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2章 世界で一番嫌いな人
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「それで、今日呼び付けた理由なのですが」
私は雑談もなく、本題に入った。失礼なその行為にレイチェル妃は気にした様子はなく、静かにティーカップを受け皿に戻した。
「私はそろそろ王太子妃の座を降りたいと思っています。それで、レイチェル妃に協力してもらえないかと、相談に来たのです」
薄っすらと微笑み、作り笑いを浮かべていた彼女の顔から、みるみるうちに表情がなくなっていった。
「ニコラス殿下はそれをお許しに?」
「いいえ」
それならあなたに相談などしないと思った。
「では、モニャーク公爵は妃殿下のお考えを知っているのですか」
「ええ。お父様は随分前から、国王陛下と交渉をしていましたから」
珍しく、彼女の表情から考えが読み取れた。
「お父様の判断が、信じられない行為だと思ってますよね?」
「ええ。折角、娘が王太子妃になれたのに。それをあっさりと捨てる事を認めるだなんて、私には理解できません」
棘のある彼女の口調にふっと笑いが込み上げてきた。
「言ったでしょう? “お父様は私の幸せを考えてくれている”って」
そう言うと、彼女の眉がぴくりと動いた。どうやら彼女は、あの日の、モニャーク公爵邸での会話を覚えていたようだ。
「幸せではないから、王太子妃をやめると?」
レイチェル妃は静かに私を非難する。
「そうです。ニコラス様とどれだけ一緒にいても、辛くて惨めで、不幸になるから……。だから、彼のもとを去るの」
「妃殿下のおっしゃる“幸せ”とは何ですか」
「愛する人と、支え合いながら静かに暮らす事です」
「それだけ……?」
その一言が、私の胸の中に仕舞っていた黒い感情を爆発させた。
「レイチェル妃にとってはその程度のものですよね? 分かってますよ。でも、あなたにそんな風に言われたくないんです。私が望む幸せを手に入れているあなたには……」
溢れ出そうになる涙を堪えて彼女をじっと見ると、彼女は困惑の表情を浮かべた。
「私だって、自分なりに努力したんです。辛い環境で生きるニコラス様を支えてあげたかった。例え恋愛感情はなくとも、長年寄り添えば情が生まれると思った事もありました。でも、今となっては無理です。彼は、世界で一番嫌いな人になってしまいましたから。……私は彼を愛せないし、情も湧かない。まして、彼の子を産むなんて……。考えるだけで吐き気がします」
胸に溜め込んだ不満が洪水のように溢れてくる。止まらないそれは、彼女にも向いた。
「でも、レイチェル妃はそうじゃないですよね? あなたは、ニコラス様を愛した。違いますか」
「……そうですね。私は彼を愛しています」
彼女はかつて「大嫌い」と言った口で、彼への愛を囁いた。
分かってはいた事だけれど、こうもあっさり認められるだなんて。飛び出しそうになる憎悪の言葉を呑み込んで、私は小さく首を振った。
「それなら、私の離婚に協力して下さい。あなたも側室の立場より、王太子妃として彼の隣りに並び立ちたいでしょう?」
「いいえ。私は今のままが良いです」
レイチェル妃は困り顔で言った。
「ドルウェルク家のためですか」
彼女は静かに首を振った。
「ニコラス殿下のためです。彼には妃殿下とモニャーク公爵家の力が必要ですから」
私はぐっと拳を握りしめた。
「そんな事はないですよ。彼にとって、私は邪魔な存在ですから」
「そうでしょうか。ニコラス殿下は、妃殿下との子を望んでいますよ?」
「ええ。でも、それは私が“王太子妃”だからです。レイチェル妃が王太子妃になれば、私なんて見向きもしないでしょう」
「そうおっしゃらずに……。妃殿下がいらっしゃれば、彼はどんなに心強い事か」
「それは、うちの家門の力を目当てにしての発言ですよね? 我が家は彼のためにもう十分、力を貸して来ました。どんなに酷い扱いをされたってずっと……」
握りしめた手の甲に、涙がぽつぽつと落ちた。私は慌ててハンカチでそれを拭う。
「もう、いいでしょう? ケイン様は追放され、母方の実家は滅んだも同然なんですから」
ニコラス様の政敵はいなくなった。だから、もうモニャーク公爵家の力を宛てにしなくたっていいはずだ。
「……それ程までに、アーサー殿下と一緒になりたいのですか」
レイチェル妃がアーサー様の名前を口にした瞬間、私は凍りつきそうになった。
「なぜ、……彼の名を?」
「ニコラス殿下がおっしゃっていたんです。妃殿下はアーサー殿下を愛しているから、夜の営みを拒否するのだと」
彼がそんな事まで彼女に話しているとは思わなかった。恥ずかしさのあまりうなだれていると、彼女は静かな口調でこう言った。
「ニコラス殿下との子が産めないのなら、アーサー殿下との子を授かれば良いのです。私達が黙っていれば、事実は闇に葬れるのですから」
それは去年の結婚記念日の夜にニコラス様が言っていた事だった。
“夫婦は似てくる”と誰かが言っていた。似た者同士が結婚するとも、結婚生活の中で似てくるとも言われるけれど、彼らは一体どっちなんだろう。そう思うと、変な笑いが込み上げてきた。喉の奥でくつくつと笑いを噛み締めていると、なぜか今度は激しい怒りが湧き上がってきた。
私は、衝動に任せてドンとテーブルを叩いた。
