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第1章 SONATA
op.04 エレベの濃い霧の中に(7)
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サラがリチェルを買い物へ誘ったのは、ルーデンドルフ家に引き取られて三日後のことだった。サラがリチェルを気遣ってくれたのは明確で、その気持ちに背中を押されるように街へ出た。
折角だからと、今まで行ったことのない色んな店へ連れて行ってもらった。歩いていると、時たま雑踏の中にヴィオと背格好が似ている人を見つけて目で追ってしまう。
サラから聞いて、ヴィオがまだリンデンブルックにいる事は知っていた。町を出るときは必ず会いにきてくれるからと言われたけれども、それは同時に次に会うときはお別れの時だと言うことも意味している。
そう考えると会いたいのか、会いたくないのか、リチェルにはよく分からなかった。
「雲が多いわね。もしかしたら雨が降ってくるかもしれないから、そろそろ帰りましょうか」
「はい」
確かに屋敷を出た時と比べると、空模様は随分と怪しくなっていた。もうしばらくしたら夕刻に差し掛かるので、そろそろ帰ったほうが良いかもしれない。
「ここがいつもお茶を買っているお店なの。最後に少し寄っていくわね」
そう言ってサラがお茶を指差した店に続いて入ろうとした時だった。不意にコーヒー豆の匂いがしてリチェルは足を止めた。見回すと、二軒隣りに豆のお店を見つけてリチェルはサラに声をかけた。
「サラさん、少しだけお外で待っていても良いですか?」
「そう? じゃあすぐに買ってくるわね。遠くへ行かないようにね」
はい、と頷いてリチェルの足はコーヒー豆のお店の方へ向いた。買って誰に渡せるわけでもない。だけど自然と惹かれたのは、きっとヴィオの事を思い出したからだ。
(……こんなにたくさんあるのね)
少し遠目からお店を眺めてリチェルは感心して息をつく。宿にいる時は豆は宿の方に勧められるままに使っていたし、こんなに種類があるとは思わなかった。そういえばカフェでメニューを見た時も、コーヒーだけでたくさんのメニューが並んでいたような気がする。
紅茶もたくさん種類があるのよ、とサラがお茶を飲んでいる時に教えてくれたのを思い出した。飲み物一つとっても、街中にはリチェルの知らないことがたくさん溢れている。
(サラさんのいたお店には、茶葉がたくさん置いてあるのかしら?)
つっと足が元いた方向に戻ろうとしたその時、ふと『お嬢さん』と声をかけられた。
自分にかけられたものかも分からないまま振り返って、店の間の路地に一人帽子を被った小綺麗な男性が立っていることに気付く。
「すみません。少し道をお尋ねしたくて」
「わたしですか?」
「はい」
頷かれて、申し訳なく思いながらリチェルは男性のそばに行く。道を聞かれてもリチェルはこの町にまだ詳しくないから、役に立てない気がする。
「あっちの路地通ると、リンデン通りの方に出るかな。ちょっと行き方が分からなくて」
「あっちですか?」
「あぁ、違う違う。こっちの路地のさ、あそこの曲がり角」
「えっと、どこでしょう?」
男性の指を指す方向の路地がどちらか分からず、そちらへ近付く。路地を覗き込んで男性の指す方向を見ようとしたところで、グッと腕を引かれた。
「……!」
抵抗する暇もなかった。スルリと首に回った手と、途端に首筋にかかった強い圧迫感。抵抗しようともがいても絞めあげられた手はびくともせず、声を上げる間も無くリチェルの意識はカクリとそこで落ちた。
◇
夕方から降り始めた雨で、外はもう暗かった。
また一日が終わるのだ。それしか出来ないとしても、まだ問題が山積みの状況で一日を無為に過ごした事実に、ヴィオはため息をついた。
屋内に篭る事を苦にする性格でもないが、流石に三日間一度も出ていないとなるとヴィオも気詰まりになってきていた。必要なものはソルヴェーグが調達してくれはするが、外の空気を吸いたい気もする。
(リチェルはどうしているだろうか)
結局宿で別れてから一度も顔を見ていない。最後にきちんと話もしていない事に、遅れて気がついた。気がつけば、彼女のことを思い出している気がする。最後に聴いた聖歌が、耳の奥で残響のように鳴っている。
