【完結/R18】恋人として君と過ごす日々

テルマ江

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番外編・柊山敬久の昔の話

柊山敬久の昔の話

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※(柊山の此木以外との恋愛描写(過去)一部有)※
※番外編は飛ばしても問題ありません※

※※※

 父のことはいつも分からなかった。父に対しては子どもの頃に遊んでもらった様な良い思い出もあり、特に苦労をかけられたということもないのに。

 父は母より随分年上で昔気質な人だった。妹には甘いようだったけれど、僕には厳しかった。会社を経営していたせいか普段から忙しそうな顔をしており、そういう顔以外もう思い出せない。

 進路について聞かれた時も、小説を書いて暮らしたいと勇気を出して言った。高校一年生の時に地方の小さな文学賞で佳作を獲ったと胸を張って言ったけれど「そうか」と言われただけだった。褒められたかったのを見透かされたのかもしれない。何だか恥ずかしくなり、それ以来父の前ではそういった話をしなくなった。

 大学も会社の経営に役立つような所を勧められたけれど、家を飛び出し全く関係のない学部に通った。入学金だけは母が出してくれたので、残りは奨学金を借りて学費に当てた。奨学金を返せるあてはなかったけれど、在学中に小説家デビューしてやろうという意気込みだけは一人前だった。

 一年生の時は格安の学生寮に入り、小説を書いては応募した。二年になると初めて出来た恋人と暮らしてみたけれど、上手くいかず半年で別れてしまった。別れた理由は「与えられる全てに応えられない」や「そんなに束縛されたくない」や「重い」といったものだった。その後恋人が出来ても大体同じような理由でフラれ、後になって自分の短所だと気づくことになるのは、また別の話だ。

 結局また寮に戻り、返せるあてのない奨学金は出来るだけ貯め込むようにした。三年になっても書いては応募した。大学と寮の往復だけであっという間に時が経った気がする。周囲が就職活動をし始める時期に僕は何をやっているのだろうと思わないでもなかった。生活費が少なくなってくれば、友人達と引っ越しやイベント整理のアルバイトをした。

 寮にいる先輩からは就職活動をするならアピールポイントになるようなアルバイトをするのも良いよと言われたけれど、これまでの積み重ねがない僕は「そうですか、分かりました」としか返せなかった。視野が狭かったので物を書いて暮らせない人生が思いつかなかったのだと思う。いざとなれば運転が好きなので引っ越しアルバイトのドライバーになろうと甘いことを考えていた。

 大学に通いながら執筆に明け暮れていても全く成果が得られなかった。何故か僕は「自分はここまでかもなあ」と妙に清々しい気分になっていた。諦めるきっかけを探していたのかもしれない。そうと決まれば大学の就職支援課にでも行こうと考えていると、出版社から連絡があり「賞は逃しましたが担当編集を付けます」と言われた。これが転機になり、在学中にデビューすることが出来た。僕の見通しの甘い人生設計の中で、唯一目標通りに物事が進んだので浮かれていた。

 そこからは上り調子で作家としてのキャリアを重ねていった。書いた小説が賞を獲ることが出来たり、深夜帯の短編ドラマになったりと、私生活以外は全て順調だった。

 私生活は相変わらず恋人とは上手くいかず、父には本を送っても感想は貰えなかった。かろうじて連絡を取っていた母や妹は「良かった」や「楽しみ」だとか少なからず言ってくれたのが救いだった。気晴らしに大学の講演会に参加してみたりもした。自分よりだいぶ若い後輩達と将来について語り合うのは悪い気がしなかった。そこで出会った端正な顔立ちの青年は僕の作品について熱く語ってくれたので、ますます調子に乗った。

※※※ 

 父が倒れたのはそれから少し経ってからだ。僕は実家を飛び出して以来、父の元には寄り付かなかったので、彼については何も知らないままだった。考えてみれば父はもう老人と言っていい年齢だったので、体を悪くしていても何も不思議はない。僕は母がいつまでも若いので、父も年を取らないのではないかなどと馬鹿なことを心のどこかで考えていた気がする。

