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2章 世界で一番嫌いな人
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それから時が経ち、私は学園を卒業した。
卒業パーティーでは、笑顔を浮かべるのが苦しかった。別れを惜しむ人々の言葉も、祝福の拍手も、全てが遠くの出来事のように感じられた。
身分の低い同級生の中には、泣きながら私を見送る子もいた。
「これからは、もう気軽に話しかけられないんですね」
そう口にした彼女の涙を見た瞬間、胸の奥が凍えたように冷たくなった。
━━私はそんな風に見上げられる存在になりたくない。王太子妃なんて嫌だ。……結婚なんてしたくない。20歳の春なんて来なければいいのに。
それはずっと前から抱えていた想いだったけれど、卒業の日、その気持ちは悲鳴のように心の奥で響いていた。
そして、日が経つほどに、その願いは募っていった。時間が進むのが怖かった。春が来るのが怖かった。いつか「その日」が来てしまうと思うと、夜もまともに眠れなかった。
陰鬱な気分になる度に、私はアーサー様からもらった魔導具を手に取った。
魔導具の事は誰にも言っていない。これは、言ってしまえば彼専用の電話のような物だから。婚約者のいる私が持っていると、別の意味で捉えられてもおかしくなかった。
だから、私はそれをお守り代わりにするだけで、通信機として使用しなかったけれど━━
“アーサー大公殿下がレイチェル嬢を庇い、錯乱した第一王妃様に怪我をさせられた”
そんなスキャンダルを耳にして、私は通信機のボタンを押してしまった。
「エレノア嬢?」
通信機から彼の声が聞こえた瞬間、息を呑んだ。
「どうかした? 何かあったの?」
「……いいえ。怪我をしたと聞いて、それで……」
「心配してくれたんだね。ありがとう」
穏やかな彼の声。そのいつもと変わらない落ち着いた響きが、今は妙に優しくて、心の奥に染み込んでいった。
「大した怪我じゃないんだ。ほんのかすり傷だから、すぐに治るよ」
「そうですか。よかった……」
「エレノア嬢は変わりない?」
「ええ」
「結婚式の準備で忙しいんじゃないの?」
「……そうですね」
返事をしながら、自分の声に何の感情も乗っていないことに気づく。このまま何もかも投げ出してしまいたいと、彼に言えたらどれ程良かっただろう。
「俺も、式に参加させてもらうから。今からエレノア嬢の花嫁姿を楽しみにしておくよ」
その言葉が、緩やかに首を絞めてくるようだった。
息苦しい気持ちを押し殺して、私は「はい」と返事をした。
「……それじゃあ、元気でね」
「はい。大公殿下も」
大公殿下はもう一度、別れの言葉を言ってから通信を終えた。
その途端に、言いようのない虚しさが込み上げて来る。
私は通信機を指でそっと撫でると、机の中にしまった。
※
どれ程、時が経って欲しくないと思い、時間が止まって欲しいと願っても、その日はやって来た。
純白のドレスは豪奢な上、身に付ける装飾品はどれも目の眩むような一級品だった。侍女達は、私の姿を見て、美しいと褒めちぎってくれたけれど、私はそうは思わなかった。
首を彩るネックレスは重く、頭に乗せた特注のティアラは、まるで権力を象徴しているようで、私には分不相応な物に思えた。
そして、手にした赤い薔薇の花束。ニコラス様のそれを分け与えられたのだと思うと、放り投げたい衝動に駆られる。
私は、ニコラス様の妻に相応しくない。身に付けた物の全てが、そう教えてくれていた。
しかし、どんなに不格好な姿でも、式を止められるはずもなく。
私は、愛してもないし、愛するつもりもない人との永遠の愛を神に誓った。そして、誓いのキスをしたように見せかけた。
こうして、私は王太子妃になったのだ━━
披露宴では、心から祝福してくれる人達のために、ひたすら笑顔を作った。「妃殿下」と呼ばれるたび、胸が締めつけられる思いをした。
「エレノア妃」
アーサー大公殿下が私を呼ぶと、私と話をしていた人々は彼に気を使って押し黙った。
「ご結婚おめでとうございます」
「ありがとうございます。アーサー大公殿下」
「王太子妃となったのだから、これからはそんなに固く呼ばなくても大丈夫だよ」
ロズウェルの王太子妃とエイメルの大公は、同格だから、呼び方をもっと楽にした方が良いと彼は提案してくれた。
「では、これからはアーサー様とお呼びしますね」
「ああ」
アーサー様は爽やかな笑顔を見せた。
「魔導列車が開通して大分経ちましたが、その後は快調ですか」
「おかげさまで。今は新たな線路の開拓と、魔導列車の改良に向けて取り組んでいるんだ」
「そうですか」
「魔導列車以外にも、魔導技術を用いた商品を色々と作っているんだけど……。話が長くなりそうだから、それはまた次の機会にするよ」
魔導技術では、鉄道から電話のような通信機まで作れるのだ。前世にあった物が、またこの世界でも再現されるのかもしれない。そんな風に思うと、ほんの少しだけ気が紛れた。
「ぜひ、今度会った時に教えて下さいね」
「ええ」
