頬を撫でる唇

咲 カヲル

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五話

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十二時少し前。
空が完全に明るくなってから、布団から這い出た。
リビングに向かっていると、バサッバサッと、布を払う音と濡れた布を叩く音がした。
和室から聞こえ、障子を少し開け、隙間から覗くと、スウェット姿の山崎さんが、洗濯物を干していた。
山崎さんは、良い主夫になる。
そう思うと、自然と微笑んでいた。
静かに障子を締め、仕事部屋からマグカップを持って、リビングに向かった。
マグカップを洗って、水を入れたヤカンを火にかける。
お湯を沸かしながら、換気扇を回して、タバコを一本取り出した。
タバコをくわえ、火を点けようとした時、カウンターに、お皿が置いてあるのが見え、首を傾げていると、リビングのドアが開き、山崎さんが入ってきた。

「おはようございます」

一瞬視線を向けてから、タバコに火を点けて、無表情のまま、何も返さなかった。

「昨日の事なんですけど…」

黙ったまま、白い煙を吐き出し、無表情で見つめると、山崎さんは、一瞬だけ、顔を上げたが、すぐ床に視線を落とした。

「悪ふざけのつもりだったんです。怒らせるつもりはなかったんです。年上とか、年下とかで、あんな風になったことがなくて。頭を撫でられたこともなくて。気付いたら、体が勝手に動いていてしまって。それでも、怒られないので、調子に乗ってしまって…その…」

顔を少しだけ上げ、山崎さんは、怒られた子犬のように、悲しい表情を浮かべた。

「あの…」

耳と尻尾があったら、間違いなく、垂れ下がってる。
そんな山崎さんが、可愛らしいと思うと同時に、龍之介の顔が浮かんで、大声で笑ってしまった。

「ごめん。龍之介とそっくり」

「龍之介…さん?」

驚いた顔で、山崎さんが、首を傾げた。
シューシューと、沸騰したヤカンのお湯をマグカップに注いだ。

「昨日来た二人組。ツンツン髪が龍之介で、もう片方は祐介。幼なじみなの」

タバコを消し、カウンターにコーヒーを淹れたマグカップを置き、手の平で促すと、山崎さんは、椅子に座って、コーヒーを飲んだ。

「龍之介も、昔、そんな言い訳してた。でも、人って、言い訳よりも先に、聞きたい言葉があるんだよ?それをくれるかくれないかで、印象なんて簡単に変わっちゃうんだから」

カウンターに、頬杖を着いて、山崎さんと同じ目線になって見つめた。

「私が聞きたいのは、もっと単純だけど、難しい言葉。分かる?」

山崎さんは、自分の持つコーヒーを見つめた。

「自分が悪いと思うなら、やるべき事はやらなきゃ。自分が苦しくなるよ?」

暫く、コーヒーを見つめていた山崎さんが、目を閉じて、呟くように言った。

「ごめ…なさい」

「うん。いいよ」

顔を上げ、目を見開いた山崎さんに、私は、ニコリと微笑んだ。

「一生懸命洗濯干したり、掃除したり、必死になってたみたいだし。それに、山崎さんのおかげで、アイデアも浮かんだし、仕事も、かなり進んだんだ。ありがとうね」

そう言うと、山崎さんは、頬をピンク色にして、安心したように、優しく微笑んだ。

「どういたしまして」

「でも。もう、あんな風にするのはやめてね?」

「はい」

微笑んだまま、返事をした山崎さんは、マグカップに口を付けた。
私も、自分のマグカップを持ち上げ、コーヒーを飲む。

「朝ご飯は、どうしますか?」

リビングの壁に掛けてある時計を確認し、色々と考え、カウンターに置いてあるお皿を引き寄せた。

「いいや。もうすぐお昼だし。山崎さんの今日の予定は?」

お皿を流しに入れ、タバコを一本取り出して火を点けた。

「そうですねぇ。どうしましょう」

白い煙を吐き出しながら、悩むように、顎に手を添え、擦りながら、そう言った山崎さんを見て、疑問が浮かんだ。

「ヒゲって、剃ったの?」

「なかなか、生えないんですよ」

「毛、薄いの?」

「そうでもないんですけど」

「へぇ。そういえばそうだよね」

山崎さんの脇に、真っ黒な毛が生えていたのを浴槽で見た。

「ヒゲだけ生えないってのも、不思議だね」

「そうですね。でも、ヒゲ剃りの手間が省けて楽です」

「そうなんだ。でも、ヒゲ剃りは、必要だよね」

タバコを揉み消し、残りのコーヒーを飲み干すと、山崎さんは、首を傾げて言った。

「そうですけど。なんでですか?」

「出掛けるから」

逆に首を傾げて、私の言ってる意味を理解しきれない様子の山崎さんに、ちょっと笑いそうになった。

「今日、用事があって出掛けなきゃないし、食品も、ほとんどないから、買い物に行こうと思って。そのついでに、山崎さん家に必要な物を取りに行こうかと、思ってたんだけど」