(最後にきちんと、聴けなかったな……)
この町を出ていく時には最後にもう一度だけ聴けたら、と考えて、その言葉の重みに気付いた。
「最後、か……」
呟いて目を伏せる。
出来ればもう少しそばで聴いていたかった。
決して口に出すことは出来ないけれども──。
その時チリンチリン、と表の呼び鈴が鳴る音が聞こえた。黙っていてもソルヴェーグが出るのを分かっているからヴィオは動かない。二言、三言話して来客はいなくなったようだった。
「ヴィクトル様」
「何かあったか?」
ドアの方に立つソルヴェーグを振り返る。ソルヴェーグが頭を下げ、短く告げた。
「サラ殿がヴィクトル様に取り次ぎ願いたいとおっしゃっているようです」
「……サラさんが?」
意外な名前に眉根を寄せる。
サラには何かあった時のため、あらかじめヴィオとの連絡方法は託けてあった。サラは賢明な女性だ。ヴィオ達に何か事情がある事を聞かずとも察していたし、危急の用事がない限りは不用意に連絡ルートを使ったりしないだろうから、きっと只事ではないのだろう。
「すぐに行く」
短くソルヴェーグに言うと、老執事は黙って頭を下げる。ヴィオがそう言うのをきっと予想していたのだろう。雨避けの外套を受けとりながら、すまないな、と呟いた。
「世話をかける」
ヴィオの言葉にソルヴェーグは一瞬目を丸くして、だがすぐに穏やかに笑った。
「ヴィクトル様のお世話をする事を面倒だと思ったことなど一度もありませんよ。貴方は幼い頃より聡明で、とても物分かりの良いお子でした。もう少しばかりわがままを言ってくださっても良いのに、と何度も思ったくらいです」
そう言って、ほっほと老執事は笑う。苦笑を零して、ヴィクトルは外套をかぶる。
今は一刻も早くサラのところに行かなくては。
◇
「ヴィオさん!?」
ソルヴェーグを連れてルーデンドルフの屋敷を訪ねると、待ち侘びたかのようにサラが玄関に駆けてきた。明らかに狼狽している様子で、何かあったのは間違いなかった。
「良かった……。来てくださって……!」
「サラさん、落ち着いて何があったか話していただけますか?」
「落ち着いていられないの……っ。リチェルが……!」
「リチェルに何かあったんですか?」
こくりとサラが頷く。何とか動揺を落ち着かせようとしながら、サラは一枚の紙片をヴィオに差し出した。黙って紙片を受け取って中身を広げて、驚きに目を見開いた。
『ヴィッテルスブルク侯爵の御子息に取次ぎを願いたい』
後ろで控えるソルヴェーグの方へチラリと視線をやって、紙片を渡す。
「これを、どこで?」
「お店から出た時に、渡されたの。紙片を渡した人は何も知らないみたいで。ただ──」
リチェルが、どこにもいなくて。とサラが震える声で告げる。
「ヴィオさん。侯爵家のご子息というのは貴方の事で間違いないかしら。私には貴方しか思い当たる人がいないの。あの子、リチェルが一人で遠くに行くわけがないし……、あの子がいなくなる理由も……っ」
青ざめた顔で、それでも必死で気持ちを落ち着かせようとしているのだろう。サラが震えながらもリチェルがいなくなった時の状況を教えてくれる。
「ルーデンドルフの主人はこの事を?」
サラは首を横に振る。
「まだ何も言ってないわ。リチェルが誰かにさらわれたと決まった訳ではないし、大事にしてご迷惑をかける訳にも……」
「それで構いません。出来れば誤魔化しておいた方がいい」
屋敷に預けられて早々に目に見えたトラブルになれば、リチェルの印象が悪くなる、と口にするとサラは頷いた。どれだけ人が良くても、火種になる人材を屋敷に囲いたい人間はいない。
それに紙片にはリチェルのことを、ほのめかすような事は何も書いていない。これも当然だ。向こうも不利になるような伝言は残さないだろう。
「……ヴィオさんは、リチェルを助けてくださるの?」
ポツリと、震える声でそう問われた。ヴィオを見上げた空色の瞳には、わずかに不信の色があった。
サラはヴィオの事情を知っている訳ではないが、凡そは想像がついているだろう。ヴィオが侯爵家の人間であることも、リチェルが巻き込まれたのだと言うことも。
