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「お、お涼さんが……! 漬物屋のお涼さんが倒れちまったんだ!」
ただならぬ様子に、店の和やかな空気が一瞬で凍りつく。
金さんの手にした杯が、ぴたりと止まった。
「忠吉さん落ち着いて! 一体どういうことですの!?」
私は、思わず駆け寄った。
あの、いつも元気で江戸っ子らしい気風の良さが売りの、お涼さんが?
にわかには信じられなかった。
「わ、わかんねえ! さっきお涼さんの店の前を通りかかったら、息子の健太が真っ青な顔で飛び出してきてよ! 『母ちゃんが、母ちゃんが倒れた!』って……!」
「場所は!?」
金さんが鋭い声で尋ねる。
「店先の縁台のところだ! 今は、健太とお嫁さんのおみよちゃんが付き添ってるはずだが……!」
「よし、おし乃さん参りましょう!」
「はい!」
私と金さん、そして話を聞いていた弥之助さんや他の常連さんたちも、心配そうに立ち上がる。
「良太、店を頼むわね!」
「は、はい! お気をつけて!」
私は良太に後を託すと、金さんたちと一緒にやわらぎ亭を飛び出した。
どうか、どうかご無事で……!
そんな思いで私の心臓は、早鐘のように鳴っていた。
お涼さんの店に駆けつけると、そこには人だかりができていた。
その中心でお涼さんは、縁台にぐったりと横たわっている。
顔色は紙のように白い。
「お涼さん! しっかり!」
「母ちゃん! しっかりしてくれよ!」
息子の健太さんと、お嫁さんのおみよさんが涙ながらに、必死に呼びかけている。
「どいてください! 道を開けて!」
金さんが、威厳のある声で人だかりをかき分ける。
私はすぐにお涼さんのそばに駆け寄り、その手を取った。
手は氷のように冷たい。けれど弱々しいながらも、脈はちゃんと打っている。
「お涼さん! 私です、おし乃です! わかりますか!」
私が呼びかけるとお涼さんの瞼が、かすかにぴくりと動いた。
そしてうっすらと、目を開ける。
「……おしの……ちゃん……?」
か細いけれど、確かにお涼さんの声だった。
「よかった……! 意識はあるのね!」
「みんな……そんなに大騒ぎして……どうしたんだい……?」
お涼さんは、状況がよく分かっていないといった顔で、きょろきょろと周りを見回している。
「どうしたんだいじゃないですよ! お涼さん、あなた倒れたんですよ!」
「ああ……そうだったかねえ……。なんだか急に、目の前がくらっとして……。気が付いたらここに……」
「大丈夫かいお涼さん! 医者を、医者を呼ばねえと!」
忠吉さんが慌てて医者を呼びに行こうとするのを、金さんがそっと手で制した。
「忠吉さんお待ちくだされ。……お涼さん。失礼ながらお身体の具合は、いかがですかな? どこか痛むところや、苦しいところは?」
金さんの落ち着いた問いかけに、お涼さんは少し考えるように、首を傾げた。
「……いやあ……。特に痛いところも、苦しいところもないんだがねえ……。ただなんだか、身体中の力がすうっと抜けちまったような……そんな感じでねえ……」
「ふむ……」
金さんは腕を組み、お涼さんの顔色をじっと見つめている。
その目はもはや、遊び人の金さんのものではなく、鋭い観察眼を持つ名奉行のそれだった。
「お涼さん。あなたは正直に、お答えくだされ。……このところ何か、根を詰めるような出来事でもありましたかな?」
その問いかけに。
お涼さんの白い顔が、ふわりと赤く染まった。
そして何ともばつの悪そうな顔で、目をそらす。
「……いや……まあ……その……」
その妙な反応に、私たちは皆、首を傾げた。
お涼さんはしばらくもじもじとしていたが、やがて観念したように、小さな小さな声でこう言った。
「……実は……ねえ……」
「はい」
「……おみよの……腹の中に……」
「はい?」
「……新しい……命が……ねえ……」
