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【第16部】グランドフィナーレ・物理帝国編 ~神様、残業代(寿命)はいりません。この世界は最高に退屈しませんもの!~
第179話 最強の遺伝子:ようこそ、虹の架け橋
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創造神との「最終興行」から、数週間後。
ヴィータヴェン・アクシス連邦皇国の皇都アクシスに、激震が走った。
それは、西の国境にドラゴンが現れた時よりも、大断裂帯が埋まった時よりも、遥かに衝撃的なニュースだった。
――初代女帝レヴィーネ・ヴィータヴェン、懐妊。
その報せは、敷設されたばかりの電信網と鉄道に乗って、瞬く間に大陸中を駆け巡った。
東の帝国では皇帝が祝砲を撃ち上げ、トヨノクニではノブナガが「めでたい! 今日は無礼講じゃ!」と城下で餅を撒き、エルフの里では大世界樹が一斉に季節外れの花を咲かせたという。
世界中が祝福ムードに包まれる中、当事者たちがいる皇城の奥深くでは、感動とは少し違う、物理的な「戦い」の日々が始まっていたのである。
◆◆◆
【記録1:妊娠三ヶ月目 ~つわりは気合いで治りません~】
【星暦1036年 3月15日】
●ミリアの業務日誌
本日午前八時。レヴィーネ様が顔面蒼白のまま「現場に行く」と言ってドレスに着替えようとされたため、全力で阻止しました。
「ただの状態異常よ! 動けば治りますわ!」と主張されていましたが、つわりは筋肉痛とは違います。アリスさんと二人がかりでベッドに縛り付け(比喩ではなく物理的な拘束魔術を使用)、ようやく静止させることに成功。
……ですが、レヴィーネ様が安静にしていると、逆に城が揺れるほどの殺気が漏れ出します。
午後二時。緊急オーダー発生。
ベッドの上のレヴィーネ様が、虚ろな目で「……酸っぱいものが食べたいですわ。具体的には、サン・ルーチャの完熟レモンと、トヨノクニの三年熟成梅干しを。『同時に』今すぐ」と仰いました。
無茶苦茶です。大陸の西の果てと、東の果ての特産品を同時に所望されるとは。
ですが、これは宰相としての腕の見せ所です。即座に「黒鋼大回廊」の緊急ラインを確保。西からはリョウマさんの高速船と特別列車でレモンを、東からはヒデヨシさんの魔導デコトラ便で梅干しを、それぞれ最高速で輸送させました。さらに、中央駅で合流させたそれらを、アリスさんが開発した「保冷転移ポッド」で皇城へ直送。所要時間、わずか6時間。
「……ん! 酸っぱい! でも、悪くありませんわ!」
レヴィーネ様のご機嫌が直りました。酸味のある果実の確保を最優先事項(Sランク任務)として、商会全支店に通達します。
なお、つわり中も書類仕事の速度は落ちていません。恐ろしい方です。
●レヴィーネの日記
体調に異変あり。朝起きると、世界が回っているような感覚と、胃の腑から込み上げる不快感。これが「悪阻」と呼ばれる生理現象だそうですわ。
ですが、解せません。わたくしの鍛え上げられた腹筋と内臓が、これしきのことで悲鳴を上げるとは。
……認めません。これは「自分との戦い」です。吐き気? 飲み込めば栄養になりますわ!
とは言え、ミリアとアリスがうるさいので、今日は大人しく執務室でダンベル運動程度に留めておきます。
●アレクセイのメモ
妻が苦しんでいる。代わってやりたいが、こればかりはどうすることもできない。無力だ。
せめてもの気晴らしになればと、彼女の枕元で、溜まっていた「西方諸国との関税条約に関する草案(全200ページ)」を読み聞かせたところ、五分でスヤスヤと眠ってしまった。
……どうやら私の声と、難解な政治課題が、一番の子守唄になるらしい。
少し複雑だが、彼女の寝顔は天使のようだ。いや、女神か。
◆◆◆
【記録2:妊娠五ヶ月目 ~英才教育と筋肉占い~】
【星暦1036年 5月20日】
●アリスの日記
今日はレヴィちゃんの定期検診の日! 私、農林水産大臣だけど、一応元聖女だからね。この世界にはエコーとかはないけど、光魔法で赤ちゃんの様子は見られるんだよ。
診察を始めようとしたら、突然スマホとタブレットから、イリスちゃんとデメテルさんがホログラムで飛び出してきて、大喧嘩を始めちゃったの。
『推奨! 胎児の脳シナプス形成期に合わせ、市場原理と構造力学の基礎データを音声入力すべきです。帝王学は早期教育が必須!』
イリスちゃんが難しいグラフを出せば、デメテルさんも負けじと対抗する。
『いいえ! 情操教育よ! まずは1/fの揺らぎを含んだ楽曲……いえ、森のせせらぎと、植物の育て方を教えるべきだわ! 優しい子に育つのよ!』
二人の古代知性体が、お腹に向かって別々のデータを流そうとするから、レヴィちゃんがブチ切れちゃった。
「うるさいですわね! この子にはまず『プロレス名鑑』と『筋肉番付』を読み聞かせなさい! 受け身が取れない子になったらどうしますの!」
……うん、どれも極端すぎるよ。
横でアレクさんが絵本を持って待機してたけど、出番がなくてしょんぼりしてた。かわいそうに。
気を取り直して、診察再開。ふと思いついて聞いてみたの。「ねえ、レヴィちゃん、アレクさん。男の子か女の子か、知りたい?」って。
レヴィちゃんは即答。「ええ、教えてちょうだい。先々の準備もあるし、教育方針の構築にも関わりますもの。知っておくに越したことはありませんわ」。き、きっぱりしてるなぁ……。
で、アレクさんはどうかなって見たら、優しくレヴィちゃんの肩を抱いてこう言ったの。「産むのも、その苦しみを背負うのも妻なのだから、彼女の方針に従うよ。……それに、どちらであっても、私たちの宝物であることに変わりはないからね」
うーん、合理的というか、愛が深いというか……。やっぱりこの二人、似た者夫婦なんだなーって感じたよ。
というわけで、魔法でチェック! 結果は……うん、間違いなし。「元気な女の子だよ!」って伝えたら、レヴィちゃんは「あら、わたくし似のお転婆かもしれませんわね」って笑って、アレクさんは「……娘か。お嫁にはやらんぞ」って早くも親バカ発言してた。気が早いよアレクさん!