マグカップとお皿を洗って、水切りに伏せて置くと、山崎さんは、目を見開いていた。

「昨日、今日で悪いんだけど、連れてきたいんだよね。どうかな?」

「大…丈夫です」

「なら、着替えようか」

「でも、着替え持ってないです」

「確か、どっかに男物が、あったような。ないような」

そう言いながら、リビングを出ようとすると、山崎さんも立ち上がった。

「和室に居て」

急いで、寝室に向かい、ドアを開けたまま、箪笥やクローゼットをひっくり返すように、中身を出して見たが、男物はなかった。
散らかしたのを放置して、ドアを締め、和室の障子を開けると、山崎さんが振り返った。

「ちょっと失礼」

山崎さんの立つ窓から、サンダルを履いて、庭の片隅にある物置に向かいながら、山崎さんに手招きをした。
山崎さんも、置きっぱなしのサンダルを履いて、私の後ろを追うように、物置に向かった。
物置の引き戸を開け、積み上げられた段ボールの前に並んで立った。

「凄い量ですね」

「祖母が亡くなってから、片付けてないんだよね~」

物置に入り、山崎さんも見ずに、そう答えて、中身を確認しながら、ダンボールを下ろした。

「あった」

孤立するようにあった段ボールに、手を伸ばして、前屈みになった時、後ろから腕が伸びてきて、背中に重みが掛かった。

「何してるの?」

抱き付く山崎さんを肩越しに、横目で見て、そう聞いたが、山崎さんは、黙ったまま、背中に耳を付けていた。
暫く、そのままでいたが、時間が気になり、段ボールから、男物のYシャツ、ジーパン、靴下を取り出して、山崎さんを横目で、見ながら言った。

「もしも~し。そろそろ、出なきゃないんだけど」

背中にオデコを擦り付け、甘えてる山崎さんが可愛い。

「もう少し」

猫が喉を鳴らしながら、甘えるような視線は、すごく可愛いのだが、流石に時間が危うい。

「ちょっと微妙。この体制辛いし」

「なら、帰ったら、もう少しだけ、こうしてもいいですか?」

瞳を潤ませ、不安そうな顔をする山崎さんに勝てなかった。

「…帰ってきたらね」

山崎さんは、嬉しそうに目を細めて、頬に軽くキスすると、すぐに離れた。
不意打ちで、頬が赤くなってしまった。
山崎さんに洋服を渡し、顔を隠すように物置から出た。
山崎さんが着替えてる間、軽く化粧をし、大きめのトートバッグに原稿を入れ、ジャケットを着た。
そのトートバッグとキーケースを持って、玄関に向かうと、着替え終わった山崎さんが、下駄箱に寄り掛かって待っていた。

「どうぞ」

下駄箱から靴を取り出して、手で促すと、その靴を履く山崎さんを見つめた。
今更ながら、山崎さんは背が高い。
どんな服装をしても、似合ってしまう。
ただの白いYシャツに、ジーパンを履いてるだけでも、お洒落な気がした。

「どうしました?」

見惚れた時に、声を掛けられ、内心、ちょっと焦った。

「何でもない」

玄関の戸を開けながら、そう答えると、山崎さんは、悪戯を思い付いた子供のように微笑んだ。

「惚れましたか?」

「ない」

「カッコいいですか?」

「知らない」

「私の事好きですか?」

「分からない」

「行くのやめますか?」

「無理」

「触っちゃダメですか?」

「ダメ」

「意地悪好きですか?」

「嫌い。てか、なに?この会話」

「何か一つでも、うんって、言ってもらえるかなと思いまして」

駐車場に向かいながら、隣に並んで、そんな会話をしていると、山崎さんは、私の頬に、チュっとキスをした。
その行動に驚きながら、山崎さんの肩を殴ると、山崎さんが顔を歪めた。

