頬を撫でる唇

咲 カヲル

文字の大きさ
6 / 16

六話

しおりを挟む
リビングに行くと、祐介の姿はなかった。
郵便ポストから、放り込まれたキーケースと新聞を取り出し、下駄箱の上に、二つを投げ捨てて、リビングに戻った。
コーヒーを淹れながら、タバコを吸い始めると、昨日の事を思い出した。
自己嫌悪に、溜め息をついて、タバコを揉み消し、マグカップを持って、仕事部屋に向かった。
パソコンの電源を入れると、メールマークが点灯していた。
椅子に座りながら、メールを開くと、昨日の編集から、打ち合わせの連絡だった。

Dear.マコトちゃん。
お疲れ~。
早速、打ち合わせなんだけど。
土曜、夜の七時半に決まりましたぁ~。
迎えに行くから、七時には、準備しといてねぇ。

顔文字が所狭しと並ぶ、そのメールを閉じ、書きかけの官能小説を開いた。
書けない。
何も浮かばない。
何も考えられない。
昨日の山崎さんの一件から祐介のことまで、頭の中をグルグルと、駆け巡り、私の意欲を叩き壊す。
苦しくて、哀しくて、淋しくて、胸が張り裂けそう。
昨日までは、感じていた人の温もりが消えてしまった。
背もたれに身を投げ出し、天井を見上げて、そんな風に、思っていると、何だか笑えてきた。
本当に、私はバカだな。
官能小説を閉じ、昨日、打ち合わせをした女性ファッション誌の読み切りを開き、文章の手直しを始めた。
書き直した文章をUSBにコピーしている間、ステテコをジーパンに履き替え、Tシャツの上にパーカーを着た。
コピーが終わったUSBを持って、車に乗り込み、担当さんに、電話を掛けてた。

『もしもし』

「可奈さん?今大丈夫ですか?」

『えぇ』

「読み切りの修正終わったんで、確認してもらえますか?」

『もうですか!?』

「早い方がいいかなと思ったので。今から大丈夫ですか?」

『今からは、ちょっと…』

「USBにコピーしたんで、時間ある時に確認して下さい」

『いいんですか?他の日取りにした方が…』

「昨日みたいにするよりも、コピーを渡して、他の仕事の合間に、確認してもらった方が、私としては、楽なんですよ」

『そうですか。分かりました。ご自宅まで伺いますか?』

「いえ。今から、そちらに向かいます」

『分かりました。お待ちしてます』

「はい。宜しくお願いします」

電話を切り、すぐに車を走らせ、雑誌社のオフィスがあるビルに、立ち寄り、USBを渡して、満さんのお店に向かった。
コインパーキングに車を停め、満さんのお店のドアを開けると、龍之介と祐介の姿が見えた。
私は、視線を反らして、カウンター席に座った。

「んだ?」

「いつもの下さい」

満さんに、オムライスとコーヒーを頼んだ。

「はいはい」

やる気のない返事をしてから、満さんは、カウンターの奥に行きながら、龍之介に声を掛けた。

「コーヒーな」

「うっす」

龍之介がカウンターに入り、コーヒーを作り、満さんがカウンターの奥に入り、オムライスを作り始める。
なんとなく、祐介を見ると、左頬が少し腫れていた。

「どうしたの?」

自分の左頬を指差して、聞くと、祐介は、口角を上げて、微笑みながら答えた。

「ちょっとね」

首を傾げて、祐介から視線を反らすと、コーヒーカップが置かれ、龍之介の右手には、テーピングが巻かれていた。
龍之介が、祐介を殴ったのか。
私が原因だ。

「お前のせいじゃねぇよ」

私は、どんな顔をしてたんだろう。
顔を上げると、祐介が苦笑いした。

「寝坊しちゃったんだよね」

「ピーク迎えても来ねぇし、淳也の奴に、急遽ヘルプ頼んだ」

淳也とは、高校時代の後輩の如月淳也(キサラギジュンヤ)君のことで、人懐っこくて、可愛くて、たまに、ここを手伝ってる。

「如月君、来てたんだ。久々に会いたかったなぁ~」

「僕が来たら、すぐ帰っちゃったよ」

「でも、そんな事で殴らないくてもよくない?」

「そんだけなら、別に殴んねぇよ。ピークのど真ん中で、電話してきやがって。早く来いっつたのに、つい、さっき来やがって。しかも、遅刻の理由が、寝坊しただったのが、来たら、途中で女に捕まったってんだぞ?」

