地獄日記

岸根リョウ

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 無機質な石造りの階段にべたつくグレーの手すりがついていた。足元から冷たい空気が上がってきて妙な不安を感じた。さっき抜き取られた不安も恐怖も、もう返ってきたらしい。しかしパニックには至らないので助かった。もう死んでいる、もう死んでいるのだ、と心の中で繰り返した。

 右手の一番手前、とはこの階段の登口から見てのことだろうか。きっとそうだろう。とても大切な書類と脅されたので戦々恐々としながら階段を上がったが、造作もなく三階に着いた。冷たく重いドアを押すと、薄暗い廊下が真っ直ぐに伸びていた。右手の一番手前のドアを三つノックした。中から小さくどうぞと聞こえた気がしたので、思い切ってドアを開けた。

 思ったより手狭な部屋に、小さなデスクが二つ向い合わせに置かれていた。向こう側には既に小柄な女性が腰掛けていた。女性が手で空いているデスクを指したので、座れということかと大人しく従った。失礼します、と椅子を引いて腰掛けると、女性がこちらに手を差し伸べてきた。すぐに書類を渡せということだと思い至り、小脇に抱えていた書類を手渡した。

 女性は黙って書類に目を通し、引き出しから取り出したパンフレットをずらりと私の目の前に並べた。どうやら求人パンフレットらしく、色んな職種や待遇がつらつらと書かれていた。呆気に取られていると、不意に女性が顔を上げてにっこりと微笑んだ。

 「希望の職種はございますか?釜茹でや鋸挽きなんかがおすすめだけど。因みに転職も出来ますよ、手続きが煩雑ですが。」

 面食らっている私に女性は淡々と説明を続けた。

 「あなたはれっきとした自殺なのでちゃんとこちらでお仕事につけます。周囲にかけた迷惑は大きなものではないから、高度なものは無理ですよ。」

 言われるがままパンフレットに目を落とすと、釜茹で、鋸挽き、生き胴……ようやく地獄らしい単語に出会えた。現世に伝わる地獄伝説もあながち間違いではないらしい。しかし予想していた事務や会計の求人は見当たらなかった。

 「事務や会計も、高度なものということですか?」

 おずおずと尋ねる私に女性は一瞬視線を落とし、再び微笑んで続けた。

 「そうね、説明不足でしたね。現世での仕組みは粗方頭に残っているかしら?それに沿って説明しますから。」

 一応の流れを思い浮かべながら、自分のことは相変わらず一切思い出せないまま頷いた。

 「こういうデスクワークに着くにはそれなりの資格がいるの。簡単に言うと、どれだけの他人を自殺に巻き込んだかってことね。あなたは自分一人で人気のないところで死んだし、遺体を見つけたのはあなたのご両親だったらしいから、ここでは何の資格も持ってないに等しい。現世でいうアルバイト程度の仕事しかできないわ。」

 つまりフルタイムのパートレベルの仕事ということか。なるほど正規ルートでの就職パターンは不可能らしい。そしてちらりと出た両親の話も、残念なことに何も思い出す手がかりにはならず、自分には両親がいたらしいことしか分からなかった。

 「釜茹でとか鋸挽きっていうのは、その、人間相手にやるんですか。大罪を犯した人ほど、いい仕事に就けると伺ったのですが。」

 かなり間抜けになった気分だった。ここでのルールやマナーを何一つ知らない人間が、それなりの地位を手にしているキャリアウーマンもどきに初歩的な質問をしている。都会に出てきたばかりの田舎者のようで、自分が情けなく恥ずかしかった。

 「地獄を運営しているのは自殺した人間達なんです。私たちは生まれ変わるチャンスもなく、ひたすら仕事をし続けるしかないの。大罪を犯しても最後に自殺したのならここで働くことになるのね、そしたら高度な職に就ける。ここまでは理解できるかしら?」

 女性が真面目な顔つきで私を見た。私は彼女の目を見てしっかり頷いた。

 「現世で本当に大罪を犯したら、ちゃんと人間に裁かれるでしょう。死刑になったらそのまま、ならなかったら死んでから地獄へ堕ちて、ここでも罰を受けるのよ。それが鋸挽きとか釜茹でとか、他にも牛裂きや火炙りなんかもあるわ。そのへんはパンフレットを見てくれれば。」

 そこで手元のパンフレットに目を落とすと、『牛裂き』『水牢』『石子詰』といった文字が目に入った。内容はよく分からないが、出来れば想像もしたくないほど残酷なことは見当がついていた。

 「定められた回数罰を受けたら生まれ変われるの。もちろんまた人間からとは限らない。でも私たちは生まれ変わりの先を知らないの、縁がないからね。大体は理解してもらえたかしら?」

 私は何度も頷いた。とにかく深く考えないようにしたかった。

 「人に迷惑をかけて死んだら、こういう事務仕事とか人材管理とか……、現世の企業がやってるような仕事ができるの。要は管理職。じゃあ誰が罪人の首に鋸を落とすのか、誰が釜を煮え立たせて罪人を放り込むのか。それはあなたたちよ。」