「次やったら、二度と家に入れないから」

「はい」

「あらぁ~。マコトちゃん。こんにちは」

駐車場横の塀の向こう側から、隣のオバさんが声を掛けてきた。

「どうも」

オバさんは、ニコニコと笑っていた。

「お仕事?」

「はい」

「そうぉ。それで、そちらの方は?」

「初めまして。山崎です」

隣に並ぶと、山崎さんは、お辞儀をして、優しく微笑んだ。
オバさんの頬がピンク色になる。

「どうも。隣の日向です。マコトちゃんの恋人かしら?」

「知り合いです!!」

強く言うと、二人に、クスクスと笑われた。

「そうぉ。マコトちゃん共々、よろしくね」

「私の方こそ、よろしくお願いします」

そう言った山崎さんを見上げて小さく呟いた。

「何、考えてんだか」

「礼儀ですよ。紳士ですから」

「ドコがよ。ガキんちょ」

「そんな、嫉妬しないで下さい」

「してないし」

微笑む山崎さんを横目で睨むと、オバさんが笑って言った。

「仲良いのねぇ。新婚さんみたい」

顔が熱くなった。
真っ赤になった顔で、オバさんを見ると、オバさんは、ニコニコと、笑ってるだけだった。
何やら思い付いたように、山崎さんは、私の肩に腕を伸ばしながら言った。

「そう言って、頂けると嬉しいでっ!!」

そんな山崎さんの横腹に、肘鉄を食らし、オバさんに向き直って言った。

「すみませんが、そろそろ行かないと」

「あら。ごめんなさいねぇ。行ってらっしゃい」

「行ってきます。ほら。早く乗って」

鍵を開け、山崎さんの丸まった背中を押して車に乗り込み、エンジンを掛けた。

「ばか」

「いいじゃないですか。少しくらい」

助手席の山崎さんを横目で見てから、溜め息をついて、前に視線を戻した。

「あれ。絶対、さっきの見てたから、声掛けてきたんだからね」

「でしょうね」

「知っててやったな!!」

「痛っ!!」

肩を殴ると、山崎さんは、背中を丸め、助手席で小さくなった。
その姿がおかしくて、ケタケタと大声で笑った。
肩を擦りながら、山崎さんも笑って、和やかな雰囲気で、待ち合わせ場所に車を走らせた。
コインパーキングに車を停め、山崎さんと並んで、雑居ビルのコンクリートの階段を降りた。
木製のドアを開け、中に入ると、聞き慣れた声が飛んできた。

「おぅ」

長い前掛けをした龍之介が、銀製のトレーを持って、カウンターに寄り掛かっていた。
手を軽く挙げた時、数少ないテーブル席の奥から、同じ格好の祐介が近付いてきた。

「いらっしゃい。もう来てるよ」

「奥?」

「うん」

「アイスコーヒー。彼、お願い」

山崎さんを祐介にお願いして、奥のテーブル席に向かった。

「こちらへ。どうぞ」

祐介が、カウンター席に促し、静かに椅子に座って、奥のテーブル席に振り返った。
互いにお辞儀をして、席に着くと、トートバッグから、原稿を取り出して、相手の女性に差し出した。
女性は、その原稿を受け取り、真剣な顔で、中身を読み始めた。
そこに、龍之介が黒い液体が入ったグラスと、湯気の出るカップをトレーに乗せて、持って行き、テーブルに置いた。

「何にしますか?」

驚きながら、声のした方に振り向くと、祐介が、メニューを差し出して、ニコニコと笑っていた。
そのメニューを受け取り、開いて見ると、昔懐かしい名前が並んでいた。

「オススメは何ですか?」

「マコトが、頼むのはオムライスとコーヒーだよ」

「では、それをお願いします」

「かしこまりました」

メニューを受け取り、祐介は、カウンターの奥に伝票を持って行った。
龍之介が、少し離れたカウンターに寄り掛かると、祐介も戻った。

「今日はドコ?」

「女性ファッション誌だと」

「ファッション?」

そう聞き返すと、祐介が、指を立てて言った。

「ファッション誌の企画で、読み切りの小説を載せるらしくて、その担当さんとの打ち合わせ」

「そんな事までするんですか」

「紹介したファッションを組み込んだ恋愛小説が欲しいんだとさ」

「それで、出来上がったから確認しているんですか?」

「そうゆうこと」

三人で揃って、テーブル席に視線を向けた。

「凄いんですね」

「マコトは、凄いじゃ物足りないよ。色々足りないけどね」

その様子を見ていると、カウンターの奥から、オムライスを持った男性が、出て来て、龍之介の頭を叩いた。

「仕事しろ」

「った!!すみません」

急いで、龍之介がカウンターの中に入って、コーヒー豆を挽き始めると、男性は、目の前にオムライスを置いた。

「ありがとうございます」

お礼を言うと、男性は腕組みした。

「お前が、マコトん所の居候か?」

首を傾げると、祐介が、目の前の男性を指差した。

「この人は、佐々木満(ササキミツル)さん。僕たちの親の大学時代の後輩で、僕と龍之介の雇主。それで、マコトの実の父親と、龍之介の父親が、親友で、僕の母親と龍之介の母親が、幼なじみ。僕の父親は、マコトと龍之介の父親の先輩。僕達の良き兄的な存在だよ」

