【完結】お飾り妻の私が旦那様の初恋の人なのですか?

花草青依

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 春の風が、屋敷の庭に新芽の香りを運んでくる。離れの花壇に植えられたチューリップが、やっと小さく芽を出し始めていた。

「今年も、咲きそうね」

 リアはしゃがみ込み、小さな芽にそっと指を添えた。
 指先の感覚で土の状態を確かめる。ほどよく湿っていて、日の当たり具合も悪くない。きっと、あと数週間もすれば花を咲かせるだろう。

 3年前、まだここに来たばかりの頃。屋敷の離れに通されて、「お飾り妻として自由に暮らして構わない」と改めて告げられた時の事を、リアは思い返す。

 怒りや悲しみといった感情は、全くなかった。
 彼女は理解していたのだ。これは契約である事を。お飾り妻でいるのなら、不自由はさせないと、そう約束されていたのだから。

 その約束をマレンシア公爵は守った。母と義父には大金が渡り、借金は清算された。そのおかげで家族は苦しい生活から逃れたのだ。元々笑顔の多い家庭だったけれど、今では「リアのおかげで幸せだ」と母から感謝の手紙をもらったくらいだ。
 だから、リアには全く不満がなかった。来たるべき日が来るまでお飾り妻でいて、その時が来れば、父母の待つ家に帰る気でいたから。

 けれど、リアは困惑している。

 ━━どうして、保留なの?

 昨日、唐突に屋敷を訪ねてきたカイル・マレンシア公爵。結婚から3年、一度も顔を見せなかったその人が、唐突に現れたのだ。
 そして、離婚の話を出し出したかと思うと、急に保留と告げた。

 リアは彼の顔を思い出す。
 凍てつくような水色の瞳。意志の強さを表した鋭い目つき。
 そんな彼の瞳が揺れていた。驚きと、戸惑いと、何かを感じ入る想いが、確かにそこにあった。

 ━━まさか、彼も「聖痕」を利用しようと・・・・・・?

 指先がぴたりと止まる。胸の奥に、かすかに疼くような痛みが走った。

 思い出されるのは、自由を奪い取ろうとする実父の事。彼から逃れるために、私と母がどれだけの苦労を強いられたのか。
 10歳の冬には暴漢に襲われ、赤い瞳でいる限りは自由が得られないのだと思い知らされた。
 あの時は、偶然居合わせた少年が助けてくれたから良かったけれど・・・・・・。
 私のせいで彼に怪我をさせてしまったのに、まともなお礼をできなかった。それどころか、実父に見つかるのが怖くて、名を名乗る事すらできなかったのだ。
 そんな苦い記憶がリアの中で蠢いた。

 リアは首を振る。

 赤い瞳━━聖痕の証。それを隠すために使っていた魔法の目薬を、寝起きゆえに使えなかった。
 それを見た公爵はあからさまに動揺していた。

 ━━彼がするはずだった離婚話を撤回したのは、契約を超えて、何かを望んでいるという事。

 そんな風にリアは思った。
 今まで彼にとって、私は「お飾りの妻」だった。その期間がまだ続くだけなら、問題はないけれど━━━━ 

 リアは立ち上がった。
 その背筋は、真っ直ぐに伸びていた。

「私は、お飾りでいい。今さら、“それ以外”にはなれないわ」

 そんな独り言をつぶやくとリアは花壇に水をやり始めた。
 だがそんな彼女を、本邸の窓からカイルが見ていた事に、彼女はまだ気づいていなかった。







 その瞳を、忘れたことなど一度もなかった。
 カイルは、本邸の窓越しに庭いる彼女を見つめながら、唇をかすかに噛んだ。

 聖痕である赤い瞳。
 癒しの力を持ち、聖女にしか現れないとされる祝福の証。12歳の冬、怪我を治療してくれたあの夜に見た、あの瞳と同じ色だった。

 ━━ずっと探していたが、まさか、こんな近くにいたとは。

 リアを結婚相手に選んだのは、自分にとって都合の良い相手だったから。
 多方面からの縁談を断るために「既婚者」の立場が必要だった。それならば、誰か一人を選び、表向きだけの婚姻関係を結ぶ。それだけの事。
 そして、白羽の矢が立ったのがリアだった。

 リア・アーシュライト。
 没落したアーシュライト子爵家の娘であるが、彼女は母親の連れ子で、子爵とは血縁関係にない。
 アーシュライト子爵家は数代前の当主が残した借金が未だに清算できていない。ゆえに、彼ら家族は困窮し、貴族とは思えぬ貧しい暮らしをしていた。
 彼女に関する記録はこれだけ。聖痕の話など、全くもって書かれていなかった。だが・・・・・・。

「彼女が、あの時の少女かもしれないとはな・・・・・・」

 カイルはつぶやいた。
 屋敷の書斎に戻った彼は、デスクに並べられた記録をもう一度めくった。

 グレイハウンド侯爵の20年前の記録。
 "聖痕の子が生まれるも、侯爵夫人は、離婚届を残して子供とともに失踪。その後、親子の行方は知れず。侯爵は今もなお、彼女達を探している"

 記されていたのはそれだけだったが、点と点を繋げるには十分だった。

 リアの母は、聖痕の娘を守るために、隠したのだ。
 栗色の髪を黒く染めるのでは意味がないと悟った彼女は魔法の目薬を使った。魔法書によると、瞳の色を一時的に変化させる目薬があるのだという。
 つまり、これまでリアが見せていた茶色の瞳は仮初めで、彼女の本来の瞳の色はあの日見た、美しい真紅のはずだ。

 あの神秘的な瞳を忘れられなかった。
 唯一無二のあの瞳。すぐに見つかるだろうと思っていたが、どこを探してもあの色を見つけ出す事は出来なかった。
 聖女として、すでに神殿に召し抱えられているかと思ったが、神殿は聖痕をもつ少女の行方を知らなかった。

 長い時を費やし、どんなに金をかけて念入りに探しても見つからなかった。だから、彼女は幼い頃に見た幻影か何かだと思い、諦めようとしていたが━━━━

 彼女は夢幻ではなく、確かに、彼女は存在した。
 そして、知らぬ間にカイルは彼女を手に入れていたのだ。

 カイルは席を立ち、窓の外を見やった。
 そして、彼女をこんな形で公爵夫人にした事を後悔した。

 ━━彼女は、知らなかったのだろう。俺と過去に出会っていた事を。そして、俺が探す人が彼女だという事も。

 窓の外では、リアが咲き始めたチューリップに水をやっていた。
 手慣れた動きと優しい眼差し。赤い瞳は、今は隠されている。
 茶色の瞳をした彼女がひどく遠くに感じられた。
 もう一度、彼女に向き合わなければならない。今度は、ただの“お飾り妻”としてではない。
 愛する彼女に全てを洗いざらい伝えよう。

 カイルはそう思って執事を呼びつけた。
「リアに話があるから会いに行くと伝えてくれ」
「かしこまりました、公爵様」
 扉が閉まり、部屋に静けさが戻る。

 赤い瞳の少女を忘れられなかったカイルと、その瞳を隠してまで静かに生きようとしたリア━━━━

 交わらなかったはずの二人の想いが、静かに動き出そうとしていた。
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