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第1章 SONATA
op.04 エレベの濃い霧の中に(6)
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しばらく身を隠した方がいい、と言うのが最終的なヴィオとソルヴェーグの判断だった。
『交通路は見張られるでしょうから、もう出立したと思わせた方がいいでしょう。マイヤー殿も間に合わなかったと報告するでしょうし、それなら辻褄も合います』
ソルヴェーグの進言に頷いた。叔父は苛烈な人間だ。一度連れ戻すと言えば連れ戻すために手を尽くすだろうし、屋敷へ戻れば再度自由に行動するのは難しくなるだろう。ヴィオとしてはそれが一番困る。
『最後に確認させていただきますが、屋敷へ戻るつもりはありませんかな?』
ソルヴェーグに聞かれて、それこそ知っているだろうと気の知れた執事を一瞥すると、短く『ない』と答える。
『父上を見つけるまでは是が非でも家に連れ戻される訳にはいかない』
ヴィオの言葉にソルヴェーグは恭しく首を垂れる。
『であれば、微力ながらお力になりましょう。元よりそのつもりで来たのですから』
朗らかに笑う執事に苦笑する。実のところソルヴェーグがいる事はヴィオにとって心強かった。
残るところの気掛かりはリチェルだった。一緒にいるといやが応なく巻き込むことになってしまうし、身を隠している内は別行動の方が良いだろうと言うことになった。置いていく気などもちろんない。だから──。
『この町の劇団で歌わないかと言ってくださったの。そうしたらわたしの身元も引き受けてくださるとおっしゃって下さって』
リチェルの言葉は、ヴィオにとって予想もしていなかったものだった。
離れる、という選択肢がある事を、思い当たることさえなかった。無論いつかはそうしなければならないと知ってはいたが、まだ先の事だと思っていた。それまでは当然のように連れていくものだと、いつからそう考えていたのだろう。
窓から見下ろす町の景色は、雲が多いからからかねずみ色をしていた。ため息をついて、遠くに見える劇場が目に留まる。
(リチェルにとっては、これ以上ない良い話だ)
リンデンブルックは大きな町だ。この町の劇場で歌えることは、リチェルにとって財産になるだろう。彼女が歌い続けられる事は、ヴィオにとっても喜ばしいことのはずなのだ。
(それなのに……)
どうしてこんなに気が重いのだろう。
今頃どうしているだろう、と昼に離れたばかりなのに考えてしまう。別れ際のリチェルは笑顔だった。最後まで、ヴィオの事を気遣っていた。
そう考えて、引っかかる。
動揺してしまって、あの時は気づかなかったが、あの時のリチェルの笑顔はどこかいつもと違っていた。いつもよりどこかぎこちなかったような気がして。
(考えすぎだろうか……)
リチェルはサラを慕っているし、サラもリチェルを大事にしてくれている。劇団で歌えることもリチェルにとっては喜ばしいことで、彼女が憂慮する事など何一つない。喜んでいて当然なのだ。
(ダメだな……)
思考がまとまらない。冷静に考えているつもりでも、どこからか私情が入っている気がして仕方がない。
何が起きても、もう少し冷静に判断出来ると思っていたのに──。
◇
翌朝、ヴィオがサラの屋敷を訪ねた時にはもうサラに話は通っていた。恐らくソルヴェーグが手を回してくれたのだろう。
ルーデンドルフ夫妻の姿は見えなかったが、サラに聞くと話は通してくれたらしい。非礼を詫びて、そのまま任せることにする。
多くは話せなかったが、大まかなこちらの事情を話すとリチェルの迎えはサラが引き受けてくれた。今更かもしれないが、あまりヴィオとリチェルが一緒にいるところを見られない方がいいだろうとの判断だった。
「ヴィオさん」
不意にサラに声をかけられて、振り返った。いつになく真剣な表情でサラがヴィオを見つめている。
「何でしょうか?」
「一つだけ聞いて良いかしら?」
「……はい」
頷くと、サラはヴィオの目をじっと見て、静かに尋ねた。
「本当にいいのね?」
サラの言葉に目を瞬いた。それで良いも何も、元々サラが提案したことだ。納得した上でのことの筈なのに、サラの言葉に一瞬動揺した自分を自覚して、すぐに平静を装う。
「あぁ。貴女が引き取ってくれるのなら心強い。きっとリチェルも安心する」
そう言うと、サラは小さくため息をついた。だけどすぐにいつもの柔和な笑みを浮かべると、そうだと嬉しいわ、と答えた。
「リチェルのことは責任を持ってお預かりします。貴方もどうかお気をつけて」
「ありがとうございます」
必ずこの町を出ていく時には会いにきてあげてほしい、とサラに念を押されてヴィオもそれは約束した。
これでいい、と自分に言い聞かせる。どこか不自然な自分の心の動きに蓋をして、ただこれで良かったのだと、そう思うしかない。
◇
屋敷に引き取られたリチェルは、孤児だったと思えない礼儀正しい仕草で、ルーデンドルフ夫妻に挨拶をして二人を驚かせた。
思えばリチェルには元々品のようなものが備わっていた。育ってきた環境から知らないことは多いが、リチェルの振る舞いには粗野なところが一つも見られなかったから、きっとすぐに驚くような淑女になるのでしょうと夫妻は笑って言った。
『これではサラの方がまだ跳ねっ返りだったわ』
そう冗談みたいにノーラ夫人が笑ったのはつい昨日のことだ。
ルーデンドルフ夫妻は穏やかな人柄で、リチェルの気質ともよく合っている。きっとうまくやっていけるだろうとサラは信じていたけれども、反面ずっと笑っていた少女の様子に一抹の不安を感じていたのも事実だった。
『おやすみなさい』
昨日部屋の扉を閉める直前に見たリチェルの表情は、サラのもう随分と古くなった傷を思い出させる。
『ごめんなさい』
そう言って、笑った。
『──あなたと一緒には、行けません』
それは綺麗な別れなんかじゃなかった。納得した訳じゃなかった。本当はついて行きたい、とずっと心が叫んでいた。
だけど正しいと思ったのだ。母と父を裏切れないから、代わりに自分の心を裏切った。
サラが帰ったその日、娘の帰りを歓待してくれた両親に自分もまた笑みを返したのだ。ちょうど、昨日のリチェルのような──。
(あら?)
