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次の米を釜に移し、水を張った時には、炊き場の空気がすっかり明るくなっていた。天窓から差し込む光が、湯気を白く浮かび上がらせる。良太が湯を張った桶に葱を沈めながら、ちらと私を見た。
「……あの子、ちゃんと食べていきましたか?」
「ええ、きれいに全部」
「言葉、交わせました?」
「少しだけね。でも、それで十分」
「うん……なんか、背筋が伸びた気がしました。今朝の湯気は、すっと立ってて」
「それが、“いい飯が炊けた”って証よ」
私はそう言って火を入れ、最初の泡が釜の縁から上がってくるのを見つめた。炊き場の音は整っていて、しゃもじを持つ手にも迷いがない。私は奥の戸棚から、芋の煮ものを移すための器を探し始めた。
昼に向けて、胃に重くなく、それでいて味に厚みのあるものを出したい。今日は干し芋と昆布を甘辛く煮た一皿に決めていた。昆布は昨日のうちに巻いておいた。小ぶりな芋は、崩れない程度に煮含めてある。
器は浅いほうがいい。煮汁が底に少し残り、芋の香りが立つようにするため。薄い緑の小鉢に昆布を敷き、芋を静かに並べた。
「それ、芋と昆布ですか?」
「ええ。今日の昼にはちょうどいい。ご飯に合いますし」
「ご飯は、あと五分ほどで蒸らしに入れそうです」
「その音なら、ちょうどね」
良太の火加減は、もう私が口を挟むことはほとんどない。米が立つ音、水が弾ける音、そのひとつひとつを聞き分けている。次に必要なのは、客の舌の違いを読み取る力だ。
釜の蓋を開けると、湯気の中から炊きたての米が現れた。しゃもじを入れると、底からふわりと香りが立つ。よそいながら、私は良太に器を温めるよう頼んだ。
「椀は深めに。芋の甘さに、米の香りが負けないように」
「はい。味噌汁はどうしましょう?」
「今日は薄く切った蕪と、焼いた油揚げ。火の通りが早いものばかりだから、昼に向いてる」
「すぐ支度します」
良太が味噌をとき、私は蕪を切った。包丁が板に当たる音が軽く、しゃきしゃきと心地いい。切った蕪を鍋に入れ、出汁でさっと火を通す。焼いた油揚げを加えると、香ばしさが広がった。
表でのれんが揺れ、午前の客がやってきた。大工の藤吉だった。肩に道具袋を下げ、額に巻いた手拭いから汗が垂れていた。
「おう、おし乃さん。今日の釜、どうだい?」
「今朝のは、すっきりと炊けてます。香りもよく出てますよ」
「なら、それを。腹の中が空っぽで、鳴いてるぐらいだ」
「では、芋の含め煮と、蕪の味噌汁をお出しします」
「おう、楽しみだ」
私は器を運び、飯をよそい、小鉢を添えた。味噌汁の蓋を閉め、盆に乗せて差し出すと、藤吉はすぐに手を合わせた。
「いただきます」
芋を箸で持ち上げ、じっと見てから口に運んだ。噛む音は静かだったが、すぐに頬の筋肉が緩んだ。
「……うまいな、これ。芋の甘さに、昆布がちゃんと追いついてくる」
「煮るときに火を止める間が大事なんです。煮続けると、芋が勝ちすぎる」
「なるほどな。仕事も似たようなもんだ。叩き続けりゃ、木も疲れる」
「仕事も飯も、力を抜くところがあると、いいものが仕上がります」
藤吉が笑いながら味噌汁に手を伸ばす。口に含んだ瞬間、肩の力がすっと抜けたようだった。蕪の甘みと、油揚げの香りがちょうどよく合っていた。
「おし乃さん、ここの飯はやっぱり違うな。なんというか……構えずに食える」
「うちは、構える人は食べづらいんです」
「そりゃ、いい店だ」
彼が箸を進めていると、次の客が現れた。ひょろりと背の高い男。見慣れない顔だったが、仕立てのいい羽織を着ていた。腰の差しものはなかったが、足の運びと目の動きで、それなりの人間だと察しがついた。
「ここが……やわらぎ亭ですか」
「はい。お口に合うかわかりませんが、お迎えいたします」
「……誰に聞いても、ここの名が出たもので」
「炊きたてのご飯と、煮物、味噌汁。それがすべてです」
「では、それを。……何も言わず、出していただけますか」
「承知しました」