「……えっ?」
一瞬の沈黙。
そして次の瞬間。
その場にいた全員が、その言葉の意味を理解した。
「「「ええええええええええっ!?」」」
割れんばかりの驚きの声が、深川の空に響き渡った。
「ま、孫かい!? お涼さんに、孫が!?」
「本当かい、おみよちゃん!」
健太さんとおみよさんは顔を真っ赤にして、こくこくと頷いている。
その幸せそうな、はにかんだ笑顔。
「いやあ……。そのことが嬉しくて、嬉しくてねえ……。ついあれこれと気を揉んで、夜もろくに眠れないくらい、浮かれちまって……。それでなんだか、気が張ってたのがぷっつりと切れちまったみたいでねえ……。いやはやお恥ずかしい……」
お涼さんは顔を覆って、照れている。
その顔色はもう、すっかりいつもの血色を取り戻していた。
「……なんだよお涼さん! 人騒がせな!」
「そいつはめでてえじゃねえか!」
忠吉さんも弥之助さんも、安堵と祝福の入り混じった大きな声を上げた。
周りに集まっていた野次馬たちからも、口々に「おめでとう!」という温かい声が飛んでくる。
先ほどまでの心配そうな空気は、どこへやら。
お涼さんの店先は一転して、お祝いムードに包まれた。
「いやはやこれは、驚きましたな。しかしめでたい。実にめでたい」
金さんも腹を抱えて、笑っている。
私も安堵で、身体の力が抜けそうだった。
けれどそれと同時に、胸の奥から温かいものがこみ上げてくるのを感じていた。
「お涼さん。……本当に、おめでとうございます」
私はお涼さんの手を、ぎゅっと握りしめた。
「ああ、おし乃ちゃん……。すまないねえこんな騒ぎを起こしちまって……」
「いいえ。……でも嬉しい気持ちはわかりますが、あまり無理はなさらないでくださいね。これからが本番ですもの。おばあちゃんになるあなた様が、しっかりしなくては」
「……そうだねえ。……ありがとう、おし乃ちゃん」
お涼さんの目には嬉し涙が、きらりと光っていた。
「よし! こうしちゃいられねえ!」
私が立ち上がると皆が、不思議そうな顔でこちらを見た。
「こんなおめでたい日はお祝いをしなくては、罰が当たりますわ! お涼さん、そして健太さんおみよさん。今夜はやわらぎ亭で、ささやかですが祝いの宴を開かせてくださいな!」
私の提案にその場にいた誰もが、わっと歓声を上げた。
「おう、そいつはいい考えだ!」
「俺もご馳走になるぜ!」
「もちろんお代は、俺たちが持つからよお涼さん!」
常連さんたちが口々に、そう言ってくれる。
その温かい人情が、私の心をじんわりと温めた。
「お任せください。今夜は腕によりをかけて。お涼さんの、そしてこれから生まれてくる新しい命のために。とびきり滋養があって、そして幸せな気持ちになれるような、そんなお祝いの一膳をご用意いたしますわ!」
私の言葉にお涼さんは、涙で濡れた顔のまま何度も、何度も頷いてくれた。
やわらぎ亭の小さな灯りがまた一つ、大きな幸せを照らし出す。
そんな予感に私の胸は、高鳴っていた。
その夜のやわらぎ亭。
店の貸し切りにした店内は、お涼さん一家と常連さんたちで満席だった。
誰もが晴れやかな顔で、新しい命の誕生を心から祝福している。
その温かい空気の中で、私は良太と一緒に心を込めて、祝いの膳を作り上げていった。
まずは、お赤飯。
もち米を使いふっくらと、そしてもっちりと炊き上げる。
小豆の優しい甘みと、ほのかな塩気。
祝いの席には、欠かせない一品だ。
そして汁物は、蛤のお吸い物。
ぷっくりとした大きな蛤。
その滋味深い出汁は、疲れた身体を優しく癒してくれる。
焼き物にはもちろん、めでたい尾頭付きの鯛の塩焼き。
ぱりっと焼けた皮と、ふっくらとした白い身。
これもまた祝いの席には、華を添えてくれる。
煮物には根菜を中心とした、筑前煮。
蓮根、ごぼう、人参、里芋、そして鶏肉。
