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一話

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まだ、冬の冷たい風が吹く中、陽射しだけは、春の暖かさを帯び始めた四月のある夜。
自室でパソコンに向い、仕事をしていると、急に息苦しくなり、左胸が、ドクンと変な脈を打った。
痛みに、胸を押さえながら、背中を丸めると、腰を包むように、くっついていた毛玉が顔を上げ、心配そうに、顔を覗き込んだ。
犬のようだが、大型犬よりも一回り大きく、実際は、狼に近い外見をしている。
彼の名前は、斑尾マダラ
そんな斑尾の表情に、小さく笑い、頭を一撫でして、ゆっくり立ち上がると、庭に面している障子を開けた。
煌々と光輝く、紅い満月が、夜空に浮かんでいる。
その月光ヒカリに照らされ、意識が飛んでしまいそうな程、胸の痛みが増し、その場に崩れ落ちたが、両腕を掴まれ、倒れずに済んだ。

「やっと目覚めたか」

聞き覚えのない声に、開きかけた口を閉じ、髪の隙間から声の主を見上げた。
青い髪に、切れ長の目。
筋の通った鼻と弧を描く口元。

「しかし、何とも言えない香りだな」

逆側から聞こえた別の声にも、視線を向ける。
真っ黒の短い髪に、細められた目。
筋の通った鼻と愛想のない面構え。
世間一般的には、イケメンの部類に入るのだろう。
そんな二人が、頭上で話をしているが、その腕を払い除け、背中を向けた。

「おい!!」

声を遮断するように障子を閉め、長座布団に寝転ぶと、斑尾が、毛布を掛ける。

ーありがとうー

ー構わん。それよりも、どうするのだー

ー早い内に印を強めるよー

ーだな。今日は、ゆっくり寝ろー

互いの声を頭に響かせながら、二人だけの静かな会話をし、斑尾の腹に頭を乗せた。
その暖かさに、ゆっくりと、目を閉じて静かに眠った。
早くに両親を亡くし、欠けてしまった愛情を与えるように、その温もりを与える斑尾は、式神であり、アヤかしと呼ばれる存在だ。
この機械文明が、発展した現代で、妖かしの存在は、誰も信じようとしないだろう。
だが、実際、その存在を感じ取れれば、その存在を信じることが出来る。
信じる者は救われる。
人よりも強く、長く生きられる妖かしは、一般的には、とても獰猛で凶暴性が高く、人を襲うとされているが、妖かしの中にも、優しさを持つ者もいる。
斑尾のように、優しき妖かしと出会い、どんな禍にも、負けない心を持てる人の隣には、必ず、その存在がある。
現に、何があっても、斑尾カレは、必ず隣にいる。
互いを信じ、想い合う心があれば、人も、動物も、妖かしも、この世に生きる生命は、その幸福を分かち合うことが出来るようになり、同じように生活することも出来る。
斑尾と一緒に寝ていると、障子越しに太陽の光が、部屋の中を満たした。
その眩しさに、ゆっくりと目を開け、天井を見上げ、昨夜を思い返そうとするが、頭に靄がかかってるように、ぼんやりしている。
目を擦りながら、体を起こし、座ったまま、背伸びをすると、斑尾も、ゆっくりと目を開け、首を上げた。
その頭を優しく撫でると、斑尾は、目を細めた。

ーもう起きるのか?ー

「うん。仕事の資料借りてこなきゃ」

起き上がり、壁に掛かってる浴衣を羽織り、斑尾と並んで、洗面室で顔を洗うと、ふわりと、あの香りが鼻を突いた。
斑尾に差し出されたタオルを受け取り、顔を拭いていると、また香りがした。
手首に鼻を近付けると、甘く熟れた果実のように、惑わし、誘うが如く、その身に秘める欲望の闇を刺激するような、鬱陶しい香りがした。