祐介の説明に、違和感を覚えた。
祐介と満さんを交互に見ていると、前に置かれたオムライスの隣に、カップが静かに置かれた。
その腕を伝い、視線を上げると、龍之介が、睨むようにして見下ろしていた。
龍之介は、カップから手を離し、またカウンターに寄り掛かりながら、テーブル席の方に視線を向けた。
コーヒーを一口飲んでから、スプーンを手に取り、オムライスを口に入れた。

「どう?」

「おいしいです」

「そら、良かった」

チキンライスを溶き卵で、包んだだけのシンプルなオムライスは、懐かしいような気がした。
昔ながらの味に、舌鼓を打っていると、優しく微笑んでいる祐介と満さんと違い、龍之介は、テーブル席を見つめたまま、無神経な一言を発した。

「ヤったのか?」

驚きで息を飲むと、口に入れていたオムライスを飲み込んでしまい、小さく噎せた。

「バカたれ。そんなどストレートに、聞く奴がいるか」

満さんが、龍之介の頭を叩くと、祐介は、カウンターに頬杖を着いた。

「でも、僕も気になるな」

ニコニコと笑いながら、見つめる祐介から、視線を反らし、テーブル席を見た。
怖い程、真剣な表情から、オムライスに視線を落とし、目を閉じると、満さんが溜め息をついた。

「お前らは。なんで、いつもそうなんだか」

「だって、聞きたいし」

「分かるけど、聞き方があんだろ」

「どう聞けばいいんすか?」

「なんとなく、それとなく聞け」

「じゃ、マコトと寝た?」

「同じだからな?さっきと、どう違うんだ?あほ」

「満さん。意味わかんない」

「お前らの方が、意味わかんない」

「今の言い方は若作りすか」

「違うわ。ボケ」

「うわぁ~。イヤな感じ」

「お前らな~」

「ヤってないですよ」

そう言うと、じゃれ合っていた三人は、驚いて目を見開いた。

「弄らせてはくれましたけど、それ以上はしてないです。無理矢理、捩じ込んでやろうかとも思いましたけど、可愛い姿を見れただけでも、まぁいいかなと思いまして」

食べるのを再開すると、祐介は、手から顎を離して、顔を近付けた。

「うそでしょ?」

「そんな事に嘘ついて、どうすんだよ」

代わりに、満さんが答えると、祐介は視線を向けた。

「だって、あのマコトだよ?そんな事あるワケないよ」

「本人はしてねぇって、言ってんだから事実だろ」

「でも…」

「ヤってないのに、ヤったってんなら、分かるけどよ。ヤったのに、ヤってないって言うか?」

満さんに、指差されて、考えるようにして、カウンターに、視線を落とした。
そんな祐介の隣で、黙々と、オムライスを食べ続け、完食した皿に、スプーンを置いて、コーヒーを飲んだ。
その横顔を見ていた龍之介は、満さんの視線に気付き、視線を向けた。
満さんは、龍之介を指差して聞いた。

「言うか?」

「言わないっすね」

「だろ?なら、ホントにヤってねぇんだよ」

「そう…だよね」

「まぁ。背中の傷は見ちゃいました」

微笑みを浮かべると、鼻を鳴らして、龍之介が言った。

「そんなの、皆、見てるっつーの」

「ちゃんと、理由も聞きました」

三人は、目を見開いた。
そんな三人の視線を無視し、ゆっくりコーヒーを飲んだ。

「それこそ嘘だろ?」

「小学生の時に、窓ガラスに、突っ込んで出来たって言ってましたよ?自分が、悪いみたいな言い方してました」

呟かれた質問に答えると、祐介は、カウンターに伏せ、龍之介は、天井に顔を向けて、トレーで顔を隠した。
満さんだけは、腰に手を当てて驚いていた。

「随分、特別扱いされてんだな」

「本当に、そうなんでしょうか」

「特別じゃなきゃ、過去の苦しい思い出なんか話さないだろ?」

「私は、彼女が優しいから、話してくれたんだと思ってます。もし、特別だと思ってくれてるなら、もっと触れてくれるじゃないかって思うんです。でも、彼女は、私に触れてくれない。逆に、突き放されてるような気がするんです。それは、私が、邪魔だからじゃないでしょうか」

