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二話
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次に、目を覚ました時には、病院のベットで寝ていた。
そこは、私の担当医であり、父の大学時代の後輩でもある池谷忍(イケヤシノブ)さんの病院だった。
日頃から、とてもお世話になっている為、多少、怒られることもあるが、この時は、それが比じゃない程、めちゃめちゃ怒られた。
二日前、散歩をしていた人が、私の車を見付け、蓮池に浮かぶ私を発見したらしく、すぐに救急車が呼ばれた。
その時、無意識の中で、救急隊に、病院名を告げたらしく、忍さんのところに運び込まれたらしい。
『あのままだったら、死んでたからな』
忍さんの話で、あれは、夢だったのを知った。
死ぬ間際に、そんな夢を見ていたが、とても恥ずかしかった。
自分の事なのだが、どれだけ、欲求不満なのかとも思った。
その後、スーツ姿の男が、二人で病室を訪れ、警察手帳を見せられ、色々と事情を聞かれた。
翌日には、殺人未遂事件として、ニュースに取り上げられた。
あまり騒がれると、面倒になるから、やめて欲しいかった。
案の定、友人や知人から、メールや電話が来て、病院の前には、ウロウロと、記者が張り付いた。
だが、三日も経てば、メールや電話も落ち着き、記者の姿が消え、そこまで面倒にはならなかった。
平穏な入院生活に戻ると、二日後には、退院出来ると聞かされ、すぐに手続きを始めた。
やっと全てが落ち着き、何気なく、テレビを点けると、犯人が、自首したことを告げていた。
犯人の名前は、大城政樹(オオキマサキ)。
高校時代、共通の友人から紹介され、一回だけ会った事がある人だった。
正直、顔写真を見ても、全く分からなかった。
その程度の存在でしかないのに、何故、突き落とされたのか。
ニュースでは、浮気をされた大城が、衝動的に突き飛ばし、池に落ちたと証言してるらしく、今、警察が、事実関係を調べているということだった。
私と大城の顔写真が、大きく映し出され、全く、身に覚えがないのに、悪い事をしたような気分になる。
テレビを消して、荷物の整理をしようとした時、また刑事が訪ねて来た。
身に覚えがない事を告げ、私の周囲からも、話を聞いたらしく、忍さんたちからは、お小言を頂戴した。
問い詰められた大城は、事実を告白し、やっと、事件から解放され、退院する事も出来た。
忍さんの妻、巴(トモエ)さんに送ってもらってる車内で、ラジオから詳細が告げられた。
高校時代に知り合い、私に好意を抱いていた大城は、大学に進学すると、疎遠になってしまったが、ずっと忘れられず、探していた。
あの日、偶然、私を見付け、後を追い、あの蓮池に行き着き、声を掛けようと、近付いた。
その時、メールが見え、気付いたら、背中を押し、私が溺れているのを見て、怖くなってしまい、その場から逃げたと話してるらしいとのことだった。
『もう、こんな事が起きないように、ちゃんとしないとね?自分の体のことなんだから』
巴さんに言われ、体だけの関係の人たちと縁を切ったのだが、陽一だけは、別れを告げても、しつこく迫って来た。
もう面倒になり、今でも続いているが、前よりかは、頻度が減っていた。
実際、たった二週間でも、仕事を休んでしまった為、この二ヶ月間、仕事に追われるに追われ、ほとんど外出が出来ない状態だった。
やっと、仕事が落ち着き、出掛ける余裕が出来ると、たまに、この場所に来ていた。
夢でのことだが、私は、彼を求めていた。
ここに来ていれば、また会えるのではと、淡い期待を抱いていたが、ただ欲求不満なだけではとも思っていた。
そんな時、陽一からメールが来て、試しに、セックスをしてみたが、全く満たされない。
それで、私は、彼を求めているのだと確信した。
優しくて、暖かい彼に会いたい。
改めて自分の事を考え、彼を想いながらタバコを吸うのが、日課になりつつもあった。
「ん?」
不意に、大きな影が見えた。
一瞬、動物かと思ったが、そもそも、この辺りには、動物が生息していない。
ゴミかとも思ったが、ちょっと違う気もする。
微妙に動いたのを目を凝らし、じっと見つめていると、人のように見え、急いで、ヘッドライトを池に向けた。
一回では、光が当たらない微妙な位置に倒れている。
光が当たるように、何度か車を動かして、やっと、それが人であるのが分かった。
「ウソ…でしょ?」
内心、焦りながらも、水際に近付き、その人の肩を揺らした。
「大丈夫ですか?」
揺らしながら、呼び掛けると、ピクリと指先が動いた。
なんとかしなきゃと思い、出来る限りの力で、引き上げて、仰向けに寝かせると、私は、驚きのあまり、その場に静止してしまった。
携帯のバイブで、ジャケットが揺れ、我に返り、その人に顔を近付けて、呼吸を確認し、まだ生きてることに安心した。
とりあえず、車に乗せようとしたが、重くて持ち上がらない。
いくら細身でも、女が、男を持ち上げるのは、至難の業だ。
それでも、なんとか後部座席に寝かせ、巴さんに電話をした。
耳に響く、呼び出し音に、イライラするくらい焦っていた。
『…もしもし?どうしたの?』
子供に語りかけるような、間の抜けた巴さんの声に、更に、苛立ってしまいそうになる。
「人を連れて行くので、忍さんに診て欲しいです」
巴さんは、無言になってしまった。
「もしもし!?」
『分かった。今、向かってるの?』
「はい」
『どれくらいで着く?』
「三十分くらいで着きます」
『分かった。じゃ、待ってるわね』
「お願いします」
制限速度ギリギリで、忍さんの病院に向かい、赤信号で、ブレーキを踏む度に、ミラー越しに後ろを確認した。
まだ目を覚まさない。
早くしなきゃと思い、夢中で車を走らせた。
巴さんに告げた時間よりも、早く着き、病院から出て来た二人が驚いていたが、気にしてる余裕がなかった。
「どれだ」
運転から降りて、後部座席のドアを開けて見せた。
「この人。あの池に倒れてたんです」
巴さんが、ストレッチャーを取りに行ってる間、忍さんは、脈を測り、呼吸を確認し、外傷がないかをチェックした。
巴さんが戻って来ると、二人で、ストレッチャーに乗せ、走って病院に戻って行った。
駐車場に車を停め、病院に入ると、受付のカーテンは、閉められていた。
ソファに座って待っていると、巴さんに連れられ、一番奥にある病室の前に来た。
「どうでした?」
私を見て、わざとらしく、溜め息をついた忍さんは、嫌そうに言った。
「お前と同じだ。暫くすれば、起きるだろ。救急なら救急車を呼べ。バカタレ」
「あ」
今になって気付き、苦笑いしながら、頭を掻くと、忍さんに、腕組みしたまま睨まれ、巴さんにも、クスクスと笑われた。
「厄介事を持ち込むな。仕事が増えるだろ」
「すんません」
「まったく」
ブツブツと、文句を言いながら、忍さんは去って行った。
「どうするの?」
その背中に、アッカンベーしていると、そう聞かれ、舌を出したまま、巴さんに顔を向けた。
巴さんは、鼻で溜め息をついて、病室のドアに、一瞬だけ、視線を向けて言った。
「彼よ」
「どうするって…」
「助けた命なら、最後まで面倒見なきゃダメよ?」
「え゛」
「それが礼儀でしょう?」
天使のような、巴さんの微笑みが怖い。
最大級に怒ってるのを感じ、鳥肌が立ち、私は、条件反射で何度も頷いた。
「じゃ、連れて帰ってね」
「…はい?」
「マコトの時は、誰も看る人がいなかったから、仕方なかったけど、今度は、マコトがいるんだから、大丈夫よね?」
「え~っと…あの…」
「つ・れ・て・って。ね?」
「はい…え~その~」
「今、旦那が行くから。車、用意しててね?」
「りょう、かい、です」