「相変わらず、イヤな匂い」

ー仕方ない。もう少しの辛抱だー

溜め息をつきながら、玄関の戸を開けると、見知った背中が掃除をしていた。

「おはよう。菜門サイモンさん」

「おはようございます。蓮花レンカさん」

タレ目を隠すように、茶色の長い前髪を揺らし、振り返った菜門は、優しく微笑んで、挨拶をすると、首を傾げられた。

「お出掛けですか?」

「えぇ。散歩ついでに、仕事の資料を借りに行って来ます。それより、ごめんなさい。ウチの事、任せっぱなしで」

住んでいる寺は、父方の祖父母が残した財産モノだ。
高校生の時に、亡くなった祖母の遺言で、全てを引き継ぐ事になったが、何も分からなかった。
菜門は、通いの住職として、この寺を守っているが、その正体は、妖かしであった。

「いいんですよ。僕が、好きでやっているんですから」

「今度、暇な時には手伝うから。じゃ、行ってきます」

「行ってらっしゃい」

手を軽く上げ、菜門と別れ、石段を降りながら、チラリと横目で周りを確認すると、何匹かの悪妖の影が見えた。

ーどうするー

ー様子みでー

斑尾と並び、図書館へと真っ直ぐ向かった。

「人間に鬼が負ける訳ねぇだろ」

「そんなことないもん!!」

「狼は、こんな悪者じゃないよ?」

「でも、ひとをたべちゃうじゃん」

建物の前で斑尾と別れ、目当ての本がある棚に向かう途中、見たことない顔が、近所の子供達と、絵本を広げて、くだらない事を言い合っていた。
鮮やかな赤髪に、鋭い目元。
口元には、小さく八重歯が見える小柄な男。
ウェーブの掛かった群青色の髪。
優しい雰囲気だが、肉食獣のような目元。
小さな顎髭を生やした大柄な男。
二人と大声で話している子供達の中で、絵本を広げる男の子の手元を見つめ、溜め息をついて、騒がしい輪に近付いた。

「絵本にも、色んな話があるから、全部が全部、本当の話だとは、限らないんだよ?」

男の子が隠すように、置いていた本を抜き取ると、子供達は、驚いた顔をし、次第に嬉しそうに笑顔を浮かべた。
だが、本を隠していた男の子は、気まずそうな顔をした。

「れんちゃん…」

「君には、まだ早いと思うけど?」

「よっよめるもん」

「なら、タイトル言ってみ?」

表紙を見せると、男の子は、押し黙り、視線を泳がせて、小さな声で、ボソボソと何か言ったようだった。

「なんだって?」

「わかんない!!」

ぶっ垂れた男の子を見下ろし、溜め息をつくと、隣にいた女の子が聞いてきた。

「ねぇ、れんちゃん。おおかみさんってわるいこだよね?」

赤ずきんの表紙を見せながら、首を傾げる女の子に視線を向け、頬を緩め、その頭を撫でた。

「そうだね。赤ずきんでは、そうかもしれないけど、良い話もあるよ?例えば、毎日、狐と悪さをしてた狼が、病気のお婆さんに出会って、お婆さんが死んじゃった時、大泣きして、それからは、悪さをしなくなったとか」