 病状については母もどこか諦観しており、妹は僕より三歳年下だけれど、僕よりずっとしっかりしていて気丈だった。僕だけが家を飛び出した頃のまま、自分の時間が止まっているなと呆然としていた。悲しみというよりは焦燥感に近かった。

 そして父はあっけなく逝ってしまった。こんな風に人は何でもない日に逝くんだなと、通夜の席で僕はまた呆然としていた。やはり悲しみはなかった。泣くにしても父のことは結局何も分からないままで、何だか喉に刺さった小骨のように感じていた。

 父の会社のことは母と妹と会社の役員で何とかするらしかった。僕はドラマや小説のように「自分が家に戻って何とかする」などとはおこがましくてとても言えなかった。結局役場で細々した手続きをしたり、妹や母を車で送り迎えしたりと、そういった手伝いしか出来なかった。十年以上家に寄り付かなかった僕が急に甲斐甲斐しくなり、母と妹には随分と気を遣わせていたと思う。

 抱えていた仕事を全て終わらせると、執筆業をしばらく休むことにした。幸いそこそこ本が売れ続けていたので、しばらく何も書かずに過ごした。その間に何度か妹の仕事の手伝いをすることもあった。そのままズルズルと妹の秘書か何かにされそうな気配を感じたので、別の仕事でも探してみようと求人雑誌を捲った。年単位でふらふらしてみようかなと考えていたのに、僕にも勤労意欲があったようだ。『未経験者歓迎』『年齢不問』の仕事は中々の数あり、車を運転する仕事はやってみたかったので応募しようと考えていた。

 履歴書に書けることが少ないので、大型免許でも取得しに行こうと思い立った。まずは教本を買いに、近隣で一番大きな書店に出向くことにした。ワンフロアに様々なジャンルの本が配置されている書店なので、教本以外も面白そうなものがあれば買おうとうろうろしていた。

 その時に文芸コーナーで自分の本が平積みになっているのを見つけてしまった。ドラマだか何かの原作本フェアをやっているらしく、僕にもまだ需要あったんだなとしばらく見つめていた。もう二年近く何も書いてはいない。小説が数年出ない作家は珍しくもないので、新作が出ないと作家は段々と忘れられていくものだと思っていた。

 自分の本をぼんやりと見ていると、スーツ姿の青年に声をかけられた。まだ二十歳そこそこで、スーツを着慣れていない社会人といった風体だった。

「あの、柊山先生……ですよね?」
「……ええと、あなたは?」

 端正な顔立ちの青年だったので、何かの勧誘かと身構えてしまった。ほとんど顔出ししていないのに、僕が『柊山敬久』と気づかれたのも不思議だ。どこかで会った気もしたので首を捻りながら彼に名前を尋ねた。青年は「此木遥」と名乗り、僕の母校の後輩らしい。

「私は出版社に勤めておりまして……」

 淡々とそう言いながら名刺をくれた。名刺には僕が見ていた本の出版社の名前が書かれていた。

「ああ、これはお世話になっております。もしかして、僕達どこかでお会いしたことありましたか?」
「以前、大学の懇親会で……助け……いえ、お話をさせて頂いたことが、ありまして……」

 大学の懇親会には一度しか行っていないので、僕の作品について熱く語ってくれた端正な顔立ちの学生だと気づいた。書店を営業で回っている途中で僕を見かけたのだそうだ。

「……それで思わず声をかけてしまいました」

 青年は照れたように言ったけれど、すぐに表情を引き締めた。「呼び止めてしまってすみません」と彼は謝った。

「母校の先輩でもある柊山先生に、お会いできて嬉しかったので……良かったら、またお時間ある時にお話させてください」

 彼は困った様に微笑んだ。僕も「良いですね。じゃあ今度お話しましょうか」と愛想良く笑いながら返した。普段あまりそういうことは言わなかったけれど、出版社で働きたいという夢を叶えた後輩を眩しく感じたのかもしれない。社交辞令として流されると軽く考えていた。