あと、イリスちゃんが横からとんでもない補足をしてきた。
『エコー解析完了。……筋肉量および骨密度、計測不能(エラー)。ただし、大腿四頭筋の発達具合から見て、キック力は既に一般成人男性を凌駕しています』
「ふふ、活発な子ですわね」って喜ぶレヴィちゃん。「……この蹴りの鋭さ、やっぱり女の子だね」って確信するアレクさん。
アレクさん曰く、昔レヴィちゃんに殴られた時の「骨の芯に響く感覚」に似てるんだって。……それ、本当に女の子の基準なのかな?
◆◆◆
【記録3:妊娠八ヶ月目 ~食欲という名の災害~】
【星暦1036年 8月10日】
●レヴィーネの日記
安定期に入りました。体調はすこぶる良好。
以前よりも、体の奥底から力が湧いてくるのを感じます。これが「母になる」ということでしょうか? それとも、お腹の子がわたくしの魔力を吸ってドーピングしているのでしょうか? どちらにせよ、素晴らしいことですわ。
ただ、一つ問題が。……お腹が、空くのです。
昨夜は無性に「トヨノクニの焼き芋」が食べたくなりました。今は夏。本来ならあるはずがありません。
ですが、食べたいのです。お腹の子が「母上、焼き芋を所望します」と激しいストンピングで訴えているのですもの。
●ミリアの業務日誌
深夜二時。緊急招集。
レヴィーネ様が「焼き芋」をご所望とのこと。季節外れも甚だしいですが、女帝の勅命(および胎児の要求)は絶対です。
即座にイリスに命じて、大陸中の倉庫を検索。トヨノクニの低温貯蔵庫に「越冬サツマイモ」の在庫を確認しました。
すぐにガンテツさんを叩き起こし、ギエモンさんが開発したばかりの「超高速石焼き芋機(蒸気タービン搭載型)」を起動させ、実験中の高速鉄道を使って5時間でお届けしました。
「……ん! 甘くてねっとりして、最高ですわ!」
その笑顔を見られただけで、徹夜の疲れも吹き飛びます。
……ですが、その直後に「次は塩辛いものが欲しいですわ。具体的には『西方のアンチョビ』を」と言われた時は、少しだけめまいがしました。
●アレクセイのメモ
妻の食欲が凄まじい。ミリアの話では「二人分食べている」とのことだが、あの量は二人分というより、ドラゴン一頭分に近いのではないだろうか。
昨夜、寝言で「……そのドラゴン、丸焼きにしますわ」と呟きながら、私の腕をガブリと噛んできたのは驚いた。
私の腕は非常食ではないのだが……まあ、彼女の歯型なら勲章のようなものか。痛いが、悪くない。
それにしても、腹部が大きくなっても腹筋のラインが消えないのはどういう理屈なのだろうか。美しいが、人体の不思議だ。
◆◆◆
そして、季節は巡り。
窓の外の木々が色づき始めた、秋の夜のこと。
皇城の寝室は、静かな月明かりに包まれていた。
臨月を迎え、大きくせり出したお腹を抱え、ベッドに横たわるわたし。
その傍らには、いつものようにアレクセイが椅子に腰掛け、わたしの手を握っていた。
「……随分と、下がってきましたわね」
わたしは、自分の腹部をさすった。
岩のように硬く、そして温かいその膨らみ。
中には、わたしと彼と、そして神様の祝福を受けた「命」が詰まっている。
「ああ。……もういつ生まれてもおかしくないと、アリスも言っていたよ」
アレクセイは、愛おしそうにわたしのお腹を見つめた。
その瞳は、かつて「氷の皇子」と呼ばれた頃の冷徹さは微塵もなく、ただただ甘く、とろけるような熱を帯びている。
彼はそっと、わたしのお腹に耳を寄せた。
「……聞こえるかい? パパだよ」
アレクセイが、猫なで声で語りかける。
外では冷徹な政治家であり、現場では鬼の監督である彼が、この部屋でだけはただの甘い父親になる。
「早く出ておいで。……君に会えるのを、世界中の誰よりも楽しみにしているんだ」
彼はわたしの膨らみにキスを落とし、うっとりと呟いた。
「ああ……愛しい、僕らの天使ちゃん」
「…………」
その言葉を聞いた瞬間。
わたしの脳裏に、強烈な既視感が走った。
あれは――わたしがまだ、言葉も話せない赤ん坊だった頃。
いいえ、もっと前。光を見る前の、温かい闇の中にいた頃の記憶。
壁の向こうから、甘く、柔らかな声が聞こえていた。
『ああ、イリーザ。……今日も動いたね。なんて愛おしいんだろう』
ヴィータヴェン辺境伯、ユリス。
普段は騎士団を率いる凛々しい父様だが、母様の前ではいつも甘々だった。
彼はわたしのいる場所に向かって、毎日のように頬ずりするように語りかけていたのだ。
『早く会いたいな。……世界一可愛い、ぼくらの天使ちゃん!』
優男風の柔和な顔をさらにデレデレに崩して、花が飛ぶような幻覚が見えるほどの甘い声。
胎内にいたわたしは、そのあまりの親バカっぷりと糖度の高さに、「……うるさいですわね、お父様。安眠妨害ですわ」と呆れ果てて、ドンと壁を蹴ったものだ。
まさか、世界一知的でクールだと思っていた我が夫の口から、同じ台詞を聞くことになるとは。
「……アレク。あなた、キャラが崩壊していますわよ?」
わたしがジト目で指摘すると、彼は平然と顔を上げた。
「崩壊? いいえ、これが正常進化だ。……自分の娘を天使と呼ばずして、何と呼ぶんだい?」
「まあ、そうですけれど……。お父様って、みんなそうなりますの?」
「なるさ。……君のお義父上の気持ちが、今なら痛いほどよく分かるよ」
アレクセイは、幸せそうに微笑んだ。
その笑顔を見ていると、呆れる気持ちよりも、愛おしさの方が勝ってしまう。
きっと母イリーザも同じ気持ちだったのだろう。
「……ふふ。血は争えないわね」
わたしが彼の手を握り返そうとした、その時だった。
ドスッッッ!!!