柔和な彼の笑顔につられて、私は心から笑顔になれた。
卒業パーティーでは、笑顔を浮かべるのが苦しかった。別れを惜しむ人々の言葉も、祝福の拍手も、全てが遠くの出来事のように感じられた。
身分の低い同級生の中には、泣きながら私を見送る子もいた。
「これからは、もう気軽に話しかけられないんですね」
そう口にした彼女の涙を見た瞬間、胸の奥が凍えたように冷たくなった。
━━私はそんな風に見上げられる存在になりたくない。王太子妃なんて嫌だ。……結婚なんてしたくない。20歳の春なんて来なければいいのに。
それはずっと前から抱えていた想いだったけれど、卒業の日、その気持ちは悲鳴のように心の奥で響いていた。
そして、日が経つほどに、その願いは募っていった。時間が進むのが怖かった。春が来るのが怖かった。いつか「その日」が来てしまうと思うと、夜もまともに眠れなかった。
陰鬱な気分になる度に、私はアーサー様からもらった魔導具を手に取った。
魔導具の事は誰にも言っていない。これは、言ってしまえば彼専用の電話のような物だから。婚約者のいる私が持っていると、別の意味で捉えられてもおかしくなかった。
だから、私はそれをお守り代わりにするだけで、通信機として使用しなかったけれど━━
“アーサー大公殿下がレイチェル嬢を庇い、錯乱した第一王妃様に怪我をさせられた”
そんなスキャンダルを耳にして、私は通信機のボタンを押してしまった。
「エレノア嬢?」
通信機から彼の声が聞こえた瞬間、息を呑んだ。
「どうかした? 何かあったの?」
「……いいえ。怪我をしたと聞いて、それで……」
「心配してくれたんだね。ありがとう」
穏やかな彼の声。そのいつもと変わらない落ち着いた響きが、今は妙に優しくて、心の奥に染み込んでいった。
「大した怪我じゃないんだ。ほんのかすり傷だから、すぐに治るよ」
「そうですか。よかった……」
「エレノア嬢は変わりない?」
「ええ」
「結婚式の準備で忙しいんじゃないの?」
「……そうですね」
返事をしながら、自分の声に何の感情も乗っていないことに気づく。このまま何もかも投げ出してしまいたいと、彼に言えたらどれ程良かっただろう。
「俺も、式に参加させてもらうから。今からエレノア嬢の花嫁姿を楽しみにしておくよ」
その言葉が、緩やかに首を絞めてくるようだった。
息苦しい気持ちを押し殺して、私は「はい」と返事をした。
「……それじゃあ、元気でね」
「はい。大公殿下も」
大公殿下はもう一度、別れの言葉を言ってから通信を終えた。
その途端に、言いようのない虚しさが込み上げて来る。
私は通信機を指でそっと撫でると、机の中にしまった。
※
どれ程、時が経って欲しくないと思い、時間が止まって欲しいと願っても、その日はやって来た。
純白のドレスは豪奢な上、身に付ける装飾品はどれも目の眩むような一級品だった。侍女達は、私の姿を見て、美しいと褒めちぎってくれたけれど、私はそうは思わなかった。
首を彩るネックレスは重く、頭に乗せた特注のティアラは、まるで権力を象徴しているようで、私には分不相応な物に思えた。
そして、手にした赤い薔薇の花束。ニコラス様のそれを分け与えられたのだと思うと、放り投げたい衝動に駆られる。
私は、ニコラス様の妻に相応しくない。身に付けた物の全てが、そう教えてくれていた。
しかし、どんなに不格好な姿でも、式を止められるはずもなく。
私は、愛してもないし、愛するつもりもない人との永遠の愛を神に誓った。そして、誓いのキスをしたように見せかけた。
こうして、私は王太子妃になったのだ━━
披露宴では、心から祝福してくれる人達のために、ひたすら笑顔を作った。「妃殿下」と呼ばれるたび、胸が締めつけられる思いをした。
「エレノア妃」
アーサー大公殿下が私を呼ぶと、私と話をしていた人々は彼に気を使って押し黙った。
「ご結婚おめでとうございます」
「ありがとうございます。アーサー大公殿下」
「王太子妃となったのだから、これからはそんなに固く呼ばなくても大丈夫だよ」
ロズウェルの王太子妃とエイメルの大公は、同格だから、呼び方をもっと楽にした方が良いと彼は提案してくれた。
「では、これからはアーサー様とお呼びしますね」
「ああ」
アーサー様は爽やかな笑顔を見せた。
「魔導列車が開通して大分経ちましたが、その後は快調ですか」
「おかげさまで。今は新たな線路の開拓と、魔導列車の改良に向けて取り組んでいるんだ」
「そうですか」
「魔導列車以外にも、魔導技術を用いた商品を色々と作っているんだけど……。話が長くなりそうだから、それはまた次の機会にするよ」
魔導技術では、鉄道から電話のような通信機まで作れるのだ。前世にあった物が、またこの世界でも再現されるのかもしれない。そんな風に思うと、ほんの少しだけ気が紛れた。
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「ええ」
柔和な彼の笑顔につられて、私は心から笑顔になれた。
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