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やわらぎ亭の評判は、良いものも悪いものも、人の口から口へと風のように伝わっていく。
近頃では、ただ腹を満たすだけでなく「心まで満たしてくれる飯屋」として、少しずつ江戸の町にその名が知れ渡るようになっていた。
そんな初夏の昼下がり。店の前の道を、小さな人影が行ったり来たりしているのに気がついた。
年の頃は十か、十一か。どこかの店に奉公に出ているのだろう、少し汚れた手拭いを首にかけ、着物の裾は短く、その顔には不安と意地が混じり合ったような表情を浮かべている。
「いらっしゃい。お腹、空いているのかい?」
店の前を掃いていたお初ちゃんが、その子に声をかけた。
男の子はびくりと肩を震わせ、お初ちゃんを睨みつける。
「……別に。腹なんか、空いてねえよ」
そう強がりを言うお腹が、ぐぅ、と情けない音を立てた。
お初ちゃんは、からからと笑う。
「なんだ、正直じゃないなあ。おいでよ、ここのご飯は、とっても美味しいんだから!」
お初ちゃんに手を引かれ、男の子は不承不承といった体で、店の中へと入ってきた。
私は、そんな二人を笑顔で迎える。
「あら、お初ちゃん。新しいお友達?」
「うん! あのね、お腹が空いてるのに、空いてないって言うの!」
「……うるせえな! 俺は家出してきたんだ! もう、親方のところには、ぜってえ戻らねえ!」
男の子は、やけっぱちのようにそう叫んだ。
聞けば、名は千代吉。日本橋にある有名な漆器問屋に、徒弟として奉公しているのだという。
昨日、大切な塗りのお椀を一つ、不注意で落として割ってしまったらしい。
鬼のように怖い親方にこっぴどく叱られ、思わず店を飛び出してきてしまったのだそうだ。
「あんな親方のところ、こっちから願い下げだ! 俺は、江戸一番の漆塗り職人になるんだ! あんなところで、くすぶってられるか!」
威勢よく言い放つが、その声はかすかに震えていた。本当は、怖くて、不安でたまらないのだろう。
自分の犯した失敗の大きさと、帰る場所を失った心細さ。その二つが、彼の小さな背中に重くのしかかっている。
「そうかい。それじゃあ、江戸一番の職人になるには、まずは腹ごしらえをしなくちゃいけないね」
私は、千代吉くんの前に黙って一杯の白湯を置いた。そして、炊き場に立つと、彼のためにあるものを作り始めた。
ご飯ものではない。彼が今、求めているのは、きっとそういうものではないから。
私が作り始めたのは、みたらし団子だった。
上新粉にぬるま湯を少しずつ加え、耳たぶくらいの柔らかさになるまで、丁寧によくこねる。それを一口大に丸め、湯気の立った蒸篭で、つやつやになるまで蒸し上げる。
蒸しあがった熱々の団子を、竹串に三つずつ刺していく。
その間に、甘辛い餡を作る。鍋に醤油と砂糖、そして葛粉を水で溶いたものを入れ、弱火でゆっくりとかき混ぜる。ふつふつと煮立ち、とろみがついて照りが出てきたら餡の完成だ。
串に刺した団子を炭火で軽く炙り、焼き目をつける。香ばしい香りが、店の中に広がっていく。
そして、その熱々の団子に、出来立ての餡をとろりとかけてやる。
「さあ、千代吉くん。おあがりなさい。熱いうちにね」
湯気の立つ、三本のみたらし団子。
千代吉くんは、呆気にとられたようにその団子を見つめていた。
「……団子?」
「ええ。甘いものを食べると、少しは気持ちも落ち着くでしょう」
千代吉くんは、おずおずと一本を手に取り、大きな口でぱくりと頬張った。
温かくてもちもちとした団子と、甘くて香ばしい餡の味が、口いっぱいに広がる。
