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「今宵は、冷えますからのう。身体の芯から温まる、あんこう鍋でもいかがですかな?」
私のその言葉に、甲州屋の主は、ぱっと顔を輝かせた。
「あんこう鍋……! それは、ありがたい。ぜひ、いただきたいですな」
隣のおみつさんも、こくりと頷いている。
辛く、不安な一日を過ごした二人にとって、温かい鍋は何よりのご馳走になるだろう。
「良太、手伝っておくれ」
「はい、おし乃さん!」
私と良太は、息の合った様子で炊き場に立った。
あんこうは、今朝、市場で仕入れたばかりの新鮮なものだ。
ぷりぷりとした身に、濃厚な肝。これを、特製の味噌仕立ての出汁で煮込んでいく。
白菜、春菊、葱、豆腐、そしてしらたき。
野菜もたっぷりと用意し、土鍋の中に彩りよく並べていく。
主役のあんこうは、丁寧に下処理をし、臭みを完全に取り去っておくのが、美味しく仕上げる秘訣だ。
ぐつぐつと、土鍋から湯気が立ち上り、味噌と魚介の旨味が混じり合った、たまらなく良い香りが店の中に満ちていく。
その香りを嗅いでいるだけで、凍えた身体も心も、じんわりと解けていくようだ。
「さあ、お二人とも。できましたわ。どうぞ、熱いうちに召し上がってくださいな」
私は、囲炉裏の上に土鍋を置き、甲州屋の親子に取り分けた。
湯気の立つあんこう鍋を前に、二人は深々と頭を下げる。
「「いただきます」」
まずは、あんこうの身を一口。
ほろりとした柔らかな身は、口の中でとろけるように消えていく。
そして、その後に広がるのは、濃厚な旨味と、味噌の豊かな風味。
「……美味い」
甲州屋の主が、ぽつりと呟いた。
その目には、うっすらと涙が浮かんでいる。
「こんなに美味いあんこう鍋は、生まれて初めて食ったかもしれん……。冷え切った身体に、じんわりと温かさが染み渡るようだ……」
「父様……」
おみつさんも、一口、また一口と、夢中で鍋を頬張っている。
その頬は、湯気でほんのりと赤く染まり、強張っていた表情も、すっかり和らいでいた。
「おし乃さんの料理は、本当に不思議ですわ。ただ美味しいだけじゃない。人の心を、温めてくれる力がある……」
おみつさんの言葉に、私は静かに微笑んだ。
料理に、そんな力があるのだとしたら、それは料理人として、これ以上ない喜びだ。
「さあ、〆には、この出汁で雑炊を作りましょう。あんこうと野菜の旨味が溶け出した、極上の一杯になりますわよ」
「雑炊……! それは、たまりませんな!」
甲州屋の主が、子供のようにはしゃいだ。
その顔にはもう、牢に繋がれていたことの苦労や、裏切られたことへの怒りの色はない。
ただ、目の前の温かい料理と、人の情けを、心から味わっている、そんな穏やかな表情が浮かんでいた。
その夜のやわらぎ亭は、甲州屋の親子を囲んで、いつにも増して温かい空気に包まれていた。
駆けつけた金さんや弥之助さん、忠吉さんたちも加わり、ささやかながらも、心のこもった祝いの宴となった。
悪徳商人、相模屋と、彼に唆された番頭の庄兵衛は、金さんの手によって厳しく裁かれ、甲州屋は、失ったものを取り戻すために、また一から出直すことになったという。
その道のりは、決して平坦ではないかもしれない。
けれど、今日のこのあんこう鍋のように、温かい人々の支えがあれば、きっと乗り越えていけるはずだ。
私は、客たちの楽しげな笑い声を聞きながら、心の中で、そっと父に語りかけた。
お父様。
あなたが残してくれたこのやわらぎ亭で、私は今日も、たくさんの人の心をお腹いっぱいにすることができました。
料理の道は、まだまだ奥が深いけれど、私はこれからも、この場所で、あなたから教わった料理の心を、大切に守り続けていこうと思います。
外は、いつの間にか雨も上がり、静かな夜空には、美しい月が輝いていた。
その月の光が、やわらぎ亭の小さな灯りを、優しく照らし出しているようだった。
数日後、やわらぎ亭には、すっかり元気を取り戻した甲州屋の主の姿があった。
彼は、再起を誓い、以前にも増して精力的に働いているという。
その顔は、晴れやかで、自信に満ちていた。
「おし乃さん。このご恩は、一生忘れませぬ。いつか必ず、このご恩をお返しできるよう、精一杯働きます」