爵位を持つ人間が、通常身寄りのない孤児を助けるために身を危険に晒すかと言われれば答えはノーだ。恐らく彼女は疑っている。ヴィオが姿を見せた時の『来てくれたのか』という言葉は、ヴィオが来てくれる確証がもてていなかったから出た言葉だろう。
「えぇ。助けます」
だから安心させるように、ヴィオは頷いた。
「必ず連れて帰るから、どうか待っていてあげてほしい」
ヴィオの言葉に、サラは一瞬息を詰めて『ありがとうございます』と深く頭を垂れた。
まだ動揺しているサラを使用人に預け、ヴィオはすぐに踵を返した。玄関を出る前に使用人の一人がヴィオを引き止め、そのまま裏口へ案内してくれたので、有り難く使わせてもらう事にする。
「どうなさるおつもりですか?」
後ろから付いてきたソルヴェーグに声をかけられ、老執事を一瞥すると『もちろん助ける』と即答した。
「ルーデンドルフ夫妻の耳にはどちらにせよ入るでしょう。サラ殿が口止め出来るとは思えませんが」
使用人はサラに仕えている訳ではない。彼らの主人はルーデンドルフ夫妻で、これを耳に入れないことはないだろう。そんなことは承知の上だ。
「大事なのは彼女が『何もない』と証言する事だ。よほど愚かでなければ、彼女の誤魔化しを受け入れるだろう」
そちらの方が誰にとっても都合がいい。無事リチェルが屋敷に戻れば、賢明な主人であればなかった事にする。
「リチェル殿がいなくなったことが全くの無関係である可能性は?」
「その可能性は今は切り捨てる」
断言する。
ソルヴェーグも無関係の可能性は限りなく低いと、分かってて聞いているから反論はない。
サラに渡された文は、ヴィオの位置を探るためのものだ。サラに直接ヴィオ達のいた場所を教えていた無かったことは幸いではあったが、ヴィオ達の位置を掴めない場合は自分達の位置を知らせる必要がある。何かしらのアクションはあるはずだ。
「ヴィクトル様」
立ち止まって視線を向けると、ソルヴェーグは冷静な声で続けた。
「恐れながら申し上げますが、このまま私共が姿を消したところで恐らくリチェル殿は──」
「ソルヴェーグ」
いつになく低い声でその名を呼んだ。
無事に帰ってくる、そう言いたいのだろう。
今のリチェルはこの町では有力者であるルーデンドルフ家の預かり物で、傷つけるリスクは並大抵のリターンとで見合うものではない。
「放っておいてもリチェルが無事に帰ってくる可能性は確かに高いだろうが、そういう問題じゃない。言ってる意味は分かるな?」
リチェルを巻き込んだのは間違いなくヴィオだ。その責任を取らずに逃げ出す事など考えられない、と言外に滲ませる。元よりヴィオが納得しないことなど分かっていたのだろう。ソルヴェーグは『失礼を申しました』と頭を下げる。
嘘は言っていない。本当にそう思っている。ただ、それだけではないというだけで。
『リチェルが、どこにもいなくて』
サラの言葉が蘇る。
離れた方が、安全だと思ったのだ。
一緒にいるところを見られたら、多分一番狙うに容易いのはリチェルだから。
それなのに──。
脳裏にリチェルの笑顔がかすめて、奥歯を噛み締める。
(そばに……)
やはりそばに置いておけば良かった、と今更ながらに後悔する。無事に帰ってくるかなんて問題ではない。ヴィオが憂慮しているのはもっと別のことだ。
(────だってあの子はまだ、他人に触れられることを怖がっている)
恐怖を表に出さないのは、リチェルが自分の感情以上に他人を優先し気遣うからだ。不用意に手を出してしまうと、リチェルの身体が一瞬強張るのをヴィオは認識している。
だから放っておく、などという選択肢は初めから存在しないのだ。説明する気はないが、ヴィオが思うリチェルの無事が何を指すのかは根本的にソルヴェーグの考えるそれとは異なっている。
「相手の策に乗るということは、つまり家へ帰ることを選ばれると言う事ですかな?」
「そのつもりはない」
ソルヴェーグの言葉にはっきりと言い切る。
「ですが、相手の位置がわからない以上向こうの指示通りに行動せざるを得ません。無論その指示がいつ来るかも分かりませんが」
「分かっている。だが、全て言う通りにしてやる必要もないだろう」
元より後手に回っている。向こうはこちらの状況を把握しているだろうし、なら逆手に取るしかない。一つ頼まれて欲しい、とソルヴェーグに伝える。