「ぁ、う……良いんですか?」

 青年は一瞬困惑と喜びが入り混じった表情になり、また先程のように表情を引き締めた。面白い青年だなと思い、単純に彼に興味が湧いていた。出版社とはいえ営業担当なら執筆依頼などはして来ないだろうと考えていた。

※※※

 今日は用事があると言うので妹を車で実家に送っていた。最近、ますます便利に使われるようになっている気がする。

「敬久、最近若くて可愛い男の子と遊んでいるんでしょ」
「何その言い方……」

 助手席にいる妹が思い出したように話しかけてきた。妹には十代の始まり頃から『兄さん』ではなく、名前で呼ばれている。どうも僕が好き勝手に生きて家を飛び出したので「しょうがない子」だと思われている節がある。実際、妹には「敬久はしょうがない子だから」と何度か言われて来た。

「出版社に入った大学の後輩って前に言っただろ……前に書店で会って……ちょっと話したりするようになっただけ」

 交友関係がそこまで広くない僕の行動は妹には把握されているらしい。此木遙――遥君とは半年程前に出会い。月に一、二回は会っていた。

 彼は中々面白い青年で、見た目からツンとしているのかなと思いきや、懐に入れた人間にはどこまでも懐くタイプだった。「敬語を使わなくて良い」や「後輩のように扱って欲しい」と言われたので「遥君」と呼ぶようになり、僕が「じゃあ君はもう少しくだけた話し方をしてよ」と言ったので、彼の口調は少しだけ堅苦しくなくなった。

「出版社? また、何か書くんだ」
「さあ」
「ふうん? 予定決まってなくて時間あるんだったら、また仕事手伝ってね」
「……そうだね」

 もう書かないとは言い切れなかった。自分でも煮えきらないなと思う。

「皆、敬久のこと気に入っているみたいよ」
「そう……」

 以前、手が空いていたら手伝ってと言われ、車の運転や荷物運びかなと思っていたら、妹の職場へ連れて行かれ、書類やスケジュール作成作業をやらされた。妹いわく「敬久はパソコンで文字を打つの早いから」と言うことらしく、目を白黒させている僕に従業員の方々は優しく接してくれた。どうやら臨時職員の試用期間中だと説明されているらしかった。

「うん……良い人達だね……サッカーが好きだって言ったら、今度フットサル一緒にやろうって誘ってくれて……」
「良かったじゃない。敬久、フットサルやるの?」
「いや……やらないよ。見るのが好きなだけだから……」
「やってみたら良いのに」

 妹はあまり興味がなさそうに言った。

「若い男の子と次はいつ遊ぶの」
「……その言い方やめてよ。遥く……此木さんだよ」
「此木さんといつ遊ぶの」
「特に決めてないよ」

 いつもどちらともなく空いた時間があれば連絡して、都合がつかないなら会わない。

「そうなんだ。出版社の人って忙しそうなのに、時間があるおじさんがあんまり弄んだらダメだよ?」
「人聞き悪いなあ……」

 妹なりに父がいなくなってからふらふらしている僕を心配したのかもしれない。僕はため息を吐いた。

「でも楽しそうにしているなら良かったよ」
「そう」
「敬久、いつも何考えているか分からないから。そういう所お父さんとそっくりだね」
「え……」

 僕がどういうことか聞こうとすると「そうだ。私、来年結婚するから」とついでのように言われ、驚いて結局有耶無耶になってしまった。

※※※

 久々に遥君と会うことになった。飲みに行こうとのことなので、車ではなく電車で向かった。都心部に近い電車は夜八時を過ぎていてもスーツ姿の人間が多く乗っている。車に乗りだしてから電車に乗る機会は少なくなっていたので、新鮮な気分だった。

 今の僕は教習所で大型免許の講習を受けながら、半ば妹に雇われている状況が続いている。最近は臨時職員として普通に給与が振り込まれるので、外堀を埋めに来ているようだった。週に三回は呼び出されるので、そろそろ危なそうだ。僕はふっとため息を吐いた。

 たまに執筆依頼のメールは来ており、ありがたいと思っていたけれど色々と理由をつけては断っていた。小説を書いて暮らしていければと思っていたのに、父がいなくなってから自分の空っぽさに気づいたのかもしれない。

