【読者賞】江戸の飯屋『やわらぎ亭』〜元武家娘が一膳でほぐす人と心〜

旅する書斎(☆ほしい)

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私の言葉に旅の若者は、驚いたように顔を上げた。
その瞳には戸惑いと、そしてかすかな希望の色が浮かんでいる。
「……いいのかい? もう店じまいなんだろう?」
「ええ、構いませんとも。ちょうど祝いの席で炊いた、とびきりのお赤飯が残っておりますの。これを一人で食べてしまうのは、もったいない。あなた様のようなお腹を空かせた方にこそ、食べていただきたいのですわ」
私はにっこりと微笑み、若者を店の中へと招き入れた。
良太がさっと温かいお茶を差し出す。
若者は、おずおずと席に着くと深々と、頭を下げた。
「……かたじけない。本当に、かたじけない……」
その声は震えていた。
私は何も言わずに、温め直したお赤飯と、具沢山のけんちん汁を彼の前に、そっと置いた。
ごま塩をぱらりと振りかけるのも忘れない。
若者はしばらくの間、ただ黙って、目の前の膳を見つめていた。
湯気と共に立ち上る、優しい香り。
その香りを、まるで久しぶりに吸い込む、故郷の空気のように深く、深く吸い込んでいる。
やがて彼は、震える手で箸を取った。
そしてお赤飯を、一口、口に運ぶ。
その瞬間。
彼の強張っていた肩の力が、ふっと抜けた。
「……温かい……」
ぽつりとそんな言葉が漏れた。
「……もちもち、してて……ほんのり、甘くて……。なんて優しい味なんだ……」
彼は一粒一粒を、噛み締めるように味わっている。
次にけんちん汁を、一口すする。
「……ああ……。この汁もたまらねえ……。野菜の甘みが身体中に、染み渡っていくようだ……」
その目からぽろり、ぽろりと、大粒の涙がこぼれ落ち始めた。
けれど彼は、涙を拭おうともせず、ただ夢中で食べ続けている。
空っぽだった胃袋と、そして乾ききっていた心が、温かい料理でゆっくりと、満たされていく。
その様子を私は、ただ静かに見守っていた。
やがて椀の中が綺麗に空になった頃。
若者は顔を上げた。
その顔は涙で濡れていたけれど、店に来た時とは比べ物にならないほど、穏やかでそして、すっきりとしていた。
「……ご馳走になった。……美味かった。……本当に、美味かった……」
彼は何度も、何度もそう繰り返した。
「腹がいっぱいになったら……なんだか馬鹿らしくなっちまった。俺は一体、何をやっていたんだろうってな……」
男はぽつり、ぽつりと自分のことを、語り始めた。
彼の名は信吾。
越後の小さな村の出身で、江戸で一番の大工になるのだと、大きな夢を抱いて故郷を飛び出してきたのだという。
しかし江戸の現実は甘くはなかった。
腕の立つ職人は星の数ほどいる。
信吾のような若い田舎者など、誰も相手にしてはくれない。
仕事は見つからず、持ってきた金もあっという間に底をついた。
この数日はろくに、ものも食べていなかったという。
「故郷の父ちゃんや、母ちゃんに合わせる顔がねえ。一緒になるって約束した、許嫁にも……。だからもう、いっそのこと……」
そこまで言って信吾は、言葉を詰まらせた。
そのか細い肩が、小刻みに震えている。
私は彼の前に、新しい湯気の立つお茶を、そっと置いた。
「信吾さん」
「……なんだい」
「越後といえば美味しいお米が有名ですわね。それから冬になりますと、里芋や人参、こんにゃくなどを煮込んだ、『のっぺい汁』という温かい郷土料理があると聞いておりますが」
私の不意な言葉に、信吾はきょとんとして顔を上げた。
「のっぺい汁……? ああ、知ってる。俺の村でも祭りや、祝い事の時には、必ず母ちゃんが、大鍋で作ってくれたっけ……」
故郷の料理の話になると、彼の表情がほんの少しだけ和らいだ。
「里芋のとろみで汁が、自然にまろやかになるんだ。それに干した貝柱を入れるのが、うちの村のやり方でね。その出汁がまた、たまらなく美味えんだ……」
信吾は遠い昔を懐かしむように、目を細めた。
その瞳の奥には故郷の、温かい風景が映っているのだろう。
「……そうか。のっぺい汁か……」
私はその言葉を心に、そっと刻み込んだ。
「信吾さん。今夜はもうおそい。よろしければこの店の、屋根裏で一晩、休んでいかれませんか? 旅の疲れもございましょう」
「い、いや、しかしそんなわけには……」
「遠慮はいりませんわ。これも何かのご縁。それに明日の朝は、とびきり美味しい朝餉を、ご馳走いたしますから」
私は悪戯っぽく、そう言って笑った。
信吾はしばらく戸惑っていたが、やがて観念したように、小さく頷いた。
その夜信吾は、久しぶりに温かい布団で、ぐっすりと眠ったという。
私はそんな彼の穏やかな寝息を聞きながら、明日の朝餉の献立を、考えていた。
彼を本当の意味で、元気にする一膳を。
翌朝。
私が炊き場の竈に火を入れると、信吾が少しばつの悪そうな顔で、起きてきた。
「……おはようさん。よく眠れたかい?」
