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2章 世界で一番嫌いな人
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【2-3】世界で一番嫌いな人
それから、ニコラス様はいつものように私を放置した。私はベッキーと共に時間を過ごし、彼女の励ましに救われながら、ただその時を待った。
ラストダンスの時間になると、ニコラス様は何食わぬ顔で私を迎えに来た。差し出された手を取りたくはなかったけれど、ここで断れば、“痴情のもつれ”として噂されることは目に見えていた。
だから、私は仕方なく彼の手を取り、会場の中央へと向かった。
「レイチェル嬢のところへ行かなくていいんですか」
いつの間にか会場に戻ってきていた彼女は、隅でひとり佇んでいた。ケイン様はミランダと共に先に退出しており、彼女は好奇の目に晒されている。
「余計なことを言わなくていいんだよ」
彼は作り笑いを浮かべたまま、淡々とそう言った。どうやらレイチェル嬢と再び踊る気はないらしい。
私はふと、彼女の方を見た。レイチェル嬢は穏やかな笑みを浮かべながら、歳の近い令嬢達と談笑していた。まるで、これから私とニコラス様が踊る事に、何の興味がないかのように。
━━ニコラス様に好意があったから踊ったんじゃなかったの? それなのに、どうして……。
そんな思いが渦巻くなか、ダンスの始まりを告げる音楽が流れ出した。
私は音楽に合わせてステップを踏む。踊りは得意な方だ。この程度のステップなら集中しなくても平気。そう思った私は、意を決して口を開いた。
「ニコラス様は、レイチェル嬢のことが好きなんですよね?」
ニコラス様は私の顔をじっと見つめたまま、何も答えなかった。
「私は、いつでもあなたの婚約者を辞めても構いません。だから、レイチェル嬢と……」
その瞬間、彼の足が私のふくらはぎを強く蹴りつけた。衝撃に身構える間もなく、私は勢いよく転倒してしまった。
「きゃっ!」
尻もちをつき、小さく悲鳴をあげると、会場中の視線が一斉に私に注がれた。
「まあ……!」
「大丈夫かしら?」
恥ずかしさで顔が熱くなるのを感じながら、私は慌てて立ち上がろうとした。しかし、その前にニコラス様が私の腕を掴んだ。
「簡単なステップなのに、エレノアが間違えるなんて、珍しいね」
彼はわざとらしく、周囲に聞こえるよう大きな声ではっきりと言った。
その瞬間、周囲の空気が変わった。さっきまで純粋に心配してくれていた人々が、今は私の失敗を笑っている。私は恥ずかしさと悔しさで、思わず下唇を噛んだ。
「そんなに落ち込まないで? まだ踊りの時間は終わってないから」
ニコラス様は微笑んだ。その表情は優しげでありながら、目だけが冷たい。それは、まるでゲームで見たニコラスの笑顔だった。
それに気付いた途端、恐怖が全身を駆け巡った。腰が引け、身体が動かなくなる。
そんな私を、彼は無理やり立ち上がらせた。そして、優しく抱きしめるふりをしながら、耳元でこう囁いたのだ。
「俺という泥舟に乗ったんだから。今更勝手に降りるなんて、許さない」
低く、憎悪のこもった声に、私は総毛立った。
彼は私を離すと、何事もなかったかのようにダンスの体勢に戻る。そして今度は、先ほどよりも簡単で、ゆったりとしたステップを踏んだ。
一見すれば、私を気遣っているように見えたかもしれない。でも、彼の手は必要以上に強く、私の腕を痛めつけていた。
「余計なことは何もしなくていい。君が大人しくしているなら、俺もモニャーク公爵の望み通りにしてやる」
「……お父様の、望み?」
言葉の意味が分からなかった。
「そんなことも知らずに、俺の婚約者をやってるのか」
ニコラス様は鼻で笑った。その嘲笑に、私は何も言い返せず、下を向くしかなかった。
彼の真意も分からないまま、音楽はやがて終わった。
ニコラス様は礼儀正しくお辞儀をし、私をベッキーのもとへとエスコートした。
そして、さっきとは打って変わって紳士的な笑みを浮かべると私に向かって言った。
「ダンス、楽しかったよ」
私は何の返答もできず、ただ、彼の背中を呆然と見送るしかなかった。
そんな私の手をベッキーが取った。
「大丈夫だった? 痛くない?」
彼女は気付いていたのだろう。ニコラス様が踊りの最中にわざと私をコケさせた事を。
「うん……」