 妹に聞きそびれていた「お父さんとそっくりだね」という言葉について、あれから改めて聞いてみたけれど「自覚ないの?」と呆れ顔で言われた。「そうやって周りを振り回す所」だとか「顔だけは良い人そうに見える所」だとか「敬久は実はそれほど優しくない」だとか「敬久は意外と面倒で重たい男」だとか、後半は僕に対する憤りになっていた。色々と僕に対して思う所があったのだろう。

 僕はどうしても自分以外の人間に強く興味を持つ性質らしく、それが良い方向に働く時もあれば、悪い方向に働く時もあった。この世にいない父のことが今更になって知りたいと思うのも、そのせいだろう。そうだったとしても、それは叶わない未練みたいなものだ。書くことをすっぱりと止められないのも未練だと思う。諦める理由が降って来るのを、心のどこかで期待していた。

 駅前では遥君が待っていたので連れ立って歩いた。何か食べながら飲める所が良いなあと言うと、遥君は「知り合いの店は食事が美味しい」と言うので、彼の知り合いがやっているというバーに入ることになった。学生時代にアルバイトをしていた時に一緒に働いていたのだそうだ。

 そこは駅前から少し歩いた裏道にあった。オーセンティックバーといった雰囲気なのに、一番のオススメはカレーらしい。確かに注文したカレーはとても美味しく無言で食べ終えてしまった。
 
「柊山先生、カレー気に入りましたか」
「うん、すごく美味しかったよ」

 遥君も注文したキッシュを美味しそうに食べている。やたらフードメニューが豊富なのは店長の趣味だと言った。

「遥君はここによく来るの?」
「たまにですね。オレはそんなに飲めないので……お酒を飲める人が一緒だと、気兼ねなく食事が頼めてありがたいです」

 遥君もカクテルを注文していたけれど、舐めるようにちびちびと飲んでいる。

「あ、そのためだけに誘ったんじゃないですから」

 慌てた様に付け足したので、「分かっているよ」と笑いながら言った。

「柊山先生、今日、何だか元気が無いですね?」

 顔に出ていたのか、気遣うように言われた。

「遥君はいつも良く気がついて、甲斐甲斐しく接待してくれるね……」

 遥君とは会っても他愛もない話しかしていない。僕のことをあまり知らない人間に好意的に接されるのは心地良いと感じる。自分でも彼に甘えているなと思う。

「接待って、オレはそういったつもりでは……」

 彼は困ったような顔をしながら言った。

「ごめんごめん。可愛い後輩に遊んでもらっていると思っているよ」
「そう、ですか……良かったです」

 淡々とした口調で返された。遥君はたまにツンとする時がある。彼はどうも意図的に淡々と喋るようにしている印象があるので、もしかしたら照れ隠しか何かなのかもしれない。本人を目の前にしてそんなことを考えながら、僕はどうにも興味がある対象を探るように見てしまうなと自分に呆れた。

「元気無いように見える?」
「オレの勘違いでしたら、すみません」
「うん……ねえ、遥君は未練って感じたことある?」
「……え」

 遥君は一瞬息が止まった様な顔をした。何か思い当たることがあるのだろう。

「……突然ですね……未練……人に対して、ですか?」
「ああ、ごめん。深刻な話じゃないんだ。人でも物でも……存在しないものでも……とにかく、未練っていうか、名残惜しさっていうか……いや、後悔なのかなあ」
「オレは……」

 遥君はカクテルをグッと一口飲んだ。

「ありますね」

 何かを振り払うように言った。

「沢山あるので……その中の一つについて、プレゼンしますね」

 相変わらず生真面目で面白いなと彼の端正な横顔を見つめた。照明の光で分かりにくいけれど、顔が赤いように見える。

「……まず、結論から言うと希望した部署に配属されなかったことです」

 彼はカクテルをちびちびと飲んだ。

「早くて二年で、人事異動があるんですが……その時は、文芸出版部に入りたい……オレは……文芸出版部に入って柊山先生と仕事がしたい……」

 最後は消え入りそうな声で言われた。

「そっかあ……そうだったんだね」
「……オレが文芸出版部に異動しても……先生は……また、こういう風に会ってくれますか?」
「そんな告白みたいに言われると困ってしまうなあ」
「…………告白なんて、そういうのじゃないですよ」