天使の笑顔に、有無を言われぬ圧を受け、急いで車に戻り、玄関前に移動させると、検査用の白い服を着せた彼をストレッチャーに乗せて、二人は待っていた。
行動が早すぎる。
しかも、二人とも、かなり怒ってるらしい。
彼を後部座席に寝かせ、忍さんが助手席に乗り込んで、シートベルトをしてから、私は、自宅に向かって車を走らせた。
「新しい男か?」
暫く、無言だったのが、急に聞かれ、何も返せずにいると、鼻をフンと鳴らされ、横目で睨まれた。
「少しは考えろ。突き落とされてから、まだ二ヶ月しか経ってないんだぞ」
「分かってますよ」
「分かってるなら、なんでこうなる」
「これは、たまたまで…」
「どうせ、出掛けてアホな事やった後に、満たされないなんて、くだらない理由で、あの池に行ったら、彼を見付けたから、巴に連絡した感じだろ」
完全にバレてる。
もう何も言い返すことが出来ない。
ご立腹の忍さんには、弁明の余地もない雰囲気だった。
「すみません」
「いい年して」
「申し訳ございません」
「まぁ。俺には関係ないが、いい加減にしたらどうだ」
「…はい…」
「しつこい奴が、いるんだったら、なんとかしてやるから言え」
一瞬、横目で忍さんを見た。
腕組みして、私が話すのを待ってるようだった。
だが、こんなに迷惑を掛けてるのに、そこまでしてもらうのは、流石に悪い気がして、黙っていると、忍さんから、溜め息が漏れた。
「こんな事を言っても、面倒だと思って、何も言わないか。なら、見付け次第、強制的に止めさせる。いいな?」
車を停めながら、絶対、誰にも見付からないようにしようと考えていた。
「寝かせる所はあるのか?」
「確か、来客用の布団ならあったはずです」
「さっさと敷いて来い」
「了解です」
自宅に飛び込んで、和室の押し入れを開け、来客用の布団を引っ張り出して敷いた。
窓を開け、起きっぱなしのサンダルを履いて、庭を横切り、車に小走りで向かう。
助手席の窓を軽くノックして知らせると、忍さんが、寝ている人を背負って、庭の方に歩き出した。
車に鍵を掛け、和室に戻ると、忍さんが、そのまま、窓から外に出ようとしていた。
「送りますか?」
「いや。巴が迎えに来てる」
忍さんの視線の先には、家の前に、巴さんの車があった。
内心、ホッと、胸をなで下ろし、忍さんに向き直って頭を下げた。
「有難うございました」
二人は、私を見る事なく帰って行った。
それが、少し寂しく思えたが、私が悪いのだから仕方ない。
和室に入り、窓を締めて、布団の横に座って、その人の顔をじっと見つめた。
やっぱり、彼に似てる気がする。
ここまで似ていると、あれが、本当に夢だったのかも怪しくなる。
もしかして、私が、混乱してただけで、彼が助けてくれたんじゃないかと、甘い考えが浮かぶ。
「…変な感じ」
カーテンを締め、電気を消すと、和室が真っ暗になり、微かな寝息が聞こえた。
隣の仕事部屋に移って、友人にメールをしてから、仕事を始め、一時間毎に、彼の様子を確認した。
おかげで、仕事の大半が片付き、朝日を浴びながら、背伸びをした。
和室に移動し、一切の異常もなく、眠り続けてる彼を見つめた。
早く起きないかな。
そう思うと、不意に、自分の匂いが、気になった。
シャワーを軽く浴びたが、一度気になってしまうと仕方ない。
ちゃんと浴びようと、洗面所に向かい、溜まっていた洗濯物と着ていた服を洗濯機に投げ入れ、開始ボタンを押し、浴室に入った。
いつもより、丁寧に全身を洗ったのだが、まだ洗濯機は回っていた。
いつもと違い、丁寧に、体や頭を拭いていて、自分の変わり身の速さに、笑ってしまいそうだった。
着替えを済ませ、また和室に向かおうと洗面所を出たが、体を拭いてあげようと思い、洗面所に逆戻りした。
タオルを濡らして、軽く絞り、ドアに手を掛けた時、洗濯機からブザーが鳴り響いた。
濡らしたタオルを置いたまま、中身を移したカゴを持って、和室の障子を静かに開けた。
彼は、まだ眠っている。
和室を横切り、窓を開けると、気持ちイイ風が流れ込んだ。
庭に洗濯物を干し、カゴを持って振り返ると、さっきまで寝ていた彼が、目を見開いて、こちらを見ていた。
「ビックリした~」
驚いて落としそうになったが、カゴを窓の近くに置き、彼の隣に座った。
「気分はどうですか?」
ただじっと見つめられ、黙ったままの彼に、苦笑してしまった。
仕方ないかと思っていると、彼の口元が、微かに動き、何か呟いた気がした。
「なんです?」
呟きを聞き取ろうと、顔を近付けた時、彼の手が、私の頬を撫でた。
優しく、温かな手つきに、あの安心感を思い出す。
あの時と同じだと思い、彼に視線を向け、至近距離で見つめた。
色白で、猫のように、目尻が吊り上がり、怖い印象を受けるが、なんとなく、優しい雰囲気に、透き通るような栗色の瞳も同じだ。
やっぱり、彼が助けてくれたのかもしれないと思った。
「あの時の人…ですよね?」
彼の瞳が大きく揺れ、やっぱり、夢と現実が混ざって、変な風になっていただけなんだと思った。
「そうなんですね?あの時は、大変、お世話になりました」
頭を下げると、彼は、上半身を起こそうと、動き始めた。
その背中に手を添えて、起き上がらせると、彼の手が、私の頬を包むように触れた。
私が、無事だったのを確認してるのかと思い、視線を合わせると、急に抱きしめられ、頭の中が真っ白になった。
「ちょ!」
「会いたかったです」
すぐそこに声が聞こえ、頬を撫でる唇の感覚に、ソワソワと、背中が逆毛立つように震えた。
唇が頬から首筋へと、撫で下ろされると、ゾクゾクと、体が震え、息が止まりそうになる。
「ん…」
鎖骨に、チクリと、小さな痛みが走り、声が漏れてしまった。
その声が部屋に響き、恥ずかしくなって、頬が熱くなり、顔が赤くなる。
離れなきゃ。
そう思いながらも、顔は、見られたくなかった。
二つの思いが、混ざり合って、複雑な思いになったが、やっぱり離れようと、背中を反らした。
それでも、彼の唇の感覚が、乾いた体を疼かせる。
ダメだと頭で分かっていても、体が、その熱を求めようとしてる。
「んん…」
今度は、肩に小さな痛みが走り、呼吸が荒くなりそう。
それでも、逃れようと、体を捻り、背中を反らしたら、バランスを崩してしまった。
押し倒されたような形になり、逃げ場を失った。
荒くなった呼吸と彼の重み、下腹部に、押し当てられる堅い物が、私の理性を薄れさせる。
腰を左右に揺らされて、もう理性が吹っ飛びそうだ。
「おい」
幼なじみの紅崎祐介(クザキユウスケ)と藍原龍之介(アイハラリュウノスケ)が、庭に立ってるのを見て、手離しそうになった理性を引き戻した。
「た…すけ…」
龍之介が、盛大な溜め息をついて、彼の肩を掴んで、引っ張り上げた。
隙間が出来た瞬間、這うように、窓の方に向かい、祐介の手を借りて起き上がった。
引き離されても、私に向かって来ようとするが、龍之介が、そんな彼を布団に押さえつけた。
「ホントいい加減にしろよ」
「私の…せいじゃない…し」
呼吸を落ち着けながら、龍之介にそう言い捨てると、肩を支えていた祐介が、布団の上で、暴れている彼を見つめて、静かに言った。
「なんだか、大変なの拾ったね」
祐介に、何も言い返せずにいると、彼は、大人しく、布団に寝転んだ。
龍之介も手を離して、その場に胡座で座り、向かい合うように、私と祐介が、並んで布団の横に座った。
「急に、服を持って来いって言うから、なんだと思ったら、何してんだよ」
「私がしたんじゃないし」
「気失っていて、目覚めて、すぐに性処理しようとする?」
「俺は無理だ」
「僕も無理」
「マコト~」
「なんでそうなんのさ!!私は被害者だから!!」
「まぁ。その辺はほっといて。君の名前は?」
私と龍之介が言い合いを始めそうになるのが、祐介が、彼に視線を向けて聞いた。
だが、彼は、答えようとしない。