その瞬間、彼の意地っ張りな表情が、ふにゃりと崩れた。
大きな瞳から、堪えていた涙が堰を切ったように溢れ出す。
「……うっ……ううっ……ひっく……」
「よしよし。辛かったね」
私は、彼の小さな頭を優しく撫でてやった。
千代吉くんは、わんわんと泣きじゃくりながら、それでも夢中で団子を頬張っている。甘い団子が、彼の頑なだった心を優しく溶かしてくれたのだ。
「……親方が、怖くて……。でも、俺、ほんとは、帰りてえ……。みんなに、謝りてえ……」
しゃくり上げながら、千代吉くんは正直な気持ちを吐き出してくれた。
その時だった。
店の戸が勢いよく開き、息を切らした、いかつい顔の男が飛び込んできた。
「千代吉! てめえ、こんなところにいやがったか!」
千代吉くんの親方だ。その手には、なぜか千代吉くんの草履が大切そうに握られている。
「ひっ……! お、親方……!」
千代吉くんは、蛇に睨まれた蛙のように固まってしまった。
しかし、親方の次の言葉は、意外なものだった。
「……馬鹿野郎。心配させやがって……。てめえがいねえと、仕事がはかどらねえだろうが。……それに、お前さんがいないと、飯も喉を通らねえ」
ぶっきらぼうな言葉の裏に、弟子を想う深い愛情が滲んでいた。
親方は、私の前に向き直ると、深々と頭を下げた。
「女将さん。うちの馬鹿が、世話んなった。こいつは、不器用だが根は悪くねえんだ。俺も、少し厳しく叱りすぎちまった。……この通り、すまなかった」
「いいえ。千代吉くんの気持ち、よくわかりましたから」
私は微笑んで、親方の前にもみたらし団子を一本、差し出した。
親方は、照れくさそうにそれを受け取ると、大きな口で頬張った。
「……うめえな、こりゃ」
その顔は、やはり弟子とよく似て、少しだけ泣き笑いのように見えた。
甘くてしょっぱいみたらし団子が、不器用な師弟の心を、再び固く結びつけてくれた。
近頃では、ただ腹を満たすだけでなく「心まで満たしてくれる飯屋」として、少しずつ江戸の町にその名が知れ渡るようになっていた。
そんな初夏の昼下がり。店の前の道を、小さな人影が行ったり来たりしているのに気がついた。
年の頃は十か、十一か。どこかの店に奉公に出ているのだろう、少し汚れた手拭いを首にかけ、着物の裾は短く、その顔には不安と意地が混じり合ったような表情を浮かべている。
「いらっしゃい。お腹、空いているのかい?」
店の前を掃いていたお初ちゃんが、その子に声をかけた。
男の子はびくりと肩を震わせ、お初ちゃんを睨みつける。
「……別に。腹なんか、空いてねえよ」
そう強がりを言うお腹が、ぐぅ、と情けない音を立てた。
お初ちゃんは、からからと笑う。
「なんだ、正直じゃないなあ。おいでよ、ここのご飯は、とっても美味しいんだから!」
お初ちゃんに手を引かれ、男の子は不承不承といった体で、店の中へと入ってきた。
私は、そんな二人を笑顔で迎える。
「あら、お初ちゃん。新しいお友達?」
「うん! あのね、お腹が空いてるのに、空いてないって言うの!」
「……うるせえな! 俺は家出してきたんだ! もう、親方のところには、ぜってえ戻らねえ!」
男の子は、やけっぱちのようにそう叫んだ。
聞けば、名は千代吉。日本橋にある有名な漆器問屋に、徒弟として奉公しているのだという。
昨日、大切な塗りのお椀を一つ、不注意で落として割ってしまったらしい。
鬼のように怖い親方にこっぴどく叱られ、思わず店を飛び出してきてしまったのだそうだ。
「あんな親方のところ、こっちから願い下げだ! 俺は、江戸一番の漆塗り職人になるんだ! あんなところで、くすぶってられるか!」