 「ただの未練です」と彼は自嘲気味に笑った。

「僕は、最近全然書いていないからなあ。妹にも時間を持て余しているおじさんが、忙しい出版社の人を弄んだらダメって言われているし」 
「弄んだらダメって……面白いですね」

 遥君は目を伏せて、コースターを指で撫でた。

「……書く予定、しばらくは無いんですか?」
「うん、小説家として落ちぶれているんだ、僕」
「……そんなこと、あるわけないじゃないですか」

 彼の目が少しだけ据わっている。アルコールが回っているのかもしれない。彼は僕の本がフェアでも売れていることや、ドラマが再放送されて重版したことなど滔々と語ってくれた。遥君は一通り喋り終わると「先生の言う未練は何なんですか」と尋ねて来た。

「それは秘密って言ったら怒る?」
「怒りはしませんが、弄ばれたと思いますね……オレは話したのにって……」
「それは……すみません、此木さん」
「……その呼び方止めてください。それに、悪かったと思うなら……小説家として落ちぶれたなんて言わないでくださいよ」

 遥君はカクテルを飲み干すと「寂しいじゃないですか」と呟いた。

※※※

 遥君とはその後も他愛もない話を続け、そろそろ帰ろうということになった。駅までの道のりを二人で歩きながら、またぽつりぽつりと話をしている。

「柊山先生は落ちぶれてなんか、いないですからね」

 遥君は微笑みながら念を押すように言った。酔っているのか、いつもより感情が表に出ているようだ。表情もくるくる変わるので見ていて楽しい。
  
「遥君、やっぱり少し酔っているよね。タクシーで帰った方が良いんじゃない?」
「大丈夫ですよ。一杯だけならまだ自分をセーブできますから……」
「そうなんだ?」
「そうなんですよ」

 彼は口元を押さえながら照れたような顔でこちらを見た。同性だけれど遥君は清潔な色気があるなあと彼の顔をジッと見つめてしまった。

「それで未練の話は、もうしないんですか?」
「うーん、何て言うか……表現が難しいんだよね……喉に刺さった小骨みたいな話だから」
「小説家に表現が難しいって言われたら、オレに理解出来ることなんて何もないですよ……」

 彼は拗ねたように目を細めて僕を見た。難しいと誤魔化したけれど、本当は自分の空っぽさや身勝手さを彼に知られたくないだけかもしれない。

「そのままじゃダメですか?」
「何が?」
「小骨が喉に刺さったまま、そのままでいるってことです」
「痛そうだよね」

 思わず笑ってしまった。

「……先生は痛みを知っているから……オレ、あなたの書く小説が好きなんですよ……」

 ボソボソと呟くように言われた。人通りのまばらな通り道なので、小さな声もよく聞こえる。

「……好きなんです、本当に」

 絞り出すような声に妙にドキッとした。

「だから、先生は落ちぶれてなんかいませんし、小骨が取れても……取れなくても……そのまま書くことを止めなければ良いって、思いました……折角小説家になったのに勿体無いとか、先生を励ましたいとか、オレが出版社の人間だからとか、そんなことは関係がなくて……これはオレ自身のエゴからの言葉です……」

 彼の声は震えている。

「読者の生の言葉って、ありがたいなあ……ありがとう、遥君」
「……そう、ですか」

 生真面目な後輩にそんな顔をさせて申し訳なくなりながらも、彼が様々なことを考えながら絞り出した言葉が嬉しかった。僕は彼の清潔な心がもっと知りたいと漠然と思い、また悪い方の癖が顔を出したなと反省した。

