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2章 世界で一番嫌いな人
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「失礼します。妃殿下がいらっしゃいました」
扉越しに侍女が声をかけても返事はなかった。侍女は一拍置いてもう一度ノックをした。
「失礼します。入りますね」
彼女はそう言って扉を開けると、素早く部屋の中に入った。直ぐ様扉を閉められたから、中の様子を窺い知る事はできなかった。
扉の前で棒立ちで待っていると、侍女が戻って来た。
「お待たせしました。どうぞお入り下さいませ」
彼女は私と入れ違いになる形で出て行った。
ソファーに腰掛けるレイチェル妃は髪を下ろし、どこか気怠そうにしていた。
「すみません、眠っていたもので……。お待たせしました」
「いえ……それより」
私は彼女の対面のソファーに腰をかけると言った。
「アーサー様に、話をしたのはあなたですよね?」
彼女は眉を顰めて首を傾げた。
「何の事です?」
「とぼけないで!」
私は思わず声を荒らげた。
「アーサー様が国王陛下に、私への求婚を申し込みました。あなたの提案通り、魔導技術の権益と引き換えに! 私のせいで、彼は……」
「待って下さい」
レイチェル妃は静かな口調で窘めた。
「私は本当に何もしていません。そもそも、アーサー殿下と連絡を取れるはずがありませんから」
私が疑いの目を向けると、彼女は苦笑した。
「親兄弟との連絡すら、滅多な事では許されないのに……。アーサー殿下に手紙の一枚でも書こうものなら、ニコラス殿下は激しく私を責め立てるでしょう」
そう言われて、焦りと怒りがすんと鎮まった。
レイチェル妃はきっと、嘘を言っていない。束縛の激しいニコラス殿下が彼女を監視し、自由を奪っているのだから。
私は、思い違いをして、怒りをぶつけた自分が恥ずかしくなった。
「ごめんなさい」
「いえ。良いのです。自分の意図しない所で話が進めば、誰だって不快になるでしょうから」
彼女はそう言うと、あごに手を添えて俯いた。
「それよりも……。私との話を誰かに話しましたか」
私がそれを話したのは、ただ一人。ローズ王女殿下だけだった。それをレイチェル妃に伝えると、彼女は露骨なまでに顔を顰めた。
「悪意はないのでしょうけれど、お節介が過ぎますね。人の意志を無視して事を起こすだなんて」
彼女のつぶやきには同意せざるを得なかった。
レイチェル妃はふと、私に憐れみの目を向けた。
「色々と悩ましい事はあるのでしょうが、一先ず、アーサー殿下と連絡を取った方がよろしいかと」
「……そうね。そうしてみるわ」
「それから、これ以降は誰にも話をしない方がいいです。私は勿論の事、例え、どんなに信用をしている人でさえも」
そう言われて、お父様やベッキーの顔が頭に浮かんだ。彼らを頼れないと思った途端、不安が込み上げてきた。
「あなたの人生を決めるのは、あなた自身です。エレノア様は、家のためでもなく、自分の地位や名誉のためでもなく、あなたとあなたを愛してくれる人のために生きるのでしょう?」
私の心の内を見透かしたかのように、彼女は私を諭してくる。その言葉は、結婚して以来、胸の中を覆っていた深い霧を晴らしてくれた。
「これ以上、誰かによって、意図しない方向に話が進まないように。そして、自分自身で選択をできるように。しっかりと自分で考えて、アーサー殿下と話し合いをして下さい」
そう言われて、涙が込み上げてきた。私はそれを誤魔化すためにも、すっと立ち上がった。
「ありがとう」
私はレイチェル妃の顔も見ずに言った。そうしてしまったら、泣いてしまうような気がしたから。
「エレノア様の決めた未来が、どうか悪い物ではありませんように」
彼女の静かな祈りの言葉を背に浴びて、私は部屋を後にした。
部屋から出ると、侍女と護衛は心配そうな顔で私を見てきた。本当なら、フォローするような言葉をかけるべきなのだけれど、今はそんな余裕がなかった。私は何も言わずに急ぎ足で自分の部屋に戻った。