「ぐっ!?」
わたしのお腹の中から、強烈な「蹴り」が放たれた。
それも、可愛らしい胎動ではない。正確に、耳を当てていたアレクセイの頬骨を狙った、鋭い一撃だ。
「い、痛っ……!」
アレクセイが顔を押さえて仰け反る。
「あらあら。……挨拶代わりの右ハイキックかしら?」
「はは……。いい蹴りだ。……骨の芯に響くよ」
アレクセイは、赤く腫れた頬をさすりながら、それでも嬉しそうに笑った。
「間違いなく、君の子だ。……強くて、元気な女の子だ」
「ええ。……私も昔、父様に同じことをしましたもの」
わたしはお腹を撫でた。
内側から返ってくる、力強い反応。
それは、かつて病室の天井を見上げ、死に怯えていた「鷹乃」には決して手に入らなかった、圧倒的な生命力の証明だった。
◆◆◆
その数日後。
運命の時は、唐突に訪れた。
「――っ!! き、来ましたわ!!」
深夜の皇城に、わたしの叫びが響いた。
破水。そして、襲い来る陣痛。
「レヴィーネ様!? 準備! 準備を!」
「お湯! 清潔な布! それと『予備のベッド』を!!」
ミリアが叫び、アリスが走り回る。
皇城の奥に設けられた分娩室は、一瞬にして戦場と化した。
その分娩室の扉の外、廊下の待合スペースには、そうそうたる面々が集結していた。
「うおおおお! まだか! まだ生まれんのか!!」
廊下を行ったり来たりしているのは、豪快な筋肉の塊、わたしの祖父マラグだ。
北の辺境から、蒸気機関車を乗り継いで駆けつけたらしい。
「お祖父様、落ち着いてください。……義兄上が気を失いそうです」
マラグをなだめているのは、わたしの弟、ソレン。
まだ十代前半だが、大陸横断工事で鍛え上げられた体躯は大人顔負けだ。
彼は丁寧な口調で、しかしわたしの弟らしく堂々としていた。
その視線の先には、顔面蒼白で壁に手をついているアレクセイがいる。
「……大丈夫だ、ソレン。私は……大丈夫だ」
「義兄上、足が震えてますよ。……僕が支えましょうか?」
「カッカッカ! 情けないぞアレクセイ! 腹を据えんか!」
そして、マラグの背中をバシバシと叩きながら笑っているのは、派手な南蛮マントを羽織った男。
トヨノクニの天下人、オダ・ノブナガだ。
「まさかノブナガ様までいらっしゃるとは……」
ソレンが呆れたように呟く。
「当たり前よ! わが娘同然のレヴィーネの一大事ぞ? 新しく開通した『超特急』に乗ってくれば、トヨノクニから一日じゃ!」
ノブナガは扇子をパチリと鳴らした。
大陸横断鉄道の開通により、世界の距離は劇的に縮まっていた。
「それにしても……」
ノブナガが懐から硬貨を取り出し、ニヤリと笑った。
「賭けといこうではないか。……生まれてくる赤子が、最初に何を『掴む』か。余は『扇子』に賭けるぞ」
「ガハハ! ワシは『ダンベル』じゃ!」
マラグが即答する。ソレンは少し考えてから、真面目な顔で言った。
「僕は『ツルハシ』だと思います。義兄上との思い出の品ですから」
男たちが馬鹿な賭けに興じる中、中からは、「ひぃぃぃー!」「ふぅぅぅー!」という呼吸音と共に、何かが破壊される音が断続的に響いていた。
◆◆◆
「……っ、ぐうぅッ!!」
わたしは分娩台の上で、襲い来る痛みと戦っていた。
痛い。
骨盤が砕けそうなほど痛い。
数々の魔獣と戦い、神様とプロレスをしてきたわたしだが、この痛みは種類が違う。
「レヴィちゃん! 頑張って! 痛みを和らげる魔法、かける!?」
アリスが涙目で杖を構える。
だが、わたしは脂汗を流しながら首を横に振った。
「い、いらないわ……! この痛みは……この子が生きようとしている証拠……! わたしが、受け止めなくて、どうするのッ!!」
「レヴィちゃん……!」
「それに……こんな痛み、スクワット一万回に比べれば……屁でもありませんわぁぁぁッ!!」
わたしは分娩台の手すり(特注のミスリル合金製)を握りしめた。
メキメキメキッ……!
