Harmonia ー或る孤独な少女と侯国のヴァイオリン弾きー

雪葉あをい

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第1章 SONATA

op.05 まもなく朝を告げ知らすために(3)

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 夜も更け、窓の外の雨足が強くなってきた頃、孤児の少女を拘束している部屋から出てきた元部下は分かりやすくげんなりとした表情をしていた。

「どうしたベン。顔が引きつってるぞ」
「交代。完敗です。よろしくお願いします」

 疲れた表情で孤児の少女を隔離している部屋のドアから離れると、椅子に乱暴に腰掛けてベンはため息をついた。

「アレ結構強情ですよ。割と痛いとこついたと思ったのに、全っ然話してくれない。流石に町の有力者の預かり物に乱暴は働けないし、そもそも女性に手を上げたくないです。俺、今はご婦人相手に商売してますからね」
「あぁ。お前んち、売ってたの香水だっけ」

 フリッツの言葉に、そうですよ、とベンは口を尖らせる。

「しかももしあのお嬢ちゃんがルーデンドルフのお嬢さんになるんだったら、顧客になる可能性も秘めてるわけで本当勘弁してほしいっす。」

 ベンもフリッツも十代の頃から軍にいたが、家の都合で実家へ連れ戻された人間だ。元々ベンは口が立つ若者で人好きもする性格だが、そのベンで口を割ってくれないとなるとなかなか骨が折れるな、とフリッツは苦笑する。まあどちみちあの少女は餌なので、最悪何も話してくれなくても問題はないのだが。

「……少尉は農家ですっけ。あれ、今収穫期じゃないですか。家の方は大丈夫なんですか?」
「いや、帰ったらカミさんにドヤされるな」

 故郷の嫁を思い出して笑う。
 従軍時代に世話になった上司から呼び出しを食らったのは今から二週間と少し前の事だった。
 既に上司部下でもないのだが、癖は抜けないもので仕事を放っぽりだして呼び出しに答えたら、家を出て孤児に骨抜きにされてる甥っ子を連れ戻してこいときた。

 一度ベルシュタットから連絡があったと聞いて、まず押さえたのは国境付近の要衝だ。
 国外へ出られてしまえば流石に探しに行くのは困難で、それだけは止めなければいけない。幸い軍属時代のツテがその辺りにあったので、情報を仕入れるのは難しくなかった。

 初動が早かったからか、まだヴィッテルスブルク侯爵の子息と見られる青年が通った気配はなく、あとはベルシュタットから伸びる交通路を聞き込みしながら網を狭めていった。

 ようやく尻尾を掴んだと思った宿で、昨日出られましたと言われた時のショックと言ったらない。ただリンデンブルックから国外への交通路は一通り押さえているし、御子息は未だ町にいると判断した。聞き込みした情報から、孤児に入れ込んでいたのは確からしいと聞いて手を打ったのが今日のことだ。

 前もって聞いていたルートヴィヒの話でも、甥っ子はどうやら小娘に骨抜きにされているようだと話していたしそれ自体に矛盾はなかった。なかったのだが──。

(ただなぁ……)


『あぁ、あの子ね。とっても素直で、困っている人を放っておけないような優しい子だったよ。一緒にいた男性と? 仲は良かったみたいだし、あの子は連れの男性をとても気にかけてたみたいだけど、あれは絶対に男女の関係じゃないよ。兄妹かとも思ったけども似てなかったからねぇ……』


 二日ほど前に宿屋の店員から聞いた話を思い出して、後頭部をかいた。
 もしこの町で聞き込みした情報が正しいのだとしたら、イマイチ気が進まないのは確かだった。

(まあ、やりますけどね……)

 退役したとて元々軍人だった矜持もある。引き受けたからには失敗する気はないが、覇気が下がっているのも事実で、ベンに至ってはもはや引き受けたのを後悔してそうな有様だ。やる気のない尻を叩くつもりで、ほらしっかりしろよ、と声をかける。

