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第1章 SONATA

op.05 まもなく朝を告げ知らすために(1)

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「自ら手配をされた、と今おっしゃいましたか?」

 今にも手に持った書類を取り落としそうになりながら、ヨハネスは呆然として己の主人を見た。
 そんなヨハネスの様子に動じることなく、この屋敷の現在の主人、ルートヴィヒ・フォン・ライヒェンバッハは涼しい顔でうむ、と首肯した。

 ヨハネスがルートヴィヒに甥であるヴィクトルを連れ戻せと言われたのが一週間前の出来事で、命じられた次の日には手配したことを報告したはずだ。
 信じられない、と絶句する。どうして自ら手を動かす必要が出てくるというのか。

 内心の動揺を何とかしずめると、ヨハネスは目の前のルートヴィヒに向き直る。

「それは、何とも悲しいことです。私にお任せいただけたと思ったので、全力で手配をさせて頂いたのですが……ルートヴィヒ様は私が信用に足りぬと?」

 心底残念そうな表情を作って言うが、ルートヴィヒはろくにヨハネスを見もせず快活に笑った。

「そう女々しい事を言うな、ハンス。ちょうど退役した部下に心当たりがあってな。訓練もない生活で暇を持て余しているだろうから、重ねて頼んだだけだ。ヴィクトルから一度手紙は来ていたから場所はある程度絞れたが、国土は広い。数が多いに越したことはなかろう。それにお前のことは信頼しているからこそ、軍から引き抜いて領地に連れてきたのだろう」

 それでは不満か、とルートヴィヒが言う。とんでもございません、とヨハネスは頭を下げる。

「私などにはもったいないお言葉かと」

 きっとその退役した部下とやらにとってもとんでもない依頼だろうよ、と内心で吐き捨てる。訓練がなくても家の仕事はあるだろうに、いい迷惑に違いない。

 だが、と一方で思う。
 ルートヴィヒは侯爵家の人間で且つ軍でも実力のあった将校だ。ルートヴィヒからの依頼であれば、間違いなく彼の元部下はそれを忠実にこなすだろう。大変まずい事に。

(まだだ。まだ帰ってこられては困る……)

 一度会って話しただけだが、ヨハネスにとってヴィクトルは組みし難い相手だ。今回もルートヴィヒには必ず連れてきますと請けあいつつ、国外へ追い出す準備を進めていた。

(アイツら、坊ちゃんを国外にうまく誘導できたのか)

 連絡ではまだヴィクトルが国外へ出たという知らせはない。二の矢、三の矢を打たないとじきにこの屋敷で顔を合わせる事になるかもしれない。取り急ぎすぐに伝令を飛ばさねば、と心に決める。

(そちらは何とかするとして、今は──)

 スッと目を細めると、ところで、とヨハネスは口火を切った。

「奥方のご様子はいかがでしょう。昨日見舞われたとお聞きしましたが」
「……うむ、義姉上か」

 途端にルートヴィヒの口が重くなった。身内の事なので言い難い部分もあるのだろう。

「……順調とは言い難いな」
「そうなのですか。それは誠に痛ましい事です。不調法にお聞きしてしまい申し訳ありません」

 沈痛な表情でそう言うと、ルートヴィヒはいや、と口籠る。

「構わん。事実だからな。お前もこの屋敷にいる以上知っておいた方が良かろう。だが決して私室には近づかぬように」
「それはもう心得ております。……本当に、一刻も早くご当主がお戻り下されば良いのですが」
「……本当にな。我が兄とはいえ、あのような様子の妻君を放ってどこをほっつき歩いているのか……憤懣やるかたないとはこの事だ」
「まぁそう怒らず。ご当主にもお考えがあるのでしょう。奥方の御心以上に心を砕かねばならぬ事情があるのやもしれません」
「…………」

 ルートヴィヒがギリと奥歯を噛み締めたのが分かった。

 その様子をヨハネスはただ見守る。
 ただルートヴィヒの心中に沸いた感情が不信となって染み入るのを十分に待って、ことの外穏やかにヨハネスは『ところで話は変わりますが』と歌うように言った。

「頼まれていたここ五年分の領地の会計について目を通してきたのですが、気になる点が幾つかございまして──」



   ◇



 夕方から降り出した雨は止む気配もなく、夜間になってもまだ耳障りな音を響かせていた。

 キィっとドアの軋む音と共に、アパルトメントの一室に一人の大柄な男が入ってきた。雨に濡れた外套を乱暴にフックに引っ掛けると、気だるげに首を回して、部屋の真ん中にある椅子にドスンと腰を下ろす。