今度は、溜め息をついて、龍之介が言った。
「お前は、名無しかって」
馬鹿にしたような、龍之介にさえも、何も言わない。
苛立つ龍之介が、怒鳴ろうとするが、祐介が、肩を叩いて落ち着かせた。
「お名前は?」
「山崎燕(ヤマザキススム)。燕と書いてススムです」
私には、素直に答える山崎さんに、龍之介が立ち膝になると、祐介が、布団を挟みながら、肩を押し付けて、なんとか落ち着かせた。
「私は、金山誠(カネヤママコト)です。誠実の誠でマコト。どうして、あの池にいたの?」
山崎さんが無言になり、暫く、誰も話さずにいると、祐介の手を払って、龍之介が立ち上がった。
祐介は、払われた手を振った。
そんな痛くないでしょと、ツッコミを入れる前に、祐介が、動きながら言った。
「まずは、着替えさせるよ」
「あ。了解。じゃ、あっちの部屋にいるわ」
私も動こうとすると、窓の近くに置いてあったカゴにつまづいた龍之介が、それを見せるようにして、持ち上げて怒鳴った。
「やる前に片付けろ!!欲求不満!!」
「だから私じゃないって!!」
龍之介の持つカゴ奪い取り、叫ぶように言い返して、障子に向かうと、祐介が、ニコニコと笑いながら言った。
「玄関。開けといてね」
「開いてる!!」
祐介に、八つ当たりするように言って、障子を乱暴に締めた。
洗面所にカゴを置きに、洗面台に起きっぱなしのタオルが、視界に入り、叫ぶような大声で、家の中に向かって言った。
「お風呂入れてね!!」
だが、返事が聞こえない。
そんなに、大きな家じゃないから、聞こえてるはずなのに。
「ねぇ~。お風呂入れてあげっ!!ごめん!!」
もう着替えを始めていて、山崎さんの全裸を見てしまい、慌てて障子を締めた。
今まで、男の裸を見ても、なんとも思わなかったが、山崎さんの裸が視界に入り、血液が沸騰するように熱くなった。
廊下に座り込んで、口元に手を当て、落ち着けようとしていると、後ろで、障子が開く音がした。
「着替えるって言ってんのに、開ける奴がいるか。アホ」
「…モウシワケナイ」
変な片言になりながら、謝罪すると、顔を出した龍之介が、溜め息混じりに言った。
「んで、なに」
「体も拭いてないから、お風呂くらいは、入れてあげたらと思って」
「あ~。分かった。分かった。後は、祐介とやるから、お前は向こうに行ってろ」
「うぃ」
リビングに小走りで逃げるのを龍之介が、悪魔のような、ニヤケ顔で見ていたらしい。
リビングの窓を開けて、カウンターキッチンに入り、換気扇を回し、マグカップに、コーヒーを淹れ、タバコに火を点けて、白い煙を吐き出した。
一体、どうした私。
あんな事をされたから、山崎さんの裸を見たら、あんな風に、顔が熱くなってしまったのか。
今まで、愛撫をされてから、相手の裸を見ても、そんな事なかったのに、何故、山崎さんの時は、顔が赤くなるのか。
そんな風に、考えていると、山崎さんの裸を思い出してしまい、頬を赤くして頭を振り回した。
「アチッ!!」
気付けば、タバコが小さくなっていて、フィルターから焦げた臭いが、鼻を突き、慌てて揉み消した。
「何してんだよ」
龍之介の声で、いつの間にか、リビングに来ていたのを知った。
「ちょっと、ボーッとしてただけだし」
苦しい言い訳をしてると、龍之介の後ろから、祐介も現れ、マグカップを指差した。
「僕にもくれない?」
「俺も」
龍之介が、ドスっと、ソファに座るのを苦笑いしながら、見ていた祐介が、リビングのドアに、視線を向けながら言った。
「山崎さんも、どうですか?」
ドアの前には、龍之介たちが持って来たらしい、うぐいす色の浴衣を着た山崎さんが立っていた。
何故、そのセレクトなのか分からない。
祐介に、マグカップを差し出し、視線を向けると、山崎さんは、視線を反らした。
「マコトのコーヒーは、飲めるから大丈夫ですよ」
「まるで、他のは飲めないって、聞こえるんですけど?」
わざとらしく、首を傾げる祐介に、ちょっと強く言った。
「聞こえるんですけど!?」
「ん~」
祐介は、顎に指を添えて、何かを考え込むような仕草で言った。
「紅茶と緑茶は、渋かったり薄かったりで、飲むのに時間が必要だけど、コーヒーだけは、いつも同じ味だから、安心して飲めるよ?」
「どうもすみませんね!!どうせ、私は、インスタントコーヒーしか、淹れられませんよ~だ」
舌をベーっと出して、二つのマグカップを祐介に押し付け、山崎さんに向き直って聞いた。
「インスタントで良ければ、飲みませんか?」
マグカップを見せると、山崎さんは、小さな頷きを返してくれた。
その仕草が、ちょっと可愛い。
マグカップに、粉を入れてお湯を注ぐ。
「砂糖とミルクは?」
首を振る山崎さんに、カウンター越しに、マグカップ差し出すと、持っていた指に、山崎さんの指が触れて、ドキッと心臓が跳ねた。
手を引っ込めそうになったが、思い留まって、大惨事は免れた。
マグカップに口を着けて、コーヒーを飲む山崎さんを見つめていると、視線がぶつかり、何とも言えない感情が湧き上がる。
「…もしもーし。聞こえますかぁ」
目の前で、祐介の手が振られ、私と山崎さんの視界を遮られて、さっきまでの気持ちが薄れると、今度は、激しい苛立ちが湧き起こる。
「なに」
苛立ちを隠さず、そう聞くと、ソファで、ふんぞり返るように座っていた龍之介が、祐介から渡されたコーヒーを飲みながら言った。
「どうゆう経緯で、こうなったのか、ちゃんと説明しろって話」
詳細を説明する気はない。
この二人に、そんな必要ないと思い、今に至るまでの経緯を完結に説明した。
「つまりは、忍さん夫妻に押し付けられたってことね」
「にしても、大きな猫を拾ったもんだな」
山崎さんが睨むと、ソファ近くに移動した祐介が、龍之介の頭を軽く叩いた。
「そんな言い方するなよ。初対面だぞ」
龍之介は、鼻をフンと鳴らして、また、コーヒーを飲んだ。
「まぁ。私が、持ち込んだ事には、変わりないし」
「そりゃね。で?どうするの?」
祐介に聞かれ、山崎さんは、横目で私を見てから、暗い顔で、マグカップに、視線を落とした。
そんな山崎さんの考えが、なんとなく分かった。
「家で良ければ、居てもいいですよ?」
驚いた顔の山崎さんに、小さく微笑んで見せると、その頬が、桃色に染まった。
「そんな事言って。山崎さんにだって、家族はいるでしょう」
「いません」
私に向かって、言ったはずの祐介に、今まで、黙っていた山崎さんが答えた。
「ずっと、施設にいました。施設から出ても、単発の仕事をしながら、一人で生活してました」
「そっかぁ。大変でしたね」
山崎さんは、何かをためらうように、視線を泳がせながら、コーヒーを飲んだ。
そんな山崎さんの背中に、龍之介は、おどけるように言った。
「そして、夢の中で、可愛らしく、喘いでぇっ!!」
お玉を投げ付け、見事、龍之介の顔面に命中すると、鼻を抑えて、痛みに悶え、祐介が鼻で溜め息をついた。
「今度は、それだけじゃ済まないからね」
悶えながらも、何度も頷く龍之介から、山崎さんに視線を戻すと、視線がぶつかり、山崎さんが、耳まで真っ赤なると、共鳴するように、私の顔も熱を帯びていった。
「僕は、龍之介と違うって、思ってるかもしれないけど、そんな風に、見つめ合ってたら、僕でも、良からぬ事考えちゃうよ?」
慌てて、視線を反らして、コーヒーを飲んだ。
「それはそれとして。マコトが言ってた夢の人と、山崎さんは似てるの?」
龍之介と祐介には、夢の事を話していた。
山崎さんを横目で見てから、目を閉じて、あの時の彼を思い出してみた。
「う~ん」
もう一度、山崎さんを見てから、タバコに火を点け、白い煙を吐き出しながら言った。
「似てるっちゃ似てるかな」
曖昧に答えると、祐介は、片眉を引き上げて言った。
「またそうやって、のらりくらりするつもり?」
「別に。のらりくらりなんて」