「へぇ」

大きく頷きながら、目を輝かせる女の子に微笑むと、ぶっ垂れていた男の子が、桃太郎の表紙を見せた。

「これは?」

「桃太郎も同じ。人と仲良くなりたかった赤鬼が、青鬼に手伝ってもらって、仲良くなったけど、青鬼がいなくなってしまって、泣いちゃう話とか」

子供達は、驚きと関心したように、声を上げた。

「ねぇ!もっと、いろんなおはなし、きかせてよ」

「今の仕事が終わったらね」

「いつおわるの?」

「本を隠されなければ、一週間くらいで終わるよ?」

本を振ると、隠すように持っていた男の子は、目尻を下げ、視線を落としてしまった。
その様子に鼻で笑い、頭を乱暴に撫でると、頬を赤くして、困ったような笑顔をした。

「もうやめてよ?」

「は~い!!」

子供達の元気な返事を聞き、困った顔を浮かべながら、壁に掛けてある時計を見上げた。

「お昼になるけど大丈夫?」

時計を見上げた子供達は、慌てたように、バタバタと、本を片付けて、出入口に向かった。

「れんちゃ~ん!!またねぇ~!!」

「ぜったいおしごとおわらせてよね!!ばいば~い!!」

走っていく子供達の背中に、手を振り、背中を向けながら、ずっと黙っている二人に視線を向けた。

図書館ココでは、静かにした方がいいよ?それが、こっちの決まりだから」

驚いたような顔をした二人に、軽く手を上げ、その場から離れると、資料本を探しに、専門書の並ぶ棚に向かった。
背表紙を一つ一つ目で確認し、探していた本を見付け、手を伸ばすと、グラっと棚が揺れ、導かれるように傾いた。
逃げようと腰を落とした時、腕を掴まれ、後ろへと引っ張られ、本棚が完全に倒れた瞬間には、大柄の男の腕の中にいた。

「ふぅ~。危なかったね。大丈夫?」

何も言わないまま、小さく頷くと、知ってる声が聞こえた。

「蓮花さん!!」

視線を向けると、文香フミカが走って来るのが見えた。

「大丈夫ですか!?」

「うん。なんとかね」

周りを見渡し、誰も巻き込まれていないことを確認し、小さく息を吐き出した時、他の職員や館長も走って来た。

「どうされたんですか?」

「さぁ。分かりません」

「館長」

「どうした?」

「これ」

「留め具が壊れたのか」

「でも、この留め具って、先週取り替えたばっかりですよね?」

職員が指差した真新しい留め具は、何か強い力で、引き千切られたようだった。

「とりあえず、片付けよう」

館長の言葉で、倒れた本棚や本の片付けが始まり、近くに落ちていた本を拾い、軽くチリを払い、片付けをしている文香の側に屈み、本を差し出した。

「手伝うよ」

「でも…」

「家に帰っても何もないし。仕事が詰まってる訳でもないから。それに、一人でも多い方がいいでしょ?」

「それじゃ、お願いします」

それから遅くまで、片付けを手伝い、夕暮れが近付いた空に、薄らと月が、その姿を現した。
全てが終わり、外に出た時には、辺りは、完全に真っ暗になっていた。

ー遅かったなー

待ちくたびれたように、寝そべっていた斑尾と並び来た道を戻る。

ー…ってな訳だったのよー

ーその男共は、昨夜の奴らの仲間かもしれないなー

ーそうだと思う。だけど、襲ったのは別だねー

ーしかし…お前は、厄介事を持って来るのが得意だなー

ー私のせいじゃないしー

ーその内、もっと厄介な奴に追われるかもしれんなー

ーこれ以上、厄介なことなんてないでしょ?ー

ー分からんぞ?もしかしたら、求婚を迫られるかもしれんー

「…はぁ!?」

斑尾の言葉で、大声が抜け出ると、通行人の視線が集まり、溜め息をつきながら、頭を乱暴に掻いて、斑尾を睨み付けた。

ー学習したらどうだ?ー

ーうるさい。馬鹿斑尾ー

ーお前に言われる筋合いないわ。阿呆がー

高校生時代。
堂々と声を出し、動物の姿の斑尾や他の妖かし達と話をする光景に、周囲からは、冷たい視線を向けられ、変人扱いされていた時期があった。
人は、他者と違うことをする者を嫌い、排除しようとする。
それまでは、気にする必要がなかった為、対処すること出来ず、孤立してしまった。
人とは、とても冷たく、とても狭い世界でしか生きられない生き物だ。

