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第1章 SONATA
op.04 エレベの濃い霧の中に(3)
しおりを挟む「これで少し落ち着いてお話が出来ますかな」
「……あぁ」
目の前に置かれた淹れたてのコーヒーを前に、ヴィオはややげんなりとして返事をする。
長年仕えていただけあり、ソルヴェーグは会うなりヴィオが朝方まで起きていたことや机で突っ伏して寝ていた事を察したらしい。
やれ着替えやら洗顔やら、何から何まで整えられた後で、淹れたてのコーヒーを出されるこの状況がしばらく忘れていた感覚をヴィオに思い出させた。
「とりあえず座ってくれ」
疲れたように目の前の椅子を指差すと、とんでもないと言うようにソルヴェーグが立ったままの姿勢を固辞する。
「良いから座れ。落ちついて話も出来ない」
若干語気を強めて言うと、ソルヴェーグはそれ以上は固辞するでもなく失礼します、と言って腰を下ろした。それを見てようやくヴィオは息をつく。
「それで、どうしてここに? わざわざ俺の世話をしに来た訳ではないだろう?」
そもそもソルヴェーグはもう引退した身だ。本邸の執事は、現在ソルヴェーグ肝入りのハインリヒ・フォルトナーに引き継がれている。
そのフォルトナーがソルヴェーグを動かしたのか、独断かでまた話は違ってくるが、恐らく前者だろうと踏む。フォルトナーとソルヴェーグの間で話が通っていないことはまずない。
「もちろんです、ヴィクトル様。ただお話をする前に一つお聞かせいただいてもよろしいですかな?」
「あぁ」
「お父君の行方の手がかりは掴めましたか?」
ヴィオは一瞬目を細めて、小さく頭を振る。
「リンデンブルックを通ったのは確かだと思っているが……。この町に来て何人か父上と既知を装っている人間には会ったが、全て嘘だろう」
酒場、精神科医の前、そして昨日のカフェ。
全てこの土地の人間である証明のできない人物ばかりで、極め付けが昨日の名前だ。曲がりなりにも侯爵家の人間が、非公式に外を出歩く際に本名を使うことなどない。
家名は知らないと嘯(うそぶ)いていたが、それならば名前も知るはずがないのだ。いっそ親しくして本名をお聞きしましたと言った方が信憑性もあったろうに。
「恐らく俺を国外へ追い出したい人間がいるようだと思うんだが、ただその人物を考えても心当たりがないから目的を察しようもない。ソルヴェーグ、何か知っているか?」
「流石のご慧眼です。このソルヴェーグ、感心いたしました」
ソルヴェーグがほっほと笑う。軽口はいい、とヴィオが手を払う。それでは、と姿勢を正し(と言っても元より少しも乱れていないのだが)、ソルヴェーグが口火を切る。
「恐らくヴィクトル様が国外へ出るように差配されているのは、ヨハネス・マイヤー殿でしょう。ルートヴィヒ様が正式に招いた客分であらせられるので、どうにもフォルトナーも手が出し辛いようでして」
不甲斐ないことで申し訳ありません。とソルヴェーグが謝る。聞いたことのある名前にあぁ、とヴィオが眉をひそめる。
「……そういえば一度屋敷で会ったな。何を話したかはあまり印象に残っていないが……」
「はい。当たり障りなく会話をして、ヴィクトル様の事は御し難いと判断したのでしょうな」
本来であれば無礼とも取れる発言だが、相手がソルヴェーグであればヴィオは気にしない。それよりも率直に話してくれた方が判断にブレが出ないので、そうしろと普段から言っている。
この執事の優秀さも知っているので疑いはしないが、とはいえ引っかかるのも事実だ。
「だが叔父上が信頼して連れてきた方なのだろう?」
そのヨハネス・マイヤーの事はよく知らないが、叔父であるルートヴィヒは規律に厳しく、不正には容赦がない苛烈な人物だ。
融通が利かないところもあり父ともよく衝突していたが、ルートヴィヒが信を置く人物と、地の利も味方も少ない侯爵家で策を弄するような人物が同一人物だとは、どうにも結びつかない。
ソルヴェーグは穏やかに笑う。
「ヴィクトル様の仰ることも最もでございます。ただ真実マイヤー殿はルートヴィヒ様が信を置くに足る優秀な御仁のようです」
「つまりマイヤー殿が手引きしたというのも憶測でしかないと言うことか」
ソルヴェーグが頷く。口ぶりからすると、限りなく黒である事には間違いないのだろう。が、尻尾を出す程間抜けではないということだ。
「そして一度懐に入れれば、立ち所に心を許してしまうのもルートヴィヒ様の美点ですな。その後のマイヤー殿の優秀さが何に向くかは、私共には分かりかねる所ではありますが」
「…………」
確かにソルヴェーグの言う通り、叔父は一度信ずるに値すると決めた人間には甘いところがある。
だから軍でも部下によく慕われており、若い頃は里帰りの際に部下を屋敷に連れて帰る事も度々あったらしい。
要するに叔父はヨハネス・マイヤーを信に足る人物だと確信して、屋敷へ招いているのだ。
「と言うことは、俺への干渉は叔父上は感知していない事なんだな?」