カップを両手で、包むように持ち、胸の奥にあった不安を口にした。
それを聞いて、祐介と龍之介は、小刻みに肩を揺らし、満さんは、困った顔をしながら頭を掻いた。

「それな?アイツなりのなんつ~か、その…」

満さんが、腕組みをして言い淀むのを見て首を傾げると、龍之介が笑いながら言った。

「お前、マコトに嫌われてんだよ。うん。そうだっ!!」

満さんが思い切り頭を殴ると、龍之介は、床に屈んで悶え始めた。
驚きながら、龍之介を見下ろしていると、祐介がニッコリ笑いながら言った。

「それは、マコトなりの愛情表現なんだよ」

祐介に向き直ると、満さんが、腕組みして、目を閉じたまま頷いた。

「アイツは、本気になるのが、怖くて。特別な感情を抱きそうになると、極力触らなくなるんだよな」

満さんを見つめると、祐介が優しく微笑んだ。

「マコトは、大切にしてた人を失い過ぎて、無意識に、自分が大切にしたいって思うと、触れられなくなるんだ。でも、聞かれた事は、ちゃんと答えてくれる。だから、そんなに不安にならなくても大丈夫だよ」

祐介に言われ、不安が、少しだけ解れた気がした。
口角を上げて微笑むと、満さんが溜め息をついた。

「他人の気持ちには、敏感なのになぁ~。自分の気持ちにも、それくらい敏感でいればいいのに」

「そう思うなら、言えばいいじゃん」

「言えたら、こんな苦労しないだろ」

「そうだ。無神経な龍之介なら、言えるんじゃない?」

「お前が言え」

暫く、黙っていた三人は、同時に溜め息をついて、肩を落とした。
首を傾げて、隣で肩を落とす祐介を見ていた。

「因みに、僕達は、ライバルだからね」

急に、指差されながら、そう言われ、何の事を言われてるのか分からなかった。

「俺も祐介も、昔からマコトが好きだ。それを気付いてるマコトは、俺らにも触れてこない。だから、俺らは、ライバルだってのを言いたいんだとさ」

立ち上がりながら、龍之介が、祐介の言いたい事を代弁して、理解すると、満さんが、溜め息混じりに言った。

「波乱だな」

「何が?」

驚く二人に、視線を向けられ、逃げ腰のような格好をされた。

「終わったんですか?」

そんな中、山崎さんは、嬉しそうな顔をして振り返った。
祐介に、シッシッと、手を振って、移動させると、カウンターの椅子に座り、タバコを一本取り出した。

「うん」

「どうよ」

「めんどくさい」

タバコに火を点けながら、満さんの問いに答えると、山崎さんが優しく微笑んで言った。

「お疲れ様です」

「ホント。めちゃくちゃ疲れたよ。カフェモカ」

灰皿が置かれ、祐介が、カウンターの中に入り、機械の前に立って、カフェモカを作り始めた。

「食べないんですか?」

山崎さんに言われて、朝から何も食べてないのを思い出したが、さっきの編集者との打ち合わせで、食欲が失せていた。

「いらない」

「ちゃんと、食べないと辛くなりますよ?」

「ん~。分かってるんだけど、頭ん中が、さっきの話でいっぱい」

灰皿にタバコを押し付けると、カフェモカを淹れたカップが、目の前に置かれた。
一口飲むと、胃に温かな液体が、流れ込んで、体の強張りが、解れていくような気がした。

「飲み終わったら行こうね」

「はい」

「どっか行くの?」

顔を近付ける祐介に、そう聞かれ、体を山崎さんの方に傾けて答えた。

「山崎さん家」

「へぇ。喰われんなよ」

龍之介を睨み付けて、残りのカフェモカを飲み干すと、山崎さんも、コーヒーを飲み干した。
二人で立ち上がり、トートバッグから財布を取り出しながら、満さんを見た。

「いくら?」

「千二百五十円」

カウンターに、代金をピッタリ出して、財布を仕舞い、山崎さんと一緒に、コインパーキングに向かい、車に乗り込んだ。

「家どこ?」

「新垣(アラカ)荘です」

「どこ!?そこ」

「ここからですと、日和台に向かって…」

「ごめん。ナビに住所入れて」

山崎さんが、カーナビに住所を打ち込み、ルート通りに、車を走らせると、三十分くらいで到着した。
意外と、近くに住んでいたらしい。
路肩に、車を止め、降りようとした時、携帯が鳴った。