『なんか、良い方法ないかな?』

『ならば、声を出さなければ良い』

『でも、それじゃ話せないし』

ー別に声を出さずとも話は出来るぞー

『…どうやるの?』

ー意識を繋げれば良いー

『どうやって?』

ーとりあえず、我の目を見ろ。そのまま、言の葉を頭の中に浮かべ、それを相手に渡す感じだー

ー…こう?ー

ーそうだー

頭の中に声を響かせ合う方法を取得し、声を出さずとも、話が出来るようになったが、感情的になってしまうと、声が出てしまう時がある。
斑尾も、それを分かっていて、わざと、声を出させるようなことを言う。
頭では理解はしているのだが、ポロッと抜け出てしまう。
その度に小馬鹿にされ、言い返すと、斑尾も反論をし、醜い言い合いが始まる。
だが、そんな関係であっても、互いをちゃんと理解していれば、苦痛にならない。
それが日常であり、その日常が、心地良いとすら感じられる。
そんな関係を築けると、人と接するよりも、妖かしと接している方が心地良くなってしまう。
斑尾とは、人よりも長く、一緒の生活している為、その関係は、心地良いものであった。
醜い言い合いを続けながらも、互いに笑みを浮かべていると、眩しい光に照らされた。
咄嗟に目を細め、その光が、車のライトであるのを知った時には、衝突まで、あと数メートルの距離しかなかった。
衝撃に備えようとした時、体が、宙に浮くような感覚がし、あの黒髪の男に抱えられていた。
大きな衝突音と通行人の悲鳴が、辺りに響く中、一瞬、黒い翼が視界に入り、その男が、ここへ来た理由を探るように見上げた。

「大丈夫か?」

視線を反らさず頷いた次の瞬間、背中にあった腕の感覚がなくなり、道路に尻餅を着いた。

「ったぁ~…」

「大丈夫ですか?」

数十年ぶりの痛みを和らげるように、腰を擦りながら、背中を丸めると、目の前に、白い手が差し出された。
視線を上げると、見知らぬ男が腰を屈めていた。
銀色の髪。
人当たりの良さそうな優しい目元。
整った鼻に、透き通るような白い肌。
その男の後ろの方には、さっきの車が、大きな雪玉に、突き刺さっているのが見える。
差し出された手を借りる事なく、腰を押さえながら、立ち上がり、浴衣を払ってチリを落とした。
逃げていた斑尾が、借りてきた本を銜えて戻り、その頭を撫で、本を受け取った。

「どうも。それじゃ」

それだけを言い残し、足早に、その場を離れた。

ーかなり深刻な状態だなー

ーそうね。今夜にでも術印を強めなきゃー

ーならば、早く戻るぞー

ーその前に、夕飯の買い物しなきゃー

ーだから、日頃から、自炊くらいしていれば良かったのだ。大体、お前は、女のくせに、どうして、女らしさの欠片もないのだ。お前くらいの年代の女ならば、色気の一つや二つ、あってもいいものを。お前ときたら…ー

敷地内に入れば、なんとでも出来るが、外ではそう上手くいかない。
だが、独り暮らしのような生活の為、寝る時間も、食事の時間も、全てが、バラバラで、完全に不規則になり、日頃から、斑尾には、自炊くらいしろと言われていたが、軽く流していた。

「分かったから!!」

斑尾のお説教に、つい大声が出てしまい、慌てて、周りを見渡し、誰もいないことを確認して、ホッと胸を撫で下ろした。

ー阿呆ー

含み笑する斑尾を睨み、さっさと、コンビニに入ると、パンやおにぎりなどを適当にカゴへ突っ込み、買い物を終わらせた。
他愛ない話をしながらも、足早に歩き、敷地内に入ると、玄関に繋がる石畳の上に、毛玉のようなモノが見え、警戒しながら近付いた。

