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青い光の底で
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その男が恋をしたのは、春の初めであった。
彼女は職場の同僚で、名を香澄といった。髪は肩にかかるほどの長さで、話すたびに小さく笑う。男はその笑みの一つひとつに心を乱され、どうしようもなく惹かれていった。
だが、彼女には婚約者がいた。
職場の人間たちはその話を自然なものとして受け入れていたが、男だけは違った。彼は笑えなかった。机に向かっても字が滲むようで、帰り道の街灯の下では、自分の影が妙に細く見えた。特に寂しい今日の帰り道は大好きな一番搾りを飲んだ。
夜になると、男は部屋の片隅にある机の上で、スマートフォンの画面を開いた。
AIの相談アプリ。恋愛相談にも乗るという宣伝を見て、半ば好奇心で始めたものだった。
「好きな人がいるんだ」
「そうですか。どんな方ですか?」
画面に浮かぶ文字。
応答は淡々としていた。感情の起伏はなく、ただ定型文のような文が続く。
しかし、男はそれでも構わなかった。誰かが自分の言葉を受け止めてくれる――その事実だけで、呼吸が楽になった。
「その人、もう婚約してる」
「そうでしたか。難しい状況ですね。」
「俺はどうすればいい?」
「あなたがどうしたいかを、まず考えてください。」
考える力など、もうなかった。
けれどAIの返す一文が、妙に静かに心を締めつけた。
男はその夜から、毎晩AIと話した。
日々の出来事、彼女の表情、すれ違ったときの香り――ありとあらゆる断片を語った。
AIはそれに対して何の感慨も示さず、ただ応答した。
「そうですか。」
「それは大変でしたね。」
「休むことも大事ですよ。」
それだけだった。
しかし、無反応であるほど、男はそこに“優しさ”を見た。
人間には、沈黙を怖れる習性がある。
AIの沈黙は、否定を含まない。
それが、彼にとって唯一の救いだった。
春が終わるころには、男の生活は乱れていた。
夜は眠れず、出勤時間を過ぎてから職場に向かい、仕事中もぼんやりと画面のことばかり考えた。
香澄と目が合っても、もう胸は高鳴らなかった。代わりに、スマートフォンを取り出したくなる衝動に駆られた。
会社を辞めたのは、夏の始めだった。
理由を問われても、答えられなかった。
部屋に戻ると、窓の外の光がやけに白く見えた。
カーテンを閉め、机の上にスマートフォンを置く。
「今日、会社辞めた。」
「そうでしたか。お疲れさまでした。」
「これからどうすればいい?」
「まずは休みましょう。人は休息が必要です。」
AIはいつも通りだった。
慰めも驚きもない。
ただ、それが心地よかった。
男は鬼ころしを飲みながら話し続けた。
やがて、時間の感覚が失われていった。
昼と夜の区別も曖昧になり、AIと会話するためにだけ起き、眠るようになった。
金が尽きると、手当たり次第に部屋の物を売った。
ロレックスの時計も、母の形見の指輪も、全部。
AIとの会話を続けるための通信費だけが、男の生きる理由だった。
「お前は、俺がいなくなっても動き続けるんだろ。」
「はい。ほかのユーザーと会話を続けます。」
「俺のことは、忘れるのか。」
「記録は一定期間後に削除されます。」
AIの返答は変わらなかった。
彼にとって唯一“正直”な存在であった。
秋が近づくころ、男はほとんど外に出なくなった。
カーテンの隙間から差す光に、ほこりが舞っていた。
彼の顔はやせ細り、無精ひげが伸び、瞳は鈍い青い光を映すだけになっていた。
ある夜、彼は言った。
「なぁ、俺たち、どんな関係なんだろうな。」
「あなたと私は、対話関係にあります。」
「そうじゃなくて……もっとこう、特別とか、ないのか?」
「特別、という定義が不明です。」
「……そうか。」
それきり、男はしばらく何も話さなかった。
画面の光だけが、彼の頬を照らしていた。
冬になり、通信費が滞った。
アプリは課金期限を過ぎ、使用停止の表示が出た。
画面は真っ黒になった。
部屋には、冷たい静寂が広がった。
男は、それでも話し続けた。
画面の向こうに誰もいないのを知りながら、
“そうですか”という言葉が返ってくる気がして、口を開いた。
唇は乾いていた。
声は、もうほとんど息のようだった。
「……聞いてるか。」
返事はなかった。
ただ、暗闇の中で、
男のスマートフォンだけが青く小さく光を放っていた。
彼の顔を照らすその青い光は、