「まあ、ご恩だなんて、大袈裟ですわ。私は、当たり前のことをしたまでです」
「いえ、おし乃さんのあのあんこう鍋がなければ、今の私はいなかったかもしれませぬ。あの温かさが、私の心を救ってくれたのです」
甲州屋の主の言葉に、私は胸が熱くなるのを感じた。
「そうだ、おし乃さん。これは、ほんの気持ちばかりですが……」
そう言うと、甲州屋の主は、私に小さな包みを差し出した。
中を開けてみると、そこには、きらきらと輝く、真っ白な米粒が入っていた。
「これは……?」
「私が、これから新しく扱うことにした米です。越後の、とある村でしか作られていない、幻の米だと聞いております。まずは、江戸一番の料理人である、おし乃さんに味わっていただきたくて」
「まあ、そんな、貴重なものを……」
「どうぞ、お受け取りください。そして、この米で、またたくさんの人を、幸せにして差し上げてください」
私は、その米粒を、大切に両手で受け取った。
ずしりとした重みが、甲州屋の主の感謝の気持ちと、再起への強い意志を伝えてくれているようだった。
「ありがとうございます。大切に、使わせていただきます」
その日の夜、私は早速、甲州屋の主から頂いた幻の米を炊いてみた。
炊き上がりの香りは、これまで嗅いだことのないほど、甘く、そして豊かだった。
一粒一粒が、ぴんと立ち、まるで絹のように艶やかだ。
「……すごい」
思わず、そんな言葉が漏れた。
良太も、目を丸くして、炊き上がったご飯を見つめている。
「おし乃さん……これ、本当に米ですか……? なんだか、宝石みたいです……」
「ええ。本当にね」
私は、炊きたてのご飯を、まずは塩だけで握ってみた。
そして、その塩むすびを、良太と一緒に味わう。
「……!」
口に入れた瞬間、あまりの美味しさに、言葉を失った。
強い甘みと、豊かな香り。そして、噛むほどに増していく、深い旨味。
おかずなど、何もいらない。
ただ、このご飯だけで、心が満たされていくような、そんな幸せな味がした。
「おし乃さん……俺、こんなに美味い飯、生まれて初めて食いました……!」
良太の目には、大粒の涙が浮かんでいる。
私も、同じ気持ちだった。
父から料理を教わって以来、数えきれないほど米を炊いてきたけれど、これほどの米に出会ったのは、初めてかもしれない。
この米ならば、どんな料理にも合うだろう。
いや、むしろ、この米の味を最大限に引き出すような、そんな料理を作ってみたい。
私の料理人としての魂が、むらむらと燃え上がってくるのを感じた。
「良太」
「はい!」
「このお米で、新しい献立を考えましょう。この米の素晴らしさを、やわらぎ亭に来てくれる、すべての人に味わってもらうのよ」
「はい! ぜひ、やらせてください!」
私と良太は、顔を見合わせて、力強く頷いた。
甲州屋の主が繋いでくれた、新たな縁。
この一粒の米が、また、どんな物語を紡ぎ出してくれるのか。
私の胸は、大きな期待で、いっぱいだった。
その夜、私と良太は、遅くまで炊き場に残り、新しい献立について話し合った。
この幻の米「玉響(たまゆら)」と名付けられたその米の、最高の食べ方とは何か。
二人で知恵を絞り、様々な案を出し合った。
「やはり、まずは、この米本来の味を、存分に味わっていただくのが一番ではないでしょうか。炊きたての白米に、最高級の紀州備長炭で焼いた、シンプルな焼き魚。それと、出汁の効いたお味噌汁と、自家製の漬物……」
良太が、真剣な表情で提案する。
彼の言う通りだ。
奇をてらうのではなく、まずは王道。
素材の良さを、最大限に活かす。それこそが、料理の基本だ。
「ええ、それがいいわね。焼き魚は、何にしましょうか。のどぐろのような、脂の乗った魚もいいし、あるいは、きんきのような、上品な白身も捨てがたいわ」
「悩みますね……。でも、どちらも、この玉響となら、最高の組み合わせになりそうです」
「あとは……この米の甘みを活かして、炊き込みご飯にするのもいいかもしれないわね。季節の野菜と、鶏肉やきのこをたっぷり入れて……」
「それも、美味しそうです! 想像しただけで、お腹が鳴ってきました……」
私と良太の会話は、尽きることがない。
新しい料理のことを考えている時間は、何よりも楽しく、そして幸せだ。
ふと、私はあることを思いついた。