「…キツネ?」

毛玉のように丸まった姿に呟き、その声に反応した狐は、顔を上げた。

ーどうするー

ーめんどい。放置ー

狐の存在を無視し、横を通り過ぎて、玄関に向かう。

ー蓮花ー

だが、さっきまで、丸まっていた狐は、斑尾の後ろにいた。

ーどうするー

ー放置ー

それでも、無視を決め込み、玄関の戸を開けた時、狐が、足元をすり抜け、家に入ろうとした。

「わぁーーーー!!待て!!」

狐の首根っこを掴み、玄関先に、コンビニ袋を置いてから、下駄箱の上に置いてあったタオルで、その小さな足を拭き、袋の隣に降ろした。

「ホント、めんどくさ」

ー仕方あるまい。今だけだー

斑尾の足を拭き始めると、ガザガサと音をさせながら、狐が、袋に頭を突っ込んで、中身を漁ろうとした。

「あーーもう!!大人しくしてよ」

袋を取り上げ、抱えたまま、早々に、斑尾の足拭きを終わらせ、居間に向かった。
鮭のおにぎりを出して、狐に与えると、あっという間に、食べきってしまった。
いなり寿司と太巻きが、セットになった弁当を蓋を開け、そのまま与えると、必死に太巻きに食いつく。

「ホント、よく食べるわ~」

ー腹が減っていたんだろー

狐が食べ切る前に、立ち上がりながら、思いっきり背伸びをした。

「なんだか疲れたわ。とりあえず、お風呂入ってくる」

ーそうだな。ゆっくりして来いー

居間の襖を開けた時、背中に視線を感じ、振り返ると、弁当にがっついていた狐が、足元に、お座りしていた。

「…なに。一緒入るの?」

じっと狐を見下ろしていると、斑尾は、鼻で小さな溜め息をつき、その首根っこを銜えた。
溜め息をついて、さっさと、風呂場に向かう後を斑尾は、狐を銜えたまま付いてくる。
洗面所で浴衣とジーンズを脱いで、スパッツのまま、ハイネックの袖を捲った。
風呂場のドアを開け、斑尾から狐を受け取り、シャワーを出すと、暴れ始め、首根っこを押さえ付けて、お湯を掛けた。
普段は、動物を手荒に扱うことは、絶対にやらないが、この狐は普通ではない為、多少、手荒に扱っても問題もない。

「暴れないでよ。すぐ終わるから」

石鹸を泡立てて、ゴシゴシと、体を洗い、尻尾に触れようとした瞬間、狐の姿が消え、昨夜の青髪の男が姿を現した。
なんの為に、こんな大人しくしているのかは謎だが、それでも、ここに来た理由は、見当がついていた。
ならばと、早々に面倒事を片付ける為、こんなことをしていたのだ。

「尻尾に触るな!!大体、風呂に入るのに、何故、服を着たままなんだ。しかも、何故、黒なんだ。それでは、下着も何も見えん。俺を誘うなら、もっと、色気を…」

男は、全身に泡を付けたまま、不満を言い始め、このままでは、延々と続きそうだ。
無言で立ち上がり、シャワーを男に向けた。

「何をする!!やめろ!!」

水風呂に、そのまま突っ込んでしまいたかった方が早いのだが、ほんの少しの優しさで、無表情で、シャワーを浴びせた。

「さっさと着替えたら?変態さん」

シャワーを元の位置に戻し、風呂場から出ようとすると、後ろから腕が伸び、力任せにドアを押した。

「何処に行く」

振り返る事も、返事をする事もせず、無理矢理にでも、ドアを開けようと、ノブに手を掛けた。

「本当に色気のない奴だ。密室に男と女が二人きり。ならば、やる事は一つだろう?」

その男の思考に、心底、馬鹿馬鹿しくなり、溜め息をついた。

「それに、人間ごときが、妖かしに勝てるはずないだろ」

ー斑尾!!来い!!ー

大人しくしていれば、人を馬鹿にする言動に、腹が立ち、ドアノブを回しながら、斑尾を呼び寄せ、体をずらすと、外から強い力で、ドアが押し開けられた。
隙間から体を滑り込ませて、風呂場から洗面所に出ると、斑尾は、ドアから離れた。
力任せに、ドアを押し付けていた男は、一人で、風呂場に取り残され、現状を理解しきれていないように、ポカンと立ち尽くしていた。
濡れた手足を拭いていると、驚いた顔をした男が、ドアを開け放った。
視線は感じるが、気にせず、手足を拭き終え、ジーンズを履く。