「とりあえず嬢ちゃんの方は代わるから、お前は表で見張りしとけ。この場所と時間は坊ちゃんに届けてるだろ? お見えになったら呼んでくれ」

 サラ・リリエンタールを介して潜伏場所は割り出した。屋敷から出てこなかった時は少し焦ったが、裏口から出たのに追いついてヴィクトルの方の足取りは掴めたのだ。

 どういう関係にしろ、ここにいる少女が大事ならそろそろ顔を出すはずだ。
 了解、と気のない返事をしてベンが玄関の方へ出ていく。その後ろ姿を見送って、フリッツはランプを持つと少女を隔離している部屋のドアノブを握った。

 キィ、と微かに扉が軋む。

 音と光で少女が顔を上げる。
 少女はソファの上で膝を抱えて座っていた。はめ殺しの窓があるとはいえ、月明かりさえない部屋の中は真っ暗だ。勢いの強い雨音が容赦なく窓を叩き、部屋の中で反響している。

 ランプで照らすとびくりとして少女は眩しそうに顔を背けた。

(商売女、ねぇ……)

 こちらを見上げる翡翠の瞳は怯えた色をしていて、それはどう見ても子どもの持つ無垢な恐怖だ。ベンが頭をかかえるのも頷ける。見ている限りでは、上司の話より宿屋の店員から聞いた内容が正しそうだ。

「明かりがなくてすまんな。暗いところは平気か?」

 ランプを近付けると、キュッと少女が身を縮ませる。それから微かに頷いた。暗いのは平気なようで安心する。

「そうか。なら気分はどうだ? 痛むところは?」

 と言っても、こんな空気の悪い部屋にもう何時間も押し込まれているのだから気分が良いわけがない。
 黙ってても良いだろうに、少女は怯えた表情でこちらの顔を伺うと『平気です』と囁くような声で律儀に答えた。

 細い手首に巻かれたロープが痛々しい。長時間縛られていて擦れたのか、肌が赤くなっていた。
 同時に少女の頬に薄く擦り傷が出来ていることに気付いた。恐らくベンが連れてきた時にどこかで擦ったのだろう。可哀想に、と無意識に手が伸びる。

「──っ!」

 途端に少女がビクリと身をすくませた。その反応に伸ばした手を止めて、少女の顔を見る。咄嗟の反応だろう。だがそれ故に正直だ。

 そうか、と小さく呟いた。


「お前さん、男が怖いのか」


 少女が微かに肩を震わせる。
 図星だろう。急に伸ばされた手に怯えるのは、日常的に暴力を振るわれたことがあるからだ。

(これは、決まりだな……)

 伸ばされる手に怯える娘が、男を籠絡できる訳があるまいに。

 ヴィッテルスブルク侯爵の子息が暴力を振るっていた訳ではないだろう。宿の店員も仲が良かったと言っていたし、この少女が頑なに口を閉ざすのは紛れもなく子息を庇っているからだ。

(一体大尉はどこをどう勘違いしてそうなったのかね……)

 依頼してきた元上司の事を思い出してため息が出そうになる。無論侯爵家の子息が、孤児を連れ歩いている時点で大問題ではあるのだろう。その事実自体は如何ともし難いが、理由はありそうだ。

(まぁ庇ってやる義理はないがな……)

 後はヴィクトル自身が自分で叔父に説明すれば良いことだ。いかなる理由があろうと、頼まれた仕事は最後までやり遂げるつもりだ。
 ただ必要があったとはいえ、この少女を巻き込んだのは自分達なのだ。そう思うと一片の同情心くらいは沸く。

「こんな所に閉じ込めてごめんな。ご子息が来たらすぐに帰してやれると思うから、もう少し我慢してくれよ」

 思わず口にした言葉に、少女が弾かれたように顔を上げた。

「……わたしのことを、伝えたんですか?」

 初めて、ハッキリとした声で少女が喋った。震えた声は怯えていて尚、小鳥のさえずりのような愛らしい声をしていた。ただその声には喜びの色も安堵の色もない。まるでどうして伝えたんだと責めるような、そんな声で。

(参ったな……)

 心中で苦笑を溢す。助けに来てくれる希望が見えたというのに、喜ぶでもない。むしろ逆効果だったらしい。根っからこの少女は、助けてもらったご子息に恩を感じているのだろう。