「そうだわ、良太。この玉響を使って、お茶漬けを作るのはどうかしら」
私のその言葉に、甲州屋の主は、ぱっと顔を輝かせた。
「あんこう鍋……! それは、ありがたい。ぜひ、いただきたいですな」
隣のおみつさんも、こくりと頷いている。
辛く、不安な一日を過ごした二人にとって、温かい鍋は何よりのご馳走になるだろう。
「良太、手伝っておくれ」
「はい、おし乃さん!」
私と良太は、息の合った様子で炊き場に立った。
あんこうは、今朝、市場で仕入れたばかりの新鮮なものだ。
ぷりぷりとした身に、濃厚な肝。これを、特製の味噌仕立ての出汁で煮込んでいく。
白菜、春菊、葱、豆腐、そしてしらたき。
野菜もたっぷりと用意し、土鍋の中に彩りよく並べていく。
主役のあんこうは、丁寧に下処理をし、臭みを完全に取り去っておくのが、美味しく仕上げる秘訣だ。
ぐつぐつと、土鍋から湯気が立ち上り、味噌と魚介の旨味が混じり合った、たまらなく良い香りが店の中に満ちていく。
その香りを嗅いでいるだけで、凍えた身体も心も、じんわりと解けていくようだ。
「さあ、お二人とも。できましたわ。どうぞ、熱いうちに召し上がってくださいな」
私は、囲炉裏の上に土鍋を置き、甲州屋の親子に取り分けた。
湯気の立つあんこう鍋を前に、二人は深々と頭を下げる。
「「いただきます」」
まずは、あんこうの身を一口。
ほろりとした柔らかな身は、口の中でとろけるように消えていく。
そして、その後に広がるのは、濃厚な旨味と、味噌の豊かな風味。
「……美味い」
甲州屋の主が、ぽつりと呟いた。
その目には、うっすらと涙が浮かんでいる。
「こんなに美味いあんこう鍋は、生まれて初めて食ったかもしれん……。冷え切った身体に、じんわりと温かさが染み渡るようだ……」
「父様……」
おみつさんも、一口、また一口と、夢中で鍋を頬張っている。
その頬は、湯気でほんのりと赤く染まり、強張っていた表情も、すっかり和らいでいた。
「おし乃さんの料理は、本当に不思議ですわ。ただ美味しいだけじゃない。人の心を、温めてくれる力がある……」
おみつさんの言葉に、私は静かに微笑んだ。
料理に、そんな力があるのだとしたら、それは料理人として、これ以上ない喜びだ。
「さあ、〆には、この出汁で雑炊を作りましょう。あんこうと野菜の旨味が溶け出した、極上の一杯になりますわよ」
「雑炊……! それは、たまりませんな!」
甲州屋の主が、子供のようにはしゃいだ。
その顔にはもう、牢に繋がれていたことの苦労や、裏切られたことへの怒りの色はない。
ただ、目の前の温かい料理と、人の情けを、心から味わっている、そんな穏やかな表情が浮かんでいた。
その夜のやわらぎ亭は、甲州屋の親子を囲んで、いつにも増して温かい空気に包まれていた。
駆けつけた金さんや弥之助さん、忠吉さんたちも加わり、ささやかながらも、心のこもった祝いの宴となった。
悪徳商人、相模屋と、彼に唆された番頭の庄兵衛は、金さんの手によって厳しく裁かれ、甲州屋は、失ったものを取り戻すために、また一から出直すことになったという。
その道のりは、決して平坦ではないかもしれない。
けれど、今日のこのあんこう鍋のように、温かい人々の支えがあれば、きっと乗り越えていけるはずだ。
私は、客たちの楽しげな笑い声を聞きながら、心の中で、そっと父に語りかけた。
お父様。
あなたが残してくれたこのやわらぎ亭で、私は今日も、たくさんの人の心をお腹いっぱいにすることができました。
料理の道は、まだまだ奥が深いけれど、私はこれからも、この場所で、あなたから教わった料理の心を、大切に守り続けていこうと思います。
外は、いつの間にか雨も上がり、静かな夜空には、美しい月が輝いていた。
その月の光が、やわらぎ亭の小さな灯りを、優しく照らし出しているようだった。
数日後、やわらぎ亭には、すっかり元気を取り戻した甲州屋の主の姿があった。
彼は、再起を誓い、以前にも増して精力的に働いているという。
その顔は、晴れやかで、自信に満ちていた。
「おし乃さん。このご恩は、一生忘れませぬ。いつか必ず、このご恩をお返しできるよう、精一杯働きます」
「まあ、ご恩だなんて、大袈裟ですわ。私は、当たり前のことをしたまでです」
「いえ、おし乃さんのあのあんこう鍋がなければ、今の私はいなかったかもしれませぬ。あの温かさが、私の心を救ってくれたのです」