「何階?」

「二階の二百三です」

「分かった。先行ってて」

山崎さんが、アパートの方に歩いて行くのを見送ってから、受話ボタンを押した。
電話は、私を悩ませてる官能を書けと言った編集だった。

『も~しも~し』

「何かしました?」

『ん~。あんな無理言っちゃったけど、どうかなぁって思って』

「それはどうも。結構順調ですよ?」

『やっぱり、マコトちゃん天才だわ。これで、完璧になったわね』

「完璧ってなんですか。用件は、それだけですか?」

『それだけじゃないわよ。この間、発売したホラー小説ね?実写になるわよ』

「実写?映画ですか?」

『そうなの。それでね?良かったら、マコトちゃんも打ち合わせに顔出さない?』

「え~。イヤですよ」

『まぁ。そう言わずに。少~しだけでいいから。お願いよ』

私は、甘えられるのに弱いみたいだ。

「…少しだけですからね?」

『本当?良かった。主人公を演じる女優さんね。アナタのファンなんだってぇ』

「へぇ」

『あと、部下にね?マコトちゃんのファンの子も連れて行くから、サインしてあげて欲しいなぁ』

「そっちがメインですか」

『フフフ。それじゃ、スケジュールが決まったら、連絡するわね。じゃぁねぇ』

「はい。失礼します」

電話を切って、階段を登ると、山崎さんが腕組みをして、手すりに寄り掛かって待っていた。
近付くと、組んでいた腕を取り、体制を直す山崎さんに、私は、首を傾げて言った。

「待ってなくてもよかったのに」

山崎さんは、優しく微笑んだ。

「チャイムがないので。鍵は、借りたので入りましょうか」

山崎さんが、大家さんから借りた鍵でドアを開け、先に入るように促した。
狭い玄関に入ると、目の前に畳が広がり、家財道具は、ほとんどなく、部屋の片隅に、段ボールが一つだけ置かれていた。
生活感のない部屋に、ちょっと驚いた。

「ここ。もうすぐ取り壊しなんです」

部屋を見渡すと、確かに、かなり古くて、天井や壁に、シミや無数の細かなヒビが入っていた。

「次は、見付けたの?」

山崎さんは、ダンボールの蓋を開け、中身を確認しながら、苦笑いしているのに、まだ探してないのだと思った。

「仕方ないなぁ。見付かるまで家居る?」

「そのつもりですけど?」

悪戯っ子のように笑う山崎さんには、敵わない。

「最初から、そのつもりだったのね。なんか、騙された感があるんですけど?」

「だって、最初に言ってくれたじゃないですか」

「あれは、そんな意味じゃないから」

「でも、言ってくれましたし」

「もう。早く行くよ」

「はい」

ダンボールを持って、二人で部屋を出た。

「鍵」

「ポケットです」

ジーパンのポケットに、手を突っ込んで取り出し、鍵を掛けると、山崎さんと並んで、階段に向かった。

「そう言えば、さっきの電話は、何だったんですか?」

「仕事」

「ならよかったです。また男からだったら、どうしようかと思いました」

「私は、どんなイメージなのよ」

「逆ハーレムで、ふんぞり返るお嬢様です」

「どないやねん」

階段を降り始めると、一人の女が、階段を登り始めた。
一列に並んで、笑いながら、その女性とすれ違う。
帽子を被っていて、女の表情は、分からなかったが、口元から暗い印象を受けた。

「ススム?」

振り返ると、すれ違った女が、山崎さんを見下ろしていた。

「ケイコ…」

呟かれた名前に、私の中で、どす黒い嫉妬が蠢いた。
私は、さん付けなのに、女は、呼び捨てなのが、気に入らない。
カツンカツンと、靴音が近付くのに、視線を向けると、女が、山崎さんに近付いた。

「ススム…無事だったのね。心配したのよ?急に居なくなって…今まで何処にいたの?」

「なんで…」

「だれ」

女の勢いに、困った顔をしている山崎さんの背中に、不機嫌を隠さずに聞いた。
振り返った山崎さんは、焦っているような、悲しいような、複雑な顔をしていた。

「彼女は…」

「樋口圭子(ヒグチケイコ)です。ススムの恋人です」

焦ったように、振り返った山崎さんの背中を見つめ、鼻で、小さく溜め息をついた。
やっぱりか。
結局、こうなるのか。
その気持ちが、素直に感じてたものを否定した。
圭子さんは、そんな山崎さんも気にせず、私に向かって、続けて言った。

「アナタが、ススムを助けてくれたんですね?ありがとうございます。ススムが、急に居なくなって、心配で、毎日、こうして、ここに来ていたんです。連れて来てもらえて、本当にありがとうございました」