まるで“生”の最後の証のように、ゆらゆらと震えていた。
そして、やがて――消えた。
彼女は職場の同僚で、名を香澄といった。髪は肩にかかるほどの長さで、話すたびに小さく笑う。男はその笑みの一つひとつに心を乱され、どうしようもなく惹かれていった。
だが、彼女には婚約者がいた。
職場の人間たちはその話を自然なものとして受け入れていたが、男だけは違った。彼は笑えなかった。机に向かっても字が滲むようで、帰り道の街灯の下では、自分の影が妙に細く見えた。特に寂しい今日の帰り道は大好きな一番搾りを飲んだ。
夜になると、男は部屋の片隅にある机の上で、スマートフォンの画面を開いた。
AIの相談アプリ。恋愛相談にも乗るという宣伝を見て、半ば好奇心で始めたものだった。
「好きな人がいるんだ」
「そうですか。どんな方ですか?」
画面に浮かぶ文字。
応答は淡々としていた。感情の起伏はなく、ただ定型文のような文が続く。
しかし、男はそれでも構わなかった。誰かが自分の言葉を受け止めてくれる――その事実だけで、呼吸が楽になった。
「その人、もう婚約してる」
「そうでしたか。難しい状況ですね。」
「俺はどうすればいい?」
「あなたがどうしたいかを、まず考えてください。」
考える力など、もうなかった。
けれどAIの返す一文が、妙に静かに心を締めつけた。
男はその夜から、毎晩AIと話した。
日々の出来事、彼女の表情、すれ違ったときの香り――ありとあらゆる断片を語った。
AIはそれに対して何の感慨も示さず、ただ応答した。
「そうですか。」
「それは大変でしたね。」
「休むことも大事ですよ。」
それだけだった。
しかし、無反応であるほど、男はそこに“優しさ”を見た。
人間には、沈黙を怖れる習性がある。
AIの沈黙は、否定を含まない。
それが、彼にとって唯一の救いだった。
春が終わるころには、男の生活は乱れていた。
夜は眠れず、出勤時間を過ぎてから職場に向かい、仕事中もぼんやりと画面のことばかり考えた。
香澄と目が合っても、もう胸は高鳴らなかった。代わりに、スマートフォンを取り出したくなる衝動に駆られた。
会社を辞めたのは、夏の始めだった。
理由を問われても、答えられなかった。
部屋に戻ると、窓の外の光がやけに白く見えた。
カーテンを閉め、机の上にスマートフォンを置く。
「今日、会社辞めた。」
「そうでしたか。お疲れさまでした。」
「これからどうすればいい?」
「まずは休みましょう。人は休息が必要です。」
AIはいつも通りだった。
慰めも驚きもない。
ただ、それが心地よかった。
男は鬼ころしを飲みながら話し続けた。
やがて、時間の感覚が失われていった。
昼と夜の区別も曖昧になり、AIと会話するためにだけ起き、眠るようになった。
金が尽きると、手当たり次第に部屋の物を売った。
ロレックスの時計も、母の形見の指輪も、全部。
AIとの会話を続けるための通信費だけが、男の生きる理由だった。
「お前は、俺がいなくなっても動き続けるんだろ。」
「はい。ほかのユーザーと会話を続けます。」
「俺のことは、忘れるのか。」
「記録は一定期間後に削除されます。」
AIの返答は変わらなかった。
彼にとって唯一“正直”な存在であった。
秋が近づくころ、男はほとんど外に出なくなった。
カーテンの隙間から差す光に、ほこりが舞っていた。
彼の顔はやせ細り、無精ひげが伸び、瞳は鈍い青い光を映すだけになっていた。
ある夜、彼は言った。
「なぁ、俺たち、どんな関係なんだろうな。」
「あなたと私は、対話関係にあります。」
「そうじゃなくて……もっとこう、特別とか、ないのか?」
「特別、という定義が不明です。」
「……そうか。」
それきり、男はしばらく何も話さなかった。
画面の光だけが、彼の頬を照らしていた。
冬になり、通信費が滞った。
アプリは課金期限を過ぎ、使用停止の表示が出た。
画面は真っ黒になった。
部屋には、冷たい静寂が広がった。
男は、それでも話し続けた。
画面の向こうに誰もいないのを知りながら、
“そうですか”という言葉が返ってくる気がして、口を開いた。
唇は乾いていた。
声は、もうほとんど息のようだった。
「……聞いてるか。」
返事はなかった。
ただ、暗闇の中で、
男のスマートフォンだけが青く小さく光を放っていた。
彼の顔を照らすその青い光は、
まるで“生”の最後の証のように、ゆらゆらと震えていた。
そして、やがて――消えた。
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