「早くしたら?」

視線を向けると、男は、ハッと我に返り、余裕の笑みを浮かべて、パチンと指を鳴らした。
次の瞬間には、男は、服を着ていて、得意気な顔をしていた。

「ありがと」

そんなことも、全く気にせず、斑尾に差し出された浴衣を羽織り、居間に向かった。

「何故、驚かないのだ」

一緒になって、洗面所から出てきた男に、苛々しながらも襖を開けた。
そこには、昼間に出会った男達が、ちゃぶ台を囲むようにして座っていた。
その光景に、溜め息をつき、襖の前に座ると、斑尾が、腰を包むように寝そべり、その腹に寄り掛かった。

「それで?誰にするんだ?」

赤髪の男が、何を言いたいのか理解出来ず、首を傾げると、黒髪の男が溜め息をついた。

「誰と契約するのか、聞いてるんだ」

「まだ、なんの説明も受けてませんけど?」

苛々しながらも、溜め息交じりに、嫌味ったらしく返すと、銀髪の男が、青髪の男を睨み付けた。
青髪の男は、肩を竦め、両手を広げて首を振る仕草に、そこにいた男達は、全員で溜め息をついた。

「まぁ、とりあえず、自己紹介するよ。俺らは、全員妖かしで、俺は、人狼族の皇牙オウガ

群青色の髪を揺らしながら、皇牙は、一人一人を指差した。
青髪の男が、妖狐族の季麗キレイ
銀髪の男が、雪人族の雪椰セツヤ
赤髪の男が、鬼族の羅偉ライ
黒髪の男が、天狗族の影千代カゲチヨ

「それで?」

「貴女は、特別な力を持つ人間なんです」

特別な力の意味を履き違えていることに、鼻で笑いそうになったが我慢し、雪椰の話に、わざと首を傾げると、影千代が、溜め息をついてから説明を始めた。
何の因果か、稀に、特別な力を宿した人間が生まれ、その力は、一族の存続をも、揺るがす程であり、多くの妖かしが、その力を欲している。
その為、大昔、妖かしと力を持つ人間との間に、ある契約が交わされた。

「それが、悪妖から血族を守る対価として、一族の繁栄に力を貸す契約ってことですか」

おとぎ話のような説明に、笑いが零れそうになるが、必死に耐えた。
真実も知らず、長年語り継がれていることだけを鵜呑みにして、その力を欲する憐れな妖かしの姿は、滑稽でしかない。

「人間のわりに、理解力があるようだな」

「愚かなだけでもなさそうだな」

「今、理解していても、いざとなると、何も出来ないのが、人間ですよ?」

「そうだよね。人間は、非力だからね」

次々に、人間を馬鹿にする言葉を口にする男達に、腹立つことさえも、馬鹿らしくなり、もうどうでも良くなっていた。
だが、斑尾は、怒りに満ちた目付きになり、顔を上げて、歯を剥き出しにして、今にも唸り出しそうだ。

