きあがった海老の香りがふわっと押し寄せる。焦げの手前、米の芯は立ち、海老の赤がわずかに顔を出していた。私はそのまま青菜を混ぜる。手早く、けれど力を入れすぎず、香りと温度が逃げないように。
良太が横で湯のみを運びながら、鼻をすんと鳴らして笑った。
「……これ、絶対うまいですね」
「香りだけで腹が鳴るなら、味は保証つきです」
「何人分あります?」
「六膳分はあります。けれど、混ぜ飯は冷めるのが早い。出すなら、手早く」
「了解」
私は器を温め、小鉢に漬け物を添えた。刻み大根に酢を少し、胡麻を混ぜておく。味に幅があるときは、口直しが命になる。椀の中に、すっと混ぜ飯を盛りつけ、蓋をかけた。
「では、これを」
「僕、出してきます」
良太が盆に乗せて席へと向かう。のれんの向こうには、すでに三人の客がいた。ひとりは仕事帰りの鍛冶屋、もうひとりは子どもを連れた魚屋の女房。そしてもう一人、あの男だった。
四日目。夕飯どき。今日だけで、三度目の来訪。
彼はすでに席に着いていた。飯を前にすると、自然と背筋が伸びていた。私はその様子を一瞥し、器の重みを確かめながら、次の膳を整える。
「今夜は、干し海老と青菜の炊き込みです。胡麻と酢の大根を添えて」
「理想的だ。春の夜には、香りがよく効く」
「香りは、夜の空腹に最も届きやすいからです」
「なるほど」
彼は蓋を開ける。ふわっと立ち昇る湯気とともに、海老の香ばしさが席全体に広がった。魚屋の子どもが思わずそちらを振り返り、女房が目配せで制した。
男はまず、漬け物に手を伸ばした。大根を一口、噛みしめてから、混ぜ飯に箸を入れる。青菜と米を持ち上げ、香りを嗅いでから、口に入れる。
「……うまい。米が立ってる」
「海老は煎ってあります。香りが飛ばないように、蓋は最後まで閉じてました」
「だから、蓋を開けたときに“音”が出る」
「そうです。食べる音が聞こえるなら、それは成功です」
「……やっぱり、音がある料理が好きだな」
「静かな料理は静かに沁みますが、音がある料理は、腹から目が覚めます」
魚屋の子どもが、じっとこちらを見ていた。私は微笑みかけて、飯椀をひとつ指さす。
「少し、分けましょうか?」
「ほんとうに?」
「香りが逃げないうちに。蓋はここまで」
私は子ども用に小さな椀をよそい、蓋をした。子どもは手を合わせ、まっすぐ飯を見ていた。女房が後ろからそっと頭を撫でた。
「この子、偏食でね。けれど、おし乃さんの飯だけは、全部食べるの」
「偏っていたものは、舌じゃなく心です。心が整えば、味も変わります」
「まったく、不思議な店だわ」
「料理は、舌より先に、香りで届くようにしてありますから」
良太が釜の横でしゃもじを洗いながら、声を潜めて尋ねた。
「……このままいけば、あと二膳分です」
「では、芋の煮ものを添えて。香りのあとには、静かな温もりを」
「はい。芋はもう炊けてます。小鉢に移しますか?」
「お願いします。器は浅めで。芋が重ならないように」
「了解」
彼の動きはもはや、言葉を要しない段階に来ていた。器を選ぶ指、火加減を見る目、湯を注ぐ角度。どれも、湯気と一緒に覚えていったものだった。
私は棚から香の物を取り出し、器を整えた。大根の漬け物はあとわずか。明日の分は、今夜のうちに仕込む必要がある。
「おし乃さん、あの男の人、明日も来ますね」
「ええ、たぶん来ます」
「なんで、わかるんですか?」
「飯の食べ方が、“続き”を求めてました。終わらせない人は、また来ます」
良太が黙ってうなずいた。私はまた釜に火を入れた。最後の一膳を炊く準備に取りかかるためだった。湯気がまた、静かに舞いはじめていた。
「……いまです」
蓋を外すと、炊き場が白く包まれる。湯気の向こうから、炊きあがった海老の香りがふわっと押し寄せる。焦げの手前、米の芯は立ち、海老の赤がわずかに顔を出していた。私はそのまま青菜を混ぜる。手早く、けれど力を入れすぎず、香りと温度が逃げないように。
良太が横で湯のみを運びながら、鼻をすんと鳴らして笑った。
「……これ、絶対うまいですね」
「香りだけで腹が鳴るなら、味は保証つきです」
「何人分あります?」
「六膳分はあります。けれど、混ぜ飯は冷めるのが早い。出すなら、手早く」
「了解」
私は器を温め、小鉢に漬け物を添えた。刻み大根に酢を少し、胡麻を混ぜておく。味に幅があるときは、口直しが命になる。椀の中に、すっと混ぜ飯を盛りつけ、蓋をかけた。
「では、これを」
「僕、出してきます」
良太が盆に乗せて席へと向かう。のれんの向こうには、すでに三人の客がいた。ひとりは仕事帰りの鍛冶屋、もうひとりは子どもを連れた魚屋の女房。そしてもう一人、あの男だった。
四日目。夕飯どき。今日だけで、三度目の来訪。
彼はすでに席に着いていた。飯を前にすると、自然と背筋が伸びていた。私はその様子を一瞥し、器の重みを確かめながら、次の膳を整える。
「今夜は、干し海老と青菜の炊き込みです。胡麻と酢の大根を添えて」
「理想的だ。春の夜には、香りがよく効く」
「香りは、夜の空腹に最も届きやすいからです」
「なるほど」
彼は蓋を開ける。ふわっと立ち昇る湯気とともに、海老の香ばしさが席全体に広がった。魚屋の子どもが思わずそちらを振り返り、女房が目配せで制した。
男はまず、漬け物に手を伸ばした。大根を一口、噛みしめてから、混ぜ飯に箸を入れる。青菜と米を持ち上げ、香りを嗅いでから、口に入れる。
「……うまい。米が立ってる」
「海老は煎ってあります。香りが飛ばないように、蓋は最後まで閉じてました」
「だから、蓋を開けたときに“音”が出る」
「そうです。食べる音が聞こえるなら、それは成功です」
「……やっぱり、音がある料理が好きだな」
「静かな料理は静かに沁みますが、音がある料理は、腹から目が覚めます」
魚屋の子どもが、じっとこちらを見ていた。私は微笑みかけて、飯椀をひとつ指さす。
「少し、分けましょうか?」
「ほんとうに?」
「香りが逃げないうちに。蓋はここまで」
私は子ども用に小さな椀をよそい、蓋をした。子どもは手を合わせ、まっすぐ飯を見ていた。女房が後ろからそっと頭を撫でた。
「この子、偏食でね。けれど、おし乃さんの飯だけは、全部食べるの」
「偏っていたものは、舌じゃなく心です。心が整えば、味も変わります」
「まったく、不思議な店だわ」
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「……このままいけば、あと二膳分です」
「では、芋の煮ものを添えて。香りのあとには、静かな温もりを」
「はい。芋はもう炊けてます。小鉢に移しますか?」
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「了解」
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「おし乃さん、あの男の人、明日も来ますね」
「ええ、たぶん来ます」
「なんで、わかるんですか?」
「飯の食べ方が、“続き”を求めてました。終わらせない人は、また来ます」
良太が黙ってうなずいた。私はまた釜に火を入れた。最後の一膳を炊く準備に取りかかるためだった。湯気がまた、静かに舞いはじめていた。
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