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2章 世界で一番嫌いな人
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婚約解消の時を待ちわびた私は、13歳の時に、思い切ってお父様に伝えた。
ニコラス様がレイチェル嬢の事を心の底から愛しているのだと。
でも、お父様はまるで取り合ってくれなかった。
「彼の想い人がドルウェルク辺境伯令嬢であるなら心配には及ばないだろう」
「どうしてですか。ニコラス様はレイチェル嬢を愛してやまないんですよ?」
そう言うと、お父様の顔が真剣な表情に変わった。
「エレノア、よく聞きなさい」
ゆっくりと言葉を選ぶように、お父様は語り出す。
「ニコラス殿下がドルウェルク辺境伯令嬢の事をどんなに恋慕おうとも、彼の想いが実る事はないんだ。彼女はニコラス殿下の弟君であるケイン殿下の婚約者だからな。おまけに、彼女はドルウェルク家の娘だ。冷徹な辺境伯と信仰心の強い事で知られる夫人の間に生まれた彼女なら、分別という物を知っているはずだ。例え、ニコラス殿下がその想いを彼女に伝えても、彼女はそれを拒否するだろう」
「でも……。それでニコラス様が諦めるのでしょうか」
「殿下にとって悲しい事ではあるが、諦めざるを得ないだろう。彼は聡明な方だから、きっとそれを分かっている。彼女を手に入れる事ができないと。だから、彼の婚約者の座をエレノアが譲る必要はない。今まで通り、お前はニコラス殿下を支えてあげなさい。分かったかい?」
穏やかに諭された私は、何も言い返す事ができなかった。お父様に、ゲームの中のニコラスを説明する事ができなかったから。
ニコラスは、その執着心と欲深さから、時に強引な形で愛するヒロインに対峙していた。そして、自分の邪魔になる物は血も涙もなく貶めてヒロインを何としてでも手に入れようとしていたのだ。
そして、その結果、エレノアが死ぬのだけれど━━
私はそれを知りながらも、何もできない自分がもどかしかった。このままでは、私はバッドエンドに向かう。あんな惨めな死に方はしたくなかった。
だから、私はどうにかして婚約解消をできないかと毎日悩み続けたけれど、結局、何もできなかった。そして、気が付けば2年の時が流れていて、学園生活が始まってしまったのだ。
私は恐怖の感情を心の隅に置きながら、入学式に臨んだ。
式辞を読んだケイン殿下は、その去り際にミランダに視線を送ったのを見て、私は思った。
━━ああ、やっぱり、ゲームのイベントは本当に起こるんだ。
けれど、予定にない事も起こった。
入学祝いのパーティーで、ニコラス殿下がレイチェル嬢とファーストダンスを踊ったのだ。
━━どうして?
何度か王宮で会ったレイチェル嬢は、穏やかで、礼儀正しくて、しっかりした人だった。それは、お父様の言う通り、「分別のある令嬢」という印象だったのに。
それなのに今、彼女はニコラス様と楽しげに踊っている。
しかも、ニコラス様の様子もおかしかった。
彼は日頃から目立つ事を嫌い、「ダンスは気が乗らない」と言っていたのに。レイチェル嬢と踊る彼はとても穏やかな笑顔で彼女をリードしていた。
そして、終わり際には、レイチェル嬢の手の甲にキスをしたのだ。麗しい王子のその行動に、会場中がどよめき出したのは言うまでもない。
「何、あれ……?」
幼馴染のベッキーこと、レベッカ・ライネ伯爵令嬢は、顔を歪めて小さな声で言った。彼女ははっきりと口にはしなかったけれど、二人に対して軽蔑の眼差しを向けている。
彼女は怒ってくれているのだ。私に恥を搔かせた彼らに。
しかし、私はそれを喜ぶ事も、宥める事もできなかった。
━━やっぱり、ニコラス様はレイチェル嬢の事をまだ好きなんだ。そして、きっと、諦めるつもりもない……。
そう覚った時、押さえつけていた恐怖がどんどん込み上げてきた。
━━邪魔だと思われたら、殺される。ゲームのエレノアのように。
そんな思いが頭の中を支配した時、ニコラス様はこちらにやって来た。
ベッキーは一歩踏み出して、彼に対峙した。
「ニコラス殿下!」