「急ぎ連絡をつけたい人間がいる」
折角だからと、今まで行ったことのない色んな店へ連れて行ってもらった。歩いていると、時たま雑踏の中にヴィオと背格好が似ている人を見つけて目で追ってしまう。
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そう考えると会いたいのか、会いたくないのか、リチェルにはよく分からなかった。
「雲が多いわね。もしかしたら雨が降ってくるかもしれないから、そろそろ帰りましょうか」
「はい」
確かに屋敷を出た時と比べると、空模様は随分と怪しくなっていた。もうしばらくしたら夕刻に差し掛かるので、そろそろ帰ったほうが良いかもしれない。
「ここがいつもお茶を買っているお店なの。最後に少し寄っていくわね」
そう言ってサラがお茶を指差した店に続いて入ろうとした時だった。不意にコーヒー豆の匂いがしてリチェルは足を止めた。見回すと、二軒隣りに豆のお店を見つけてリチェルはサラに声をかけた。
「サラさん、少しだけお外で待っていても良いですか?」
「そう? じゃあすぐに買ってくるわね。遠くへ行かないようにね」
はい、と頷いてリチェルの足はコーヒー豆のお店の方へ向いた。買って誰に渡せるわけでもない。だけど自然と惹かれたのは、きっとヴィオの事を思い出したからだ。
(……こんなにたくさんあるのね)
少し遠目からお店を眺めてリチェルは感心して息をつく。宿にいる時は豆は宿の方に勧められるままに使っていたし、こんなに種類があるとは思わなかった。そういえばカフェでメニューを見た時も、コーヒーだけでたくさんのメニューが並んでいたような気がする。
紅茶もたくさん種類があるのよ、とサラがお茶を飲んでいる時に教えてくれたのを思い出した。飲み物一つとっても、街中にはリチェルの知らないことがたくさん溢れている。
(サラさんのいたお店には、茶葉がたくさん置いてあるのかしら?)
つっと足が元いた方向に戻ろうとしたその時、ふと『お嬢さん』と声をかけられた。
自分にかけられたものかも分からないまま振り返って、店の間の路地に一人帽子を被った小綺麗な男性が立っていることに気付く。
「すみません。少し道をお尋ねしたくて」
「わたしですか?」
「はい」
頷かれて、申し訳なく思いながらリチェルは男性のそばに行く。道を聞かれてもリチェルはこの町にまだ詳しくないから、役に立てない気がする。
「あっちの路地通ると、リンデン通りの方に出るかな。ちょっと行き方が分からなくて」
「あっちですか?」
「あぁ、違う違う。こっちの路地のさ、あそこの曲がり角」
「えっと、どこでしょう?」
男性の指を指す方向の路地がどちらか分からず、そちらへ近付く。路地を覗き込んで男性の指す方向を見ようとしたところで、グッと腕を引かれた。
「……!」
抵抗する暇もなかった。スルリと首に回った手と、途端に首筋にかかった強い圧迫感。抵抗しようともがいても絞めあげられた手はびくともせず、声を上げる間も無くリチェルの意識はカクリとそこで落ちた。
◇
夕方から降り始めた雨で、外はもう暗かった。
また一日が終わるのだ。それしか出来ないとしても、まだ問題が山積みの状況で一日を無為に過ごした事実に、ヴィオはため息をついた。
屋内に篭る事を苦にする性格でもないが、流石に三日間一度も出ていないとなるとヴィオも気詰まりになってきていた。必要なものはソルヴェーグが調達してくれはするが、外の空気を吸いたい気もする。
(リチェルはどうしているだろうか)
結局宿で別れてから一度も顔を見ていない。最後にきちんと話もしていない事に、遅れて気がついた。気がつけば、彼女のことを思い出している気がする。最後に聴いた聖歌が、耳の奥で残響のように鳴っている。
(最後にきちんと、聴けなかったな……)
この町を出ていく時には最後にもう一度だけ聴けたら、と考えて、その言葉の重みに気付いた。
「最後、か……」
呟いて目を伏せる。
出来ればもう少しそばで聴いていたかった。
決して口に出すことは出来ないけれども──。
その時チリンチリン、と表の呼び鈴が鳴る音が聞こえた。黙っていてもソルヴェーグが出るのを分かっているからヴィオは動かない。二言、三言話して来客はいなくなったようだった。