「あんな人、なるべく関わり合わない方がいいわ」
「そうだね」
「婚約なんて、なくなっちゃえばいいのに……」
ベッキーの小さなつぶやきに、私は泣きたくなるのを堪えて頷いた。
※
翌日には、ニコラス様とレイチェル嬢のファーストダンスの噂が社交界を駆け巡っていた。
そして、その“おまけ”のように、私の失敗談も囁かれていたらしい。
お父様は書斎に私を呼び付けると、怒りを顕にした。
「エレノア、昨日何があったか説明しなさい」
私がありのままを全て話すと、お父様の怒りの鉾先は、ニコラス様に向かった。
「健気に生きているかと思いきや、随分と母親に似てきよって……」
お父様は忌々しげに吐き捨てると、机を指でトントンと叩いた。
「お父様」
「何だ?」
「お父様は、ニコラス様をどうしたくて、私と婚約させたのですか」
「ああ……」
机を叩くのをやめて、お父様は私に向き合った。
「お前達の婚約は、ニコラス殿下と彼の母親を切り離す事にあるんだ。前にも言っただろう? 第二王妃は、ニコラス殿下を政治の道具に使っていると」
「はい」
「第二王妃は彼を王にする事で、その権力を自分の物にして、暴利を貪ろうとしているのだ。そうなってしまえば、国は大きく傾くだろう。だから、私はニコラス殿下を彼女から切り離そうと決めた」
「私が婚約する事で、それができるのですか」
「勿論。彼がお前の婚約者である事を理由に、彼らの行動をモニャーク家が口を挟む事ができるからな」
やっとニコラス様の言っていた事が理解できた。彼は、お父様に何も言われなくて済むように、第二王妃様とは距離を取って大人しく過ごすと言っていたのだ。
「それから……」
お父様は話を続けた。
「私は優しいエレノアなら、孤独なニコラス殿下を支えてやれると思ったんだ……。だが、私の見立てが甘かったようだな」
「ごめんなさい」
「エレノアを責めているんじゃない」
お父様は苦笑すると立ち上がった。
「今回の件については、正式に抗議しておくつもりだ」
「はい」
「何かあったら、迷わず私に報告しなさい。あまりにも酷いようなら、婚約の解消も視野に入れよう」
「いいんですか」
私達の婚約には、政治的な意味があるのだと、お父様は説明していたのに。
私の問いにお父様はあっさりと頷いた。
「娘に何かがあっては、死んだ妻に、顔向けができんからな」
お父様はそう言うと、優しく笑った。
それから、ニコラス様はいつものように私を放置した。私はベッキーと共に時間を過ごし、彼女の励ましに救われながら、ただその時を待った。
ラストダンスの時間になると、ニコラス様は何食わぬ顔で私を迎えに来た。差し出された手を取りたくはなかったけれど、ここで断れば、“痴情のもつれ”として噂されることは目に見えていた。
だから、私は仕方なく彼の手を取り、会場の中央へと向かった。
「レイチェル嬢のところへ行かなくていいんですか」
いつの間にか会場に戻ってきていた彼女は、隅でひとり佇んでいた。ケイン様はミランダと共に先に退出しており、彼女は好奇の目に晒されている。
「余計なことを言わなくていいんだよ」
彼は作り笑いを浮かべたまま、淡々とそう言った。どうやらレイチェル嬢と再び踊る気はないらしい。
私はふと、彼女の方を見た。レイチェル嬢は穏やかな笑みを浮かべながら、歳の近い令嬢達と談笑していた。まるで、これから私とニコラス様が踊る事に、何の興味がないかのように。
━━ニコラス様に好意があったから踊ったんじゃなかったの? それなのに、どうして……。
そんな思いが渦巻くなか、ダンスの始まりを告げる音楽が流れ出した。
私は音楽に合わせてステップを踏む。踊りは得意な方だ。この程度のステップなら集中しなくても平気。そう思った私は、意を決して口を開いた。
「ニコラス様は、レイチェル嬢のことが好きなんですよね?」
ニコラス様は私の顔をじっと見つめたまま、何も答えなかった。
「私は、いつでもあなたの婚約者を辞めても構いません。だから、レイチェル嬢と……」
その瞬間、彼の足が私のふくらはぎを強く蹴りつけた。衝撃に身構える間もなく、私は勢いよく転倒してしまった。
「きゃっ!」
尻もちをつき、小さく悲鳴をあげると、会場中の視線が一斉に私に注がれた。
「まあ……!」
「大丈夫かしら?」
恥ずかしさで顔が熱くなるのを感じながら、私は慌てて立ち上がろうとした。しかし、その前にニコラス様が私の腕を掴んだ。