威勢よく言い放つが、その声はかすかに震えていた。本当は、怖くて、不安でたまらないのだろう。
自分の犯した失敗の大きさと、帰る場所を失った心細さ。その二つが、彼の小さな背中に重くのしかかっている。
「そうかい。それじゃあ、江戸一番の職人になるには、まずは腹ごしらえをしなくちゃいけないね」
私は、千代吉くんの前に黙って一杯の白湯を置いた。そして、炊き場に立つと、彼のためにあるものを作り始めた。
ご飯ものではない。彼が今、求めているのは、きっとそういうものではないから。
私が作り始めたのは、みたらし団子だった。
上新粉にぬるま湯を少しずつ加え、耳たぶくらいの柔らかさになるまで、丁寧によくこねる。それを一口大に丸め、湯気の立った蒸篭で、つやつやになるまで蒸し上げる。
蒸しあがった熱々の団子を、竹串に三つずつ刺していく。
その間に、甘辛い餡を作る。鍋に醤油と砂糖、そして葛粉を水で溶いたものを入れ、弱火でゆっくりとかき混ぜる。ふつふつと煮立ち、とろみがついて照りが出てきたら餡の完成だ。
串に刺した団子を炭火で軽く炙り、焼き目をつける。香ばしい香りが、店の中に広がっていく。
そして、その熱々の団子に、出来立ての餡をとろりとかけてやる。
「さあ、千代吉くん。おあがりなさい。熱いうちにね」
湯気の立つ、三本のみたらし団子。
千代吉くんは、呆気にとられたようにその団子を見つめていた。
「……団子?」
「ええ。甘いものを食べると、少しは気持ちも落ち着くでしょう」
千代吉くんは、おずおずと一本を手に取り、大きな口でぱくりと頬張った。
温かくてもちもちとした団子と、甘くて香ばしい餡の味が、口いっぱいに広がる。
その瞬間、彼の意地っ張りな表情が、ふにゃりと崩れた。
大きな瞳から、堪えていた涙が堰を切ったように溢れ出す。
「……うっ……ううっ……ひっく……」
「よしよし。辛かったね」
私は、彼の小さな頭を優しく撫でてやった。
千代吉くんは、わんわんと泣きじゃくりながら、それでも夢中で団子を頬張っている。甘い団子が、彼の頑なだった心を優しく溶かしてくれたのだ。
「……親方が、怖くて……。でも、俺、ほんとは、帰りてえ……。みんなに、謝りてえ……」
しゃくり上げながら、千代吉くんは正直な気持ちを吐き出してくれた。
その時だった。
店の戸が勢いよく開き、息を切らした、いかつい顔の男が飛び込んできた。
「千代吉! てめえ、こんなところにいやがったか!」
千代吉くんの親方だ。その手には、なぜか千代吉くんの草履が大切そうに握られている。
「ひっ……! お、親方……!」
千代吉くんは、蛇に睨まれた蛙のように固まってしまった。
しかし、親方の次の言葉は、意外なものだった。
「……馬鹿野郎。心配させやがって……。てめえがいねえと、仕事がはかどらねえだろうが。……それに、お前さんがいないと、飯も喉を通らねえ」
ぶっきらぼうな言葉の裏に、弟子を想う深い愛情が滲んでいた。
親方は、私の前に向き直ると、深々と頭を下げた。
「女将さん。うちの馬鹿が、世話んなった。こいつは、不器用だが根は悪くねえんだ。俺も、少し厳しく叱りすぎちまった。……この通り、すまなかった」
「いいえ。千代吉くんの気持ち、よくわかりましたから」
私は微笑んで、親方の前にもみたらし団子を一本、差し出した。
親方は、照れくさそうにそれを受け取ると、大きな口で頬張った。
「……うめえな、こりゃ」
その顔は、やはり弟子とよく似て、少しだけ泣き笑いのように見えた。
甘くてしょっぱいみたらし団子が、不器用な師弟の心を、再び固く結びつけてくれた。
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