「なら、僕が、山崎さんを連れてっても構わないよね?」
「なんで?なんでそうなんのよ」
暫く睨み合っていたが、祐介は、お玉のぶつかった鼻を擦りながら、コーヒーを飲んでいる龍之介を横目で見ると、溜め息混じりに言った。
「今日は、このまま帰るけど、電話でもメールでもいいから、ちゃんと話してよ。こっちだって、それなりに、色々と考えなきゃならないんだから」
こめかみを抑えて、祐介は、コーヒーを飲み干し、近くに落ちていたお玉を拾って、ローテーブルに置き、龍之介の顔を覗き込みながら言った。
「いつまで擦ってるつもり?」
祐介が、口角を上げて、ニッコリ笑うと、龍之介は、鼻に触れていた手を離して、コーヒーを飲んだ。
ニッコリ笑ったまま、腕組みして、祐介が見下ろすと、龍之介は、恐る恐る聞いた。
「え~と~。どったの?」
「僕。帰りたいんだけど」
「え~。まだいいじゃん」
その手から、マグカップを奪い、ローテーブルに置くと、腕を引っ張り上げて、祐介は、龍之介を引き摺るようにして、リビングのドアに向かった。
「ちょ!まだ、残ってるんだけど」
「じゃね」
「祐介~」
二人が、リビングから出て行くのを見送って、暫くすると、玄関の締まる音が聞こえた。
この家には、私と山崎さんだけになった。
「うるさくて、すいませんでした」
「いえ」
どうしたらいいか、分からず、黙ってコーヒーを飲み、不意に、祐介たちのマグカップを取りに行こうと、カウンターを出て、ソファに近付いた。
マグカップに触れようと、腕を伸ばしながら、前屈みになると、背中から山崎さんに抱き締められ、首元に顔を埋められた。
「やま!?」
呼びながら後ろを向くと、山崎さんの唇が重なった。
目を閉じている山崎さんの顔しか、見えない。
混乱して、頭が真っ白になった。
歯茎、内頬、上顎、歯の裏、舌の裏、細部に渡り、舐めるようにして、口の中を山崎さんの舌が動き回る。
最終的には、舌を絡めるような深いキスになり、理性が吹き飛びそうになった。
それでも、なんとか、理性を保とうとした。
山崎さんの唇から逃れようと、首を戻そうとしたが、山崎さんの手が、頬に添えられて出来なかった。
それでも、抵抗しようと、山崎さんの手を掴んだが、唇が離れるのと同時に、ソファに押し倒されてしまった。
横向きで、ソファに倒れて、逃げようと、背を向けて、肘置きを掴んだ状態で捕まった。
「やふぁっ!!」
しっかりと回された腕で、逃げられなくなり、呼び掛けようとした時、うなじに、山崎さんの唇が触れ、変な声が出てしまった。
山崎さんの荒い鼻息と、ヌルっとした舌の感覚に、体が震えた。
力も抜けて、私の呼吸も荒くなる。
「ちょ…と…」
首を縮めて、その舌から逃れようとしても、山崎さんは、肩や空いている首に向かって、舐めてきて、その度に、何度も、首を傾けて抵抗しようとした。
「いたっ」
首筋に噛み付かれたが、本当に痛い訳じゃない。
淡い痛みに、山崎さんの頭に頬を寄せると、肩を掴んでいた手が、滑り降りて、服の上から胸を掴んだ。
「あ…ちょ…ぅ…ん…」
ソファに、へばりついて、揉めないようにしたが、首筋が露わになり、また山崎さんの舌が舐めてくる。
「んん…」
首筋を隠すと、隙間が出来て、山崎さんの手が動き、服の上から胸を揉まれる。
「ん…ちょ…まっ…て…」
途切れ途切れに言うと、山崎さんが止まった。
「そ…ゆの…なし…おねがい…」
生まれた熱を逃がそうと、肩で息をしていた。
山崎さんは、うなじに唇を寄せて、軽く、チュっと音を発てると、リビングから出て行った。
起き上がり、襲い掛かる倦怠感に、立ち上がれず、目を閉じて、上を向いていた。
暫くして、けたたましい電話の音が、家中に響き、私は、重い足取りで廊下に出た。
玄関で鳴っている電話の受話器を持ち上げ、耳に当てる。
「はい」
『もしもし』
その声だけで、電話の主が、一番関わりたくない人なのを知り、私は、バレないように、静かに溜め息をついた。
「なんですか」
『この間のお見合い。なんで行かなかったの』
「だから、仕事が忙しくて、行けませんと、お断りしたじゃないですか」
『仕事よりも、アナタの幸せの方が、先でしょう?その為には、ちゃんとした方とお知り合いにならなくちゃ』
「今でも十分幸せです」
『何言ってるの。女として、産まれたからには、良い人と結婚して、ちゃんとした家庭を持って、子供を産む事が、一番の幸せなのよ。後先考えず、今が幸せだから、それでいいなんて甘い考えでいたら、不幸になるわよ?』
わざと大きな溜め息を受話器に向かって、吐き掛けると、電話口でも分かる程、相手が怒り始めた。
『大事な話をしてるの!!ちゃんと聞きな』
「すみませんが、まだ仕事がありますので切ります。もし、本当に大切な話なら、直接、家に来てもらえませんか?私は、母さんのような暇人じゃないですから」
『アナタ!!いい加減に!!』
「それでは」
受話器から母の叫び声が、聞こえていたが、無視して電話を切った。
母と話をするのは、精神的に疲れる。
溜め息をついて振り返ると、いつの間にか、山崎さんが後ろに立っていた。
ビクッと、肩を揺らしてから、その場に屈み、顔を手で覆った。
「山崎さんは、忍者ですか?」
「何故ですか?」
「起きた時もだけど、全然、気配を感じさせないからです」
「あぁ。昔からなんです」
「クセですか?」
「分かりません。無意識ですから」
勢い良く立ち上がり、山崎さんを正面から見た。
「じゃ、鈴でも着けますか」
「嫌です。バレるので」
「意識してんじゃん!!」
山崎さんが、クスクスと笑い、その表情に幼さを感じる。
私も、クスクスと笑うと、山崎さんは、艶やかな微笑みを浮かべた。
その微笑みに、見惚れてしまい、気付けば、山崎さんの腕の中にいた。
優しく、抱き寄せられて、山崎さんの暖かさに、強ばりが緩むと、さっきの映像が目の前に現れた。
「あの…」
「大丈夫。何もしませんから」
頭に頬を寄せて、短い髪を何度も撫でられ、その温かさに身を委ねた。
暫くして、グ~と、空腹を知らせる音が、聞こえて、どちらともなく、顔を見合わせて、笑い合った。
「お腹空きましたよね。何か食べましょうか」
山崎さんの手を引いて、リビングに戻り、買い置きしていたカップ麺を食べた。
「すみません。こんなのしかなくて」
「大丈夫ですよ。仕事って、何されてるんですか?」
「作家です」
「作家?」
「属に言う小説家ってヤツです」
「どんなのを書かれるんですか?」
「ジャンルは問いません。思い付いたのを思うがままに書きます」
「凄いんですね」
「凄くないですよ。やろうと思えば誰でも出来ます」
「そんな事ないですよ。才能がなければ、仕事として成り立ちません」
「私よりも、面白い作品を書いている方は沢山います。そんな方々の中から、私が選ばれたのは、ただ運がよかっただけです」
「運も才能の内ですよ」
「そう言って頂けると救われます」
カップ麺をズルズルとすすり、それ以上、仕事に関する話題はしなかった。
「ごちそうさまでした」
「お粗末様でした」
スープを捨てて、器をゴミ箱に入れ、やかんを火にかけた。
「金山さんの作品、読みたいです」
カウンター越しに、山崎さんに言われ、少し悩んだ。
「どんなのがいいですか?」
「何でもいいです。金山さんのオススメで」
「分かりました。何か探してみます。飲みますか?」
マグカップにコーヒーを淹れながら、聞くと、山崎さんは、首を振った。
「いえ」
「喉、渇きませんか?」
胃の辺りを擦りながら、山崎さんは、子供のように、笑って言った。
「もう、いっぱいです」
「そうですか」
マグカップを持って、キッチンから出ると、山崎さんが、不思議そうに、首を傾げなから、見つめていたのを気付いていたが、私は、そのまま、ドアに向かった。
「部屋に籠ります。冷蔵庫の物は、勝手に使っていいですし、他の部屋を見て回っても構いませんから」