「ホントだから」

「ざけんなよ!!こっちは死ぬかと思ったんだかんな!!」

「龍之介。お前、いつまで言ってんだ」

今にも殴り掛かりそうな龍之介を足蹴にして、満さんがオムライスを置いた。

「てか、祐介を捕まえた女って、どんな人なの?」

オムライスを食べながら、そう聞くと、祐介は、グッタリしたように言った。

「佐藤梨理(サトウリリ)だよ」

「佐藤梨理って、祐介のこと追っ掛け回してた…あの娘?」

「そう」

「それって、大学まで追っ掛けてきた奴か?」

「そうだよ」

「なんだかなぁ」

「面倒だから、付き合っちまえばいいんじゃね?」

「イヤだよ!!なんであんなブリブリな奴と付き合わなきゃないんだよ!!」

「いいじゃねぇか。フラれたんだから」

龍之介の一言に、オムライスが喉に詰まり、噎せて、咳き込んでしまった。

「あ~もう」

「気ぃ付けろよ」

祐介に、背中を叩かれて、龍之介が、グラスに水を入れて持って来た。

「ほら」

「ゆっくり飲んで」

グラスを受け取り、ゆっくり水を飲む。
そんな私の背中を支える龍之介と祐介を見て、満さんが、腕組みをしたまま言った。

「お前ら、ホント変わらねぇな」

祐介と龍之介の顔を交互に、見て思った。
昔から、二人は、私の側にいた。
幼稚園に入り、片親なのをいいことに、バカにされてた時も、小学生になり、上級生にイジメられそうになった時も、中学に上がり、ムカつくって殴られた時も、母が勝手に再婚した時も、母と馬が合わなくて、悩んだ時も、祖母が亡くなった時も、いつの間にか側にいた。
成人を迎えて、それが続くのは、とても珍しい。
変わらない事は難しい。
そう思うと、胸の辺りが、苦しくなった。
私は、どれだけ、二人を束縛しているのか。
私は、どれだけ、二人に支えられてるのか。

「当たり前じゃん」

肩を叩かれ、祐介を顔を上げると、優しく微笑んでいた。

「マコトは、危なっかしいから。何かあって、倒れないように、誰かが支えなきゃね」

「そうゆうこと」

肩に手が置かれ、龍之介を見上げると、優しく笑っていた。

「それに、ばぁさんとの約束だし」

『あの娘(コ)は不器用だから…二人で、支えてあげてね』

亡くなる直前まで、私を心配する祖母が、生前、何度も言っていたことを二人は、今でも守り続けてる。

「強ぇなぁ」

満さんが、呆れたように言うと、祐介が、指差して言った。

「そう言ってるけど、満さんも、ずっと、マコトの側にいるじゃんか」

近所に住んでた満さんと忍さんも、よく、祖母に会うと、言われていたらしい。

「ちゃうちゃう。お前らが集ってくんだろ」

満さんが、横を向いて、鼻の頭を触る。
昔から変わらない。
満さんの照れ隠し。
なんとなく、その姿が、おかしくて、三人で笑うと、満さんが、怒ってしまった。
こうして、笑えるのが心地良い。
バカな事をしても、笑ってくれる人がいる。
それは、今の私にとって、最高の幸せだ。

「パパ~」

食事を再開し、和やかな雰囲気の中、ドアを開けたのは、満さんの奥さんの佐々木貴子(ササキタカコ)さんだった。
貴子さんは、私を見付けると、嬉しそうに、大きな目と艶やかな唇が、弧を描き、黒く長い髪を揺らして、近付いてきた。
ちなみに、貴子さんは、同性から見ても、魅力的なスタイルをしている。

「マコト~。久しぶりぃ」

そう言って、抱き付き、頭に頬を擦り寄せる貴子さんの豊満な胸に圧死しそう。
それを見ていた満さんは、溜め息をついた。

「何してんだよ」

「いいじゃない。久々なんだから。マコト。可愛い」

「いいから離れろ」

「イヤよ。ねぇ?マコト~」

「まぁ」

苦笑いすると、貴子さんは、また頬を擦り寄せる。
暫く、そうしていると、貴子さんは、何かを思い出したように、満さんに、視線を向けて言った。

「幼稚園のお迎え行くから、車の鍵頂戴」

突き出した手に、満さんが鍵を乗せると、貴子さんは、私から離れた。

「マコトが、男の子だったら良かったのに」

「今更、無理ですよ」

「大丈夫。今は、性転換出来るんだから」

「お前なぁ。無茶苦茶なこと言うなよ」

「今の医療はスゴいんだから。すぐ、男の子になれるのよ?」

「貴子さん。そうゆうのは、気持ちと体が一致しないで、困ってる人の為にあるんですよ。私は、ちゃんと、一致してますから」

「え~。昔、男の子になりたいって、言ってたじゃない」

「あれは、男の子になれば、喧嘩が強くなれるって、単純な考えで言っただけで。てか、いつの話ですか」

「ん~?小学生くらい?そろそろ行くわね。じゃぁねぇ」

見た目と違い、豪快な笑い方をして、貴子さんは、手を振って出ていった。
ドアが締まり、溜め息をつくと、満さんが、苦笑いしながら言った。

「悪かったな」

「いいですよ。あれが貴子さんですから」

最後のオムライスを食べて、コーヒーを飲み、代金をカウンターに置いて、ドアに向かった。
その時、不意に、淋しさが込み上げてきた。

「今日、予定ある?」

振り返って、祐介と龍之介に聞くと、二人は、互いに、顔を見合わせてから、龍之介が答えた。

「特には」

「僕も」

龍之介に続いて、祐介にも予定がないのを確認し、安心した。

「じゃ、七時にいつもの所で。迎え、お願いしま~す」

そう言って、外に出た。
その空気を肺いっぱいに吸い込んでから、コインパーキングに向かい、車を発進させた。
目的も決めず、ただ車を走らせ、何にも考えず、運転をしていると、日も暮れ、時間を確認した。
一時間もドライブしていたことに、何故か、笑ってしまった。
小路でUターンし、来た道を一時間半、掛かけて戻った。
家に着くと、既に、黒のスポーツカーが、家の前に停まっていた。
私は、急いで、駐車場に車を停め、スポーツカーの助手席に乗り込んだ。

