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第1章 SONATA
op.05 まもなく朝を告げ知らすために(2)
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ぼうっとした意識がゆっくりと浮かび上がった。思考が定まらないまま、リチェルはゆっくりと目を開く。
(あれ、わたし……)
パラパラと降り始めた雨の音が窓を叩いていた。部屋の中は薄暗い。頭がクラクラする。ぼんやりと、記憶が浮かんでくる。
「……サラ、さん?」
その瞬間、気を失う寸前の記憶がリチェルの脳裏に蘇った。
急いで身体を起こそうとして、頭がふらついた。
拍子にかかっていた毛布が身体から滑り落ちる。思うように身体が動かなくて、そこで初めて両手が拘束されている事に気づいた。
「……っ」
出そうになった悲鳴をかろうじて呑み込む。
(ここ、どこ……?)
動揺しながらも、理解する。この場所はどう見ても見覚えのない場所で、手を拘束されているのはリチェルが誰かに無理やり連れて来られたからだ。
「あ、起きた?」
と、聞き覚えのない男性の声が聞こえた。
部屋の隅で座っていたのだろう。立ち上がった男性は、気を失う直前リチェルに声をかけた紳士だった。帽子を取った男の顔は、まだ十代とも二十代とも取れる。青年と言って良い見た目だ。
「まだあんまり動かない方がいいよ。ちょっと頭がクラクラするでしょ? 乱暴な真似してごめんね」
歩み寄ってきた男は、口では謝りながらも特に悪びれる様子はない。
思わず後ずさろうとして、すぐにソファの背にぶつかった。
両手を拘束するロープが擦れて少し痛い。同時に頬にピリッと痛みが走った。自分では確認できない位置だが怪我をしているのかもしれない。
「誰、ですか……」
震える声で、何とかそれだけ絞り出した。
状況が理解できても、自分がどうしてこんな所にいるかは全く分からない。ただリチェルの意識を奪ったのはこの青年で間違いないし、それなら安全だとはとても思えない。
青年は微かに笑っただけでリチェルの質問には答えなかった。代わりに『あと窮屈でごめんね』と苦笑する。
「だけど出来れば抵抗しないでくれる? 君が暴れても取り押さえるのは別に大した事じゃないんだけど、怪我はさせるかもしれないし」
そう言って青年は、リチェルの腕の拘束を指した。
「これは保険なんだ。どちらかというと君を守るためのね。いくら女性でも暴れた人間を取り押さえるのはちょっと乱暴な手段になるから、できれば初めから大人しくしていてほしいっていうこちらの意思表示。分かった?」
聞いておきながら、特にリチェルの答えに興味などないのだろう。それでも震えながら従順を示すようにこくりとリチェルは頷いた。
「ありがとう。それと、君には幾つか聞きたいことがある」
青年の言葉にリチェルはもう一度頷く。
ヴィオと出会ってから忘れていた理不尽な状況は、ひと月以上前のリチェルにとっては日常茶飯事だった。
自分の力ではどうにも出来ないことばかりで、それでも大抵は大人しく従っていれば何とかなったのだ。だから今も、身体に染み付いた癖のように、反抗する気が無いことを示す。
少なくとも青年のリチェルに対する態度は楽団にいた商家の子息たちよりは紳士的で、それだけが救いだ。
(それに……、わたしに答えられることなんてほとんどないわ……)
リチェルが攫われた理由は、ルーデンドルフ夫妻に引き取られたからだろうか。
だとしたらリチェルはルーデンドルフ家の事も何も知らないのだ。願うなら、リチェルを引き取ってくれたサラやルーデンドルフ夫妻にこれ以上迷惑をかけたくない、というそれだけだった。
しかし青年から出た言葉はリチェルにとっては予想外の言葉だった。
「聞きたいのは、君が今の屋敷に行く前にずっと一緒にいた男性の事なんだ」
「……!」
息を呑んだ。
一緒にいた男性とは、ヴィオのことで間違いない。だとしたら、彼らがリチェルを攫ったのはルーデンドルフ家ではなくヴィオ絡みの事になる。
(……この人たち、ヴィオを探しているんだ)
別れる前のソルヴェーグの言葉が蘇る。
『実は少し危急の要件がありまして、ヴィオ様も私も目立ったところに泊まる訳にはいかなくなったのです。』
きっとこの人達に見つかってはいけなかったのだ。だからヴィオは姿を隠したのだろう。
(だとしたら、どうしてわたしを──?)