「……やっぱり、僕、君のことを弄んでいるのかも」
「なんですか、それ……」

 遥君は落ち着いた声色に戻っている。気恥ずかしくなったのかもしれない。

「小骨……いつかポロッと取れたら、良いですね」

 彼はまたボソボソと呟いた。僕は星のない空を見上げて、彼から言われた言葉を噛み締めていた。

※※※

 父の書斎はそのままだったけれど、いい加減片付けようとなり、当たり前だけれど僕も駆り出された。母は最後まで片付けるのを渋っていたが何とか折れたようだ。妹は荷物を詰めたダンボールを母に見せては、これは物置に入れるだとかあれは処分するだとか意見を戦わせている。

 僕は肩身が狭いので黙々と父の書斎にある机を片付けている。身内とはいえ、人の机の引き出しを開けるのはあまり良い気分ではない。父の机なら尚更だ。気が進まなくなれば業者に頼もうかなと引き出しの中身を取り出した。

「あ」

 引き出しの奥には僕の小説の文庫版が入っていた。文庫は送ったことがないので父が買った物だろうか。僕のデビュー作だ。よく見ると他にも数冊ある。奥付を見るとどれも初版となっていた。引き出しの中を他にも探したけれど、文庫版と便箋しか出てこなかった。便箋には「柊山敬久様へ」とだけ書かれ、他は何も書かれてはいなかった。僕は手を止めて便箋をしばらく見つめていた。文字が浮かび上がってくる訳ではないのに、食い入るように見つめてしまった。

「敬久、お母さんが荷物半分以上残したいって……何見ているの?」
 
 書斎に入って来た妹が怪訝そうに言った。

「いや、僕の本、出て来たから……」
「ああ」

 妹は僕の手元を覗き込みながら、納得したように頷いた。

「敬久の本、やっぱり読んでいたんだ」
「そう……読んでくれていたみたい」
「ああ、便箋ね……」
「うん」

 名前しか書かれていない便箋を見て、首を傾げた。

「……何か書こうとしていたの? ファンレター? それとも叱咤激励? 敬久、探偵小説とか書いていたでしょ。推理してよ」
「探偵小説は書いていないよ……適当だなあ……」

 妹は「そうだっけ」と言った。読んで感想はくれたけれど、僕の本に対してはあまり興味は無いようだ。

「敬久なら、何を書きたかったのか、何となく分かるんじゃない?」 
「いや、どうだろう……」
「ほら『この時の作者の気持ちを答えよ』みたいなの得意だったでしょ」

 妹は文庫本を重ねながら言った。

「これは取っておこうね。それとも持って行く?」
「いや……こっちで保管していてよ」
「分かったよ」

 ため息を吐きながら重ねた文庫本をダンボールに詰めた。便箋は離せなかった。

「便箋は持っていたら良いよ。敬久はお父さんと一緒で、大事なことを胸に閉じ込めるタイプだから、戒めになると思うよ」

 妹は周囲にある物も一緒にダンボールへ詰めると、僕と父への苦言を呈した。

「戒めって、酷いな」
「酷くないよ。兄さんのこれまでの行いの方が酷いよ」

 久しぶりに『兄さん』と呼ばれた。これ以上何か言い返すと、過去を根掘り葉掘りしながら説教されそうだったので堪えた。妹はダンボールを抱えると、また母の元へ向かって行った。

 僕は何も書かれていない便箋をどうしたものかと思いながら畳むと、近くにあった封筒に入れた。

 父のことはいつも分からなかった。けれど、引き出しにある文庫本の初版の日付や名前だけ書かれた便箋から、どういう人物だったのか薄っすらと見えてくるような気がした。

 僕の都合の良い想像なのは分かっていたけれど、僕の考えた人物像ならば、父は回りくどくて、人を振り回して、大事なことを伝えるのが下手くそで、僕ととても似た人間だったのだろう。

 喉に刺さった小骨がポロリと取れたような気がした。代わりに胸に穴が空いたようだった。悲しむには今更過ぎるので、喪失感というものだろう。

 僕は大事なことを伝えるのが下手くそだったけれど、文章ならまあまあ上手く伝えることが出来る。そこは父と違う点だった。

 家に戻ったらまた、何かを書いてみようと思った。もしかしたら、胸に空いた穴は何かで埋めるためなのかなと思い至り、一人でクスクスと笑った。

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