「ごめん」

「仕事か?」

運転席の龍之介に、そう聞かれて、ニヤリと笑った。

「ひみつ」

「あっそ」

いつものように、バカみたいな会話をしようと思っていたが、それだけで、会話は終わってしまった。

「龍之介。なんか怒ってない?」

「まぁな」

「なんで?」

「さぁな」

そう言ったきりで、龍之介は、黙ってしまった。
何となく、気まずくなり、窓の外を見つめた。

「あのさ」

暫く走り、急に、声を掛けられ視線を向けると、龍之介は、前を見たままだった。

「今日、俺ん家で飲まね?」

「何で?」

「財布。ピーンチ」

「ごちるよ?」

「それは、有難いんだけど、たまにはいいじゃん」

「まぁ、いいけど」

返事をすると、龍之介は、すぐに、ハンドルを切った。
龍之介の家に向かう車内には、会話がなかった。
なんとなく、淋しくて、外を見たまま、龍之介に声を掛けた。

「祐介は?」

「後で来る」

「そっか。用事?」

「さぁな」

また龍之介に、会話を切られて、不安になった。
龍之介の横顔を見ていたら、一瞬、横目で視線を向けられたが、また前に向き直ってしまった。

「辛れぇの?」

「少し」

「前の生活に戻っただけだろ」

「何も無くなった」

信号機が赤になり、車が停止した。

「こんな風に思ったことがなかった。ほんの少しの時間でも、山崎さんが居たことは、私に、とても大きな影響を与えた。一人で家に居ると、その面影に、思考を停止させてしまう」

小説の一部のように、自分の想いを言葉にしてみた。
信号機が青に変わり、龍之介は、ゆっくり発進させた。
近くのコンビニで、缶チューと缶ビール、おつまみを買って、龍之介の部屋があるアパートの駐車場に、車が止まった。
レジ袋を持って、階段を登り、龍之介の部屋に入った。
メタルラックや黒の家具で、モノトーンにまとめられた龍之介の部屋に来るのは、本当に久々だった。
部屋を見渡していると、龍之介は、ローテーブルにレジ袋を置いて言った。

「何か観るか?」

龍之介は、テレビを点けて、DVDプレーヤーの電源を入れた。

「暮れない空あるぞ」

「観る」

暮れない空とは、大学生の時、作家志望の先輩が、初めて手掛けた自主映画で、これを持っている人は、ほとんどいない。
なんとか、観せてもらおうとしたが、絶対に観せてもらえなかった。

「なんで持ってんの?」

「貰った」

龍之介がDVDをデッキにセットしてる間、ローテーブルとベットの間に座り、おつまみの封を切って、缶チューのタブを開けた。

「いいなぁ」

電気が消され、龍之介が、私の隣に座ると、再生ボタンを押し、字幕が流れ、映像が写し出された。
幼なじみで、小さい頃から一緒にいた二人の男と一人の女の話。
主人公は、二人の男。
二人は、女に愛を伝えられずに、ずっと側にいた。
互いに、同じ女を想い、幼なじみという関係を壊せなかった。
そんなある日。
彼女が、一人の男を連れて来て、二人に紹介した。

『付き合う事になったの』

照れながら、彼女は、そう告げた。
その姿が、二人の恋心に、重くのし掛かり、その場は、笑っていた彼らだが、それぞれの家に帰ると、堪えていた涙が、頬を伝い、その夜を泣き明かした。
彼女が居なくなった空間に、淋しさを覚え、二人は、慰め合うように、遊び歩いていた。
そんな時、何気なく入ったバーで、お酒の力もあって、彼女に、恋心を抱いていたのを知った。
そんな時、バーに入って来たカップルが、二人の後ろを通り過ぎ、奥のカウンター席に座った。
そのカップルをチラリと見て、主人公の一人が、もう一人の主人公の腕を肘で突っつき、顎でカップルを差した。
そこには、彼女が、二人に紹介した男が、見知らぬ女と笑って一緒にいた。
男は女の肩を抱き、女は男の肩に頭を乗せる。
その瞬間、主人公の二人は、席を立ち、その男に近付くと、一人は男の頬を殴り、一人は倒れた男を見下ろした。
ざわつくバーから出た二人は、彼女を呼び出した。
急いで、来た彼女をバーの中に連れて行き、男と女が、カップルのように、イチャイチャしているのを見せた。
彼女を見た男が驚くと、彼女は、男の頬に平手打ちをして、バーから出て行った。
男を睨んで、二人も、彼女を追って、バーを出ると、彼女を連れて、居酒屋に行き、彼女を慰めた。
それから、二人は、ライバルとして、彼女の気を惹こうと奮闘した。
なんとなく、どこかで、見た事があるような気がした。