それぞれの食材が互いの旨味を引き立て合い、一つの深い味わいを生み出している。
根気強く健やかに、育ちますように。
そんな願いを込めて。
「さあ皆様。どうぞたくさん、召し上がってくださいな」
次々と運ばれていく料理に、誰もが歓声を上げる。
「うめえ! この赤飯、もっちもちだな!」
「この蛤の出汁はたまらねえぜ……。五臓六腑に、染み渡るようだ……」
「鯛も見事な焼き加減だ! おし乃ちゃん、腕を上げたな!」
客たちの幸せそうな顔。
その笑顔こそが、私にとって何よりのご馳走だ。
私はその光景を、ただ微笑ましく眺めていた。
宴もたけなわになった頃。
私はそっとお涼さんのそばへ寄り、小さな湯呑みを差し出した。
「お涼さん。これはあなた様のために、特別にご用意いたしました」
「おや、これは……?」
湯呑みの中に入っているのはとろりとした、乳白色の温かい飲み物だった。
「山の芋をすりおろして、出汁でのばしたとろろ汁です。滋養がたっぷりございますから。きっとお涼さんのお身体にも、そしてお腹の赤ちゃんにも良いはずですわ」
「まあ……。おし乃ちゃん……。あんたは、本当に……」
お涼さんは言葉を詰まらせ、その湯呑みを大切そうに両手で包み込んだ。
そしてゆっくりと一口、すする。
「……おいしい……。なんて優しい味なんだろう……」
その目からはまた、大粒の涙がぽろぽろとこぼれ落ちていた。
けれどそれは、悲しみの涙ではない。
人の温かさに触れた、幸せな幸せな涙だった。
私はその涙を見て、心の中でそっと誓った。
このやわらぎ亭を、これからもずっと守り続けていこう。
そしてこの場所で、たくさんの温かい物語を紡いでいこう、と。
外はすっかり夜の帳が下り、深川の町を優しく包み込んでいる。
やわらぎ亭の温かい灯りの下で、人々の幸せな笑い声がいつまでも、いつまでも響き渡っていた。
宴がお開きになった後。
常連さんたちが口々に、「ご馳走様!」と言いながら満足そうな顔で帰っていく。
お涼さん一家も何度も何度も、お礼を言いながら幸せそうな笑顔で店を後にした。
「ふぅ……。終わったわね」
私と良太は二人きりになった店の中で、心地よい疲労感に包まれていた。
「おし乃さん。……俺、今日すごく勉強になりました」
後片付けをしながら良太が、しみじみとそう言った。
「料理はただお腹を満たすだけじゃない。人の人生の、大切な節目に寄り添うことができるんだって……。改めてそう思いました」
「ええ、本当にね」
「俺もいつか、おし乃さんみたいに人の心を温められるような、そんな料理を作れるようになりたいです」
その真剣な眼差し。
私は頼もしく思いながら、彼の肩をぽんと叩いた。
「あなたならきっと、なれるわ。私よりもずっと、素晴らしい料理人にね」
「……はい!」
そんなやり取りをしていた、その時だった。
店の戸がそっと、開いた。
「……まだ開いているかな?」
入ってきたのは見慣れない、一人の若い男だった。
身なりは旅人のようだが、その顔には深い悩みの色が浮かんでいる。
「いらっしゃいませ。……あいにくもう、店じまいの時間なのですが……」
私がそう言うと。
男は困ったように、眉を下げた。
「……そうか。……すまない。実は江戸に来たばかりで、右も左もわからず……。腹も減っていて……。どこか温かいものを、食べさせてくれる店はないかと探していたんだが……」
そのか細い声。
そして疲れ切った、その表情。
私は放っておくことができなかった。
「……どうぞ。お入りくださいな」
私はにっこりと、微笑んだ。
「まだお赤飯なら、残っておりますわ。よろしければ一杯、いかがですか?」
ただならぬ様子に、店の和やかな空気が一瞬で凍りつく。
金さんの手にした杯が、ぴたりと止まった。
「忠吉さん落ち着いて! 一体どういうことですの!?」
私は、思わず駆け寄った。
あの、いつも元気で江戸っ子らしい気風の良さが売りの、お涼さんが?