「……ああ。すまねえな、世話になっちまって」
「ふふ、お互い様ですよ。さあ顔を洗ってきたらどうです? もうすぐ朝餉の支度が、できますから」
私はそう言うと、手際よく調理を始めた。
今日の主役は、もちろん「のっぺい汁」だ。
昨日信吾から聞いた、話を元に。
私なりの心を込めた、やわらぎ亭風ののっぺい汁。
里芋は丁寧に、皮をむきぬめりを取る。
人参、ごぼう、こんにゃく、椎茸。
具材はたっぷりと。
そして出汁は、信吾の故郷の味を再現するように、干し貝柱をふんだんに使った。
それらを大きな鍋でことことと、じっくり煮込んでいく。
里芋が自然にとろみを生み出し、汁が優しくまろやかになっていく。
仕上げに彩りとして、鮭のほぐし身と刻んだ三つ葉を、ぱらりと散らす。
炊きたての白いご飯。
それから自家製の白菜の浅漬け。
素朴だけれど、これ以上ない贅沢な朝餉だ。
「さあ信吾さん。できましたわ、どうぞ熱いうちに」
信吾の前に膳を置く。
彼は目の前ののっぺい汁を、じっと見つめている。
湯気と共に立ち上る、懐かしい故郷の香り。
「……これは……」
彼は震える手で椀を取った。
そして汁を、一口すする。
その瞬間。
「……っ!」
信吾の大きな目から、涙がぼろぼろとこぼれ落ちた。
「……母ちゃんの……味だ……」
それは心の底から、絞り出すような声だった。
「どうして……。江戸のこんな店で……。母ちゃんののっぺい汁が……」
彼は子供のようにわんわんと泣きじゃくりながら、それでも夢中で、のっぺい汁を口に運んでいく。
その一匙、一匙が。
彼の凍てついた心を、ゆっくりと温かく解かしていくのが、私にはわかった。
「……俺、何やってたんだろうな……」
やがて椀が空になる頃。
信吾は涙で濡れた顔を、上げた。
「一番になるんだって息巻いて、江戸に来たくせに……。ちょっとうまくいかねえからっていじけて、腐って……。故郷で俺のこと、信じて待っててくれる父ちゃんや母ちゃんに、合わせる顔がねえや……」
彼は自分の膝を、ぎゅっと握りしめた。
「俺もう一度やってみる。……いや、やらせてください。もう逃げねえ。この江戸で、必ず一人前の大工になってみせる。そしていつか胸を張って、故郷に帰るんだ」
その瞳にはもう、迷いの色はなかった。
あるのは力強い、決意の光だけだった。
「ええ。あなたならきっと、できますわ」
私はにっこりと微笑んだ。
その時だった。
「おう、兄ちゃん! なかなか良い顔つきになったじゃねえか!」
店の戸がらりと開き、威勢のいい声と共に入ってきたのは大工の、藤吉さんだった。
「その意気だ。気に入ったぜ! よかったら俺のところで、一から修行してみるか? ちと厳しいが、根性があるなら一人前にしてやるぜ!」
「え……?」
信吾は驚いて顔を上げた。
藤吉さんはにかりと笑っている。
「どうだい? やるかい、やらないかい?」
信吾はしばらく呆然としていたが、やがてその場にばっと膝をつくと、深々と頭を下げた。
「……お願いします! ぜひ弟子にしてください!」
その声は希望に満ち溢れていた。
私はその光景をただ、温かい気持ちで見守っていた。
一杯ののっぺい汁が、また一つ素晴らしい縁を結んでくれた。
料理人として、これ以上の喜びはない。
やわらぎ亭の新しい一日が、また希望の光と共に始まろうとしていた。
その日の午後、信吾は早速藤吉さんの仕事場へと向かった。
希望に胸を膨らませて。
その晴れやかな後ろ姿を、私と良太は店の前で見送った。
「良かったですね、おし乃さん」
「ええ本当に。信吾さんならきっと、立派な大工さんになるわね」
私たちがそんな話をしていた、その時だった。
「おーい、おし乃ちゃーん!」
元気な声と共にこちらへ駆けてくる、小さな影。
桶屋のお初ちゃんだった。
その手には何やら可愛らしい、布の袋を抱えている。
「お初ちゃん。どうしたの、そんなに慌てて」
「あのね! お母ちゃんが、おし乃ちゃんにこれ渡してきてって!」
お初ちゃんは息を切らしながら、その布袋を私に差し出した。
「まあ、これは……?」
袋の中を覗いてみると。
そこには炒った米糠が、たくさん入っていた。
香ばしい良い香りがする。
「うちの秘伝の糠床の糠なんだって! この前のお祝いのお礼だって、お母ちゃんが!」
「まあお涼さんが……。わざわざありがとうね」
「うん! それでねおし乃ちゃん! お願いがあるんだけど!」
お初ちゃんはきらきらとした目で、私を見上げた。
その顔には「お願い!」と、大きく書かれている。
「なあに? お初ちゃんのお願いなら、何でも聞いてあげるわよ」
私がそう言うと。
お初ちゃんはにぱっと笑った。
そしてとんでもないことを言い出したのだ。
「あのね! 私おし乃ちゃんみたいに、お料理が上手になりたいの! だから私を、お弟子さんにしてください!」
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