「これ。モデルは俺と祐介らしい」

隣から聞こえた声に、視線を向けると、龍之介が、私を見つめていた。

「俺と祐介の話を聞いて、先輩が作品にしたんだと。このヒロインはお前」

そう言われ、テレビに視線を戻すと、画面に写ったヒロインの女性を見つめた。

「あん時のお前は、まだ男を知らなかった。この男が、お前を女にしたんだ」

龍之介が、ベットに手を着いた。

「でも、俺らは、こんなに純情じゃなかった」

逃げようと、座ったまま横にずれたが、龍之介は、逃してくれなかった。
上半身を乗り出して、床に手を着いて、腕の中に閉じ込められた。

「お前は、それから崩れて、男を求めたんだ」

これはヤバい。
龍之介から逃げようと、腰を上げたが、腕を掴まれ、押し倒された。

「なんで俺じゃない」

龍之介は目を閉じて、奥歯を噛み締めた。

「なんで俺を求めない」

目を開いた龍之介の顔が近付く。

「イヤ!!」

横を向き、自分の腕に顔を着けると、耳に息を吹き掛けられた。

「祐介と、したんだろ?」

驚いて、目を見開くと、龍之介の唇が頬に触れた。

「してない!!してないから!!」

「ウソつけ。祐介から聞いた。お前を抱いたって」

頬を唇で撫で、耳に唇を寄せられると、甘噛みされた。

「やめ!!」

耳から唇を離させようと、天井に顔を向けた。
それが間違いだった。
龍之介の唇が重なった。
きつく閉じる歯茎を舌が這い、背中がゾクゾクと鳥肌が立った。
ほんのり、お酒の臭いが、鼻から抜け、体を捩って逃げ出そうとしたが、全く動けなかった。
片手で押さえ付けられ、龍之介の手が、Tシャツの中に、侵入して来て力が抜けた。
歯の隙間から、龍之介の舌が、口内に侵入し、絡み付いてきた。
龍之介の荒い鼻息が頬を掠める。
逃れようと、顔を左右に動かすが、私の動きに合わせるように、龍之介の顔も、左右に動かされた。
素肌に触れた龍之介の手が、脇腹を上り、胸に触れ、ブラの隙間から、指が乳首を撫でた。
口の中で、こだまする声が頭に響く。
体を捩らせ、逃げようとしても、龍之介は、乳首に指を立てて、食い込ませ、グリグリと、強く撫で回した。
胸に痛みが走り、体を縮めようと、首を引っ込め、龍之介の唇が離れた。

「や…め…」

痛みに、声が震える。
龍之介を見上げると、真っ直ぐ見つめられた。
手を滑らせ、下腹部に移動させ、ジーパンのボタンが外される。

「やめ!!いや!!龍之介!!」

「黙れ。誰でもいいなら、俺でもいいだろ」

「ちが!!」

叫ぼうとすると、唇で塞がれ、龍之介は、自分の腰を上げた。
チャックを下ろす音して、下腹部に痛みが走った。
その痛みから、逃げようとしたら、ジーパンと一緒に下着が下ろされた。
口の中で叫び、頭の中に響くと、龍之介の唇が、強く押し付けられた。
龍之介の手が、太ももに触れ、無理に開かされそうになり、首を振って、龍之介の唇から逃れた。

「りゅ…す…け…やめ…」

「なんでだよ!!」

そう叫んで、力を緩めた龍之介のオデコが胸に乗り、声を震わせた。

「なんで…俺は…ダメ…なんだよ…ずっと…側にいたのに…」

体から力が抜け、天井を見つめた。

「ごめんなさい」

龍之介は、抱き寄せながら、オデコを滑らせて、首元に顔を埋めた。
小さく肩を揺らし、龍之介は、声を殺して泣き始めた。
私は、龍之介の涙を肩で、受け止めることしか出来なかった。
暫く、そうしていると、龍之介は、掠れた声で、小さく呟いた。

「本当に…してない…?」

「してない」

そう答えると、龍之介は起き上がり、缶ビールを飲み干した。
脱がされたジーパンと下着を履いて、起き上がると、テレビには、エンドロールが流れていた。
エンドロールも完全に終わり、部屋は暗闇に包まれた。
次第に目が慣れ、うっすらと、龍之介が膝を抱え、隠すように、座っているのが見えた。

「触るな」

肩に触れようと、手を伸ばしたが、拒絶された。

「頼むからほっといてくれ」

逃げるように、龍之介の部屋を出た。
真っ暗な中、一人で歩くのは淋しい。
それでも、今の私は、この闇に溶けて、消えてしまいたいと思う。
暫く歩いていると、車が、私を追い越して止まり、運転席から忍さんが顔を出した。

「何してる」

そう言われ、私は、忍さんの車に近付いた。

「龍之介に追い出された」

大きな溜め息をつき、忍さんは、親指で後部座席を差した。

「乗れ」

後部座席に乗り込むと、車は、ゆっくり走り出した。
流れる景色を見つめ、龍之介の表情を思い出した。
もうどうすればいいか、分からない。

「怒られたか?」

ミラー越しに見えた忍さんに、小さく頷いた。
そんな私を見て、忍さんは、前に視線を戻し、溜め息混じりに言った。

「お前は、つくづくバカだな」

その時は、返事もしなかった。

「私も、そう思います」

景色が流れ、自宅が見え始めて、呟くように言った。

「ずっと、側にいた人達を苦しめて、哀しませて、悩ませて。その気持ちを知りながら、自分勝手に、自分の欲望を優先して。誰も幸せにならない。自分を傷付ける。人を哀しませてばかり。そんなことばっかで、バカだと思います」