にわかには信じられなかった。
「わ、わかんねえ! さっきお涼さんの店の前を通りかかったら、息子の健太が真っ青な顔で飛び出してきてよ! 『母ちゃんが、母ちゃんが倒れた!』って……!」
「場所は!?」
金さんが鋭い声で尋ねる。
「店先の縁台のところだ! 今は、健太とお嫁さんのおみよちゃんが付き添ってるはずだが……!」
「よし、おし乃さん参りましょう!」
「はい!」
私と金さん、そして話を聞いていた弥之助さんや他の常連さんたちも、心配そうに立ち上がる。
「良太、店を頼むわね!」
「は、はい! お気をつけて!」
私は良太に後を託すと、金さんたちと一緒にやわらぎ亭を飛び出した。
どうか、どうかご無事で……!
そんな思いで私の心臓は、早鐘のように鳴っていた。
お涼さんの店に駆けつけると、そこには人だかりができていた。
その中心でお涼さんは、縁台にぐったりと横たわっている。
顔色は紙のように白い。
「お涼さん! しっかり!」
「母ちゃん! しっかりしてくれよ!」
息子の健太さんと、お嫁さんのおみよさんが涙ながらに、必死に呼びかけている。
「どいてください! 道を開けて!」
金さんが、威厳のある声で人だかりをかき分ける。
私はすぐにお涼さんのそばに駆け寄り、その手を取った。
手は氷のように冷たい。けれど弱々しいながらも、脈はちゃんと打っている。
「お涼さん! 私です、おし乃です! わかりますか!」
私が呼びかけるとお涼さんの瞼が、かすかにぴくりと動いた。
そしてうっすらと、目を開ける。
「……おしの……ちゃん……?」
か細いけれど、確かにお涼さんの声だった。
「よかった……! 意識はあるのね!」
「みんな……そんなに大騒ぎして……どうしたんだい……?」
お涼さんは、状況がよく分かっていないといった顔で、きょろきょろと周りを見回している。
「どうしたんだいじゃないですよ! お涼さん、あなた倒れたんですよ!」
「ああ……そうだったかねえ……。なんだか急に、目の前がくらっとして……。気が付いたらここに……」
「大丈夫かいお涼さん! 医者を、医者を呼ばねえと!」
忠吉さんが慌てて医者を呼びに行こうとするのを、金さんがそっと手で制した。
「忠吉さんお待ちくだされ。……お涼さん。失礼ながらお身体の具合は、いかがですかな? どこか痛むところや、苦しいところは?」
金さんの落ち着いた問いかけに、お涼さんは少し考えるように、首を傾げた。
「……いやあ……。特に痛いところも、苦しいところもないんだがねえ……。ただなんだか、身体中の力がすうっと抜けちまったような……そんな感じでねえ……」
「ふむ……」
金さんは腕を組み、お涼さんの顔色をじっと見つめている。
その目はもはや、遊び人の金さんのものではなく、鋭い観察眼を持つ名奉行のそれだった。
「お涼さん。あなたは正直に、お答えくだされ。……このところ何か、根を詰めるような出来事でもありましたかな?」
その問いかけに。
お涼さんの白い顔が、ふわりと赤く染まった。
そして何ともばつの悪そうな顔で、目をそらす。
「……いや……まあ……その……」
その妙な反応に、私たちは皆、首を傾げた。
お涼さんはしばらくもじもじとしていたが、やがて観念したように、小さな小さな声でこう言った。
「……実は……ねえ……」
「はい」
「……おみよの……腹の中に……」
「はい?」
「……新しい……命が……ねえ……」
「……えっ?」
一瞬の沈黙。
そして次の瞬間。
その場にいた全員が、その言葉の意味を理解した。
「「「ええええええええええっ!?」」」