リチェルとヴィオはもう別れている。
今のリチェルはルーデンドルフ夫妻の家に引き取られていて、ヴィオとは何の関係もないはずなのに。
混乱するリチェルをなだめるように、青年が柔らかい口調で話しかける。
「怖がらなくてもいいよ。些細なことでいいんだ。全然ね」
青年の口調はとても悪い人には思えない。まずそうだな、と人好きのする笑顔を浮かべる。
「そもそも何で一緒にいたのか聞かせてもらってもいいかな?」
それは、本当に些細な質問のように思えた。
質問の意図も分からないし、ヴィオとリチェルの出会いを説明したとてヴィオに非があるとはとても思えない。だけど、それでももし、リチェルがヴィオにとっての弱みだと思われているのだとしたら──。
(きっと、わたしがただ何も分からないだけだから……)
「……知りません」
ギュッと目を瞑って、リチェルは震える声で口にした。
何を口にしてはいけないのかがリチェルには判断できない。
(それなら何も喋らないのがきっと一番良いんだわ)
絶対にヴィオが不利になるような事を話してはいけない、と覚悟を決めてリチェルは唇を引き結ぶ。
震える手は縛られていて、押さえることも出来ない。必死で恐怖を押し殺して、リチェルはもう一度答える。
「何も、お答え出来ることはありません」
え、ちょっと。と青年が戸惑ったような声を出す。
「……さっきまで話してくれそうな雰囲気だったのに。そもそももう別れたんだし坊ちゃんに義理立てする必要なくない? いや、義理はあるのか。そうか、うん……参ったな」
意外なことに青年は力ずくでリチェルを追求する気はないようだった。ううん、と唸りながら腕組みをして考えて、やがて『君さ』とやにわに口を開く。
「君が一緒にいた人の本名とか知ってる?」
ドキリと心臓が跳ねた。
本名、とそう言われても、リチェルはヴィオが名乗ったその名前しか知らない。
「めちゃくちゃ義理立てしてる所申し訳ないんだけどね。多分、君その彼にちゃんと名前も教えてもらってないよ。今こうやって自分が拘束されてる理由も分からないでしょ? そう、事実として完全にとばっちりで君は巻き込まれている訳だけど」
青年はリチェルの瞳を真っ直ぐに覗き込んで、続ける。
「君は今自分が義理立てしなきゃいけない人間が誰かを考えた方がいい。もう別れた人間よりも、今君を預かってくれている人のことをね。早く帰った方が面倒な事も少なくて良いと思うんだけど」
心配しなくても、君が気にする彼の家は縁の切れた孤児に興味はないよ。と、青年は淡々と口にする。
ドクドクと、心臓が早く鼓動を刻む。青年の言葉が鋭利な刃物のように突き刺さった。
リチェルがいなくなって、サラはきっと心配しているだろう。
ルーデンドルフ夫妻にも迷惑をかけているかもしれない。リチェルを引き取ると言ってくれたサラには、きっともっと迷惑をかけている。
考えるだけで、どうしようもなく胸が痛んだ。唇を噛み締めると、視界が微かにボヤける。
きっと、早く屋敷へ帰れた方が良いのは事実だ。
もうかけてしまっている迷惑を少しでも減らすには、一刻も早く戻ったほうがいいに決まっている。だけど──。
(──ごめんなさい)
サラ達に迷惑をかけると分かっていて、それでも尚リチェルはヴィオの不利になるかもしれないことを何一つ話したくなかった。
「君は騙されてるんだよ、って親切に教えてあげてるんだけどな」
黙り込んだリチェルに、青年が困惑の表情を浮かべて呟く。それはきっとリチェルの心を揺らすための言葉なのだろう。だけど──。
この青年は、一つ大きな思い違いをしている。
ヴィオが本当のことを話さなかった事なんて、リチェルにとってはどうでもいいのだ。