ーやめときな。疲れるだけだよー

不満な顔をしながら、斑尾は、胡座で座っている膝に顔を乗せ、男達を睨み付けていた。

「まぁ。今すぐ、契約者を選んでもらいたいところだけど、その前に一仕事だ」

羅偉が立ち上がると、他の四人も立ち上がり、妖かしの姿へと変わった時、庭に面した障子が吹き飛び、悪妖達が現れた。

「女!!今日こそは貴様の力を貰う!!覚悟しろ!!」

こちらを指差しながら、叫んだ悪妖に、苦笑いを浮かべ、頬をポリポリと掻いていると、膝に顔を乗せていた斑尾が、鼻で溜め息をついた。

ー更に面倒になったぞー

ーう~ん。そうだねー

ーどうするんだー

五人と悪妖の言い合いが始まり、意識が削がれている。

ー今の内に逃げちゃった方がいいかなー

斑尾が膝から離れると、体が硬直した。

「ちょ…ぅわっ!!」

宙に浮いた体が、庭に投げ出され、二度目の尻餅を着いた。

「ったぁ~…一日二回はキツいよぉ」

腰を擦っていると、背中に気配を感じ、横目で視線を向けた。
悪妖が、ニヤリと、不気味に笑いながら、長く伸びた爪を掲げている。

「のわっと!!」

悪妖の攻撃を避けると、羅偉の刀が振り下ろされ、周りにいた悪妖達を五人が薙ぎ倒す。

「このままでは、死んでしまいますよ?」

「早く契約を結んだ方がいい」

「俺にしとけ」

「こうゆう時は…逃げるが勝ち!!」

悪妖に攻撃しながらも、勝手なことを言い始めた季麗達に、背中を向け、裏山に続く生け垣に向かった。

「あ!待て!!」

「逃すか!!」

後ろから声が聞こえたが、構わずに走り、悪妖達が、次々に目の前に現れたが、フワフワと避け、生け垣まで、もう少しの所まで行き着いた。
だが、最後に目の前に現れたのは、大きな刀を持った悪妖だった。
掲げた刀を振り下ろされたが、ヒラリと避けて、悪妖の肩に、足を乗せると、足首を掴まれた。

「かくごぉ!!」

悪妖の言葉を待たず、その顔面に膝蹴りを喰らわし、頭を足場に、一気に生け垣を超え、暗い裏山の林の中に飛び出した。

「お~い!!」

「何処だ!!出て来い!!」

「蓮花さ~ん!!」

遠くに悪妖や男達の声が聞こえ、菜門の声が近付いてきた。

「…見付かるのも、時間の問題ですね」

「そうね」

「どうするのですか?」

「さぁ?どうしましょう」

木の上で暗闇に紛れ、身を隠している隣には、斑尾と小さな影があった。

「こうゆう時は、囮を使うのが鉄則だ」

「だよねぇ。でも、囮っていっても、誰が行くかが問題かな」

男達と菜門さんの姿が見え、更に、逆側には、悪妖達の姿も見えた。

「さてさて、どうしましょう」

「囮なら、もう決まっている」

「へ?」

斑尾の言葉を理解する前に、隠れていた木の枝が折られ、地面に叩き付けられた。

「っっったぁ~…もう勘弁してよぉ」

その声と大きな音を聞き付け、菜門と雪椰達が、悪妖より先に早く集まった。

「あアハハハ~…」

怒ったような顔付きの雪椰達に向かい、わざとらしい笑い声を出し、引き吊った笑みを浮かべた。

「何やってんだよ!!」

「いや~、何と言いますか。ねぇ?驚いたから、つい?」

羅偉に怒鳴られ、肩を竦めながら、適当に答えると、皇牙が呆れたように首を振った。

「驚いたからって、あんな事したら危ないよ?」

「と言われましてもねぇ」

「お前一人の体じゃないんだぞ」

「…と申しますと?」

「一族の繁栄の為、その身を捧げ、子を成す」

無表情の影千代が、告げた契約内容は、時代錯誤も甚だしい。
守ってもらう為に、体を差し出すなど、いつの時代の話をしてるんだ。

「それってさ…」

「契約を交わした者の子を産む。それが、貴女の役目なんです」

雪椰に断言され、背中に冷や汗が流れた。
今の時代、そんな生贄のような真似をして、生に縋り付く必要もなければ、そんなことをする必要もない。
何を選んだところで、無意味なのだが、五人の気迫に押され、何も言えずにいた。