「……そりゃあ伝えるさ。こっちは行方の分からないご子息と会話がしたくて呼び出してる訳だからな」

 苦笑混じりに告げると、少女が明らかに顔を曇らせた。

 可哀想だが、譲歩してやる余地はない。元より多少強引な手段を取ってもヴィクトルを連れ戻す気ではあったが、それ以前に当主代理であるルートヴィヒから帰還命令が出されたのを伝えれば無視することは出来ないだろう。知らない体で出ていく方が向こうにとっても一番都合がいい。
 伝えた上で抵抗するなら力ずくだが、どちらにせよ会わないことには話にならないのだ。

 少女がキュッと唇を噛むのが分かった。小さく唇が動く。どうして、とそう言っているように聞こえた。

 その時──。

 ガタン──ッッ! と表で物の倒れるような音が響いた。
 反射的に少女の首根っこをつかむと咄嗟にソファに伏せさせた。

 フリッツが入ってきたドアの向こうから、微かに足を擦る音が聞こえる。

「……すまん。びっくりさせたな」

 少女の方を見ないまま、せめて声音だけは優しくそう告げてフリッツはゆっくり立ち上がる。

「様子を見てくるからここでじっとして待っててくれ。もし危険だと思ったらソファの後ろでも良いから隠れろよ」

 そう言いながらも、どちらかというと少女にとって危険なのは自分達の方だな、と苦笑した。

(ベンのやつは何してやがる……)

 ベンもフリッツも気配には聡い方だが、今日は雨音がうるさく耳がきかない。ベルトからナイフを引き抜きながら、ゆっくりとドアの方に近づく。ドアの向こうの気配を慎重に探る。カツン、と杖の音が遠くから響いた。

(……?)

 キィ、と微かな音を立てて扉を開いて、息を呑む。
 真正面にある玄関へと続く扉に、一人の老紳士が立っていた。

「こんばんは」

 朗らかに挨拶されて、フリッツは言葉に詰まった。

「月も見えず、雨風も強いとなればとても良い夜とは言えませんな。お招き頂くのであれば、もう少し天気の良い日にして頂きたいものです」
「……いや、俺はアンタを呼んだ覚えは無いんだがな」

 苦々しい声で答える。
 お招きしたのはヴィッテルスブルク卿の子息であるヴィクトル・フォン・ライヒェンバッハの方だ。老紳士は微かに眉を上げて、それは失礼を、と口にする。

「主人の代わりに話を聞くのも務めでして。どうぞお座りになられてはどうでしょう?」

 そう言って紳士は部屋の真ん中にある椅子を手で示す。その落ち着いた様子に口の端が引きつった。
 どう言うことだ、と混乱しながらも頭を巡らせる。この老紳士だけであれば脅威にはならない。組み伏せることは出来るだろう。

(だがベンはどうした?)

 フリッツの疑問を察したのか、老紳士が朗らかに笑った。

「お連れの方であれば、お休み頂いておりますよ。もう夜も遅いですからな」

 老紳士の後ろからぬっと、大柄な男が顔を覗かせた。どうぞ、と低い声で言うと、抱えた荷物を床に下ろす。

「ベン……!」

 思わず呻き声が出た。
 手足を拘束された状態で地面に転がされたのは、間違いなく外で見張りをしていろと言った元部下だ。微かに濡れた髪と衣服が、部屋の前から一度引き剥がされたことを示していた。

 ついでに言うと完全に伸びている。
 物音が廊下に反響しないように、一度外に近い場所まで誘き出されたのだろう。ただでさえ今日は雨風がうるさくて、気づけなかった。己が不甲斐なさに、頭を抱えたくなる。

「どうぞ、お席へつかれては?」

 老紳士がもう一度丁寧に、椅子へとフリッツを促した。
 二対一。大人しく座ってはいざという時の行動に支障が出るが、あの大柄な男を抑えるのは骨が折れそうだ。ここは一度従うフリでもするかと、思考を巡らせながらフリッツは老紳士の勧め通り足を踏み出した。

「……⁉︎」

 瞬間、背後で物音がした。
 フリッツが出てきた扉の影からスルリと人影が飛び出して、咄嗟に掴もうとした手が空を切る。

(しまった、ドアの裏か──⁉︎)

 初めから狙いは捕まっている少女の方だ。


「リチェル!」


 同時に、飛び出した青年の声が少女の名を呼んだ。
 
 
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