そう言い残して、仕事部屋に向かった。
そこは、私の担当医であり、父の大学時代の後輩でもある池谷忍(イケヤシノブ)さんの病院だった。
日頃から、とてもお世話になっている為、多少、怒られることもあるが、この時は、それが比じゃない程、めちゃめちゃ怒られた。
二日前、散歩をしていた人が、私の車を見付け、蓮池に浮かぶ私を発見したらしく、すぐに救急車が呼ばれた。
その時、無意識の中で、救急隊に、病院名を告げたらしく、忍さんのところに運び込まれたらしい。
『あのままだったら、死んでたからな』
忍さんの話で、あれは、夢だったのを知った。
死ぬ間際に、そんな夢を見ていたが、とても恥ずかしかった。
自分の事なのだが、どれだけ、欲求不満なのかとも思った。
その後、スーツ姿の男が、二人で病室を訪れ、警察手帳を見せられ、色々と事情を聞かれた。
翌日には、殺人未遂事件として、ニュースに取り上げられた。
あまり騒がれると、面倒になるから、やめて欲しいかった。
案の定、友人や知人から、メールや電話が来て、病院の前には、ウロウロと、記者が張り付いた。
だが、三日も経てば、メールや電話も落ち着き、記者の姿が消え、そこまで面倒にはならなかった。
平穏な入院生活に戻ると、二日後には、退院出来ると聞かされ、すぐに手続きを始めた。
やっと全てが落ち着き、何気なく、テレビを点けると、犯人が、自首したことを告げていた。
犯人の名前は、大城政樹(オオキマサキ)。
高校時代、共通の友人から紹介され、一回だけ会った事がある人だった。
正直、顔写真を見ても、全く分からなかった。
その程度の存在でしかないのに、何故、突き落とされたのか。
ニュースでは、浮気をされた大城が、衝動的に突き飛ばし、池に落ちたと証言してるらしく、今、警察が、事実関係を調べているということだった。
私と大城の顔写真が、大きく映し出され、全く、身に覚えがないのに、悪い事をしたような気分になる。
テレビを消して、荷物の整理をしようとした時、また刑事が訪ねて来た。
身に覚えがない事を告げ、私の周囲からも、話を聞いたらしく、忍さんたちからは、お小言を頂戴した。
問い詰められた大城は、事実を告白し、やっと、事件から解放され、退院する事も出来た。
忍さんの妻、巴(トモエ)さんに送ってもらってる車内で、ラジオから詳細が告げられた。
高校時代に知り合い、私に好意を抱いていた大城は、大学に進学すると、疎遠になってしまったが、ずっと忘れられず、探していた。
あの日、偶然、私を見付け、後を追い、あの蓮池に行き着き、声を掛けようと、近付いた。
その時、メールが見え、気付いたら、背中を押し、私が溺れているのを見て、怖くなってしまい、その場から逃げたと話してるらしいとのことだった。
『もう、こんな事が起きないように、ちゃんとしないとね?自分の体のことなんだから』
巴さんに言われ、体だけの関係の人たちと縁を切ったのだが、陽一だけは、別れを告げても、しつこく迫って来た。
もう面倒になり、今でも続いているが、前よりかは、頻度が減っていた。
実際、たった二週間でも、仕事を休んでしまった為、この二ヶ月間、仕事に追われるに追われ、ほとんど外出が出来ない状態だった。
やっと、仕事が落ち着き、出掛ける余裕が出来ると、たまに、この場所に来ていた。
夢でのことだが、私は、彼を求めていた。
ここに来ていれば、また会えるのではと、淡い期待を抱いていたが、ただ欲求不満なだけではとも思っていた。
そんな時、陽一からメールが来て、試しに、セックスをしてみたが、全く満たされない。
それで、私は、彼を求めているのだと確信した。
優しくて、暖かい彼に会いたい。
改めて自分の事を考え、彼を想いながらタバコを吸うのが、日課になりつつもあった。
「ん?」
不意に、大きな影が見えた。
一瞬、動物かと思ったが、そもそも、この辺りには、動物が生息していない。
ゴミかとも思ったが、ちょっと違う気もする。
微妙に動いたのを目を凝らし、じっと見つめていると、人のように見え、急いで、ヘッドライトを池に向けた。
一回では、光が当たらない微妙な位置に倒れている。
光が当たるように、何度か車を動かして、やっと、それが人であるのが分かった。
「ウソ…でしょ?」
内心、焦りながらも、水際に近付き、その人の肩を揺らした。
「大丈夫ですか?」
揺らしながら、呼び掛けると、ピクリと指先が動いた。
なんとかしなきゃと思い、出来る限りの力で、引き上げて、仰向けに寝かせると、私は、驚きのあまり、その場に静止してしまった。
携帯のバイブで、ジャケットが揺れ、我に返り、その人に顔を近付けて、呼吸を確認し、まだ生きてることに安心した。
とりあえず、車に乗せようとしたが、重くて持ち上がらない。
いくら細身でも、女が、男を持ち上げるのは、至難の業だ。
それでも、なんとか後部座席に寝かせ、巴さんに電話をした。
耳に響く、呼び出し音に、イライラするくらい焦っていた。
『…もしもし?どうしたの?』
子供に語りかけるような、間の抜けた巴さんの声に、更に、苛立ってしまいそうになる。
「人を連れて行くので、忍さんに診て欲しいです」
巴さんは、無言になってしまった。
「もしもし!?」
『分かった。今、向かってるの?』
「はい」
『どれくらいで着く?』
「三十分くらいで着きます」
『分かった。じゃ、待ってるわね』
「お願いします」
制限速度ギリギリで、忍さんの病院に向かい、赤信号で、ブレーキを踏む度に、ミラー越しに後ろを確認した。
まだ目を覚まさない。
早くしなきゃと思い、夢中で車を走らせた。
巴さんに告げた時間よりも、早く着き、病院から出て来た二人が驚いていたが、気にしてる余裕がなかった。
「どれだ」
運転から降りて、後部座席のドアを開けて見せた。
「この人。あの池に倒れてたんです」
巴さんが、ストレッチャーを取りに行ってる間、忍さんは、脈を測り、呼吸を確認し、外傷がないかをチェックした。
巴さんが戻って来ると、二人で、ストレッチャーに乗せ、走って病院に戻って行った。
駐車場に車を停め、病院に入ると、受付のカーテンは、閉められていた。
ソファに座って待っていると、巴さんに連れられ、一番奥にある病室の前に来た。
「どうでした?」
私を見て、わざとらしく、溜め息をついた忍さんは、嫌そうに言った。
「お前と同じだ。暫くすれば、起きるだろ。救急なら救急車を呼べ。バカタレ」
「あ」
今になって気付き、苦笑いしながら、頭を掻くと、忍さんに、腕組みしたまま睨まれ、巴さんにも、クスクスと笑われた。
「厄介事を持ち込むな。仕事が増えるだろ」
「すんません」
「まったく」
ブツブツと、文句を言いながら、忍さんは去って行った。
「どうするの?」
その背中に、アッカンベーしていると、そう聞かれ、舌を出したまま、巴さんに顔を向けた。
巴さんは、鼻で溜め息をついて、病室のドアに、一瞬だけ、視線を向けて言った。
「彼よ」
「どうするって…」
「助けた命なら、最後まで面倒見なきゃダメよ?」
「え゛」
「それが礼儀でしょう?」
天使のような、巴さんの微笑みが怖い。
最大級に怒ってるのを感じ、鳥肌が立ち、私は、条件反射で何度も頷いた。
「じゃ、連れて帰ってね」
「…はい?」
「マコトの時は、誰も看る人がいなかったから、仕方なかったけど、今度は、マコトがいるんだから、大丈夫よね?」
「え~っと…あの…」
「つ・れ・て・って。ね?」
「はい…え~その~」
「今、旦那が行くから。車、用意しててね?」
「りょう、かい、です」
天使の笑顔に、有無を言われぬ圧を受け、急いで車に戻り、玄関前に移動させると、検査用の白い服を着せた彼をストレッチャーに乗せて、二人は待っていた。
行動が早すぎる。
しかも、二人とも、かなり怒ってるらしい。