「恐らく。ルートヴィヒ様はむしろヴィクトル様が即刻家へ帰ってくるようお望みのようです」
その言葉にヴィオがわずかに眉を吊り上げた。
ヴィオが家を留守にしている目的はルートヴィヒも知っているはずだ。どうして呼び戻すなどという話になるのだろうか。主人の困惑した様子にソルヴェーグが平静を装ったまま続けた。
「ところでヴィクトル様。孤児を買ったという噂に覚えはございますかな?」
「…………」
返す言葉に詰まった。
無論その話題が出てくることを、予想していなかった訳ではない。タイミングは完全に不意打ちだったが。
例えばヴィオがこの町に来てから時たま感じた視線が、本家のいずれかに類する人間のものであれば、リチェルのことは知れていると考えた方がいい。
だがそもそも旅の目的がはっきりしているヴィオの行動を秘密裏に把握しようとすると言う事自体が不自然だ。
その目的も人物も昨日までは思い当たらなかったのだが、今は指図した人間がハッキリしている。思えば旅をし始めたすぐの頃に視線を感じて撒いた記憶があるのだが、これもヨハネス・マイヤーの差金だったとしたら、今回ヴィオの位置を比較的すぐに掴めたのも頷ける。
リチェルとはもう一ヶ月近く一緒にいるし、何より彼女を引き取る際にヴィオは名を明かしている。ゲオルク・クライネルトがそれを吹聴する人間には見えないが、口にしたのであれば漏れる可能性はゼロではない。
マイヤーの目的はハッキリとはしないが、ある程度絞り込めはする。リチェルのことを知れば、これを本家で持ち出さない理由は確かにないだろう。
「沈黙なさる、と言うことは事実と捉える他ありませんが……」
「……買ってはいない」
吐息と共に吐き出した。元よりこの忠実な老執事に秘するつもりはヴィオにはなかった。
「酷い状況にあったから一時的に保護はして、今は一緒にいるがそれだけだ」
「…………」
今度はソルヴェーグが沈黙した。
とはいえ宿の人間にヴィオの部屋を聞いたのであれば、一人でないことはすでに知っていただろう。それでも尚ヴィオに確認したのは、ソルヴェーグが忠臣たる所以だ。
なら今の沈黙は何を以てなのだろうか。流石に気まずく思っていると、静かにソルヴェーグが口を開く。
「ヴィクトル様。この老僕が至らぬ故でありますが、付かぬことをお伺いしてもよろしいでしょうか?」
「……何だ」
「まさか、ご一緒の居室ではありますまいな?」
「………………」
沈黙は是である。
ソルヴェーグの疑問に、今更ながらようやくヴィオもその事実が大いに問題になり得る可能性を秘めていることに思い当たる。
今までたった一度もリチェルが別室を希望しなかったのは当然だろう。
リチェルにはそもそも部屋を分けると言う概念がない。それどころかこの町について尚、ヴィオが声をかけなければベッドで寝ようとしなかったくらいだ。
加えてこの町に来るまで彼女は女性と分かる格好をしていなかった。
(…………いや。違う。全部言い訳だ)
考えて、今まで一度も思い当たらなかった自分に頭痛がした。
正直そう言う目でリチェルを見ていなかったから然程意識をしていなかった。部屋を分けては余計にリチェルが気にすると思って、そのままだ。
「失礼ながら確認させて頂きますが……」
「それはない」
皆まで言わせず即刻否定する。言わせる気もない。だがこれは確実に自分の落ち度だ。
「……だがすまない。軽率な真似をした」
「ヴィクトル様が私などに謝る必要はありません。それについては、ご自覚があるようでしたら何より。ただ……、ヴィクトル様の立場を思えば、多少情を引いてでも気を引きたいと願う女性は数多いることでしょう。ですから……」
「ソルヴェーグ」
衷心よりの言葉だとわかって、それでもヴィオはソルヴェーグの言葉を遮った。
「彼女のことを言っているならそれは心配しなくてもいい」
目を伏せて、穏やかな声音で続ける。
「そもそも彼女は俺の事情を全く知らないし、助けを求められた訳でもない。俺が勝手に手を出しただけだ」
それだけは誤解のないように言っておかなければならない。
ヴィオの言葉にソルヴェーグが目を瞬かせる。そうしてスッと目を伏せて礼をする。
「出過ぎた事を申し上げました」
「いや、構わない。お前の心配は最もだから」
それより、とヴィオは続ける。
「叔父上が俺を連れ戻そうとしていると言ったな?」
「はい」
「差配はマイヤーが?」
「えぇ。ですが……」
ソルヴェーグの言いたいことは、ヴィオにも察せられた。
マイヤーがルートヴィヒと別の思惑で動いているというのは確かなのだろう。だが腹心だと言うには、マイヤーはルートヴィヒという人物を把握しきれていないように感じる。
「俺が思うにもし叔父上が俺を連れ戻そうとするなら──」
ヴィオが続けて発した推測に、ソルヴェーグも同意した。
「──ならそのつもりでこの後の動きは考える。それでいいな?」
ヴィオの言葉にソルヴェーグは黙って頭を下げた。
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