理由があるとしたらそれはリチェルが不甲斐ないだけで、ヴィオがリチェルに対して不誠実だったことなんて一度もない。
ヴィオがリチェルを助けてくれた事だけが誰にも否定できない本当で、例えヴィオの名前が偽名でも、彼の名前はリチェルにとってはクライネルトに預けられてから初めて知りたいと思った他人の名前だ。そしてヴィオは、呼べばいつでも答えてくれた。
リチェルにとって大事なのは、それだけだ。
「…………」
怖くないわけじゃない。
この青年も、いつまでも優しいわけじゃないかもしれない。
クライネルトで受けた扱いはリチェルに染み込んでいて、今も思い出すと震えてしまう。だけど──。
だけどリチェルにはリチェルの大事な人がいて、その大切を守りたい。
だから口を閉ざす。
乾いた唇から、誰にと言う訳でもなく、ごめんなさい、と微かな謝罪が溢れ落ちた。
(あれ、わたし……)
パラパラと降り始めた雨の音が窓を叩いていた。部屋の中は薄暗い。頭がクラクラする。ぼんやりと、記憶が浮かんでくる。
「……サラ、さん?」
その瞬間、気を失う寸前の記憶がリチェルの脳裏に蘇った。
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状況が理解できても、自分がどうしてこんな所にいるかは全く分からない。ただリチェルの意識を奪ったのはこの青年で間違いないし、それなら安全だとはとても思えない。
青年は微かに笑っただけでリチェルの質問には答えなかった。代わりに『あと窮屈でごめんね』と苦笑する。
「だけど出来れば抵抗しないでくれる? 君が暴れても取り押さえるのは別に大した事じゃないんだけど、怪我はさせるかもしれないし」
そう言って青年は、リチェルの腕の拘束を指した。
「これは保険なんだ。どちらかというと君を守るためのね。いくら女性でも暴れた人間を取り押さえるのはちょっと乱暴な手段になるから、できれば初めから大人しくしていてほしいっていうこちらの意思表示。分かった?」
聞いておきながら、特にリチェルの答えに興味などないのだろう。それでも震えながら従順を示すようにこくりとリチェルは頷いた。
「ありがとう。それと、君には幾つか聞きたいことがある」
青年の言葉にリチェルはもう一度頷く。
ヴィオと出会ってから忘れていた理不尽な状況は、ひと月以上前のリチェルにとっては日常茶飯事だった。
自分の力ではどうにも出来ないことばかりで、それでも大抵は大人しく従っていれば何とかなったのだ。だから今も、身体に染み付いた癖のように、反抗する気が無いことを示す。
少なくとも青年のリチェルに対する態度は楽団にいた商家の子息たちよりは紳士的で、それだけが救いだ。
(それに……、わたしに答えられることなんてほとんどないわ……)
リチェルが攫われた理由は、ルーデンドルフ夫妻に引き取られたからだろうか。
だとしたらリチェルはルーデンドルフ家の事も何も知らないのだ。願うなら、リチェルを引き取ってくれたサラやルーデンドルフ夫妻にこれ以上迷惑をかけたくない、というそれだけだった。
しかし青年から出た言葉はリチェルにとっては予想外の言葉だった。
「聞きたいのは、君が今の屋敷に行く前にずっと一緒にいた男性の事なんだ」
「……!」
息を呑んだ。
一緒にいた男性とは、ヴィオのことで間違いない。だとしたら、彼らがリチェルを攫ったのはルーデンドルフ家ではなくヴィオ絡みの事になる。
(……この人たち、ヴィオを探しているんだ)
別れる前のソルヴェーグの言葉が蘇る。
『実は少し危急の要件がありまして、ヴィオ様も私も目立ったところに泊まる訳にはいかなくなったのです。』
きっとこの人達に見つかってはいけなかったのだ。だからヴィオは姿を隠したのだろう。
(だとしたら、どうしてわたしを──?)