「さぁ。選んでもらおうか。誰にする」

「えぇっと…誰と言われても、そんな簡単に決めるような事じゃないですし」

完全に鈍ってしまった思考では、並のことしか返せない。

「そんな悠長な事言ってられないんじゃないの?とりあえず、俺にしといたら?」

「俺なら、お前を楽しませてやるぞ?俺にしとけ」

「季麗なんか選んだら、苦労するぞ?俺にしとけ」

「羅偉には、荷が重すぎる。俺と契約すれば、必ず守ってやる」

「私でも構いませんよ?どうしますか?」

焦り過ぎて、上手く太刀振る舞えず、ジリジリと、迫ってくる雪椰達を見上げていると、悪妖達が茂みから飛び出してきた。

「早くしろ!!」

「いっ!イヤーーーーー!!」

悪妖の登場と羅偉の怒鳴り声で、一気に思考が働き、叫びながらも、逃げ出すことに成功した。
その後も、雪椰達や悪妖に追われ、とにかく、林の中を逃げ回り、月が、かなり傾いた真夜中に、やっと自宅に戻ることが出来た。
暗闇の中で、周りに気配がないのを確認し、一気に庭を駆け抜け、部屋の障子に印を描く。
隙間から、淡い小さな光が漏れ出し、落ち着いてから開けると、普段の部屋とは、別の部屋になっているが、迷うことなく、真っ暗な部屋の中に飛び込み、障子を閉めた。

「…遅かったな」

暗闇の中に斑尾の声が響く。
パチンと、指を鳴らすと、部屋の中を蝋燭が灯し、五芒星の掛け軸を飾った床の間には、鏡が置かれ、棚には、巻物や古書が詰め込まれている。
部屋中の物が、ぼんやりと浮かび上がる中、斑尾の姿が現れ、人を馬鹿にしたような顔をしていた。
その腹立つ顔付きに、溜め息をつき、乱暴に頭を掻いた。

「仕方ないでしょう?あっちこっち走り回ったんだから」

斑尾の横を通り過ぎ、棚を漁り始めると、さっき一緒にいた影に加え、三つの小さな影が、クスクスと笑って現れた。

「しかし、蓮花様もよくやる」

「そうだよ。あんなのさっさと追い返せば良かったのに」

「蓮花様って、ホントお人好しだね」

「まぁ。それが、蓮花様の良いところですよ」

「好き勝手言い過ぎ」

巻物を手にして、部屋の真ん中に胡座で座ると、斑尾は鼻で笑った。

「自業自得だ」

「蓮花様って、よく面倒事に巻き込まれるよね?」

「ですね。彼らだけでも、面倒なのに、悪妖まで呼び込んでしまいましたし」

「んな事言われても、悪妖まで、来るなんて思ってなかったし」

「まぁ。何はともあれ。面倒くさがりの蓮花には、これくらいが丁度いいのかもしれんな」

「確かに」

クスクスと笑う斑尾達を睨み、溜め息をつきながら、巻物を広げると、笑い声が消え、静かになった。
手を合わせ、目を閉じ、言の葉に霊を込めて吐き出す。

「我、心髄成る者、この身を以て、その力、我に誘われよ」

徐々に巻物が怪しく輝き、文字だけが抜け出ると、体に巻き付き、溶け込んでいく。

「我が身に焼き付け」

溶け込んだ文字が、強く光輝き、体から漂っていた香りが薄れると、茨のように文字が焼き付いた。
その痕が熱く、疲れも相まって、睡魔が押し寄せてきたが、頭を振って、それを払い除ける。

「大丈夫か?」

近付いた斑尾の頭を撫で、息を吐き出してから、影達に視線を向けた。

「彼らの種族と名前は、分かってるよね?」

頷いた影達に、頼りない笑みを向けた。

「それじゃ、お願いね」

『御意』

影達の気配が消え、天井に視線を向けた。

理苑リオン。結界を強めて。八蜘蛛ヤクモ慈雷夜ジライヤ。彼らを監視して。手は出さないように。いいね?」

蝋燭の火が揺れ、小さく笑ってから、部屋を元に戻し、そのまま、畳の上に寝転んで、天井を見つめた。

「まだ匂うな」

「これ以上、強くするには力が足りない。てか眠い」

「そうか。ゆっくり寝ろ」

斑尾に、毛布を掛けられ、いつものように、その腹に頭を乗せ、静かに目を閉じた。
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