「いや、参った。どうやら追いつかれたみたいだ。嬢ちゃんの方がいなくなったってよ」

 それはいつかヴィオに酒場で話しかけた男だった。あの時はぐでんぐでんに酔っ払った様子だったが、今は素面だ。

 元よりこちらが素で、あの時は酒に飲まれたふりをしていただけだ。男はこの町の人間ではなく、それはこの部屋にいるあと二人の男についても同様だ。

 身体の小さな猫背の男と、もう一人は紳士といっても差し支えない身なりをした男だった。その双方とも大柄な男の報告に渋面を作る。

「……ヴォルフ、伝令は何て?」

 猫背の男が聞くと、ヴォルフと呼ばれた大柄な男は顰めっ面を作る。

「前回と大差ない。とにかく国外へ追い出せ、だと」

 今から一週間ほど前、国外へ誘導するように命じられていたターゲットに別の方向から追っ手がかかったと依頼主から連絡が入った。
 急げと言われるがままに、多少強引ながら父親と直接会ったことがある風を装って、ヴィッテルスブルク侯爵の子息に接触したのがつい四日程前の話だった。

「あとお坊ちゃんが屋敷へ戻ってくるような事があれば、報酬は全額ナシだと念を押された」
 
 仲間内ではハーンと呼ばれている紳士然とした男が、何とか出来そうにないですか、とヴォルフに詰め寄った。
 お互い本名も知らない寄せ集めではあるが、各々の懐事情は少しだけ知っている。皮肉なことに三人の中で一番食い扶持に困っているのが紳士に扮しているハーンだ。

「そう簡単に出来りゃ困らん。ああ、そうそう追手の情報ももらったよ。何と元軍属が二人。一人は階級つきだそうだ。で、その筋金入りの軍人からお嬢ちゃんを助け出して? お坊ちゃんには憂慮なくさっさと旅立ってもらう?」
「どうしようもねぇ~……」

 猫背の男ことカーターが呻いた。
 ここにいるのはただの寄せ集めの、後ろ暗い仕事を引き受けなければ食っていけないような連中なのだ。
 軍にいたと言うだけなら同じ穴のムジナの可能性もあるが、階級がついていた人間となると話が全く変わる。

「そもそもあれだけ情報を流したのに、どうしてお坊ちゃんはまだこの町にいるんだよ。意味が分かんねぇ。嬢ちゃんを手放したのは三日前だっけ? もうとっくにいなくなってもいい頃だろ⁉︎」
「初めから私達が嘘をついていたと分かっていたとかは……?」

 ボソリとハーンが呟き、あァ? とカーターがそれを睨みつけた。
 ヒッ、と息を呑んでハーンが黙る。

「どこにバレる要素があんだよ。あー、いっそもうこのままトンズラするか? どっちにしろ報酬もらえないなら次の仕事探さねぇと」
「そ、それは困ります……!」
「落ち着けよ、カーター。それじゃハーンが野垂れ死ぬだろ。流石に寝覚めが悪い」
「オレには関係ねぇよ。折角まとまった金が手に入ると思ったのに、クソっ」
「そんなことを言わないでください。何とか方法を……」
「……オイ。ちょっと静かにしろ」

 急にヴォルフが低い声を出した。ハーンとカーターが双方とも喋るのをピタリと止める。

 相変わらず雨が窓を叩いている。
 その合間にカツン、カツンと規則正しく階段を登ってくる音が聞こえてきた。
 このアパルトメントの壁は薄く、大声で言い合いをしていれば容易に声は外に漏れる。また住人は大体把握しているが、この時刻に帰ってくる人間はあまりいないはずだ。

 足音が、止まる。
 
 
 コンコンとノックの音が部屋に響いた。
 
 
 ヴォルフがチラリとカーターに目配せする。カーターはこくりと頷き、スルリと椅子から降りると、壁に隠れる。

 特にマズい事をした覚えはないが、念には念をだ。ハーンはそのまま留め置いて、ヴォルフは『今開ける!』と大声で答えた。

「何だい。こんな夜遅くに…………って」

 無造作にドアを開けて、ヴォルフは一瞬言葉を失った。

 ドアの前には一人の老紳士が立っていた。上質な衣服を違和感なく着こなし、杖を片手に静かに佇んでいる紳士にヴォルフは覚えがあった。


「あんた……っ」


 言葉を無くす。その男は間違いなくここ数日ターゲットと行動を共にしていたはずの老紳士だった。

「夜分遅くに失礼。主人の命があり、あなた方に一件依頼をお願いしたく参上しました」

 スッと細い瞳をさらに細めて、老いた紳士はリラックスした様子でヴォルフに向かって笑みを浮かべる。

「どうかご協力願いたい」

 まさか断る選択肢などないだろう、というように。




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