「簡単なステップなのに、エレノアが間違えるなんて、珍しいね」
彼はわざとらしく、周囲に聞こえるよう大きな声ではっきりと言った。
その瞬間、周囲の空気が変わった。さっきまで純粋に心配してくれていた人々が、今は私の失敗を笑っている。私は恥ずかしさと悔しさで、思わず下唇を噛んだ。
「そんなに落ち込まないで? まだ踊りの時間は終わってないから」
ニコラス様は微笑んだ。その表情は優しげでありながら、目だけが冷たい。それは、まるでゲームで見たニコラスの笑顔だった。
それに気付いた途端、恐怖が全身を駆け巡った。腰が引け、身体が動かなくなる。
そんな私を、彼は無理やり立ち上がらせた。そして、優しく抱きしめるふりをしながら、耳元でこう囁いたのだ。
「俺という泥舟に乗ったんだから。今更勝手に降りるなんて、許さない」
低く、憎悪のこもった声に、私は総毛立った。
彼は私を離すと、何事もなかったかのようにダンスの体勢に戻る。そして今度は、先ほどよりも簡単で、ゆったりとしたステップを踏んだ。
一見すれば、私を気遣っているように見えたかもしれない。でも、彼の手は必要以上に強く、私の腕を痛めつけていた。
「余計なことは何もしなくていい。君が大人しくしているなら、俺もモニャーク公爵の望み通りにしてやる」
「……お父様の、望み?」
言葉の意味が分からなかった。
「そんなことも知らずに、俺の婚約者をやってるのか」
ニコラス様は鼻で笑った。その嘲笑に、私は何も言い返せず、下を向くしかなかった。
彼の真意も分からないまま、音楽はやがて終わった。
ニコラス様は礼儀正しくお辞儀をし、私をベッキーのもとへとエスコートした。
そして、さっきとは打って変わって紳士的な笑みを浮かべると私に向かって言った。
「ダンス、楽しかったよ」
私は何の返答もできず、ただ、彼の背中を呆然と見送るしかなかった。
そんな私の手をベッキーが取った。
「大丈夫だった? 痛くない?」
彼女は気付いていたのだろう。ニコラス様が踊りの最中にわざと私をコケさせた事を。
「うん……」
「あんな人、なるべく関わり合わない方がいいわ」
「そうだね」
「婚約なんて、なくなっちゃえばいいのに……」
ベッキーの小さなつぶやきに、私は泣きたくなるのを堪えて頷いた。
※
翌日には、ニコラス様とレイチェル嬢のファーストダンスの噂が社交界を駆け巡っていた。
そして、その“おまけ”のように、私の失敗談も囁かれていたらしい。
お父様は書斎に私を呼び付けると、怒りを顕にした。
「エレノア、昨日何があったか説明しなさい」
私がありのままを全て話すと、お父様の怒りの鉾先は、ニコラス様に向かった。
「健気に生きているかと思いきや、随分と母親に似てきよって……」
お父様は忌々しげに吐き捨てると、机を指でトントンと叩いた。
「お父様」
「何だ?」
「お父様は、ニコラス様をどうしたくて、私と婚約させたのですか」
「ああ……」
机を叩くのをやめて、お父様は私に向き合った。
「お前達の婚約は、ニコラス殿下と彼の母親を切り離す事にあるんだ。前にも言っただろう? 第二王妃は、ニコラス殿下を政治の道具に使っていると」
「はい」
「第二王妃は彼を王にする事で、その権力を自分の物にして、暴利を貪ろうとしているのだ。そうなってしまえば、国は大きく傾くだろう。だから、私はニコラス殿下を彼女から切り離そうと決めた」
「私が婚約する事で、それができるのですか」
「勿論。彼がお前の婚約者である事を理由に、彼らの行動をモニャーク家が口を挟む事ができるからな」
やっとニコラス様の言っていた事が理解できた。彼は、お父様に何も言われなくて済むように、第二王妃様とは距離を取って大人しく過ごすと言っていたのだ。
「それから……」
お父様は話を続けた。
「私は優しいエレノアなら、孤独なニコラス殿下を支えてやれると思ったんだ……。だが、私の見立てが甘かったようだな」
「ごめんなさい」
「エレノアを責めているんじゃない」
お父様は苦笑すると立ち上がった。
「今回の件については、正式に抗議しておくつもりだ」
「はい」
「何かあったら、迷わず私に報告しなさい。あまりにも酷いようなら、婚約の解消も視野に入れよう」
「いいんですか」
私達の婚約には、政治的な意味があるのだと、お父様は説明していたのに。
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