彼を後部座席に寝かせ、忍さんが助手席に乗り込んで、シートベルトをしてから、私は、自宅に向かって車を走らせた。
「新しい男か?」
暫く、無言だったのが、急に聞かれ、何も返せずにいると、鼻をフンと鳴らされ、横目で睨まれた。
「少しは考えろ。突き落とされてから、まだ二ヶ月しか経ってないんだぞ」
「分かってますよ」
「分かってるなら、なんでこうなる」
「これは、たまたまで…」
「どうせ、出掛けてアホな事やった後に、満たされないなんて、くだらない理由で、あの池に行ったら、彼を見付けたから、巴に連絡した感じだろ」
完全にバレてる。
もう何も言い返すことが出来ない。
ご立腹の忍さんには、弁明の余地もない雰囲気だった。
「すみません」
「いい年して」
「申し訳ございません」
「まぁ。俺には関係ないが、いい加減にしたらどうだ」
「…はい…」
「しつこい奴が、いるんだったら、なんとかしてやるから言え」
一瞬、横目で忍さんを見た。
腕組みして、私が話すのを待ってるようだった。
だが、こんなに迷惑を掛けてるのに、そこまでしてもらうのは、流石に悪い気がして、黙っていると、忍さんから、溜め息が漏れた。
「こんな事を言っても、面倒だと思って、何も言わないか。なら、見付け次第、強制的に止めさせる。いいな?」
車を停めながら、絶対、誰にも見付からないようにしようと考えていた。
「寝かせる所はあるのか?」
「確か、来客用の布団ならあったはずです」
「さっさと敷いて来い」
「了解です」
自宅に飛び込んで、和室の押し入れを開け、来客用の布団を引っ張り出して敷いた。
窓を開け、起きっぱなしのサンダルを履いて、庭を横切り、車に小走りで向かう。
助手席の窓を軽くノックして知らせると、忍さんが、寝ている人を背負って、庭の方に歩き出した。
車に鍵を掛け、和室に戻ると、忍さんが、そのまま、窓から外に出ようとしていた。
「送りますか?」
「いや。巴が迎えに来てる」
忍さんの視線の先には、家の前に、巴さんの車があった。
内心、ホッと、胸をなで下ろし、忍さんに向き直って頭を下げた。
「有難うございました」
二人は、私を見る事なく帰って行った。
それが、少し寂しく思えたが、私が悪いのだから仕方ない。
和室に入り、窓を締めて、布団の横に座って、その人の顔をじっと見つめた。
やっぱり、彼に似てる気がする。
ここまで似ていると、あれが、本当に夢だったのかも怪しくなる。
もしかして、私が、混乱してただけで、彼が助けてくれたんじゃないかと、甘い考えが浮かぶ。
「…変な感じ」
カーテンを締め、電気を消すと、和室が真っ暗になり、微かな寝息が聞こえた。
隣の仕事部屋に移って、友人にメールをしてから、仕事を始め、一時間毎に、彼の様子を確認した。
おかげで、仕事の大半が片付き、朝日を浴びながら、背伸びをした。
和室に移動し、一切の異常もなく、眠り続けてる彼を見つめた。
早く起きないかな。
そう思うと、不意に、自分の匂いが、気になった。
シャワーを軽く浴びたが、一度気になってしまうと仕方ない。
ちゃんと浴びようと、洗面所に向かい、溜まっていた洗濯物と着ていた服を洗濯機に投げ入れ、開始ボタンを押し、浴室に入った。
いつもより、丁寧に全身を洗ったのだが、まだ洗濯機は回っていた。
いつもと違い、丁寧に、体や頭を拭いていて、自分の変わり身の速さに、笑ってしまいそうだった。
着替えを済ませ、また和室に向かおうと洗面所を出たが、体を拭いてあげようと思い、洗面所に逆戻りした。
タオルを濡らして、軽く絞り、ドアに手を掛けた時、洗濯機からブザーが鳴り響いた。
濡らしたタオルを置いたまま、中身を移したカゴを持って、和室の障子を静かに開けた。
彼は、まだ眠っている。
和室を横切り、窓を開けると、気持ちイイ風が流れ込んだ。
庭に洗濯物を干し、カゴを持って振り返ると、さっきまで寝ていた彼が、目を見開いて、こちらを見ていた。
「ビックリした~」
驚いて落としそうになったが、カゴを窓の近くに置き、彼の隣に座った。
「気分はどうですか?」
ただじっと見つめられ、黙ったままの彼に、苦笑してしまった。
仕方ないかと思っていると、彼の口元が、微かに動き、何か呟いた気がした。
「なんです?」
呟きを聞き取ろうと、顔を近付けた時、彼の手が、私の頬を撫でた。
優しく、温かな手つきに、あの安心感を思い出す。
あの時と同じだと思い、彼に視線を向け、至近距離で見つめた。
色白で、猫のように、目尻が吊り上がり、怖い印象を受けるが、なんとなく、優しい雰囲気に、透き通るような栗色の瞳も同じだ。
やっぱり、彼が助けてくれたのかもしれないと思った。
「あの時の人…ですよね?」
彼の瞳が大きく揺れ、やっぱり、夢と現実が混ざって、変な風になっていただけなんだと思った。
「そうなんですね?あの時は、大変、お世話になりました」
頭を下げると、彼は、上半身を起こそうと、動き始めた。
その背中に手を添えて、起き上がらせると、彼の手が、私の頬を包むように触れた。
私が、無事だったのを確認してるのかと思い、視線を合わせると、急に抱きしめられ、頭の中が真っ白になった。
「ちょ!」
「会いたかったです」
すぐそこに声が聞こえ、頬を撫でる唇の感覚に、ソワソワと、背中が逆毛立つように震えた。
唇が頬から首筋へと、撫で下ろされると、ゾクゾクと、体が震え、息が止まりそうになる。
「ん…」
鎖骨に、チクリと、小さな痛みが走り、声が漏れてしまった。
その声が部屋に響き、恥ずかしくなって、頬が熱くなり、顔が赤くなる。
離れなきゃ。
そう思いながらも、顔は、見られたくなかった。
二つの思いが、混ざり合って、複雑な思いになったが、やっぱり離れようと、背中を反らした。
それでも、彼の唇の感覚が、乾いた体を疼かせる。
ダメだと頭で分かっていても、体が、その熱を求めようとしてる。
「んん…」
今度は、肩に小さな痛みが走り、呼吸が荒くなりそう。
それでも、逃れようと、体を捻り、背中を反らしたら、バランスを崩してしまった。
押し倒されたような形になり、逃げ場を失った。
荒くなった呼吸と彼の重み、下腹部に、押し当てられる堅い物が、私の理性を薄れさせる。
腰を左右に揺らされて、もう理性が吹っ飛びそうだ。
「おい」
幼なじみの紅崎祐介(クザキユウスケ)と藍原龍之介(アイハラリュウノスケ)が、庭に立ってるのを見て、手離しそうになった理性を引き戻した。
「た…すけ…」
龍之介が、盛大な溜め息をついて、彼の肩を掴んで、引っ張り上げた。
隙間が出来た瞬間、這うように、窓の方に向かい、祐介の手を借りて起き上がった。
引き離されても、私に向かって来ようとするが、龍之介が、そんな彼を布団に押さえつけた。
「ホントいい加減にしろよ」
「私の…せいじゃない…し」
呼吸を落ち着けながら、龍之介にそう言い捨てると、肩を支えていた祐介が、布団の上で、暴れている彼を見つめて、静かに言った。
「なんだか、大変なの拾ったね」
祐介に、何も言い返せずにいると、彼は、大人しく、布団に寝転んだ。
龍之介も手を離して、その場に胡座で座り、向かい合うように、私と祐介が、並んで布団の横に座った。
「急に、服を持って来いって言うから、なんだと思ったら、何してんだよ」
「私がしたんじゃないし」
「気失っていて、目覚めて、すぐに性処理しようとする?」
「俺は無理だ」
「僕も無理」
「マコト~」
「なんでそうなんのさ!!私は被害者だから!!」
「まぁ。その辺はほっといて。君の名前は?」
私と龍之介が言い合いを始めそうになるのが、祐介が、彼に視線を向けて聞いた。
だが、彼は、答えようとしない。
今度は、溜め息をついて、龍之介が言った。
「お前は、名無しかって」
馬鹿にしたような、龍之介にさえも、何も言わない。
苛立つ龍之介が、怒鳴ろうとするが、祐介が、肩を叩いて落ち着かせた。
「お名前は?」