怒りに燃える目で、彼に一言物申そうとする彼女を私は慌てて制止した。
「大丈夫! 大丈夫だから! 一旦、落ち着こ?」
そう言ってベッキーの腕を掴んだ。彼女はニコラス様を睨みつけながらも、何とか押しとどまった。
怒りの感情を顕にするベッキーを見ても、彼はいつも通りの穏やかな笑みを崩さなかった。
「そんなに怒らないで? 俺はただ、レイチェルが可哀想に思えただけなんだ。ケインに酷い事をされているのに無視なんかできないよ。……君だって、見過ごせないと思うだろう?」
ニコラス様は私に同意を求めてきた。
彼女の婚約者であるケイン様が、ミランダとファーストダンスを踊った事を彼は問題視しているけれど……。
「でも、そうしたら、エリーが可哀想な事になるとは思わなかったんですか」
ベッキーの怒りがにじんだ声が、静かに割って入った。
ニコラス様はふっと口元を歪めた。
「大丈夫。ラストダンスはエレノアと踊るから」
彼はそう言ったけれど。
━━それの何が大丈夫なんだろう? そんな事で、搔かされた恥が帳消しになるはずがないのに。
私の不満に、ニコラス様は気付いたに違いない。彼は、半歩前に出て、私に近付くと囁いた。
「エレノアは優しいから、分かるよね?」
それは疑問の形をした、同意を求める言葉だった。「はい」以外の返答を彼は認めない。そんな雰囲気を醸し出している。
私はせめてもの抵抗で、何も答えなかった。けれど、ニコラス様には意味をなさなかったらしい。彼は不敵に笑うと言った。
「それじゃあ、ラストダンスの時に」
にこやかに告げて、彼は背を向けた。まるで、すべてが予定通りかのように━━
「何よ、あの人……」
ベッキーはニコラス様の背中に鋭い視線を送った。
私は会場を見渡したけれど、レイチェル嬢の姿はどこにもなかった。
ニコラス様がレイチェル嬢の事を心の底から愛しているのだと。
でも、お父様はまるで取り合ってくれなかった。
「彼の想い人がドルウェルク辺境伯令嬢であるなら心配には及ばないだろう」
「どうしてですか。ニコラス様はレイチェル嬢を愛してやまないんですよ?」
そう言うと、お父様の顔が真剣な表情に変わった。
「エレノア、よく聞きなさい」
ゆっくりと言葉を選ぶように、お父様は語り出す。
「ニコラス殿下がドルウェルク辺境伯令嬢の事をどんなに恋慕おうとも、彼の想いが実る事はないんだ。彼女はニコラス殿下の弟君であるケイン殿下の婚約者だからな。おまけに、彼女はドルウェルク家の娘だ。冷徹な辺境伯と信仰心の強い事で知られる夫人の間に生まれた彼女なら、分別という物を知っているはずだ。例え、ニコラス殿下がその想いを彼女に伝えても、彼女はそれを拒否するだろう」
「でも……。それでニコラス様が諦めるのでしょうか」
「殿下にとって悲しい事ではあるが、諦めざるを得ないだろう。彼は聡明な方だから、きっとそれを分かっている。彼女を手に入れる事ができないと。だから、彼の婚約者の座をエレノアが譲る必要はない。今まで通り、お前はニコラス殿下を支えてあげなさい。分かったかい?」
穏やかに諭された私は、何も言い返す事ができなかった。お父様に、ゲームの中のニコラスを説明する事ができなかったから。
ニコラスは、その執着心と欲深さから、時に強引な形で愛するヒロインに対峙していた。そして、自分の邪魔になる物は血も涙もなく貶めてヒロインを何としてでも手に入れようとしていたのだ。
そして、その結果、エレノアが死ぬのだけれど━━
私はそれを知りながらも、何もできない自分がもどかしかった。このままでは、私はバッドエンドに向かう。あんな惨めな死に方はしたくなかった。
だから、私はどうにかして婚約解消をできないかと毎日悩み続けたけれど、結局、何もできなかった。そして、気が付けば2年の時が流れていて、学園生活が始まってしまったのだ。
私は恐怖の感情を心の隅に置きながら、入学式に臨んだ。
式辞を読んだケイン殿下は、その去り際にミランダに視線を送ったのを見て、私は思った。
━━ああ、やっぱり、ゲームのイベントは本当に起こるんだ。
けれど、予定にない事も起こった。
入学祝いのパーティーで、ニコラス殿下がレイチェル嬢とファーストダンスを踊ったのだ。
━━どうして?