甲州屋の主の言葉に、私は胸が熱くなるのを感じた。
「そうだ、おし乃さん。これは、ほんの気持ちばかりですが……」
そう言うと、甲州屋の主は、私に小さな包みを差し出した。
中を開けてみると、そこには、きらきらと輝く、真っ白な米粒が入っていた。
「これは……?」
「私が、これから新しく扱うことにした米です。越後の、とある村でしか作られていない、幻の米だと聞いております。まずは、江戸一番の料理人である、おし乃さんに味わっていただきたくて」
「まあ、そんな、貴重なものを……」
「どうぞ、お受け取りください。そして、この米で、またたくさんの人を、幸せにして差し上げてください」
私は、その米粒を、大切に両手で受け取った。
ずしりとした重みが、甲州屋の主の感謝の気持ちと、再起への強い意志を伝えてくれているようだった。
「ありがとうございます。大切に、使わせていただきます」
その日の夜、私は早速、甲州屋の主から頂いた幻の米を炊いてみた。
炊き上がりの香りは、これまで嗅いだことのないほど、甘く、そして豊かだった。
一粒一粒が、ぴんと立ち、まるで絹のように艶やかだ。
「……すごい」
思わず、そんな言葉が漏れた。
良太も、目を丸くして、炊き上がったご飯を見つめている。
「おし乃さん……これ、本当に米ですか……? なんだか、宝石みたいです……」
「ええ。本当にね」
私は、炊きたてのご飯を、まずは塩だけで握ってみた。
そして、その塩むすびを、良太と一緒に味わう。
「……!」
口に入れた瞬間、あまりの美味しさに、言葉を失った。
強い甘みと、豊かな香り。そして、噛むほどに増していく、深い旨味。
おかずなど、何もいらない。
ただ、このご飯だけで、心が満たされていくような、そんな幸せな味がした。
「おし乃さん……俺、こんなに美味い飯、生まれて初めて食いました……!」
良太の目には、大粒の涙が浮かんでいる。
私も、同じ気持ちだった。
父から料理を教わって以来、数えきれないほど米を炊いてきたけれど、これほどの米に出会ったのは、初めてかもしれない。
この米ならば、どんな料理にも合うだろう。
いや、むしろ、この米の味を最大限に引き出すような、そんな料理を作ってみたい。
私の料理人としての魂が、むらむらと燃え上がってくるのを感じた。
「良太」
「はい!」
「このお米で、新しい献立を考えましょう。この米の素晴らしさを、やわらぎ亭に来てくれる、すべての人に味わってもらうのよ」
「はい! ぜひ、やらせてください!」
私と良太は、顔を見合わせて、力強く頷いた。
甲州屋の主が繋いでくれた、新たな縁。
この一粒の米が、また、どんな物語を紡ぎ出してくれるのか。
私の胸は、大きな期待で、いっぱいだった。
その夜、私と良太は、遅くまで炊き場に残り、新しい献立について話し合った。
この幻の米「玉響(たまゆら)」と名付けられたその米の、最高の食べ方とは何か。
二人で知恵を絞り、様々な案を出し合った。
「やはり、まずは、この米本来の味を、存分に味わっていただくのが一番ではないでしょうか。炊きたての白米に、最高級の紀州備長炭で焼いた、シンプルな焼き魚。それと、出汁の効いたお味噌汁と、自家製の漬物……」
良太が、真剣な表情で提案する。
彼の言う通りだ。
奇をてらうのではなく、まずは王道。
素材の良さを、最大限に活かす。それこそが、料理の基本だ。
「ええ、それがいいわね。焼き魚は、何にしましょうか。のどぐろのような、脂の乗った魚もいいし、あるいは、きんきのような、上品な白身も捨てがたいわ」
「悩みますね……。でも、どちらも、この玉響となら、最高の組み合わせになりそうです」
「あとは……この米の甘みを活かして、炊き込みご飯にするのもいいかもしれないわね。季節の野菜と、鶏肉やきのこをたっぷり入れて……」
「それも、美味しそうです! 想像しただけで、お腹が鳴ってきました……」
私と良太の会話は、尽きることがない。
新しい料理のことを考えている時間は、何よりも楽しく、そして幸せだ。
ふと、私はあることを思いついた。
「そうだわ、良太。この玉響を使って、お茶漬けを作るのはどうかしら」
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