自宅の前に車を停止させ、忍さんは、私の呟きを聞いて、一人言のように言った。

「もう遅い」

忍さんの言葉が、胸に突き刺さる。

「そんな風に後悔するなら、これから、変わればいいだけだ。分かったら、さっさと降りろ」

ボーッとしてると、忍さんに、睨まれ、急いで車を降りた。
ドアを締めると、すぐ車が動いた。
忍さんの車が見えなくなるまで見つめ、寒気が背中を走り、腕を擦りながら家に入った。
リビングに入り、コーヒーを淹れ、熱いまま飲み干すと、食道を熱い液体が、流れ落ちるのが分かる。
そのまま、マグカップを流しに置いて、洗面所に向かい、着ていた服を脱ぎ捨て、頭からシャワーを浴び、浴槽でお湯に潜った。
聞こえるのは、自分の鼓動と水音のみ。
息苦しさに、お湯から、勢い良く、顔を出し、肺に、酸素をいっぱいに取り込む。
何回も、深呼吸をして、後頭部を浴槽の縁に乗せ、天井を見上げた。

「大丈夫…変われる」

そう呟いて、勢い良く、立ち上がり、洗面所に戻ると、長袖のTシャツにステテコを履いて、仕事部屋に籠った。
官能小説以外の仕事を一晩で終わらせ、夜が明ける頃に、寝室に向かい、二時間程、仮眠を取った。
仕事部屋に戻ると、書き上げた小説をプリントアウトし、大きな茶封筒に、それぞれ名前を書いて、印刷した原稿を入れ、担当達に一斉メールを送った。

Dear.皆様。
お疲れ様でます。
書き上がりましたので、事務所の方にお持ちします。
時間に余裕が出来ましたら、ご確認、訂正をお願いします。

メール送信が終わり、トートバッグに茶封筒を入れ、ステテコをジーパンに履き替え、ジャケットとトートバッグを持って部屋を出た。
ジャケットを着ながら、廊下を歩き、玄関の戸を開け、背伸びをしながら、爽やかな外の空気をいっぱいに吸い込んだ。
首を鳴らしてから、玄関に鍵を掛け、車に乗り込み、それぞれの事務所に向かって、車を走らせた。
私が、事務所に顔を出す事なんて、ほとんどなかった。
その為、担当達は、皆、驚いていた。
全ての担当に、原稿を渡し、自宅に戻り、トートバッグとジャケットをリビングのソファに、投げ捨て、洗面所に向かい、洗濯機を回しながら、シャワーを浴びた。
タンクトップの上に、ニットのセーターを着て、洗面所から出ると、和室から庭に降りて、干しっぱなしになってた洗濯物を取り入れた。
和室に、洗濯物を置いたまま、洗面所の洗濯機から、洗ったばかりの洗濯物をカゴに移し、庭の物干しに掛けた。
干し終わってから、和室で、乾いた洗濯物をたたみ、寝室のクローゼットや洗面所のローチェストに仕舞った。
そうしている間に、十二時を過ぎていて、ヤカンにお湯を沸かし、買い置きしていたカップ麺を作った。
立ったまま、麺をすすり、その音だけが、部屋に響くと、また、この家に、一人になったのだと思い知った。
でも、自然と淋しさは、込み上げてこなかった。
中身を食べ終え、容器をゴミ箱に器を放り込んだ。
それから、マグカップを洗い、一つは片付けた。
もう一つにコーヒーを淹れ、ソファに座った。
何日かぶりに、テレビを点けた。
ニュースを見ながら、コーヒーを飲み、久々の一人の時間を過ごした。
そうしていたら、溜まっていた疲れで、いつの間にか、ソファで、寝てしまって、起きた時には、三時になっていた。
残りのコーヒーを飲み干し、新しいコーヒーを淹れ、仕事部屋に行き、パソコンのメール画面を開いて、官能小説の編集にメールを打った。

Dear.文子(フミコ)さん。
頑張ったのですが、やっぱり書けません。
違うテーマでお願いします。

送信して、暫く、背もたれに、寄り掛かりながら、目を閉じていたら、携帯が鳴った。
画面を見なくても、誰からなのか分かっていた。
手探りで携帯を探し、受話ボタンを押した。

「はい」

『どうしたの?急にテーマを変えてなんて』

「アイデアが浮かばないんです」

『順調だって、言ってたじゃない。今更、変更なんて…』

「どうしても書けないんです。お願いします」

暫く黙って、文子さんは、わざとらしい、溜め息をついた。

『仕方ないわねぇ。新しいのが、決まったら連絡するわ』

「お願いします」

『じゃぁね』

「はい。失礼します」

電話を切り、携帯をデスクに乱暴に、置いて溜め息をついた。
これでいいんだ。
官能小説なんか書き続けたら、きっと、また体が渇いてしまう。
何もする事がなくなり、ジャケットを着て、財布だけを持って、近場のスーパーに出掛けた。
適当な食材と、大量のカップ麺、今晩の弁当を入れ、ビニール袋を両手に、下げて帰宅していると、自宅の門から出て、自分の家に向かう隣のおばさんが見えた。