私は器を温め、飯をよそった。芋の煮物は、一つだけ昆布を立たせて盛りつける。味噌汁は熱すぎず、けれど香りはしっかりと。
盆に整え、席に出すと、男はゆっくりと手を合わせた。箸の持ち方、姿勢、飯を口に運ぶ角度まで、ひとつひとつが丁寧だった。味を確かめるのではなく、ただ味に身を預けているような食べ方だった。
「……静かに旨い」
ひとことだけ漏らした声は、感想というより、確認だった。私はそれ以上何も言わず、湯を足しながら次の釜の準備に入った。器の音が、炊き場の湯気に溶けていく音だけが、心地よく響いていた。
「……あの子、ちゃんと食べていきましたか?」
「ええ、きれいに全部」
「言葉、交わせました?」
「少しだけね。でも、それで十分」
「うん……なんか、背筋が伸びた気がしました。今朝の湯気は、すっと立ってて」
「それが、“いい飯が炊けた”って証よ」
私はそう言って火を入れ、最初の泡が釜の縁から上がってくるのを見つめた。炊き場の音は整っていて、しゃもじを持つ手にも迷いがない。私は奥の戸棚から、芋の煮ものを移すための器を探し始めた。
昼に向けて、胃に重くなく、それでいて味に厚みのあるものを出したい。今日は干し芋と昆布を甘辛く煮た一皿に決めていた。昆布は昨日のうちに巻いておいた。小ぶりな芋は、崩れない程度に煮含めてある。
器は浅いほうがいい。煮汁が底に少し残り、芋の香りが立つようにするため。薄い緑の小鉢に昆布を敷き、芋を静かに並べた。
「それ、芋と昆布ですか?」
「ええ。今日の昼にはちょうどいい。ご飯に合いますし」
「ご飯は、あと五分ほどで蒸らしに入れそうです」
「その音なら、ちょうどね」
良太の火加減は、もう私が口を挟むことはほとんどない。米が立つ音、水が弾ける音、そのひとつひとつを聞き分けている。次に必要なのは、客の舌の違いを読み取る力だ。
釜の蓋を開けると、湯気の中から炊きたての米が現れた。しゃもじを入れると、底からふわりと香りが立つ。よそいながら、私は良太に器を温めるよう頼んだ。
「椀は深めに。芋の甘さに、米の香りが負けないように」
「はい。味噌汁はどうしましょう?」
「今日は薄く切った蕪と、焼いた油揚げ。火の通りが早いものばかりだから、昼に向いてる」
「すぐ支度します」
良太が味噌をとき、私は蕪を切った。包丁が板に当たる音が軽く、しゃきしゃきと心地いい。切った蕪を鍋に入れ、出汁でさっと火を通す。焼いた油揚げを加えると、香ばしさが広がった。
表でのれんが揺れ、午前の客がやってきた。大工の藤吉だった。肩に道具袋を下げ、額に巻いた手拭いから汗が垂れていた。
「おう、おし乃さん。今日の釜、どうだい?」
「今朝のは、すっきりと炊けてます。香りもよく出てますよ」
「なら、それを。腹の中が空っぽで、鳴いてるぐらいだ」
「では、芋の含め煮と、蕪の味噌汁をお出しします」
「おう、楽しみだ」
私は器を運び、飯をよそい、小鉢を添えた。味噌汁の蓋を閉め、盆に乗せて差し出すと、藤吉はすぐに手を合わせた。
「いただきます」
芋を箸で持ち上げ、じっと見てから口に運んだ。噛む音は静かだったが、すぐに頬の筋肉が緩んだ。
「……うまいな、これ。芋の甘さに、昆布がちゃんと追いついてくる」
「煮るときに火を止める間が大事なんです。煮続けると、芋が勝ちすぎる」
「なるほどな。仕事も似たようなもんだ。叩き続けりゃ、木も疲れる」
「仕事も飯も、力を抜くところがあると、いいものが仕上がります」
藤吉が笑いながら味噌汁に手を伸ばす。口に含んだ瞬間、肩の力がすっと抜けたようだった。蕪の甘みと、油揚げの香りがちょうどよく合っていた。
「おし乃さん、ここの飯はやっぱり違うな。なんというか……構えずに食える」
「うちは、構える人は食べづらいんです」
「そりゃ、いい店だ」
彼が箸を進めていると、次の客が現れた。ひょろりと背の高い男。見慣れない顔だったが、仕立てのいい羽織を着ていた。腰の差しものはなかったが、足の運びと目の動きで、それなりの人間だと察しがついた。
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