「ひぃぃッ!? レヴィーネ様、手すりが! 手すりが飴細工みたいに!」
ミリアが悲鳴を上げる。
「吸って! 吐いて! ……いきんで!!」
産婆のエルフの声に合わせて、わたしは全身全霊の力を込める。
腹筋。背筋。そして、括約筋。
鍛え上げた全ての筋肉を総動員し、新しい命を世界へと押し出す。
「ぬおおおおおおおおおッッ!!!」
ドゴォォォォンッ!!
わたしが力を込めた瞬間、衝撃波が走り、分娩室の窓ガラスが全て砕け散った。
「わああああ! 結界! 結界張って!!」
「建物が持たない! ヒデヨシさん、補強を!!」
ミリアがインカムで指示を飛ばし、屋外で待機していた黒鉄組が、建物の壁を支えるために殺到する。
前代未聞の、物理破壊を伴う出産。
そして。
「オギャアアアアアアアアアアアアッッ!!!!!」
世界を震わせるような、力強い産声が響き渡った。
「う、生まれた……!」
「元気な……女の子です!」
産婆が抱き上げた赤ん坊は、血色良く、そしてへその緒がついたまま空中で手足をバタつかせ、まるで「受け身」を取るかのような動きを見せた。
「……はぁ、はぁ……」
わたしは全身の力が抜けるのを感じながら、その小さな塊を見つめた。
わたしの、子供。
わたしとアレクセイの、新しい物語。
◆◆◆
処置を終え、綺麗になった赤ん坊が、ベビーベッドに寝かされた。
まだ目は開いていないけれど、握りしめた小さな拳は力強く、肌は透き通るように白い。
部屋の隅で、アリスがそっと、誰にも気づかれないようにベビーベッドに近づいた。
彼女は――「境界の存在」となり、不老の時を生きることになったわたしの親友は、赤ん坊の額にそっとキスを落とした。
「……はじめまして、赤ちゃん」
アリスは、ささやくような、けれど祈りのような声で言った。
「私はアリスおばちゃん……ううん、これからずっと、君と君の子孫を守り続ける『守り神』だよ」
彼女の指先から、淡い翠色の光が溢れ出し、赤ん坊を包み込む。
『ゆりかごの加護』。
どんな病も、怪我も弾く、最強の結界魔法。
「ようこそ、世界へ。……君の未来は、私が絶対に守るからね」
その誓いは、誰にも聞こえなかったかもしれない。
けれど、赤ん坊は安らかな寝息で、それに応えたように見えた。
「……よく頑張ったね、レヴィーネ」
分娩室に入ってきたアレクセイが、わたしの汗を拭いながら、震える声で言った。
彼の目には、涙が溢れている。
「ええ。……あなたも、お疲れ様」
わたしは、腕の中に戻された小さな命を見下ろした。
温かい。重い。
これが、命の重さ。
「……名前は、決めているんだろう?」
アレクセイが優しく尋ねた。
わたしは頷き、窓の外を見た。
雨上がりの空に、大きな虹がかかっている。
空と大地を繋ぐ、七色の橋。
わたしは思い出す。
かつて、わたしが実家に戻った時に出会った、病弱な少年。
わたしと同じように病に苦しみ、けれどわたしよりも早く、この世を去ってしまった「魂の兄弟」。
――ノア。
彼が生きられなかった未来。彼が見たかった世界。
それを、この子は全部背負って、健康な足で駆け抜けていくのだ。
過去と未来を繋ぐ。
人と人を繋ぐ。
わたしたちが作った「道」のように。
「……ええ。『エレノア』。……愛称は『ノア』」
わたしは、赤ん坊の頬に指を触れ、言霊を込めるように告げた。
「古代の言葉で、『光』や『松明』を意味する名。……そして、虹の架け橋の名を継ぐ子」
「エレノア……。いい名前だ。強くて、優しい響きだ」
アレクセイが、赤ん坊の手をそっと握る。
「ようこそ、エレノア。……この世界は、美味しくて、騒がしくて、最高に退屈しない場所よ」
わたしが語りかけると、赤ん坊――ノアは、まるで言葉を理解したかのように、ニカっと口を開けて笑った。
そして、わたしの人差し指を、その小さな手でギュッと握りしめた。
ギリギリギリ……。
「……っ」
指の骨がきしむほどの、強い力。
新生児とは思えない、圧倒的な握力だ。
あの神様が残していった「健やかに」という祝福が、遺憾なく発揮されている。
「……ふふ。握力も合格点ね」
わたしは痛みを堪えながら、心からの笑顔を浮かべた。
この握力なら大丈夫。
どんな運命も、どんな食材も、その手でしっかりと掴み取れるはずだ。
「おめでとう、レヴィちゃん!」
「おめでとうございます、レヴィーネ様!」
アリスとミリアが、涙ぐみながら覗き込んでくる。
扉の隙間からは、ソレンやノブナガ、マラグおじいさまたちが、我先にと中に入ろうとして揉み合っているのが見える。
「おおお! ワシのひ孫か! 筋肉はあるか!?」
「マラグ殿、押さないでくれ! 余が先に顔を見るのじゃ!」
「二人とも静かにしてください! 姉上がお疲れなんですから!」
彼らは赤ん坊の手を見て、一様に顔を見合わせた。
扇子でも、ダンベルでも、ツルハシでもない。
彼女が握りしめていたのは――「母親の指(最強の筋肉)」だった。
「……あ、素手か……」
全員が妙に納得した顔をして、賭けは引き分けとなったようだ。
騒がしくて、愛おしい仲間たち。
わたしの「悪役令嬢」としての物語は、ここで幕を下ろす。
けれど、これからは「母親」としての、もっと激しく、もっと楽しい物語が始まるのだ。
「さあ、ノア。……ご飯の時間よ」
わたしは、世界一幸せな重みを抱きしめた。
空には虹。
大地には道。
そして腕の中には、希望。
わたしたちの「大団円」は、ここからまた、新しい色で描かれていく。
ヴィータヴェン・アクシス連邦皇国の皇都アクシスに、激震が走った。
