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2章 世界で一番嫌いな人
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ニコラス・ルトワールは、私にとって破滅をもたらす恐ろしい存在だった。
それは出会った日から、今もなお変わらない。彼といると、胸の奥が締めつけられるように苦しくなる。
━━だからもう、彼のもとから離れたい。
何度も、何度も、そう思ってきた。
※
彼と出会ったのは、私が八歳になろうとしていた春の日だった。
その時すでに、私は前世の記憶を取り戻していて、自分が悪役令嬢、エレノア・モニャークに転生していることも理解していた。
そして、ニコラス様がどんな人物なのかも。
ゲームの中の彼は、冷酷な人だった。
両親に愛されず、腹違いの姉弟と競争する事を強制させられた彼は、世の中を酷く恨んでいた。妬みと破壊の衝動を常に腹の中に抱えながら、笑顔で取り繕い、敵と認識した者には容赦をしない。
ミランダと出会い、恋に落ちるまでの彼は、冷酷非道な行いを平気で行える人だった。
そんなニコラスの婚約者がエレノアだ。
彼女は、ヒロインであるミランダがどの攻略対象を選ぼうとも、悲惨な結末を迎える事が決まっていた。
例えば、ミランダがニコラスと結ばれた場合。エレノアは「邪魔者」として事故に見せかけて処分される。
別の相手とミランダが結ばれても、エレノアは後継争いに巻き込まれ、やはり命を落とす運命にあった。
私はその展開を知っていたから、当然、ニコラス様との婚約に反対した。エレノアにとっての不幸の根源は、彼に他ならなかったから。
けれど、お父様は、首を縦に振らなかった。
「ニコラス殿下は可哀想なお方なのだ。両親から愛されず、“道具”として消費させられて、彼は酷く病んでいるのだよ。私達が味方をしてやらねば、殿下はきっと、壊れてしまう。だから、エレノアの優しさを彼に分け与えてはくれんかね?」
真っ直ぐな瞳でそう言われて、私は言葉を失った。もし、お父様の言うことが本当なら、彼を切り捨てるなんて私にはできなかった。
━━仕方がない。もう少し歳を取ったら、時期を見て婚約を解消してもらおう。
そう決めて、私は婚約を受け入れた。
それから数日後、私は王宮の庭園でニコラス様と初めて顔を合わせた。
その時の彼の印象は、ゲームの中の彼とはまるで違っていた。
彼はあまりにも儚く、美しかった。
碧い瞳はどこか虚ろで、視線は合わなかった。口数は少なく、こちらが話しかけても力ない笑みを返すだけで……。まるで、壊れかけの人形のようだった。
私は戸惑いながらも、彼の心を少しでも明るくできたらと、笑顔で話しかけた。けれど、その仮面のような微笑みは、最後まで崩れなかった。
━━お父様の言う通り、彼は病んでいる。
私は、幼いながらにもそれを強く感じたのを覚えている。
それからというもの、私は王宮に頻繁に足を運んだ。
明るく、優しく、ニコラス様に語りかけた。彼の心が少しでも晴れる事を願って。けれど、どれだけ努力しても、返ってくるのは相変わらず形ばかりの笑みと短い相槌だけ。
ニコラス様が私に心を開く事がなかったのだ。
そして、正式に婚約が結ばれてからも、それは変わらなかった。
彼は出会った頃と同じく、生気のない瞳で、どこか遠くを見つめている。私はそんな彼を、美しいけれど、感情の通わない人形のように思っていた。
でも、その彼が、ある事件をきっかけに変わった。
私が八歳の秋に、ニコラス様は毒を盛られ、命を落としかけた。その日を境に、彼は劇的な変貌を遂げたのだ。
生気のなかった瞳には力が宿り、沈んだ顔には意思が表れた。
寡黙なのは相変わらずだったけれど、それでも、彼は自分の意見を主張するようになっていた。
彼から儚さは消え、代わりに強さが見え隠れし始めたのだ。私は、その変化を嬉しく思っていた。
しかし、その気持ちは長く続かなかった。
私は見てしまったのだ。ニコラス様が、遠くからレイチェル嬢を見つめる視線を。
彼女が王宮を訪れるたび、ニコラス様は優しく目を細めていた。あの表情は、本来ゲーム終盤でヒロインに向けられるものだった。
そのとき、私ははっきり悟った。
彼は、レイチェル嬢に恋をしている。
そう思った私は、彼にやんわりと尋ねてみた。
「最近のニコラス様は、お変わりになったようですが、何かあったんですか」
すると、彼は、ゲームでみたあの作り笑いを浮かべて「何も」と言うだけだった。
私はほんの少したじろいだ。
ゲームのニコラスとは程遠かった彼が、それに近づいて行っている気がして。
そして、彼にとっての“ヒロイン”が、ミランダからレイチェル嬢にすり替わったような気がして怖くなったのだ。
━━このままでは、私は“処分”される。
ニコラス様にとって邪魔な存在になるであろう私は、いずれ彼に消されてしまう。そんな風に思えてならなかった。
そして、その不安は、日を追うごとに強くなっていった。
成長したニコラス様は、より“ニコラス”らしくなっていったからだ。
普段は模範的な王子として完璧に振る舞う一方、私には冷たい視線を向けるようになった。人目のない場所では、思いやりなど微塵も感じられない態度を取り、時折、毒吐いてくることさえあった。
私は、彼が怖くて仕方なかった。
もし逆らえば、ゲームのエレノアと同じような末路を辿る━━
そんなのは、嫌だった。