「山崎燕(ヤマザキススム)。燕と書いてススムです」
私には、素直に答える山崎さんに、龍之介が立ち膝になると、祐介が、布団を挟みながら、肩を押し付けて、なんとか落ち着かせた。
「私は、金山誠(カネヤママコト)です。誠実の誠でマコト。どうして、あの池にいたの?」
山崎さんが無言になり、暫く、誰も話さずにいると、祐介の手を払って、龍之介が立ち上がった。
祐介は、払われた手を振った。
そんな痛くないでしょと、ツッコミを入れる前に、祐介が、動きながら言った。
「まずは、着替えさせるよ」
「あ。了解。じゃ、あっちの部屋にいるわ」
私も動こうとすると、窓の近くに置いてあったカゴにつまづいた龍之介が、それを見せるようにして、持ち上げて怒鳴った。
「やる前に片付けろ!!欲求不満!!」
「だから私じゃないって!!」
龍之介の持つカゴ奪い取り、叫ぶように言い返して、障子に向かうと、祐介が、ニコニコと笑いながら言った。
「玄関。開けといてね」
「開いてる!!」
祐介に、八つ当たりするように言って、障子を乱暴に締めた。
洗面所にカゴを置きに、洗面台に起きっぱなしのタオルが、視界に入り、叫ぶような大声で、家の中に向かって言った。
「お風呂入れてね!!」
だが、返事が聞こえない。
そんなに、大きな家じゃないから、聞こえてるはずなのに。
「ねぇ~。お風呂入れてあげっ!!ごめん!!」
もう着替えを始めていて、山崎さんの全裸を見てしまい、慌てて障子を締めた。
今まで、男の裸を見ても、なんとも思わなかったが、山崎さんの裸が視界に入り、血液が沸騰するように熱くなった。
廊下に座り込んで、口元に手を当て、落ち着けようとしていると、後ろで、障子が開く音がした。
「着替えるって言ってんのに、開ける奴がいるか。アホ」
「…モウシワケナイ」
変な片言になりながら、謝罪すると、顔を出した龍之介が、溜め息混じりに言った。
「んで、なに」
「体も拭いてないから、お風呂くらいは、入れてあげたらと思って」
「あ~。分かった。分かった。後は、祐介とやるから、お前は向こうに行ってろ」
「うぃ」
リビングに小走りで逃げるのを龍之介が、悪魔のような、ニヤケ顔で見ていたらしい。
リビングの窓を開けて、カウンターキッチンに入り、換気扇を回し、マグカップに、コーヒーを淹れ、タバコに火を点けて、白い煙を吐き出した。
一体、どうした私。
あんな事をされたから、山崎さんの裸を見たら、あんな風に、顔が熱くなってしまったのか。
今まで、愛撫をされてから、相手の裸を見ても、そんな事なかったのに、何故、山崎さんの時は、顔が赤くなるのか。
そんな風に、考えていると、山崎さんの裸を思い出してしまい、頬を赤くして頭を振り回した。
「アチッ!!」
気付けば、タバコが小さくなっていて、フィルターから焦げた臭いが、鼻を突き、慌てて揉み消した。
「何してんだよ」
龍之介の声で、いつの間にか、リビングに来ていたのを知った。
「ちょっと、ボーッとしてただけだし」
苦しい言い訳をしてると、龍之介の後ろから、祐介も現れ、マグカップを指差した。
「僕にもくれない?」
「俺も」
龍之介が、ドスっと、ソファに座るのを苦笑いしながら、見ていた祐介が、リビングのドアに、視線を向けながら言った。
「山崎さんも、どうですか?」
ドアの前には、龍之介たちが持って来たらしい、うぐいす色の浴衣を着た山崎さんが立っていた。
何故、そのセレクトなのか分からない。
祐介に、マグカップを差し出し、視線を向けると、山崎さんは、視線を反らした。
「マコトのコーヒーは、飲めるから大丈夫ですよ」
「まるで、他のは飲めないって、聞こえるんですけど?」
わざとらしく、首を傾げる祐介に、ちょっと強く言った。
「聞こえるんですけど!?」
「ん~」
祐介は、顎に指を添えて、何かを考え込むような仕草で言った。
「紅茶と緑茶は、渋かったり薄かったりで、飲むのに時間が必要だけど、コーヒーだけは、いつも同じ味だから、安心して飲めるよ?」
「どうもすみませんね!!どうせ、私は、インスタントコーヒーしか、淹れられませんよ~だ」
舌をベーっと出して、二つのマグカップを祐介に押し付け、山崎さんに向き直って聞いた。
「インスタントで良ければ、飲みませんか?」
マグカップを見せると、山崎さんは、小さな頷きを返してくれた。
その仕草が、ちょっと可愛い。
マグカップに、粉を入れてお湯を注ぐ。
「砂糖とミルクは?」
首を振る山崎さんに、カウンター越しに、マグカップ差し出すと、持っていた指に、山崎さんの指が触れて、ドキッと心臓が跳ねた。
手を引っ込めそうになったが、思い留まって、大惨事は免れた。
マグカップに口を着けて、コーヒーを飲む山崎さんを見つめていると、視線がぶつかり、何とも言えない感情が湧き上がる。
「…もしもーし。聞こえますかぁ」
目の前で、祐介の手が振られ、私と山崎さんの視界を遮られて、さっきまでの気持ちが薄れると、今度は、激しい苛立ちが湧き起こる。
「なに」
苛立ちを隠さず、そう聞くと、ソファで、ふんぞり返るように座っていた龍之介が、祐介から渡されたコーヒーを飲みながら言った。
「どうゆう経緯で、こうなったのか、ちゃんと説明しろって話」
詳細を説明する気はない。
この二人に、そんな必要ないと思い、今に至るまでの経緯を完結に説明した。
「つまりは、忍さん夫妻に押し付けられたってことね」
「にしても、大きな猫を拾ったもんだな」
山崎さんが睨むと、ソファ近くに移動した祐介が、龍之介の頭を軽く叩いた。
「そんな言い方するなよ。初対面だぞ」
龍之介は、鼻をフンと鳴らして、また、コーヒーを飲んだ。
「まぁ。私が、持ち込んだ事には、変わりないし」
「そりゃね。で?どうするの?」
祐介に聞かれ、山崎さんは、横目で私を見てから、暗い顔で、マグカップに、視線を落とした。
そんな山崎さんの考えが、なんとなく分かった。
「家で良ければ、居てもいいですよ?」
驚いた顔の山崎さんに、小さく微笑んで見せると、その頬が、桃色に染まった。
「そんな事言って。山崎さんにだって、家族はいるでしょう」
「いません」
私に向かって、言ったはずの祐介に、今まで、黙っていた山崎さんが答えた。
「ずっと、施設にいました。施設から出ても、単発の仕事をしながら、一人で生活してました」
「そっかぁ。大変でしたね」
山崎さんは、何かをためらうように、視線を泳がせながら、コーヒーを飲んだ。
そんな山崎さんの背中に、龍之介は、おどけるように言った。
「そして、夢の中で、可愛らしく、喘いでぇっ!!」
お玉を投げ付け、見事、龍之介の顔面に命中すると、鼻を抑えて、痛みに悶え、祐介が鼻で溜め息をついた。
「今度は、それだけじゃ済まないからね」
悶えながらも、何度も頷く龍之介から、山崎さんに視線を戻すと、視線がぶつかり、山崎さんが、耳まで真っ赤なると、共鳴するように、私の顔も熱を帯びていった。
「僕は、龍之介と違うって、思ってるかもしれないけど、そんな風に、見つめ合ってたら、僕でも、良からぬ事考えちゃうよ?」
慌てて、視線を反らして、コーヒーを飲んだ。
「それはそれとして。マコトが言ってた夢の人と、山崎さんは似てるの?」
龍之介と祐介には、夢の事を話していた。
山崎さんを横目で見てから、目を閉じて、あの時の彼を思い出してみた。
「う~ん」
もう一度、山崎さんを見てから、タバコに火を点け、白い煙を吐き出しながら言った。
「似てるっちゃ似てるかな」
曖昧に答えると、祐介は、片眉を引き上げて言った。
「またそうやって、のらりくらりするつもり?」
「別に。のらりくらりなんて」
「なら、僕が、山崎さんを連れてっても構わないよね?」
「なんで?なんでそうなんのよ」
暫く睨み合っていたが、祐介は、お玉のぶつかった鼻を擦りながら、コーヒーを飲んでいる龍之介を横目で見ると、溜め息混じりに言った。