それは、西の国境にドラゴンが現れた時よりも、大断裂帯が埋まった時よりも、遥かに衝撃的なニュースだった。
――初代女帝レヴィーネ・ヴィータヴェン、懐妊。
その報せは、敷設されたばかりの電信網と鉄道に乗って、瞬く間に大陸中を駆け巡った。
東の帝国では皇帝が祝砲を撃ち上げ、トヨノクニではノブナガが「めでたい! 今日は無礼講じゃ!」と城下で餅を撒き、エルフの里では大世界樹が一斉に季節外れの花を咲かせたという。
世界中が祝福ムードに包まれる中、当事者たちがいる皇城の奥深くでは、感動とは少し違う、物理的な「戦い」の日々が始まっていたのである。
◆◆◆
【記録1:妊娠三ヶ月目 ~つわりは気合いで治りません~】
【星暦1036年 3月15日】
●ミリアの業務日誌
本日午前八時。レヴィーネ様が顔面蒼白のまま「現場に行く」と言ってドレスに着替えようとされたため、全力で阻止しました。
「ただの状態異常よ! 動けば治りますわ!」と主張されていましたが、つわりは筋肉痛とは違います。アリスさんと二人がかりでベッドに縛り付け(比喩ではなく物理的な拘束魔術を使用)、ようやく静止させることに成功。
……ですが、レヴィーネ様が安静にしていると、逆に城が揺れるほどの殺気が漏れ出します。
午後二時。緊急オーダー発生。
ベッドの上のレヴィーネ様が、虚ろな目で「……酸っぱいものが食べたいですわ。具体的には、サン・ルーチャの完熟レモンと、トヨノクニの三年熟成梅干しを。『同時に』今すぐ」と仰いました。
無茶苦茶です。大陸の西の果てと、東の果ての特産品を同時に所望されるとは。
ですが、これは宰相としての腕の見せ所です。即座に「黒鋼大回廊」の緊急ラインを確保。西からはリョウマさんの高速船と特別列車でレモンを、東からはヒデヨシさんの魔導デコトラ便で梅干しを、それぞれ最高速で輸送させました。さらに、中央駅で合流させたそれらを、アリスさんが開発した「保冷転移ポッド」で皇城へ直送。所要時間、わずか6時間。
「……ん! 酸っぱい! でも、悪くありませんわ!」
レヴィーネ様のご機嫌が直りました。酸味のある果実の確保を最優先事項(Sランク任務)として、商会全支店に通達します。
なお、つわり中も書類仕事の速度は落ちていません。恐ろしい方です。
●レヴィーネの日記
体調に異変あり。朝起きると、世界が回っているような感覚と、胃の腑から込み上げる不快感。これが「悪阻」と呼ばれる生理現象だそうですわ。
ですが、解せません。わたくしの鍛え上げられた腹筋と内臓が、これしきのことで悲鳴を上げるとは。
……認めません。これは「自分との戦い」です。吐き気? 飲み込めば栄養になりますわ!
とは言え、ミリアとアリスがうるさいので、今日は大人しく執務室でダンベル運動程度に留めておきます。
●アレクセイのメモ
妻が苦しんでいる。代わってやりたいが、こればかりはどうすることもできない。無力だ。
せめてもの気晴らしになればと、彼女の枕元で、溜まっていた「西方諸国との関税条約に関する草案(全200ページ)」を読み聞かせたところ、五分でスヤスヤと眠ってしまった。
……どうやら私の声と、難解な政治課題が、一番の子守唄になるらしい。
少し複雑だが、彼女の寝顔は天使のようだ。いや、女神か。
◆◆◆
【記録2:妊娠五ヶ月目 ~英才教育と筋肉占い~】
【星暦1036年 5月20日】
●アリスの日記
今日はレヴィちゃんの定期検診の日! 私、農林水産大臣だけど、一応元聖女だからね。この世界にはエコーとかはないけど、光魔法で赤ちゃんの様子は見られるんだよ。
診察を始めようとしたら、突然スマホとタブレットから、イリスちゃんとデメテルさんがホログラムで飛び出してきて、大喧嘩を始めちゃったの。
『推奨! 胎児の脳シナプス形成期に合わせ、市場原理と構造力学の基礎データを音声入力すべきです。帝王学は早期教育が必須!』
イリスちゃんが難しいグラフを出せば、デメテルさんも負けじと対抗する。
『いいえ! 情操教育よ! まずは1/fの揺らぎを含んだ楽曲……いえ、森のせせらぎと、植物の育て方を教えるべきだわ! 優しい子に育つのよ!』
二人の古代知性体が、お腹に向かって別々のデータを流そうとするから、レヴィちゃんがブチ切れちゃった。
「うるさいですわね! この子にはまず『プロレス名鑑』と『筋肉番付』を読み聞かせなさい! 受け身が取れない子になったらどうしますの!」
……うん、どれも極端すぎるよ。
横でアレクさんが絵本を持って待機してたけど、出番がなくてしょんぼりしてた。かわいそうに。
気を取り直して、診察再開。ふと思いついて聞いてみたの。「ねえ、レヴィちゃん、アレクさん。男の子か女の子か、知りたい?」って。
レヴィちゃんは即答。「ええ、教えてちょうだい。先々の準備もあるし、教育方針の構築にも関わりますもの。知っておくに越したことはありませんわ」。き、きっぱりしてるなぁ……。
で、アレクさんはどうかなって見たら、優しくレヴィちゃんの肩を抱いてこう言ったの。「産むのも、その苦しみを背負うのも妻なのだから、彼女の方針に従うよ。……それに、どちらであっても、私たちの宝物であることに変わりはないからね」
うーん、合理的というか、愛が深いというか……。やっぱりこの二人、似た者夫婦なんだなーって感じたよ。
というわけで、魔法でチェック! 結果は……うん、間違いなし。「元気な女の子だよ!」って伝えたら、レヴィちゃんは「あら、わたくし似のお転婆かもしれませんわね」って笑って、アレクさんは「……娘か。お嫁にはやらんぞ」って早くも親バカ発言してた。気が早いよアレクさん!