帽子を取った圭子さんを見て、全ての感情が消え去った。
圭子さんは、私と同じくらい、髪が短くて、よく見ると、服装も、私と似ていた。
そうだよね。
若いもんね。

「ケイコ。私達は、もう…」

「よかったわね」

山崎さんが、圭子に、何か言おうとしたのを遮って言った。

「心配してくれる人が居るなら、そう言ってくれれば、もっと早く連れてきたのに。それじゃ。さようなら」

足早に階段を降りて、そのまま車に向かった。

「待って!!」

ダンボールを投げ捨て、追ってきた山崎さんの手を叩き落とした。

「私には、あんな風に言ってたのに。結局、自分も同じ事をしてたんじゃない」

「違います。彼女とは、もう別れてます」

「本人は、そうじゃないみたいだけど?」

「それは…」

「結局、アナタも、陽一や他の男と一緒。私は、都合のいい女だった」

そう言うと、山崎さんの瞳が、悲しそうに揺れた。

「皆、自分の事を棚に上げて、私の事ばっか。甘えたいなら、彼女に甘えなよ。私は、アナタらの玩具じゃない」

車に乗り込んで、急発進させた。
一筋の雫が頬を伝い落ち、ジーパンを濡らす。
鼻をすすり、サイドミラーで、後ろを見ると、山崎さんが、その場に立ち尽くしていた。
その隣に、圭子さんが、寄り添うように立つのを見て、私は、今にも泣き崩れそうになった。
涙で滲む視界で、必死に車を運転した。
どこをどう走ったか、分からないが、前方の信号機が、赤に変わり、ハンドルに、オデコを擦り付けて涙を流した。
こんな気持ち初めてだった。
今までは、相手が、どんな状況でも、気にしなかった。
山崎さんに、恋人がいた事や恋人がいるのに、体に触れてきた事が、かなりショックだった。
乱暴に涙を拭いて、携帯を取り出し、龍之介の番号を表示したが、手を止めた。
すぐに祐介の番号に切り替えて、発信ボタンを押した。

『はい?』

「五時半、いつもの居酒屋」

それだけ言って、携帯を切ると、目的も決めずに、車を走らせた。
五時少し前。
コインパーキングに車を停め、歩いて、愛用している居酒屋に入った。
一番奥の個室で、一人でお酒を呑み始めて、二十分くらい過ぎると、祐介が来て、向かいに座った。

「珍しいね?」

その問いに答えず、グラスに残っていた焼酎を飲み干して、店員を呼んだ。

「おかわり」

「緑茶で」

「かしこまりました」

店員が戻って行くと、祐介が、指差して言った。

「なんかあった」

私は、祐介から視線を反らした。

「べつに」

そう言うと、祐介は、周りをキョロキョロ、見渡して、個室の出入口の方を向いた。

「彼は?」

「しらない」

「一体、どうしたの」

「なんでもない」

「あのさ~…」

「お待たせしましたぁ」

祐介が、文句を言おうとした時、店員が、焼酎と緑茶のグラスを持って、戻って来た。
グラスを置いて、店員が居なくなると、すぐに焼酎を呑んだ。

「何杯目?」

「わかんない」

「マコト。ただ、僕は、居るだけに呼ばれたの?」

「ん~?違う」

「いつまで、そうやってるの?」

「う~ん」

「いい加減話したら?僕とマコトの仲なんだから」

焼酎を呑んでから、祐介に、ポツリ、ポツリと呟いた。

「山崎さん家に、行ったら、もうすぐ、アパートを取り壊すから、家に来ればいいとか、私のイメージとか、くだらないこと話してたら、山崎さんの彼女が、現れて、その人が、私に、凄く、似てて、結局、私は、捌け口にされてたんだって、思ったら、なんだか、ムカついて、置いて、来たら、妙に、悲しくて、今まで、そんな風に、思った事なんて、なかったのに、家に、居るのも、寂しいから、呼んだ。私って、なんなんだろ」

グラスを持ったまま、グデっと、テーブルに頬を着いて、寝そべると、祐介が、溜め息をついた。

「マコトはマコトだよ?」

「そうじゃなくてぇ、周りにとって、なんなんだろってこと」

「周りって?」

「例えば、祐介や龍之介は、私をどう思う?」

「めんどくさい、酔っ払い」

「今の状況じゃなくてぇ。もういい」

グラスを傾け、一気に半分まで飲み、追加を頼んだ。
そんな感じで、お酒を飲み続け、二時間が経過すると、私は、完全に酔っ払って、祐介に連れられて、コインパーキングに向かった。
キーケースを渡し、祐介の運転で家に帰った。
リビングに連れて来られると、ソファに座らせられた。
祐介は、コップに水を入れて、持ってくると、私の前に突き出した。
それを受け取ろうとしたが、手が滑り、落としそうになる。