「今日は、このまま帰るけど、電話でもメールでもいいから、ちゃんと話してよ。こっちだって、それなりに、色々と考えなきゃならないんだから」
こめかみを抑えて、祐介は、コーヒーを飲み干し、近くに落ちていたお玉を拾って、ローテーブルに置き、龍之介の顔を覗き込みながら言った。
「いつまで擦ってるつもり?」
祐介が、口角を上げて、ニッコリ笑うと、龍之介は、鼻に触れていた手を離して、コーヒーを飲んだ。
ニッコリ笑ったまま、腕組みして、祐介が見下ろすと、龍之介は、恐る恐る聞いた。
「え~と~。どったの?」
「僕。帰りたいんだけど」
「え~。まだいいじゃん」
その手から、マグカップを奪い、ローテーブルに置くと、腕を引っ張り上げて、祐介は、龍之介を引き摺るようにして、リビングのドアに向かった。
「ちょ!まだ、残ってるんだけど」
「じゃね」
「祐介~」
二人が、リビングから出て行くのを見送って、暫くすると、玄関の締まる音が聞こえた。
この家には、私と山崎さんだけになった。
「うるさくて、すいませんでした」
「いえ」
どうしたらいいか、分からず、黙ってコーヒーを飲み、不意に、祐介たちのマグカップを取りに行こうと、カウンターを出て、ソファに近付いた。
マグカップに触れようと、腕を伸ばしながら、前屈みになると、背中から山崎さんに抱き締められ、首元に顔を埋められた。
「やま!?」
呼びながら後ろを向くと、山崎さんの唇が重なった。
目を閉じている山崎さんの顔しか、見えない。
混乱して、頭が真っ白になった。
歯茎、内頬、上顎、歯の裏、舌の裏、細部に渡り、舐めるようにして、口の中を山崎さんの舌が動き回る。
最終的には、舌を絡めるような深いキスになり、理性が吹き飛びそうになった。
それでも、なんとか、理性を保とうとした。
山崎さんの唇から逃れようと、首を戻そうとしたが、山崎さんの手が、頬に添えられて出来なかった。
それでも、抵抗しようと、山崎さんの手を掴んだが、唇が離れるのと同時に、ソファに押し倒されてしまった。
横向きで、ソファに倒れて、逃げようと、背を向けて、肘置きを掴んだ状態で捕まった。
「やふぁっ!!」
しっかりと回された腕で、逃げられなくなり、呼び掛けようとした時、うなじに、山崎さんの唇が触れ、変な声が出てしまった。
山崎さんの荒い鼻息と、ヌルっとした舌の感覚に、体が震えた。
力も抜けて、私の呼吸も荒くなる。
「ちょ…と…」
首を縮めて、その舌から逃れようとしても、山崎さんは、肩や空いている首に向かって、舐めてきて、その度に、何度も、首を傾けて抵抗しようとした。
「いたっ」
首筋に噛み付かれたが、本当に痛い訳じゃない。
淡い痛みに、山崎さんの頭に頬を寄せると、肩を掴んでいた手が、滑り降りて、服の上から胸を掴んだ。
「あ…ちょ…ぅ…ん…」
ソファに、へばりついて、揉めないようにしたが、首筋が露わになり、また山崎さんの舌が舐めてくる。
「んん…」
首筋を隠すと、隙間が出来て、山崎さんの手が動き、服の上から胸を揉まれる。
「ん…ちょ…まっ…て…」
途切れ途切れに言うと、山崎さんが止まった。
「そ…ゆの…なし…おねがい…」
生まれた熱を逃がそうと、肩で息をしていた。
山崎さんは、うなじに唇を寄せて、軽く、チュっと音を発てると、リビングから出て行った。
起き上がり、襲い掛かる倦怠感に、立ち上がれず、目を閉じて、上を向いていた。
暫くして、けたたましい電話の音が、家中に響き、私は、重い足取りで廊下に出た。
玄関で鳴っている電話の受話器を持ち上げ、耳に当てる。
「はい」
『もしもし』
その声だけで、電話の主が、一番関わりたくない人なのを知り、私は、バレないように、静かに溜め息をついた。
「なんですか」
『この間のお見合い。なんで行かなかったの』
「だから、仕事が忙しくて、行けませんと、お断りしたじゃないですか」
『仕事よりも、アナタの幸せの方が、先でしょう?その為には、ちゃんとした方とお知り合いにならなくちゃ』
「今でも十分幸せです」
『何言ってるの。女として、産まれたからには、良い人と結婚して、ちゃんとした家庭を持って、子供を産む事が、一番の幸せなのよ。後先考えず、今が幸せだから、それでいいなんて甘い考えでいたら、不幸になるわよ?』
わざと大きな溜め息を受話器に向かって、吐き掛けると、電話口でも分かる程、相手が怒り始めた。
『大事な話をしてるの!!ちゃんと聞きな』
「すみませんが、まだ仕事がありますので切ります。もし、本当に大切な話なら、直接、家に来てもらえませんか?私は、母さんのような暇人じゃないですから」
『アナタ!!いい加減に!!』
「それでは」
受話器から母の叫び声が、聞こえていたが、無視して電話を切った。
母と話をするのは、精神的に疲れる。
溜め息をついて振り返ると、いつの間にか、山崎さんが後ろに立っていた。
ビクッと、肩を揺らしてから、その場に屈み、顔を手で覆った。
「山崎さんは、忍者ですか?」
「何故ですか?」
「起きた時もだけど、全然、気配を感じさせないからです」
「あぁ。昔からなんです」
「クセですか?」
「分かりません。無意識ですから」
勢い良く立ち上がり、山崎さんを正面から見た。
「じゃ、鈴でも着けますか」
「嫌です。バレるので」
「意識してんじゃん!!」
山崎さんが、クスクスと笑い、その表情に幼さを感じる。
私も、クスクスと笑うと、山崎さんは、艶やかな微笑みを浮かべた。
その微笑みに、見惚れてしまい、気付けば、山崎さんの腕の中にいた。
優しく、抱き寄せられて、山崎さんの暖かさに、強ばりが緩むと、さっきの映像が目の前に現れた。
「あの…」
「大丈夫。何もしませんから」
頭に頬を寄せて、短い髪を何度も撫でられ、その温かさに身を委ねた。
暫くして、グ~と、空腹を知らせる音が、聞こえて、どちらともなく、顔を見合わせて、笑い合った。
「お腹空きましたよね。何か食べましょうか」
山崎さんの手を引いて、リビングに戻り、買い置きしていたカップ麺を食べた。
「すみません。こんなのしかなくて」
「大丈夫ですよ。仕事って、何されてるんですか?」
「作家です」
「作家?」
「属に言う小説家ってヤツです」
「どんなのを書かれるんですか?」
「ジャンルは問いません。思い付いたのを思うがままに書きます」
「凄いんですね」
「凄くないですよ。やろうと思えば誰でも出来ます」
「そんな事ないですよ。才能がなければ、仕事として成り立ちません」
「私よりも、面白い作品を書いている方は沢山います。そんな方々の中から、私が選ばれたのは、ただ運がよかっただけです」
「運も才能の内ですよ」
「そう言って頂けると救われます」
カップ麺をズルズルとすすり、それ以上、仕事に関する話題はしなかった。
「ごちそうさまでした」
「お粗末様でした」
スープを捨てて、器をゴミ箱に入れ、やかんを火にかけた。
「金山さんの作品、読みたいです」
カウンター越しに、山崎さんに言われ、少し悩んだ。
「どんなのがいいですか?」
「何でもいいです。金山さんのオススメで」
「分かりました。何か探してみます。飲みますか?」
マグカップにコーヒーを淹れながら、聞くと、山崎さんは、首を振った。
「いえ」
「喉、渇きませんか?」
胃の辺りを擦りながら、山崎さんは、子供のように、笑って言った。
「もう、いっぱいです」
「そうですか」
マグカップを持って、キッチンから出ると、山崎さんが、不思議そうに、首を傾げなから、見つめていたのを気付いていたが、私は、そのまま、ドアに向かった。
「部屋に籠ります。冷蔵庫の物は、勝手に使っていいですし、他の部屋を見て回っても構いませんから」
そう言い残して、仕事部屋に向かった。
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