あと、イリスちゃんが横からとんでもない補足をしてきた。
『エコー解析完了。……筋肉量および骨密度、計測不能(エラー)。ただし、大腿四頭筋の発達具合から見て、キック力は既に一般成人男性を凌駕しています』
「ふふ、活発な子ですわね」って喜ぶレヴィちゃん。「……この蹴りの鋭さ、やっぱり女の子だね」って確信するアレクさん。
アレクさん曰く、昔レヴィちゃんに殴られた時の「骨の芯に響く感覚」に似てるんだって。……それ、本当に女の子の基準なのかな?
◆◆◆
【記録3:妊娠八ヶ月目 ~食欲という名の災害~】
【星暦1036年 8月10日】
●レヴィーネの日記
安定期に入りました。体調はすこぶる良好。
以前よりも、体の奥底から力が湧いてくるのを感じます。これが「母になる」ということでしょうか? それとも、お腹の子がわたくしの魔力を吸ってドーピングしているのでしょうか? どちらにせよ、素晴らしいことですわ。
ただ、一つ問題が。……お腹が、空くのです。
昨夜は無性に「トヨノクニの焼き芋」が食べたくなりました。今は夏。本来ならあるはずがありません。
ですが、食べたいのです。お腹の子が「母上、焼き芋を所望します」と激しいストンピングで訴えているのですもの。
●ミリアの業務日誌
深夜二時。緊急招集。
レヴィーネ様が「焼き芋」をご所望とのこと。季節外れも甚だしいですが、女帝の勅命(および胎児の要求)は絶対です。
即座にイリスに命じて、大陸中の倉庫を検索。トヨノクニの低温貯蔵庫に「越冬サツマイモ」の在庫を確認しました。
すぐにガンテツさんを叩き起こし、ギエモンさんが開発したばかりの「超高速石焼き芋機(蒸気タービン搭載型)」を起動させ、実験中の高速鉄道を使って5時間でお届けしました。
「……ん! 甘くてねっとりして、最高ですわ!」
その笑顔を見られただけで、徹夜の疲れも吹き飛びます。
……ですが、その直後に「次は塩辛いものが欲しいですわ。具体的には『西方のアンチョビ』を」と言われた時は、少しだけめまいがしました。
●アレクセイのメモ
妻の食欲が凄まじい。ミリアの話では「二人分食べている」とのことだが、あの量は二人分というより、ドラゴン一頭分に近いのではないだろうか。
昨夜、寝言で「……そのドラゴン、丸焼きにしますわ」と呟きながら、私の腕をガブリと噛んできたのは驚いた。
私の腕は非常食ではないのだが……まあ、彼女の歯型なら勲章のようなものか。痛いが、悪くない。
それにしても、腹部が大きくなっても腹筋のラインが消えないのはどういう理屈なのだろうか。美しいが、人体の不思議だ。
◆◆◆
そして、季節は巡り。
窓の外の木々が色づき始めた、秋の夜のこと。
皇城の寝室は、静かな月明かりに包まれていた。
臨月を迎え、大きくせり出したお腹を抱え、ベッドに横たわるわたし。
その傍らには、いつものようにアレクセイが椅子に腰掛け、わたしの手を握っていた。
「……随分と、下がってきましたわね」
わたしは、自分の腹部をさすった。
岩のように硬く、そして温かいその膨らみ。
中には、わたしと彼と、そして神様の祝福を受けた「命」が詰まっている。
「ああ。……もういつ生まれてもおかしくないと、アリスも言っていたよ」
アレクセイは、愛おしそうにわたしのお腹を見つめた。
その瞳は、かつて「氷の皇子」と呼ばれた頃の冷徹さは微塵もなく、ただただ甘く、とろけるような熱を帯びている。
彼はそっと、わたしのお腹に耳を寄せた。
「……聞こえるかい? パパだよ」
アレクセイが、猫なで声で語りかける。
外では冷徹な政治家であり、現場では鬼の監督である彼が、この部屋でだけはただの甘い父親になる。
「早く出ておいで。……君に会えるのを、世界中の誰よりも楽しみにしているんだ」
彼はわたしの膨らみにキスを落とし、うっとりと呟いた。
「ああ……愛しい、僕らの天使ちゃん」
「…………」
その言葉を聞いた瞬間。
わたしの脳裏に、強烈な既視感が走った。
あれは――わたしがまだ、言葉も話せない赤ん坊だった頃。
いいえ、もっと前。光を見る前の、温かい闇の中にいた頃の記憶。
壁の向こうから、甘く、柔らかな声が聞こえていた。
『ああ、イリーザ。……今日も動いたね。なんて愛おしいんだろう』
ヴィータヴェン辺境伯、ユリス。
普段は騎士団を率いる凛々しい父様だが、母様の前ではいつも甘々だった。
彼はわたしのいる場所に向かって、毎日のように頬ずりするように語りかけていたのだ。
『早く会いたいな。……世界一可愛い、ぼくらの天使ちゃん!』
優男風の柔和な顔をさらにデレデレに崩して、花が飛ぶような幻覚が見えるほどの甘い声。
胎内にいたわたしは、そのあまりの親バカっぷりと糖度の高さに、「……うるさいですわね、お父様。安眠妨害ですわ」と呆れ果てて、ドンと壁を蹴ったものだ。
まさか、世界一知的でクールだと思っていた我が夫の口から、同じ台詞を聞くことになるとは。
「……アレク。あなた、キャラが崩壊していますわよ?」
わたしがジト目で指摘すると、彼は平然と顔を上げた。
「崩壊? いいえ、これが正常進化だ。……自分の娘を天使と呼ばずして、何と呼ぶんだい?」
「まあ、そうですけれど……。お父様って、みんなそうなりますの?」
「なるさ。……君のお義父上の気持ちが、今なら痛いほどよく分かるよ」
アレクセイは、幸せそうに微笑んだ。
その笑顔を見ていると、呆れる気持ちよりも、愛おしさの方が勝ってしまう。
きっと母イリーザも同じ気持ちだったのだろう。
「……ふふ。血は争えないわね」
わたしが彼の手を握り返そうとした、その時だった。
ドスッッッ!!!