何度か王宮で会ったレイチェル嬢は、穏やかで、礼儀正しくて、しっかりした人だった。それは、お父様の言う通り、「分別のある令嬢」という印象だったのに。
それなのに今、彼女はニコラス様と楽しげに踊っている。
しかも、ニコラス様の様子もおかしかった。
彼は日頃から目立つ事を嫌い、「ダンスは気が乗らない」と言っていたのに。レイチェル嬢と踊る彼はとても穏やかな笑顔で彼女をリードしていた。
そして、終わり際には、レイチェル嬢の手の甲にキスをしたのだ。麗しい王子のその行動に、会場中がどよめき出したのは言うまでもない。
「何、あれ……?」
幼馴染のベッキーこと、レベッカ・ライネ伯爵令嬢は、顔を歪めて小さな声で言った。彼女ははっきりと口にはしなかったけれど、二人に対して軽蔑の眼差しを向けている。
彼女は怒ってくれているのだ。私に恥を搔かせた彼らに。
しかし、私はそれを喜ぶ事も、宥める事もできなかった。
━━やっぱり、ニコラス様はレイチェル嬢の事をまだ好きなんだ。そして、きっと、諦めるつもりもない……。
そう覚った時、押さえつけていた恐怖がどんどん込み上げてきた。
━━邪魔だと思われたら、殺される。ゲームのエレノアのように。
そんな思いが頭の中を支配した時、ニコラス様はこちらにやって来た。
ベッキーは一歩踏み出して、彼に対峙した。
「ニコラス殿下!」
怒りに燃える目で、彼に一言物申そうとする彼女を私は慌てて制止した。
「大丈夫! 大丈夫だから! 一旦、落ち着こ?」
そう言ってベッキーの腕を掴んだ。彼女はニコラス様を睨みつけながらも、何とか押しとどまった。
怒りの感情を顕にするベッキーを見ても、彼はいつも通りの穏やかな笑みを崩さなかった。
「そんなに怒らないで? 俺はただ、レイチェルが可哀想に思えただけなんだ。ケインに酷い事をされているのに無視なんかできないよ。……君だって、見過ごせないと思うだろう?」
ニコラス様は私に同意を求めてきた。
彼女の婚約者であるケイン様が、ミランダとファーストダンスを踊った事を彼は問題視しているけれど……。
「でも、そうしたら、エリーが可哀想な事になるとは思わなかったんですか」
ベッキーの怒りがにじんだ声が、静かに割って入った。
ニコラス様はふっと口元を歪めた。
「大丈夫。ラストダンスはエレノアと踊るから」
彼はそう言ったけれど。
━━それの何が大丈夫なんだろう? そんな事で、搔かされた恥が帳消しになるはずがないのに。
私の不満に、ニコラス様は気付いたに違いない。彼は、半歩前に出て、私に近付くと囁いた。
「エレノアは優しいから、分かるよね?」
それは疑問の形をした、同意を求める言葉だった。「はい」以外の返答を彼は認めない。そんな雰囲気を醸し出している。
私はせめてもの抵抗で、何も答えなかった。けれど、ニコラス様には意味をなさなかったらしい。彼は不敵に笑うと言った。
「それじゃあ、ラストダンスの時に」
にこやかに告げて、彼は背を向けた。まるで、すべてが予定通りかのように━━
「何よ、あの人……」
ベッキーはニコラス様の背中に鋭い視線を送った。
私は会場を見渡したけれど、レイチェル嬢の姿はどこにもなかった。
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