だから私は、できるだけ彼との関わりを避けるようにした。婚約者として最低限の務めだけを果たし、それ以外では顔を合わせないようにして。ただ、ただ、婚約が解かれるその時を、じっと待ち続けていた。
それは出会った日から、今もなお変わらない。彼といると、胸の奥が締めつけられるように苦しくなる。
━━だからもう、彼のもとから離れたい。
何度も、何度も、そう思ってきた。
※
彼と出会ったのは、私が八歳になろうとしていた春の日だった。
その時すでに、私は前世の記憶を取り戻していて、自分が悪役令嬢、エレノア・モニャークに転生していることも理解していた。
そして、ニコラス様がどんな人物なのかも。
ゲームの中の彼は、冷酷な人だった。
両親に愛されず、腹違いの姉弟と競争する事を強制させられた彼は、世の中を酷く恨んでいた。妬みと破壊の衝動を常に腹の中に抱えながら、笑顔で取り繕い、敵と認識した者には容赦をしない。
ミランダと出会い、恋に落ちるまでの彼は、冷酷非道な行いを平気で行える人だった。
そんなニコラスの婚約者がエレノアだ。
彼女は、ヒロインであるミランダがどの攻略対象を選ぼうとも、悲惨な結末を迎える事が決まっていた。
例えば、ミランダがニコラスと結ばれた場合。エレノアは「邪魔者」として事故に見せかけて処分される。
別の相手とミランダが結ばれても、エレノアは後継争いに巻き込まれ、やはり命を落とす運命にあった。
私はその展開を知っていたから、当然、ニコラス様との婚約に反対した。エレノアにとっての不幸の根源は、彼に他ならなかったから。
けれど、お父様は、首を縦に振らなかった。
「ニコラス殿下は可哀想なお方なのだ。両親から愛されず、“道具”として消費させられて、彼は酷く病んでいるのだよ。私達が味方をしてやらねば、殿下はきっと、壊れてしまう。だから、エレノアの優しさを彼に分け与えてはくれんかね?」
真っ直ぐな瞳でそう言われて、私は言葉を失った。もし、お父様の言うことが本当なら、彼を切り捨てるなんて私にはできなかった。
━━仕方がない。もう少し歳を取ったら、時期を見て婚約を解消してもらおう。
そう決めて、私は婚約を受け入れた。
それから数日後、私は王宮の庭園でニコラス様と初めて顔を合わせた。
その時の彼の印象は、ゲームの中の彼とはまるで違っていた。
彼はあまりにも儚く、美しかった。
碧い瞳はどこか虚ろで、視線は合わなかった。口数は少なく、こちらが話しかけても力ない笑みを返すだけで……。まるで、壊れかけの人形のようだった。
私は戸惑いながらも、彼の心を少しでも明るくできたらと、笑顔で話しかけた。けれど、その仮面のような微笑みは、最後まで崩れなかった。
━━お父様の言う通り、彼は病んでいる。
私は、幼いながらにもそれを強く感じたのを覚えている。
それからというもの、私は王宮に頻繁に足を運んだ。
明るく、優しく、ニコラス様に語りかけた。彼の心が少しでも晴れる事を願って。けれど、どれだけ努力しても、返ってくるのは相変わらず形ばかりの笑みと短い相槌だけ。
ニコラス様が私に心を開く事がなかったのだ。
そして、正式に婚約が結ばれてからも、それは変わらなかった。
彼は出会った頃と同じく、生気のない瞳で、どこか遠くを見つめている。私はそんな彼を、美しいけれど、感情の通わない人形のように思っていた。
でも、その彼が、ある事件をきっかけに変わった。
私が八歳の秋に、ニコラス様は毒を盛られ、命を落としかけた。その日を境に、彼は劇的な変貌を遂げたのだ。
生気のなかった瞳には力が宿り、沈んだ顔には意思が表れた。
寡黙なのは相変わらずだったけれど、それでも、彼は自分の意見を主張するようになっていた。
彼から儚さは消え、代わりに強さが見え隠れし始めたのだ。私は、その変化を嬉しく思っていた。
しかし、その気持ちは長く続かなかった。
私は見てしまったのだ。ニコラス様が、遠くからレイチェル嬢を見つめる視線を。
彼女が王宮を訪れるたび、ニコラス様は優しく目を細めていた。あの表情は、本来ゲーム終盤でヒロインに向けられるものだった。
そのとき、私ははっきり悟った。
彼は、レイチェル嬢に恋をしている。
そう思った私は、彼にやんわりと尋ねてみた。
「最近のニコラス様は、お変わりになったようですが、何かあったんですか」
すると、彼は、ゲームでみたあの作り笑いを浮かべて「何も」と言うだけだった。
私はほんの少したじろいだ。
ゲームのニコラスとは程遠かった彼が、それに近づいて行っている気がして。
そして、彼にとっての“ヒロイン”が、ミランダからレイチェル嬢にすり替わったような気がして怖くなったのだ。
━━このままでは、私は“処分”される。
ニコラス様にとって邪魔な存在になるであろう私は、いずれ彼に消されてしまう。そんな風に思えてならなかった。
そして、その不安は、日を追うごとに強くなっていった。
成長したニコラス様は、より“ニコラス”らしくなっていったからだ。
普段は模範的な王子として完璧に振る舞う一方、私には冷たい視線を向けるようになった。人目のない場所では、思いやりなど微塵も感じられない態度を取り、時折、毒吐いてくることさえあった。
私は、彼が怖くて仕方なかった。
もし逆らえば、ゲームのエレノアと同じような末路を辿る━━
そんなのは、嫌だった。
だから私は、できるだけ彼との関わりを避けるようにした。婚約者として最低限の務めだけを果たし、それ以外では顔を合わせないようにして。ただ、ただ、婚約が解かれるその時を、じっと待ち続けていた。
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