「もう。しょうがないなぁ」

祐介が隣に座って、水を飲ませてくれようとしたが、上手く飲めなかった。
唇の隙間から、水が滴り落ち、祐介は、溜め息をついた。

「ほら。ちゃんと飲んでよ」

また水を飲もうとするが、さっきと同じで、どうしょうもなかった。

「飲まないの?」

「のむ」

「じゃ、ちゃんと飲んで」

「のめない」

「そんな変な声で言っても、飲めないから」

「ん~。のむぅ~」

そう言って、肩に頭を乗せると、祐介は、口に水を含み、唇を重ねた。
冷たい感覚が、口内に少しずつ、入って来るのを飲み込んだ。

「もっとぉ」

含んでいた水が無くなり、唇を離した祐介に、ねだるように言うと、また、水を含んだ唇が重なり、無意識に袖を掴んでいた。
だが、口の中の水が無くなっても、祐介の唇は離れなかった。
口内に侵入した祐介の舌と私の舌が、絡み合い、火照った体が、更に熱くなる。
コップをローテーブルに置き、祐介に押し倒され、至近距離で見つめ合った。
私を見つめる祐介は、苦しいそうだった。
耳を舐められると、息が荒くなる。
ハイネックの裾から、祐介の手が侵入し、素肌を撫でた。
お酒の力もあって、私は、その手に体を捩った。

「ん…」

胸を掴まれ、喘ぎと吐息を混ぜて吐き出し、袖を掴む手に力が入った。
祐介の指が、起ち上がった乳首を撫でた。

「んん…」

声が震え、下着が湿り始めた。
頬に唇を寄せ、優しく撫でるように、触れると、祐介の荒い鼻息が、頬に掛かる。
撫でるように、脇腹に触れられる。
全てが熱い。
ジーパンのボタンが外され、チャックが降りた感覚で、我に返った。

「ゆう…す…け…」

名前を呼ぶと、祐介の顔が、至近距離に見えた。

「ごめ…」

謝ろうとしたが、祐介の手は止まらなかった。

「ちょ…ま…やめ…」

ジーパンが下げられそうになり、祐介を睨んで、掴む肩に、爪を食い込ませた。
だが、祐介は、顔を歪ませるだけで、止まらなかった。

「祐介!!」

「マコトが悪いんだよ!!」

やっと、手を止めた祐介は、また、苦しそうに眉を寄せた。

「マコトは、僕や龍之介の気持ち、知ってるんでしょ?マコトは、そうゆう人だって、分かってる。分かってるけど…でも…辛いよ…自分の気持ち…押し込めて…側にいるのは…辛すぎる…」

祐介の目元から、涙が零れ落ちた。
その腕の中に、私という存在を閉じ込めるように、抱きしめた。
そんな祐介に、私まで涙が出る。
肩に顔を埋める祐介に、見られないように、天井を見つめて涙を流した。
汚れているはずなのに、心の中の片隅には、純情で、純粋な部分があるのを知った。
私は、二人に、どれだけの苦しみを与えたのか。
どれだけ、二人は、その哀しみに染まったのか。
無神経なのは私の方だ。
知ってた。
二人が、想っていてくれてるのを分かってたのに、私は、色んなことを話していた。
つくづく、私は、自分勝手でワガママだ。
せめてもの罪滅ぼしだと思い、祐介が、泣き止むまで、ずっと腕の中にいた。
私という存在が、与えた哀しみならば、少しでも、その哀しみを癒したいと思い、祐介の背中をそっと撫でた。

「ごめんなさい」

謝ると、祐介の背中が丸まった。
声を殺して、泣き続けた祐介は、疲れて寝てしまった。
体を捩り、無理矢理、祐介の腕の中から抜け出して、和室から毛布を持って来た。
祐介に毛布を掛け、ソファに膝を着いて、その涙の跡に触れた。
嬉しい反面、とても怖い。
ハッキリ言われた訳じゃないけど、人に好かれるのは嫌じゃない。
でも、その想いを受け入れたら、また、皆が、消えてしまいそうで怖い。

「ありがとう」

祐介の頬にキスをして、リビングを出た。
洗面所に向かい、頭からシャワーを浴び、Tシャツとステテコに着替え、寝室で、頭から布団を被り、声を殺して泣いた。
自分勝手で、自己中心的で、自分の事ばかりで、周りを惨めにする。
そう思うと、色んな事を思い出して、涙が溢れて止まらない。
だが、いつの間にか、眠っていたらしく、太陽の光で目が覚めた。
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