リチェルとヴィオはもう別れている。
今のリチェルはルーデンドルフ夫妻の家に引き取られていて、ヴィオとは何の関係もないはずなのに。
混乱するリチェルをなだめるように、青年が柔らかい口調で話しかける。
「怖がらなくてもいいよ。些細なことでいいんだ。全然ね」
青年の口調はとても悪い人には思えない。まずそうだな、と人好きのする笑顔を浮かべる。
「そもそも何で一緒にいたのか聞かせてもらってもいいかな?」
それは、本当に些細な質問のように思えた。
質問の意図も分からないし、ヴィオとリチェルの出会いを説明したとてヴィオに非があるとはとても思えない。だけど、それでももし、リチェルがヴィオにとっての弱みだと思われているのだとしたら──。
(きっと、わたしがただ何も分からないだけだから……)
「……知りません」
ギュッと目を瞑って、リチェルは震える声で口にした。
何を口にしてはいけないのかがリチェルには判断できない。
(それなら何も喋らないのがきっと一番良いんだわ)
絶対にヴィオが不利になるような事を話してはいけない、と覚悟を決めてリチェルは唇を引き結ぶ。
震える手は縛られていて、押さえることも出来ない。必死で恐怖を押し殺して、リチェルはもう一度答える。
「何も、お答え出来ることはありません」
え、ちょっと。と青年が戸惑ったような声を出す。
「……さっきまで話してくれそうな雰囲気だったのに。そもそももう別れたんだし坊ちゃんに義理立てする必要なくない? いや、義理はあるのか。そうか、うん……参ったな」
意外なことに青年は力ずくでリチェルを追求する気はないようだった。ううん、と唸りながら腕組みをして考えて、やがて『君さ』とやにわに口を開く。
「君が一緒にいた人の本名とか知ってる?」
ドキリと心臓が跳ねた。
本名、とそう言われても、リチェルはヴィオが名乗ったその名前しか知らない。
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青年はリチェルの瞳を真っ直ぐに覗き込んで、続ける。
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心配しなくても、君が気にする彼の家は縁の切れた孤児に興味はないよ。と、青年は淡々と口にする。
ドクドクと、心臓が早く鼓動を刻む。青年の言葉が鋭利な刃物のように突き刺さった。
リチェルがいなくなって、サラはきっと心配しているだろう。
ルーデンドルフ夫妻にも迷惑をかけているかもしれない。リチェルを引き取ると言ってくれたサラには、きっともっと迷惑をかけている。
考えるだけで、どうしようもなく胸が痛んだ。唇を噛み締めると、視界が微かにボヤける。
きっと、早く屋敷へ帰れた方が良いのは事実だ。
もうかけてしまっている迷惑を少しでも減らすには、一刻も早く戻ったほうがいいに決まっている。だけど──。
(──ごめんなさい)
サラ達に迷惑をかけると分かっていて、それでも尚リチェルはヴィオの不利になるかもしれないことを何一つ話したくなかった。
「君は騙されてるんだよ、って親切に教えてあげてるんだけどな」
黙り込んだリチェルに、青年が困惑の表情を浮かべて呟く。それはきっとリチェルの心を揺らすための言葉なのだろう。だけど──。
この青年は、一つ大きな思い違いをしている。
ヴィオが本当のことを話さなかった事なんて、リチェルにとってはどうでもいいのだ。
理由があるとしたらそれはリチェルが不甲斐ないだけで、ヴィオがリチェルに対して不誠実だったことなんて一度もない。
ヴィオがリチェルを助けてくれた事だけが誰にも否定できない本当で、例えヴィオの名前が偽名でも、彼の名前はリチェルにとってはクライネルトに預けられてから初めて知りたいと思った他人の名前だ。そしてヴィオは、呼べばいつでも答えてくれた。
リチェルにとって大事なのは、それだけだ。
「…………」
怖くないわけじゃない。
この青年も、いつまでも優しいわけじゃないかもしれない。
クライネルトで受けた扱いはリチェルに染み込んでいて、今も思い出すと震えてしまう。だけど──。
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