「ぐっ!?」
わたしのお腹の中から、強烈な「蹴り」が放たれた。
それも、可愛らしい胎動ではない。正確に、耳を当てていたアレクセイの頬骨を狙った、鋭い一撃だ。
「い、痛っ……!」
アレクセイが顔を押さえて仰け反る。
「あらあら。……挨拶代わりの右ハイキックかしら?」
「はは……。いい蹴りだ。……骨の芯に響くよ」
アレクセイは、赤く腫れた頬をさすりながら、それでも嬉しそうに笑った。
「間違いなく、君の子だ。……強くて、元気な女の子だ」
「ええ。……私も昔、父様に同じことをしましたもの」
わたしはお腹を撫でた。
内側から返ってくる、力強い反応。
それは、かつて病室の天井を見上げ、死に怯えていた「鷹乃」には決して手に入らなかった、圧倒的な生命力の証明だった。
◆◆◆
その数日後。
運命の時は、唐突に訪れた。
「――っ!! き、来ましたわ!!」
深夜の皇城に、わたしの叫びが響いた。
破水。そして、襲い来る陣痛。
「レヴィーネ様!? 準備! 準備を!」
「お湯! 清潔な布! それと『予備のベッド』を!!」
ミリアが叫び、アリスが走り回る。
皇城の奥に設けられた分娩室は、一瞬にして戦場と化した。
その分娩室の扉の外、廊下の待合スペースには、そうそうたる面々が集結していた。
「うおおおお! まだか! まだ生まれんのか!!」
廊下を行ったり来たりしているのは、豪快な筋肉の塊、わたしの祖父マラグだ。
北の辺境から、蒸気機関車を乗り継いで駆けつけたらしい。
「お祖父様、落ち着いてください。……義兄上が気を失いそうです」
マラグをなだめているのは、わたしの弟、ソレン。
まだ十代前半だが、大陸横断工事で鍛え上げられた体躯は大人顔負けだ。
彼は丁寧な口調で、しかしわたしの弟らしく堂々としていた。
その視線の先には、顔面蒼白で壁に手をついているアレクセイがいる。
「……大丈夫だ、ソレン。私は……大丈夫だ」
「義兄上、足が震えてますよ。……僕が支えましょうか?」
「カッカッカ! 情けないぞアレクセイ! 腹を据えんか!」
そして、マラグの背中をバシバシと叩きながら笑っているのは、派手な南蛮マントを羽織った男。
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「まさかノブナガ様までいらっしゃるとは……」
ソレンが呆れたように呟く。
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ノブナガは扇子をパチリと鳴らした。
大陸横断鉄道の開通により、世界の距離は劇的に縮まっていた。
「それにしても……」
ノブナガが懐から硬貨を取り出し、ニヤリと笑った。
「賭けといこうではないか。……生まれてくる赤子が、最初に何を『掴む』か。余は『扇子』に賭けるぞ」
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◆◆◆
「……っ、ぐうぅッ!!」
わたしは分娩台の上で、襲い来る痛みと戦っていた。
痛い。
骨盤が砕けそうなほど痛い。
数々の魔獣と戦い、神様とプロレスをしてきたわたしだが、この痛みは種類が違う。
「レヴィちゃん! 頑張って! 痛みを和らげる魔法、かける!?」
アリスが涙目で杖を構える。
だが、わたしは脂汗を流しながら首を横に振った。
「い、いらないわ……! この痛みは……この子が生きようとしている証拠……! わたしが、受け止めなくて、どうするのッ!!」
「レヴィちゃん……!」
「それに……こんな痛み、スクワット一万回に比べれば……屁でもありませんわぁぁぁッ!!」
わたしは分娩台の手すり(特注のミスリル合金製)を握りしめた。
メキメキメキッ……!
「ひぃぃッ!? レヴィーネ様、手すりが! 手すりが飴細工みたいに!」
ミリアが悲鳴を上げる。
「吸って! 吐いて! ……いきんで!!」
産婆のエルフの声に合わせて、わたしは全身全霊の力を込める。
腹筋。背筋。そして、括約筋。
鍛え上げた全ての筋肉を総動員し、新しい命を世界へと押し出す。
「ぬおおおおおおおおおッッ!!!」
ドゴォォォォンッ!!