割れんばかりの驚きの声が、深川の空に響き渡った。
「ま、孫かい!? お涼さんに、孫が!?」
「本当かい、おみよちゃん!」
健太さんとおみよさんは顔を真っ赤にして、こくこくと頷いている。
その幸せそうな、はにかんだ笑顔。
「いやあ……。そのことが嬉しくて、嬉しくてねえ……。ついあれこれと気を揉んで、夜もろくに眠れないくらい、浮かれちまって……。それでなんだか、気が張ってたのがぷっつりと切れちまったみたいでねえ……。いやはやお恥ずかしい……」
お涼さんは顔を覆って、照れている。
その顔色はもう、すっかりいつもの血色を取り戻していた。
「……なんだよお涼さん! 人騒がせな!」
「そいつはめでてえじゃねえか!」
忠吉さんも弥之助さんも、安堵と祝福の入り混じった大きな声を上げた。
周りに集まっていた野次馬たちからも、口々に「おめでとう!」という温かい声が飛んでくる。
先ほどまでの心配そうな空気は、どこへやら。
お涼さんの店先は一転して、お祝いムードに包まれた。
「いやはやこれは、驚きましたな。しかしめでたい。実にめでたい」
金さんも腹を抱えて、笑っている。
私も安堵で、身体の力が抜けそうだった。
けれどそれと同時に、胸の奥から温かいものがこみ上げてくるのを感じていた。
「お涼さん。……本当に、おめでとうございます」
私はお涼さんの手を、ぎゅっと握りしめた。
「ああ、おし乃ちゃん……。すまないねえこんな騒ぎを起こしちまって……」
「いいえ。……でも嬉しい気持ちはわかりますが、あまり無理はなさらないでくださいね。これからが本番ですもの。おばあちゃんになるあなた様が、しっかりしなくては」
「……そうだねえ。……ありがとう、おし乃ちゃん」
お涼さんの目には嬉し涙が、きらりと光っていた。
「よし! こうしちゃいられねえ!」
私が立ち上がると皆が、不思議そうな顔でこちらを見た。
「こんなおめでたい日はお祝いをしなくては、罰が当たりますわ! お涼さん、そして健太さんおみよさん。今夜はやわらぎ亭で、ささやかですが祝いの宴を開かせてくださいな!」
私の提案にその場にいた誰もが、わっと歓声を上げた。
「おう、そいつはいい考えだ!」
「俺もご馳走になるぜ!」
「もちろんお代は、俺たちが持つからよお涼さん!」
常連さんたちが口々に、そう言ってくれる。
その温かい人情が、私の心をじんわりと温めた。
「お任せください。今夜は腕によりをかけて。お涼さんの、そしてこれから生まれてくる新しい命のために。とびきり滋養があって、そして幸せな気持ちになれるような、そんなお祝いの一膳をご用意いたしますわ!」
私の言葉にお涼さんは、涙で濡れた顔のまま何度も、何度も頷いてくれた。
やわらぎ亭の小さな灯りがまた一つ、大きな幸せを照らし出す。
そんな予感に私の胸は、高鳴っていた。
その夜のやわらぎ亭。
店の貸し切りにした店内は、お涼さん一家と常連さんたちで満席だった。
誰もが晴れやかな顔で、新しい命の誕生を心から祝福している。
その温かい空気の中で、私は良太と一緒に心を込めて、祝いの膳を作り上げていった。
まずは、お赤飯。
もち米を使いふっくらと、そしてもっちりと炊き上げる。
小豆の優しい甘みと、ほのかな塩気。
祝いの席には、欠かせない一品だ。
そして汁物は、蛤のお吸い物。
ぷっくりとした大きな蛤。
その滋味深い出汁は、疲れた身体を優しく癒してくれる。
焼き物にはもちろん、めでたい尾頭付きの鯛の塩焼き。
ぱりっと焼けた皮と、ふっくらとした白い身。
これもまた祝いの席には、華を添えてくれる。
煮物には根菜を中心とした、筑前煮。