そして、部屋に入ると、私は扉に鍵を閉めて、デスクへと向かった。引き出しを開けて、通信機を手に取る。私は迷いなくボタンを押した。数回のコール音の後に、アーサー様の声がした。
「はい……」
いつもより緊張しているように聞こえるのは、気のせいじゃないはずだ。彼は、何の用件で私が連絡をしたのか分かっているのだろう。
「国王陛下から聞きました。魔導技術の特許権を引き渡すのを条件に、私との結婚を望まれたのですね」
「……そうだよ」
「なぜ、こんな事を? 私に一言の相談もなくしたんですか」
「そうしたら、君は反対すると思ったから」
「それが分かっていたのなら、どうして……」
「苦しむ君を、これ以上、放っておきたくなかったんだ!」
強い口調でそう言われて、嬉しいと思ってしまう自分が腹立たしかった。
「私は、こんな形での離婚を望んでいませんでした!」
溢れる涙のせいで、声が震えた。ちゃんと、私の意志を伝えなければいけないのに。
「あなたの大切な物を奪ってまで、自分だけが幸せになるなんて……。こんなの、間違ってる」
涙が頬を伝った。そうだ、間違っている。こんな形の結末は、あっていいはずがない。自分勝手な理由で、愛する人と一緒にいようとするなんて、それこそ、悪役令嬢だ。私はそんな人間にはなりたくない。こんなエンディングは、間違っている━━
「幸せになるのは、君だけじゃない」
アーサー様は静かに、けれど力強い声で言った。
「失う物は決して小さいとは言えないけれど……。それでも、君には代えられないと思った。俺は、君となら幸せになれるから。君となら、俺の夢は潰えないと思ったから……。だから、これから俺と一緒にいてくれ」
誠実な彼の言葉は、痛いくらいに優しくて━━
「好きです。そんなあなたが好きで好きでたまらないんです」
私は決して言ってはいけない事を口にしてしまった。
━━ああ、私は最低な人間だ。
そう思う中、彼は言った。
「愛してるよ、エレノア」
返事をしたくても、声は嗚咽になるだけで、言葉にならなかった。
「愛してる」
彼はもう一度、囁いた。私は頷き、通信機を握りしめた。
私は世界で一番大切な彼を、絶対に幸せにすると、心に誓った。
第二章「世界で一番嫌いな人」了
扉越しに侍女が声をかけても返事はなかった。侍女は一拍置いてもう一度ノックをした。
「失礼します。入りますね」
彼女はそう言って扉を開けると、素早く部屋の中に入った。直ぐ様扉を閉められたから、中の様子を窺い知る事はできなかった。
扉の前で棒立ちで待っていると、侍女が戻って来た。
「お待たせしました。どうぞお入り下さいませ」
彼女は私と入れ違いになる形で出て行った。
ソファーに腰掛けるレイチェル妃は髪を下ろし、どこか気怠そうにしていた。
「すみません、眠っていたもので……。お待たせしました」
「いえ……それより」
私は彼女の対面のソファーに腰をかけると言った。
「アーサー様に、話をしたのはあなたですよね?」
彼女は眉を顰めて首を傾げた。
「何の事です?」
「とぼけないで!」
私は思わず声を荒らげた。
「アーサー様が国王陛下に、私への求婚を申し込みました。あなたの提案通り、魔導技術の権益と引き換えに! 私のせいで、彼は……」
「待って下さい」
レイチェル妃は静かな口調で窘めた。
「私は本当に何もしていません。そもそも、アーサー殿下と連絡を取れるはずがありませんから」
私が疑いの目を向けると、彼女は苦笑した。
「親兄弟との連絡すら、滅多な事では許されないのに……。アーサー殿下に手紙の一枚でも書こうものなら、ニコラス殿下は激しく私を責め立てるでしょう」
そう言われて、焦りと怒りがすんと鎮まった。
レイチェル妃はきっと、嘘を言っていない。束縛の激しいニコラス殿下が彼女を監視し、自由を奪っているのだから。
私は、思い違いをして、怒りをぶつけた自分が恥ずかしくなった。
「ごめんなさい」
「いえ。良いのです。自分の意図しない所で話が進めば、誰だって不快になるでしょうから」
彼女はそう言うと、あごに手を添えて俯いた。
「それよりも……。私との話を誰かに話しましたか」
私がそれを話したのは、ただ一人。ローズ王女殿下だけだった。それをレイチェル妃に伝えると、彼女は露骨なまでに顔を顰めた。