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「何かあったか?」
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「サラ殿がヴィクトル様に取り次ぎ願いたいとおっしゃっているようです」
「……サラさんが?」
意外な名前に眉根を寄せる。
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「すぐに行く」
短くソルヴェーグに言うと、老執事は黙って頭を下げる。ヴィオがそう言うのをきっと予想していたのだろう。雨避けの外套を受けとりながら、すまないな、と呟いた。
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「良かった……。来てくださって……!」
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「落ち着いていられないの……っ。リチェルが……!」
「リチェルに何かあったんですか?」
こくりとサラが頷く。何とか動揺を落ち着かせようとしながら、サラは一枚の紙片をヴィオに差し出した。黙って紙片を受け取って中身を広げて、驚きに目を見開いた。
『ヴィッテルスブルク侯爵の御子息に取次ぎを願いたい』
後ろで控えるソルヴェーグの方へチラリと視線をやって、紙片を渡す。
「これを、どこで?」
「お店から出た時に、渡されたの。紙片を渡した人は何も知らないみたいで。ただ──」
リチェルが、どこにもいなくて。とサラが震える声で告げる。
「ヴィオさん。侯爵家のご子息というのは貴方の事で間違いないかしら。私には貴方しか思い当たる人がいないの。あの子、リチェルが一人で遠くに行くわけがないし……、あの子がいなくなる理由も……っ」
青ざめた顔で、それでも必死で気持ちを落ち着かせようとしているのだろう。サラが震えながらもリチェルがいなくなった時の状況を教えてくれる。
「ルーデンドルフの主人はこの事を?」
サラは首を横に振る。
「まだ何も言ってないわ。リチェルが誰かにさらわれたと決まった訳ではないし、大事にしてご迷惑をかける訳にも……」
「それで構いません。出来れば誤魔化しておいた方がいい」
屋敷に預けられて早々に目に見えたトラブルになれば、リチェルの印象が悪くなる、と口にするとサラは頷いた。どれだけ人が良くても、火種になる人材を屋敷に囲いたい人間はいない。
それに紙片にはリチェルのことを、ほのめかすような事は何も書いていない。これも当然だ。向こうも不利になるような伝言は残さないだろう。
「……ヴィオさんは、リチェルを助けてくださるの?」
ポツリと、震える声でそう問われた。ヴィオを見上げた空色の瞳には、わずかに不信の色があった。
サラはヴィオの事情を知っている訳ではないが、凡そは想像がついているだろう。ヴィオが侯爵家の人間であることも、リチェルが巻き込まれたのだと言うことも。
爵位を持つ人間が、通常身寄りのない孤児を助けるために身を危険に晒すかと言われれば答えはノーだ。恐らく彼女は疑っている。ヴィオが姿を見せた時の『来てくれたのか』という言葉は、ヴィオが来てくれる確証がもてていなかったから出た言葉だろう。
「えぇ。助けます」
だから安心させるように、ヴィオは頷いた。
「必ず連れて帰るから、どうか待っていてあげてほしい」
ヴィオの言葉に、サラは一瞬息を詰めて『ありがとうございます』と深く頭を垂れた。
まだ動揺しているサラを使用人に預け、ヴィオはすぐに踵を返した。玄関を出る前に使用人の一人がヴィオを引き止め、そのまま裏口へ案内してくれたので、有り難く使わせてもらう事にする。
「どうなさるおつもりですか?」
後ろから付いてきたソルヴェーグに声をかけられ、老執事を一瞥すると『もちろん助ける』と即答した。
「ルーデンドルフ夫妻の耳にはどちらにせよ入るでしょう。サラ殿が口止め出来るとは思えませんが」
使用人はサラに仕えている訳ではない。彼らの主人はルーデンドルフ夫妻で、これを耳に入れないことはないだろう。そんなことは承知の上だ。