「おばさん?」

声を掛けると、おばさんは、淋しそうな顔をした。

「どうしたんですか?」

「回覧を回しに来たのよ」

「そうだったんですね。すみません」

「いいのよ。彼は居ないの?」

「えぇ」

「そう…」

おばさんが、黙ってしまった。

「あの。回覧は…」

「あ。玄関の所に置いといたから。それじゃまたね」

そう言って、おばさんは、足早に玄関に消えた。
鼻で溜め息をついて、玄関に向かい、回覧を持って、中に入った。
下駄箱の上に、回覧を置いて、リハビリに向かい、買ってきた食材やカップ麺を仕舞った。
全部仕舞ってから、弁当を電子レンジで、温めている間、キッチン内に椅子を入れた。
温まった弁当を食べ、リビングから出て、和室の窓の鍵を外して、玄関に戻り、下駄箱の上の回覧に目を通して、隣に持って行った。
そのまま、庭に回り、干していた洗濯物を取り入れ、和室に投げ入れた。
そのまま、和室に入り、洗濯物をたたみ、朝と同じように、寝室のクローゼットや洗面所のローチェストに仕舞い、洋服を脱いで浴室に入った。
シャワーを出し、髪から足の先まで、綺麗に洗い、足を伸ばして、浴槽に入ると、不意に、山崎さんを思い出した。
元気にしてるかな。
そう思っていると、あの艶やかな微笑みが、頭に浮かび、体の奥が、熱くなった。
自然と手が動き、片手で、胸を掴んで、ゾクゾクと鳥肌が立ち、体が震えた。
もう片方の手で、内腿に触れた時、龍之介と祐介の顔が、浮かんで、首を左右に激しく振って、お湯に潜った。
求めるな。
変わるんだ。
そう念じながら、浴室を出た。
適当なTシャツとステテコに着替え、仕事部屋に行き、パソコンの電源を入れ、書きかけの官能小説のフォルダをトップ画面から外し、デスクの空いている所で、プリンターの白紙の用紙を取り出した。
浮かんだアイデアを書いて、それを元に、小説のネタを書いた。
暫くして、パソコン画面に、視線を向けると、メールマークが 点滅していた。
手を止めて、メールを開くと、文子さんからのメールだった。

Dear.マコトちゃん。
お疲れ。
新しいテーマは、ダブル主人公の恋愛でお願い。
でも、また書けるようになったら、官能も書いてちょうだい。
それと、明日、七時に迎え行くから、よろしくねぇ。

いつもと変わらず、絵文字の多いメールに安心した。
さっき書いていた紙のネタをダブル主人公になるように、少し手を加え、その日は、寝る事にした。
寝室の布団に入り、暗い部屋の天井を見上げて、ボーッとしていると、また、山崎さんの艶やかな微笑みが頭に浮かんだ。
寝返りを打って、横向きになり、布団を引き上げて、目を閉じると、山崎さんの姿が、ハッキリと浮かんでしまった。
山崎さんに、触れられた場所が、熱を帯びていく。
自分の肩を自分で抱き、背中を丸めたが、熱は高くなるばかりだった。
気付けば、片手で胸を掴み、もう片手で乳首を転がしていた。
もうダメだった。

「ふ…ぅ…」

山崎さんに、教えられた通りに、乳首を擦り、体を震わせる。
脇腹を撫でるように、滑り下ろして、陰部を掴んだ。

「んん…」

掴んだまま、指を前後に動かすと、声が漏れそうになる。
乳首を擦りながら、陰部を掴んでいた手をステテコの中に入れ、内腿に触れた。
足を広げ、下着の上から、勃起した蕾を触ると、また体が震え、夢中になって、蕾を擦った。

「ふ…ぅ…んん…やま…ざ…」

『ススム』

洗面所で、山崎さんとした時が、フラッシュバックした。

「すす…む…」

名前を呼んだ。
ただ、それだけで、私の体が震えた。

「ぁ…ん…す…ぅす…む…ぅふ…ん…ん…あ…あぁ…」

何度も、燕(ススム)と呼びながら、手の動きを速めた。

「ああぁーーーー!!っふ…」

自分の手を内腿で挟み、絶頂に達すると、急に虚しさを感じた。

「なんで…違うのよ…」

その晩、涙を流し、山崎さんを想いながら、静かに眠った。
この時、私は、山崎さんが、好きなのだと確信した。
朝になり、涙の筋が、乾いた頬が突っ張って痛い。
洗面所に行き、顔を洗い、頭を上げると、涙の痕は消えていたが、顔全体が、むくんでいて、ひどい顔になっていた。
私は、洋服を脱いで、洗濯機を回しながら、浴槽に入り、むくみを取り払うことにした。
温めのお湯に、一時間入ってから、熱めのシャワーで、全身を洗い流し、浴室から出て鏡を見た。
さっきよりは、マシになったが、まだむくんでいた。
もう諦めよう。
長袖のTシャツに、ジャージ姿で、洗濯物を庭に干して、昨日、ネタを書いた紙を元に、新たなフォルダを作り、あらすじを途中まで、書くと、お腹の虫が鳴いた。
リビングに向かい、食材を取り出し、炒飯を作った。
昨日、起きっぱなしにした椅子に座り、炒飯をかっ込み、食器を流しに置いたまま、仕事部屋に戻り、あらすじの続きを書いて、本格的に文章を書き始めた。
無我夢中に、書き進め、傾いた太陽が、窓から差し込み、不意に、時計を見上げると、もう、二時を過ぎていた。
仕事部屋から出て、リビングに向かい、お湯を沸かしながら、タバコに火を点けた。
白い煙を吐き出し、ヤカンのお湯をインスタントコーヒーの入ったマグカップと、蓋を開けたカップ麺に、お湯を注いだ。
カップ麺が出来るまでの間、タバコを吸って、リビングの窓から見える景色を見つめた。
タバコを消してから、椅子に座り、カップ麺を食べた。
食べ終わり、時計を見て、まだ、三時になってなかったので、マグカップのコーヒーを飲み干し、仕事部屋に戻り、携帯アラームを六時にセットして、仕事の続きを書いた。
アラームが鳴り響くまで、全く時間を気にしなかった。
携帯アラームを消し、フォルダに、文章を保存して、仕事部屋を出ると、寝室で、Yシャツにジーパン姿に着替えた。
洗面所に向かい、むくんだ目元を隠す為に化粧をした。
化粧道具をポーチに突っ込んで、ショルダーバッグに、ポーチを押し込み、それを持って、仕事部屋に行き、ジャケットを着て、リビングに向かった。
タバコの箱とライターをショルダーバッグの外ポケットに、滑り込ませ、コーヒーを飲みながら、タバコを吸って、文子さんからの連絡を待った。
携帯が振動し、画面を確認すると、文子さんだった。
電話に出ず、携帯とショルダーバッグを持って、玄関から外に出ると、文子さんのピンク色の軽自動車が、路上に停まっていた。
軽自動車の助手席に滑り込んだ。