「悪意はないのでしょうけれど、お節介が過ぎますね。人の意志を無視して事を起こすだなんて」
彼女のつぶやきには同意せざるを得なかった。
レイチェル妃はふと、私に憐れみの目を向けた。
「色々と悩ましい事はあるのでしょうが、一先ず、アーサー殿下と連絡を取った方がよろしいかと」
「……そうね。そうしてみるわ」
「それから、これ以降は誰にも話をしない方がいいです。私は勿論の事、例え、どんなに信用をしている人でさえも」
そう言われて、お父様やベッキーの顔が頭に浮かんだ。彼らを頼れないと思った途端、不安が込み上げてきた。
「あなたの人生を決めるのは、あなた自身です。エレノア様は、家のためでもなく、自分の地位や名誉のためでもなく、あなたとあなたを愛してくれる人のために生きるのでしょう?」
私の心の内を見透かしたかのように、彼女は私を諭してくる。その言葉は、結婚して以来、胸の中を覆っていた深い霧を晴らしてくれた。
「これ以上、誰かによって、意図しない方向に話が進まないように。そして、自分自身で選択をできるように。しっかりと自分で考えて、アーサー殿下と話し合いをして下さい」
そう言われて、涙が込み上げてきた。私はそれを誤魔化すためにも、すっと立ち上がった。
「ありがとう」
私はレイチェル妃の顔も見ずに言った。そうしてしまったら、泣いてしまうような気がしたから。
「エレノア様の決めた未来が、どうか悪い物ではありませんように」
彼女の静かな祈りの言葉を背に浴びて、私は部屋を後にした。
部屋から出ると、侍女と護衛は心配そうな顔で私を見てきた。本当なら、フォローするような言葉をかけるべきなのだけれど、今はそんな余裕がなかった。私は何も言わずに急ぎ足で自分の部屋に戻った。
そして、部屋に入ると、私は扉に鍵を閉めて、デスクへと向かった。引き出しを開けて、通信機を手に取る。私は迷いなくボタンを押した。数回のコール音の後に、アーサー様の声がした。
「はい……」
いつもより緊張しているように聞こえるのは、気のせいじゃないはずだ。彼は、何の用件で私が連絡をしたのか分かっているのだろう。
「国王陛下から聞きました。魔導技術の特許権を引き渡すのを条件に、私との結婚を望まれたのですね」
「……そうだよ」
「なぜ、こんな事を? 私に一言の相談もなくしたんですか」
「そうしたら、君は反対すると思ったから」
「それが分かっていたのなら、どうして……」
「苦しむ君を、これ以上、放っておきたくなかったんだ!」
強い口調でそう言われて、嬉しいと思ってしまう自分が腹立たしかった。
「私は、こんな形での離婚を望んでいませんでした!」
溢れる涙のせいで、声が震えた。ちゃんと、私の意志を伝えなければいけないのに。
「あなたの大切な物を奪ってまで、自分だけが幸せになるなんて……。こんなの、間違ってる」
涙が頬を伝った。そうだ、間違っている。こんな形の結末は、あっていいはずがない。自分勝手な理由で、愛する人と一緒にいようとするなんて、それこそ、悪役令嬢だ。私はそんな人間にはなりたくない。こんなエンディングは、間違っている━━
「幸せになるのは、君だけじゃない」
アーサー様は静かに、けれど力強い声で言った。
「失う物は決して小さいとは言えないけれど……。それでも、君には代えられないと思った。俺は、君となら幸せになれるから。君となら、俺の夢は潰えないと思ったから……。だから、これから俺と一緒にいてくれ」
誠実な彼の言葉は、痛いくらいに優しくて━━
「好きです。そんなあなたが好きで好きでたまらないんです」
私は決して言ってはいけない事を口にしてしまった。
━━ああ、私は最低な人間だ。
そう思う中、彼は言った。
「愛してるよ、エレノア」
返事をしたくても、声は嗚咽になるだけで、言葉にならなかった。
「愛してる」
彼はもう一度、囁いた。私は頷き、通信機を握りしめた。
私は世界で一番大切な彼を、絶対に幸せにすると、心に誓った。
第二章「世界で一番嫌いな人」了
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