東の勇者が消えた

芽吹鹿

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3森へ

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 没頭して愛を語るなかで、ヴィルヘルムの両手はグリシナの頭を撫でたり、頬を包み込んだりと忙しなかった。どこかに落としてしまわないように、まるで宝物を扱うように彼に触れる。生気のない真っ白な肌に、か細い息遣い。どこを見つめているのか追いかけたくなる魅惑的で、死相が見え隠れする瞳の色。それでも彼は何事もなさそうに健気に笑って、ヴィルヘルムにしゃべりかけてくる。

「ヴィリ、ほらむこうの森へ行きましょうよ。久しぶりに川の水で涼みたくなりました」

「身体は平気なのか?グリシナ……」

 平気ですよと口にする彼が、気丈に振る舞っていることをヴィルヘルムは知っている。少しでも安静にするべきことは医師からも厳しく言われている。病は猛毒のようにグリシナの身をめぐり、内側から壊そうとしている。

「つらくなったらすぐに言えよ?」

「ええ、いっしょに行きましょう。ヴィリ!!」

 立ち上がり、テンポよく歩み始めるグリシナを、ヴィルヘルムは止める気になれなかった。
 こんなに笑っている人を制止することは、ひどく心苦しい。もしかしたら森の自然を受けて、彼の病がちょっとでも和らぐ可能性だってある。

 寝たきりの生活がどれほど侘しく、寂しいものかをヴィルヘルムはグリシナを通して知った。だからもう、「病をはやく治せ」と力ずくでベッドに寝かせることが正しいことと思えなかった。

「昔はこういうところを、たくさん冒険しましたね」

「ああ。そうだな」

「はじめはゴブリンを追い払うのも苦労しました。ヴィリは覚えてますか?」

「覚えてるよ。お前がダンジョンの手前で怖くなって、足を震わせながらおしっこ垂れ流した思い出ならな」

「そ……それは忘れてください。ていうかそれを言うならあなたも、ギルド長にメンチ切れられただけで宿に逃げ出したじゃないですか」

「……思い出せないなぁ」

 グリシナがにこやかに話す姿を見るたびに、あたりの木々や花の色が綺麗になっていく。赤、緑、黄色。鳥、虫、動物の群れ。こんなにこの森は華やかだったのかとヴィルヘルムは思い知らされていく。

 魔法みたいだった。まるで掛かってもいない魔法に憑りつかれたように、美しいグリシナの姿のもとでは世界が明るく映っていた。もうグリシナには魔力も絞り出すほどしか残っていないだろうに。

「綺麗ですね……」

「感傷に浸っているのか?らしくないじゃないかグリシナ」

「私だって思うところはありますよ。もしあなたと旅を続けていたら、どうなっていたかと夢見ることもあるんです」

「きっと楽しかっただろうな」

「ええ。私は絶好のチャンスを逃してしまいました。もったいない」

 ため息を漏らしながら、グリシナは寂しそうに笑った。相棒として、恋仲として世界中を旅することを想像していたのはヴィルヘルムも同じだった。
 あの日、あの時にグリシナがいてくれたらと思った場面は数えだすときりがない。

「静養中、あなたの手紙だけが私の生きがいでした。旅をしている頃にはわからなかった、あなたの存在がどれほど大きなものだったのかを」

「それはお互い様だよ。俺もグリシナの手紙で、とてつもない勇気をもらっていたんだぜ」

「私の手紙は面白くない内容だったでしょう?」

「面白くなくても、俺にとってはかけがえのないものだったんだよ」

「ふふっ、大げさ!!」

 道を歩いているだけでもグリシナの重心はふらふらと安定しなかった。彼なりに足場を捉えているのだろうが、やはり無理をしている。
 ヴィルヘルムはできるだけ彼に寄り添って、手をぎゅっと繋いで、いつ倒れても支えられるように用意していた。

「また春が来ますね」

「もうそんな時期だったなぁ」

「ええ。雪解け水でまた野菜を作りたいんです。大きく立派に育てて、村の市場に売りに行きましょう」

「いいアイデアだな、きっと村人も喜ぶ」

 森に流れる川の岸辺で、ふたりして屈みこむ。川のせせらぎが身をほぐしていき、頭のなかには心地よい音色だけが響いていく。
 ヴィルヘルムはここに来て、初めての春を迎える。いっぽうのグリシナにとっては13回目の四季の移ろいで、もうこの場所にも慣れたものである。

 どんな気持ちで、これまでの年月を過ごしてきたのだろう。ヴィルヘルムはグリシナの療養期間を憐れに思うとともに、相手の底知れない精神力に感服した。
 この北の貧しい地で、孤独に13年間も耐えられる自信はヴィルヘルムにはない。たとえ愛する人がこの世にいるという前提があったとしても、きっと発狂してしまっただろう。

「グリシナ、こっちに来てくれ」

「ん?なに……?」

「もっとそばに。俺から離れないでくれ」

 何年経っても、グリシナはヴィルヘルムを恋仲として受け入れてくれた。ふたりが旅の仲間として関わっていた時間はおよそ2年にも満たない。だがそのなかで濃密な体験を共有し、ふたりの情愛は揺るぎないものとなっていた。

「近すぎます」

「もっと近づきたい」

「皮膚のなかまでめり込む気ですか」

「うん……それも悪くなさそうだな」

 グリシナの頬が緩むから、ヴィルヘルムも朗らかに笑うことができた。
 固く抱擁をして、頬を擦り合わせてようやく相手の体温を感じ取る。そうだ。この熱を感じたかったのだと、ヴィルヘルムは安堵する。キスはグリシナが求めてなさそうだったから、この場でのふれあいはお預けにした。

 じきに太陽が沈み始める。ゆっくりと家に戻るにはよい頃合いだと、ふたりの思惑は一致していた。では家路に向かおうかとヴィルヘルムが相手の手を引いた時のことだった。

 グリシナは急に苦しそうに顔を伏せて、地面にひざをついた。口元を手で抑えて、こんこんと軽い咳をついた。だが肺の奥を蝕んでいる病魔はそれだけで許してはくれなかった。
 細かな咳が、しだいにグリシナの気管を覆い尽くすほどの大きなものに変わっていく。吐き出された息にはかなりの血痰が交じっている。血が。彼が吐き出したそれが赤黒いかたまりとなって、手のひらを染め上げる。

「グリシナっ……グリシナ!!」

 息を。息を吸ってくれ。ヴィルヘルムは彼に何度も言ったが、遠のいていく意識のなかでグリシナが聞き取っていたかどうか。
 苦しむ彼に、ヴィルヘルムはどうしてやることもできなかった。しわぶきの波が緩やかになるまでグリシナ、グリシナと正気を失ったように名を呼んでやるだけ。正しい処置はおろか、どうすれば愛しい彼の気分が和らぐのかもわからなかった。

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