わたしが力を込めた瞬間、衝撃波が走り、分娩室の窓ガラスが全て砕け散った。
「わああああ! 結界! 結界張って!!」
「建物が持たない! ヒデヨシさん、補強を!!」
ミリアがインカムで指示を飛ばし、屋外で待機していた黒鉄組が、建物の壁を支えるために殺到する。
前代未聞の、物理破壊を伴う出産。
そして。
「オギャアアアアアアアアアアアアッッ!!!!!」
世界を震わせるような、力強い産声が響き渡った。
「う、生まれた……!」
「元気な……女の子です!」
産婆が抱き上げた赤ん坊は、血色良く、そしてへその緒がついたまま空中で手足をバタつかせ、まるで「受け身」を取るかのような動きを見せた。
「……はぁ、はぁ……」
わたしは全身の力が抜けるのを感じながら、その小さな塊を見つめた。
わたしの、子供。
わたしとアレクセイの、新しい物語。
◆◆◆
処置を終え、綺麗になった赤ん坊が、ベビーベッドに寝かされた。
まだ目は開いていないけれど、握りしめた小さな拳は力強く、肌は透き通るように白い。
部屋の隅で、アリスがそっと、誰にも気づかれないようにベビーベッドに近づいた。
彼女は――「境界の存在」となり、不老の時を生きることになったわたしの親友は、赤ん坊の額にそっとキスを落とした。
「……はじめまして、赤ちゃん」
アリスは、ささやくような、けれど祈りのような声で言った。
「私はアリスおばちゃん……ううん、これからずっと、君と君の子孫を守り続ける『守り神』だよ」
彼女の指先から、淡い翠色の光が溢れ出し、赤ん坊を包み込む。
『ゆりかごの加護』。
どんな病も、怪我も弾く、最強の結界魔法。
「ようこそ、世界へ。……君の未来は、私が絶対に守るからね」
その誓いは、誰にも聞こえなかったかもしれない。
けれど、赤ん坊は安らかな寝息で、それに応えたように見えた。
「……よく頑張ったね、レヴィーネ」
分娩室に入ってきたアレクセイが、わたしの汗を拭いながら、震える声で言った。
彼の目には、涙が溢れている。
「ええ。……あなたも、お疲れ様」
わたしは、腕の中に戻された小さな命を見下ろした。
温かい。重い。
これが、命の重さ。
「……名前は、決めているんだろう?」
アレクセイが優しく尋ねた。
わたしは頷き、窓の外を見た。
雨上がりの空に、大きな虹がかかっている。
空と大地を繋ぐ、七色の橋。
わたしは思い出す。
かつて、わたしが実家に戻った時に出会った、病弱な少年。
わたしと同じように病に苦しみ、けれどわたしよりも早く、この世を去ってしまった「魂の兄弟」。
――ノア。
彼が生きられなかった未来。彼が見たかった世界。
それを、この子は全部背負って、健康な足で駆け抜けていくのだ。
過去と未来を繋ぐ。
人と人を繋ぐ。
わたしたちが作った「道」のように。
「……ええ。『エレノア』。……愛称は『ノア』」
わたしは、赤ん坊の頬に指を触れ、言霊を込めるように告げた。
「古代の言葉で、『光』や『松明』を意味する名。……そして、虹の架け橋の名を継ぐ子」
「エレノア……。いい名前だ。強くて、優しい響きだ」
アレクセイが、赤ん坊の手をそっと握る。
「ようこそ、エレノア。……この世界は、美味しくて、騒がしくて、最高に退屈しない場所よ」
わたしが語りかけると、赤ん坊――ノアは、まるで言葉を理解したかのように、ニカっと口を開けて笑った。
そして、わたしの人差し指を、その小さな手でギュッと握りしめた。
ギリギリギリ……。
「……っ」
指の骨がきしむほどの、強い力。
新生児とは思えない、圧倒的な握力だ。
あの神様が残していった「健やかに」という祝福が、遺憾なく発揮されている。
「……ふふ。握力も合格点ね」
わたしは痛みを堪えながら、心からの笑顔を浮かべた。
この握力なら大丈夫。
どんな運命も、どんな食材も、その手でしっかりと掴み取れるはずだ。
「おめでとう、レヴィちゃん!」
「おめでとうございます、レヴィーネ様!」
アリスとミリアが、涙ぐみながら覗き込んでくる。
扉の隙間からは、ソレンやノブナガ、マラグおじいさまたちが、我先にと中に入ろうとして揉み合っているのが見える。
「おおお! ワシのひ孫か! 筋肉はあるか!?」
「マラグ殿、押さないでくれ! 余が先に顔を見るのじゃ!」
「二人とも静かにしてください! 姉上がお疲れなんですから!」
彼らは赤ん坊の手を見て、一様に顔を見合わせた。
扇子でも、ダンベルでも、ツルハシでもない。
彼女が握りしめていたのは――「母親の指(最強の筋肉)」だった。
「……あ、素手か……」
全員が妙に納得した顔をして、賭けは引き分けとなったようだ。
騒がしくて、愛おしい仲間たち。
わたしの「悪役令嬢」としての物語は、ここで幕を下ろす。
けれど、これからは「母親」としての、もっと激しく、もっと楽しい物語が始まるのだ。
「さあ、ノア。……ご飯の時間よ」
わたしは、世界一幸せな重みを抱きしめた。
空には虹。
大地には道。
そして腕の中には、希望。
わたしたちの「大団円」は、ここからまた、新しい色で描かれていく。
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