「冗談じゃない! アーサー様との子をあんな男のもとで育てるなんて、絶対に嫌よ。それこそ、私の人生はバッドエンドで終わるわ!」
気が付いたらそう叫んでいて、レイチェル妃は呆気に取られた表情で私を見つめていた。
そして、私達の間には重い沈黙が訪れた。
私は雑談もなく、本題に入った。失礼なその行為にレイチェル妃は気にした様子はなく、静かにティーカップを受け皿に戻した。
「私はそろそろ王太子妃の座を降りたいと思っています。それで、レイチェル妃に協力してもらえないかと、相談に来たのです」
薄っすらと微笑み、作り笑いを浮かべていた彼女の顔から、みるみるうちに表情がなくなっていった。
「ニコラス殿下はそれをお許しに?」
「いいえ」
それならあなたに相談などしないと思った。
「では、モニャーク公爵は妃殿下のお考えを知っているのですか」
「ええ。お父様は随分前から、国王陛下と交渉をしていましたから」
珍しく、彼女の表情から考えが読み取れた。
「お父様の判断が、信じられない行為だと思ってますよね?」
「ええ。折角、娘が王太子妃になれたのに。それをあっさりと捨てる事を認めるだなんて、私には理解できません」
棘のある彼女の口調にふっと笑いが込み上げてきた。
「言ったでしょう? “お父様は私の幸せを考えてくれている”って」
そう言うと、彼女の眉がぴくりと動いた。どうやら彼女は、あの日の、モニャーク公爵邸での会話を覚えていたようだ。
「幸せではないから、王太子妃をやめると?」
レイチェル妃は静かに私を非難する。
「そうです。ニコラス様とどれだけ一緒にいても、辛くて惨めで、不幸になるから……。だから、彼のもとを去るの」
「妃殿下のおっしゃる“幸せ”とは何ですか」
「愛する人と、支え合いながら静かに暮らす事です」
「それだけ……?」
その一言が、私の胸の中に仕舞っていた黒い感情を爆発させた。
「レイチェル妃にとってはその程度のものですよね? 分かってますよ。でも、あなたにそんな風に言われたくないんです。私が望む幸せを手に入れているあなたには……」
溢れ出そうになる涙を堪えて彼女をじっと見ると、彼女は困惑の表情を浮かべた。
「私だって、自分なりに努力したんです。辛い環境で生きるニコラス様を支えてあげたかった。例え恋愛感情はなくとも、長年寄り添えば情が生まれると思った事もありました。でも、今となっては無理です。彼は、世界で一番嫌いな人になってしまいましたから。……私は彼を愛せないし、情も湧かない。まして、彼の子を産むなんて……。考えるだけで吐き気がします」
胸に溜め込んだ不満が洪水のように溢れてくる。止まらないそれは、彼女にも向いた。
「でも、レイチェル妃はそうじゃないですよね? あなたは、ニコラス様を愛した。違いますか」
「……そうですね。私は彼を愛しています」
彼女はかつて「大嫌い」と言った口で、彼への愛を囁いた。
分かってはいた事だけれど、こうもあっさり認められるだなんて。飛び出しそうになる憎悪の言葉を呑み込んで、私は小さく首を振った。
「それなら、私の離婚に協力して下さい。あなたも側室の立場より、王太子妃として彼の隣りに並び立ちたいでしょう?」
「いいえ。私は今のままが良いです」
レイチェル妃は困り顔で言った。
「ドルウェルク家のためですか」
彼女は静かに首を振った。
「ニコラス殿下のためです。彼には妃殿下とモニャーク公爵家の力が必要ですから」
私はぐっと拳を握りしめた。
「そんな事はないですよ。彼にとって、私は邪魔な存在ですから」
「そうでしょうか。ニコラス殿下は、妃殿下との子を望んでいますよ?」
「ええ。でも、それは私が“王太子妃”だからです。レイチェル妃が王太子妃になれば、私なんて見向きもしないでしょう」
「そうおっしゃらずに……。妃殿下がいらっしゃれば、彼はどんなに心強い事か」
「それは、うちの家門の力を目当てにしての発言ですよね? 我が家は彼のためにもう十分、力を貸して来ました。どんなに酷い扱いをされたってずっと……」
握りしめた手の甲に、涙がぽつぽつと落ちた。私は慌ててハンカチでそれを拭う。
「もう、いいでしょう? ケイン様は追放され、母方の実家は滅んだも同然なんですから」
ニコラス様の政敵はいなくなった。だから、もうモニャーク公爵家の力を宛てにしなくたっていいはずだ。
「……それ程までに、アーサー殿下と一緒になりたいのですか」
レイチェル妃がアーサー様の名前を口にした瞬間、私は凍りつきそうになった。
「なぜ、……彼の名を?」
「ニコラス殿下がおっしゃっていたんです。妃殿下はアーサー殿下を愛しているから、夜の営みを拒否するのだと」
彼がそんな事まで彼女に話しているとは思わなかった。恥ずかしさのあまりうなだれていると、彼女は静かな口調でこう言った。
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それは去年の結婚記念日の夜にニコラス様が言っていた事だった。
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私は、衝動に任せてドンとテーブルを叩いた。
「冗談じゃない! アーサー様との子をあんな男のもとで育てるなんて、絶対に嫌よ。それこそ、私の人生はバッドエンドで終わるわ!」
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