「大事なのは彼女が『何もない』と証言する事だ。よほど愚かでなければ、彼女の誤魔化しを受け入れるだろう」
そちらの方が誰にとっても都合がいい。無事リチェルが屋敷に戻れば、賢明な主人であればなかった事にする。
「リチェル殿がいなくなったことが全くの無関係である可能性は?」
「その可能性は今は切り捨てる」
断言する。
ソルヴェーグも無関係の可能性は限りなく低いと、分かってて聞いているから反論はない。
サラに渡された文は、ヴィオの位置を探るためのものだ。サラに直接ヴィオ達のいた場所を教えていた無かったことは幸いではあったが、ヴィオ達の位置を掴めない場合は自分達の位置を知らせる必要がある。何かしらのアクションはあるはずだ。
「ヴィクトル様」
立ち止まって視線を向けると、ソルヴェーグは冷静な声で続けた。
「恐れながら申し上げますが、このまま私共が姿を消したところで恐らくリチェル殿は──」
「ソルヴェーグ」
いつになく低い声でその名を呼んだ。
無事に帰ってくる、そう言いたいのだろう。
今のリチェルはこの町では有力者であるルーデンドルフ家の預かり物で、傷つけるリスクは並大抵のリターンとで見合うものではない。
「放っておいてもリチェルが無事に帰ってくる可能性は確かに高いだろうが、そういう問題じゃない。言ってる意味は分かるな?」
リチェルを巻き込んだのは間違いなくヴィオだ。その責任を取らずに逃げ出す事など考えられない、と言外に滲ませる。元よりヴィオが納得しないことなど分かっていたのだろう。ソルヴェーグは『失礼を申しました』と頭を下げる。
嘘は言っていない。本当にそう思っている。ただ、それだけではないというだけで。
『リチェルが、どこにもいなくて』
サラの言葉が蘇る。
離れた方が、安全だと思ったのだ。
一緒にいるところを見られたら、多分一番狙うに容易いのはリチェルだから。
それなのに──。
脳裏にリチェルの笑顔がかすめて、奥歯を噛み締める。
(そばに……)
やはりそばに置いておけば良かった、と今更ながらに後悔する。無事に帰ってくるかなんて問題ではない。ヴィオが憂慮しているのはもっと別のことだ。
(────だってあの子はまだ、他人に触れられることを怖がっている)
恐怖を表に出さないのは、リチェルが自分の感情以上に他人を優先し気遣うからだ。不用意に手を出してしまうと、リチェルの身体が一瞬強張るのをヴィオは認識している。
だから放っておく、などという選択肢は初めから存在しないのだ。説明する気はないが、ヴィオが思うリチェルの無事が何を指すのかは根本的にソルヴェーグの考えるそれとは異なっている。
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「そのつもりはない」
ソルヴェーグの言葉にはっきりと言い切る。
「ですが、相手の位置がわからない以上向こうの指示通りに行動せざるを得ません。無論その指示がいつ来るかも分かりませんが」
「分かっている。だが、全て言う通りにしてやる必要もないだろう」
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〔あらすじ〕📝グラント公爵家は王家に仕える名門の家柄。
過去の事情により、今だに独身の当主ダリウス。国王から懇願され、ようやく伯爵未亡人との婚姻を決める。
そんな時、グラント公爵ダリウスの元へと現れたのは1人の少女アンジェラ。
「パパ……私はあなたの娘です」
名乗り出るアンジェラ。
◇
アンジェラが現れたことにより、グラント公爵家は一変。伯爵未亡人との再婚もあやふや。しかも、アンジェラが道中に出逢った人物はまさかの王族。
この時からアンジェラの世界も一変。華やかに色付き出す。
初めはよそよそしいグラント公爵ダリウス(パパ)だが、次第に娘アンジェラを気に掛けるように……。
母娘2代のハッピーライフ&淑女達と貴公子達の恋模様💞
🔶設定などは独自の世界観でご都合主義となります。ハピエン💞
🔶稚拙ながらもHOTランキング(最高20位)に入れて頂き(2025.5.9)、ありがとうございます🙇♀️
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