蓮根、ごぼう、人参、里芋、そして鶏肉。
それぞれの食材が互いの旨味を引き立て合い、一つの深い味わいを生み出している。
根気強く健やかに、育ちますように。
そんな願いを込めて。
「さあ皆様。どうぞたくさん、召し上がってくださいな」
次々と運ばれていく料理に、誰もが歓声を上げる。
「うめえ! この赤飯、もっちもちだな!」
「この蛤の出汁はたまらねえぜ……。五臓六腑に、染み渡るようだ……」
「鯛も見事な焼き加減だ! おし乃ちゃん、腕を上げたな!」
客たちの幸せそうな顔。
その笑顔こそが、私にとって何よりのご馳走だ。
私はその光景を、ただ微笑ましく眺めていた。
宴もたけなわになった頃。
私はそっとお涼さんのそばへ寄り、小さな湯呑みを差し出した。
「お涼さん。これはあなた様のために、特別にご用意いたしました」
「おや、これは……?」
湯呑みの中に入っているのはとろりとした、乳白色の温かい飲み物だった。
「山の芋をすりおろして、出汁でのばしたとろろ汁です。滋養がたっぷりございますから。きっとお涼さんのお身体にも、そしてお腹の赤ちゃんにも良いはずですわ」
「まあ……。おし乃ちゃん……。あんたは、本当に……」
お涼さんは言葉を詰まらせ、その湯呑みを大切そうに両手で包み込んだ。
そしてゆっくりと一口、すする。
「……おいしい……。なんて優しい味なんだろう……」
その目からはまた、大粒の涙がぽろぽろとこぼれ落ちていた。
けれどそれは、悲しみの涙ではない。
人の温かさに触れた、幸せな幸せな涙だった。
私はその涙を見て、心の中でそっと誓った。
このやわらぎ亭を、これからもずっと守り続けていこう。
そしてこの場所で、たくさんの温かい物語を紡いでいこう、と。
外はすっかり夜の帳が下り、深川の町を優しく包み込んでいる。
やわらぎ亭の温かい灯りの下で、人々の幸せな笑い声がいつまでも、いつまでも響き渡っていた。
宴がお開きになった後。
常連さんたちが口々に、「ご馳走様!」と言いながら満足そうな顔で帰っていく。
お涼さん一家も何度も何度も、お礼を言いながら幸せそうな笑顔で店を後にした。
「ふぅ……。終わったわね」
私と良太は二人きりになった店の中で、心地よい疲労感に包まれていた。
「おし乃さん。……俺、今日すごく勉強になりました」
後片付けをしながら良太が、しみじみとそう言った。
「料理はただお腹を満たすだけじゃない。人の人生の、大切な節目に寄り添うことができるんだって……。改めてそう思いました」
「ええ、本当にね」
「俺もいつか、おし乃さんみたいに人の心を温められるような、そんな料理を作れるようになりたいです」
その真剣な眼差し。
私は頼もしく思いながら、彼の肩をぽんと叩いた。
「あなたならきっと、なれるわ。私よりもずっと、素晴らしい料理人にね」
「……はい!」
そんなやり取りをしていた、その時だった。
店の戸がそっと、開いた。
「……まだ開いているかな?」
入ってきたのは見慣れない、一人の若い男だった。
身なりは旅人のようだが、その顔には深い悩みの色が浮かんでいる。
「いらっしゃいませ。……あいにくもう、店じまいの時間なのですが……」
私がそう言うと。
男は困ったように、眉を下げた。
「……そうか。……すまない。実は江戸に来たばかりで、右も左もわからず……。腹も減っていて……。どこか温かいものを、食べさせてくれる店はないかと探していたんだが……」
そのか細い声。
そして疲れ切った、その表情。
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