 冷や汗が背中を伝った。顔から血の気が引くのが分かった。そんな残酷な仕事こそ、人に迷惑をかけて死んだ人々にやらせるべきではないのか。

 「管理職は思ってる以上にしんどいのよ。ひたすらあなたたちの死ぬ瞬間や死因なんかを審査して、仕事の案内したりパニクった人を落ち着かせたり。」

 私の考えに気づいたのか、女性が鋭い目でこちらを見た。私はあまり納得がいっていなかった。

 「それに、あなたたちの仕事は慣れてしまえば単純作業よ。感覚さえ麻痺してしまえば、やってることはただの力仕事。」

 ハッとした。いつかは仕事に慣れて単純作業と化していくのか。人を鋸挽きにすることに何も感じなくなってしまうのか。今の私にはその方がゾッとした。

 「あなたは見た感じ、どうも繊細そうね。だから誰にも迷惑をかけずに死んだんでしょうけれど。皮肉なものね、誰かに迷惑をかけていた方が心の痛まない仕事に就けたのに、そう思ってるでしょう。」

 全てが見透かされているようだった。しかしなんとなく悔しくて頷くことは出来なかった。それにまだ今は強がって、地獄に堕ちたこともなんてことない風を装っていないと、気が狂ってしまうと思った。

 「とにかく説明はそんなところよ。パンフレットから希望の職種を選んでください。一応私はアドバイザーなので相談には応じられますよ。」

 少し時間が欲しかった。聞いたことを整理して、自分の状況を受け入れて、落ち着いて自分の適性から職を選びたい。しかしそんな余裕はなさそうだった。さっきから廊下の方で度々足音が聞こえている。私の次に順番を待っている人が現れるかもしれない。

 とにかくパンフレットをパラパラとめくって、一通り見てみることにした。時々簡単な図の付いている求人もあった。それでどんな刑罰の方法なのかも見当がついてしまった。ページを捲るごとに恐怖が増し、指先はどんどん冷えていった。

 「あまり残酷でないもの、手に人間の感触が残らないものはありますか。」

 情けないが、臆病な私にはとても鋸は挽けそうになかった。それで恐る恐るアドバイザーらしい彼女にそんな質問をした。

 「水牢や釜茹でなんかは、放り込めばあとは時間が経つのを待って引き上げるだけなので比較的よろしいかと。あ、でも……途中で身体が損傷してきますが、どうでしょう。」

 彼女が随分と気を使ってくれているのが分かった。身体が損傷、つまりはそういうことだと分かった。それで私は物も言えないままただ首を振った。

 「何にせよ身体は損傷しますよ。火炙りも、牛裂きも。多少は覚悟していただかないと。でも強いていうなら、石子詰はいかがかしら。」

 彼女は仕事上敬語を使わないといけないのに、ついつい私を侮ってタメ口になってしまうのだな、と頭の奥でぼんやり考えながら頷いた。親しげでいいとも、礼儀がなくてだめだとも言える。私はここでの仕事でも上司がいて、敬語を使って頭を下げるのだろうか。目の前の職業選択を放棄して、思考は遥か先に行ってしまっていた。ぼんやりと、私はここで働くことに抵抗はないんだなと気づいた。

 それで私は石子詰に決めた。生前には聞いたこともない単語だった。彼女が私の書類に追加で何かを書き込んでいる間、ここでの仕事はどんなものだろうとまた考えた。同僚や部下なんかもできたりするんだろうか。でもアルバイトレベルの仕事らしいから、ただの先輩後輩という雰囲気の方が近いのだろう。私は生前アルバイトをしたことはあっただろうか。何故か自分という人間に関する情報だけが、薄い靄に取り囲まれたように思い出せない。生前の知識は、多少ここでも役に立つのだろうか。

 「正直ね、ある程度は適当なのよ。」

 不意に彼女がぼそりと言った。

 「死因にしろ仕事にしろ、現世での学問や技術はここでは何の役にも立たない。思わなかったかしら、審査のとき。死因を判断するっていうのに、医学の知識なんか持ってなさそうな素人が適当に映像を見て決めるでしょう。」

 言われてみれば、と思った。目まぐるしく手続きをする中で深くは考えていなかったが、そう言われると確かにそうだ。

 「モラルだとか判断力とか、そういうのさえあれば、本当は現世での記憶なんて一切なくてもいいの。役になんて立たないから、あまり期待しない方がいいわよ。」

 彼女はそう言って意味ありげに私を見た。まさか、さっきからずっと。

 「あなたの考えてることは、私達には筒抜けよ。」

 彼女はにっこり微笑んでそう言うと、より分厚くなった書類を私に手渡した。

 「次が最後よ。階段に戻って、四階に行って。部屋は一つしかないから。」

 はい、と頭を下げて私は立ち上がった。ドアに手をかけた私に、彼女は後ろから声をかけた。

 「これからは敬語、気をつけるわね。」
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