「今日は、早ぁ~い」

文子さんが、そう言って、車を発進させた。

「他の方は?」

「現地集合」

「すみません。私だけ、迎えに来てもらって」

「いいのよぉ。今回の主役みたいなもんなんだから」

そう言われると、ちょっと気恥ずかしかった。
文子さんの運転で、三十分ちょっと走り、コインパーキングに車を停め、連れてこられた私は、苛立っていた。

「文子さん」

「なぁに?」

「打ち合わせなんて、嘘だったんですね」

煌びやかな内装に、高級なお酒。
クラブの個室に、文子さんと部下の女の子が二人。
そして、四人の派手な格好の男。

「へぇ。彼女が、あの色咲裕恵(シキザキユエ)なんだ」

「そうよ。今をときめく小説家。色咲裕恵よ」

「言い過ぎです」

「本当に女の子だったんだね」

「そうです。私、先生の恋愛小説が大好きなんです」

「俺は、ファンタジー系が好きだなぁ」

「そらどうも」

タバコをくわえると、隣に座った男が、火を点けたライターを差し出した。
その火を見てから、男を見ると、彼は、視線で火を指したが、無視して、自分のライターで、火を点け、白い煙を吐き出した。
ライターの火を消して、彼は、グラスを傾けた。

「ちょっと」

そう言った文子さんが、私の肩を掴んで、後ろを向かせた。

「少しは楽しんでよ」

「なんでですか」

「アナタの為に、来たんだからね」

「無理です。大体、なんで、こんな所に連れてきたんですか」

「仕方ないじゃない。話の流れで、マコトちゃんの話をしたら、会いたいって言うんだもの」

「ホント。信じらんないです」

「何話してんの?」

そう言われ、文子さんは、慌てて向き直り、ニッコリ笑いながら言った。

「なんでもないわよ」

部下の女の子たちや、文子さんを見て、溜め息をつき、グラスに口を着け、中身のお酒を胃に流し込んで、タバコを吸うと、灰皿が、差し出された。

「お使い下さい」

私は、灰皿を受け取る事もせず、固まった。

「お客様?いかがしましたか?」

たった、一日半、声を聞かなかっただけで、こんなにも懐かしいと思うのか。
ゆっくりと、声のした方に、振り向くと、そこには、会いたかった人が、ウェイター姿で立っていた。

「マコトさん…」

「なんで…」

「なんでって…仕事ですから」

ウェイター姿の山崎さんから、視線を反らすように、下を向いて、片手をオデコに触れて聞いた。

「仕事は、単発だって…」

「それは昼間です」

私は、何を考えていたんだろう。
よく考えれば、単発の仕事だけで、生活なんか出来ないと、分かったはず。

「あの…」

「なに?知り合い?」

山崎さんから、灰皿を受け取りながら、文子さんに聞かれ、私は、黙って頷いた。
山崎さんが、一礼して、離れていくと、文子さんの部下の一人が、山崎さんの後ろ姿を見つめて、私に聞いた。

「先生の恋人ですか?」

その問いに答えたのは、私じゃなくて、文子さんだった。

「そんな訳ないでしょ。この娘(コ)が彼氏を作るなんて、あり得ないわよ」

「いくらなんでも酷くないですか?」

「じゃ?彼氏なの?」

「違いますけど」

「でしょう?」

そう言って、文子さんは、大きな声で笑った。
私は、ヤケになって、グラスのお酒を一気飲みした。

「すみません。おかわり」

それから、何杯もお酒を煽っていた。

「ちょっと、お手伝い」

「飲み過ぎよ」

文子さんに言われたが、もう遅かった。
フラフラしながら、トイレに入ると、胃の中から胃液と共にお酒が、逆流してきた。
個室のドアを開けたまま、屈んで、便器にしがみつくように、食道を上ってくる物を吐き出した。
何度も、胃の物を吐き出していると、誰かの手が背中に触れた。

「大丈夫ですか?」

声だけで、その手が、山崎さんだと分かった。

「一気に飲みすぎですよ」

一頻り、胃の物を吐き出して、便器を離して、立ち上がろうとしたが、足に力が上手く入らず、よろけてしまい、腕を引っ張られた。
山崎さんの腕に、抱き止められ、フワリと、体が浮く感覚がした。
回らない頭で、山崎さんに、お姫様抱っこされているのは分かっていたが、暴れる気力もない。
そのまま、山崎さんに連れられて、使っていない個室のソファ寝かされた。
私を下ろした山崎さんは、個室から出て行き、戻ってくると、オデコに、おしぼりを乗せて、テーブルに、水の入ったグラスを置いた。

「少し休めば大丈夫ですよ」

小さく頷くと、隣に膝を着いた山崎さんは、おしぼりの上に、手を置いた。

「何故、テーマを変えたんですか?」

「なんで知ってるの!?」

上半身を起こすと、短い髪に触れられた。

「皆さんが、話してるのを聞きました。何故ですか?」

「関係ないでしょ」

山崎さんの手を払い、ソファから立ち上がろうとしたが、押し倒された。

「私が、居なくなったからですか?」

「どけて」

「どけません」

「どけて」

「なら、理由を教えて下さい」

「関係ないって言ってるでしょ」

山崎さんを押し退けようとしたが、全く動かない。

「離して」

山崎さんを睨むと、顔が近付いてきて、顔を反らした。

「私が、居なくなったからですか」

同じ事を囁かれ、酔いが完全に冷め、山崎さんの脇腹に、膝蹴りを入れた。

「うっ!!」

短い呻き声を上げた山崎さんの肩を突き飛ばし、尻餅を着かせた。

「ざけんな!!」

そう叫んで、山崎さんを置き去りにして、個室から出ると、さっき、私に火を差し出した男が、壁に寄り掛かって立っていた。

「大丈夫?」

何も言わず、その男の横を通り過ぎ、個室に戻った。

「先生!!大丈夫ですか?」

文子さんの部下の子に、聞かれたが、完全に無視して、ショルダーバッグを持って、文子さんに向かって言った。

「帰ります」

そう言って、背中を向けると、文子さんは、慌てて言った。

「ちょっと!!」

文子さんに向き直り、立ち上がろうとしたのに、手のひらを見せ、動きを止めた。

「大丈夫ですから。皆さんは、楽しんで」

個室から出て、クラブの扉を開け、外に出ると、ショルダーバッグから、携帯を取り出したが、すぐに仕舞った。
そのまま、駅まで歩き、タクシーを捕まえ、自宅に戻り、寝室にショルダーバッグを放り投げた。
洗面所に向かい、化粧を落として、Yシャツとジーパンを脱ぎ捨てて、長袖のTシャツとジャージに着替えた。
仕事部屋に行き、パソコンを点けて、フォルダを開き、昼間の続きを始めた。
無我夢中に書き続けていると、携帯が鳴った。
画面を見ると、文子さんからだった。
私は、携帯の電源を切り、そのまま、仕事に没頭し、空が明るくなり始めた頃、寝室で静かに眠った。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

俺を振ったはずの腐れ縁幼馴染が、俺に告白してきました。

true177
恋愛
一年前、伊藤 健介(いとう けんすけ)は幼馴染の多田 悠奈(ただ ゆうな)に振られた。それも、心無い手紙を下駄箱に入れられて。 それ以来悠奈を避けるようになっていた健介だが、二年生に進級した春になって悠奈がいきなり告白を仕掛けてきた。 これはハニートラップか、一年前の出来事を忘れてしまっているのか……。ともかく、健介は断った。 日常が一変したのは、それからである。やたらと悠奈が絡んでくるようになったのだ。 彼女の狙いは、いったい何なのだろうか……。 ※小説家になろう、ハーメルンにも同一作品を投稿しています。 ※内部進行完結済みです。毎日連載です。

愛された側妃と、愛されなかった正妃

編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。 夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。 連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。 正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。 ※カクヨムさんにも掲載中 ※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります ※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

娼館で元夫と再会しました

無味無臭(不定期更新)
恋愛
公爵家に嫁いですぐ、寡黙な夫と厳格な義父母との関係に悩みホームシックにもなった私は、ついに耐えきれず離縁状を机に置いて嫁ぎ先から逃げ出した。 しかし実家に帰っても、そこに私の居場所はない。 連れ戻されてしまうと危惧した私は、自らの体を売って生計を立てることにした。 「シーク様…」 どうして貴方がここに? 元夫と娼館で再会してしまうなんて、なんという不運なの!

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜

来栖れいな
恋愛
――穏やかな微笑みの裏に、逃げられない愛があった。 望んでいたわけじゃない。 けれど、逃げられなかった。 生まれつき弱い心臓を抱える彼女に、政略結婚の話が持ち上がった。 親が決めた未来なんて、受け入れられるはずがない。 無表情な彼の穏やかさが、余計に腹立たしかった。 それでも――彼だけは違った。 優しさの奥に、私の知らない熱を隠していた。 形式だけのはずだった関係は、少しずつ形を変えていく。 これは束縛? それとも、本当の愛? 穏やかな外科医に包まれていく、静かで深い恋の物語。 ※この物語はフィクションです。 登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。

離婚した妻の旅先

tartan321
恋愛
タイトル通りです。

ヤンデレにデレてみた

果桃しろくろ
恋愛
母が、ヤンデレな義父と再婚した。 もれなく、ヤンデレな義弟がついてきた。

処理中です...