朝の廊下に、澄んだ空気を震わせる美しい調べが微かに響いていた。
サラが向かっているのはリチェルの部屋だった。朝食の準備が出来たからとリチェルを呼びに行こうとした使用人を引き止めて、代わりを引き受けたのだ。彼女はまだ使用人がいる生活に慣れていない。
そっと扉を開くと、窓辺に立ってリチェルが歌っている後ろ姿が見えた。
歌っているのはシューベルトの歌曲、『菩提樹』。
シューベルトが死の床で編集していた歌曲集『冬の旅』の中の一曲だ。
編纂された二十四曲は元々テノールのために書かれた曲で、孤独を感じさせる暗い曲調が多い歌曲集ではあるが、菩提樹はその中でも穏やかに夢を見るようなメロディーを奏でる。
リチェルのソプラノが歌い上げると、まるで大きな木々に抱かれてるかのような優しい懐かしさを感じた。
美しくて、だけどどこか悲しげな歌声。
(……貴女の安らぎは、一体どこにあるのでしょうね)
リチェル、と小さく名を呟く。その名に糸を引かれたかのように、リチェルがこちらを振り向いた。歌が、途切れる。
「サラさん」
「ごめんなさい。邪魔をしてしまったわ」
「いえ、そんな事ありません」
リチェルが首を振る。どうぞ、と笑って椅子をすすめてくれるが、その表情がどこか無理をしている事にはもう気付いていた。
「朝食が出来たから呼びにきたの。食べる気分にはならない?」
「いえ、ありがとうございます。頂きます」
そう言って、部屋を出ようとしたリチェルをそっと呼び止める。振り向いたリチェルは不思議そうな顔をしていた。
「リチェル。私が言うことではないのかもしれないけれど、無理はしていない?」
「無理、ですか?」
困惑した声だった。自身の傷に無自覚でいようとしているような、そんなものは無いのだと押し込めようとしているような、その事にすら気づいていないような──。
だから一足飛びに問うた。
「ヴィオさんについていきたかったんじゃないかと思って」
若葉の目が驚いたように見開かれた。開きかけた唇が、出すべき言葉を見失って霧散する。だけどリチェルはすぐにいいえ、と首を横に振った。
「だってわたしがついて行ったら、ヴィオに迷惑がかかるだけです。わたしは元からどこかで別れるはずで、それがサラさんの元であったのはとても幸運な事だと思っています」
まるで自分に言い聞かせてるみたいに、リチェルが続ける。
「だって、わたしはとても嬉しいです。サラさん。歌を歌えることも、サラさんが家族にして下さると言ってくれたことも」
だからこれはとても幸せなことなのだと繰り返しながら、キュッとリチェルの手がスカートを握りしめる。
「わたしには、本当に勿体無いほどの幸せで……、だから」
「えぇ」
スカートを握りしめたリチェルの手を上からそっと握る。分かっているわ、と繰り返す。
「貴女が感謝してくれていることも、私の申し出に喜んでいてくれることも分かっているのよ。だけど……」
サラがそっとリチェルの胸に手を当てる。
「貴女が選んだ最善が、貴女の心にとって同じように最良のものだとは限らないのよ」
驚いたようにリチェルがサラを見た。
ゆらゆらと、無垢の瞳が揺れている。きっとこの子は、サラの言ったことが理解できない。リチェルの最善はいつだって周りの人の為にあって、それが自分の心にとっても最良であるべきだと、この子はきっと無意識にそう言い聞かせている。
だってリチェルは、自分に酷い境遇を強いた屋敷の人間さえ恨んでいない。そう言う子なのだ。
以前言った事を覚えている? と優しくリチェルに尋ねる。
「貴女は、きっと感じて当たり前のことをこれまでたくさん落としてきてしまっているのだと言ったわね。それを拾い集めることは時に苦しかったり、悲しかったりするかもしれないけれど、その気持ちを大事にしてあげてって」
ねぇ、リチェル。と続ける。
「痛みは悪ではないの。その痛みは、私の元へ来た事を否定している訳では決してないのよ。どんなに正しいと思っても、いつでも心が従ってくれる訳ではないというだけなの」
「でも……」
戸惑ったようにリチェルがサラを見る。髪の毛を優しくすいて、大丈夫、と繰り返す。
「リチェル。苦しいのだと口に出しても大丈夫なのよ」
そうしないと、これから先もずっとこの子は自分の苦しみを殺し続けるだろう。その痛みは罪なのだと、自分を罰してしまう。
「どうにもならない事はもちろんあるわ。だけどその時感じた心は大事にしてあげて。決して、殺してしまわないで」
リチェルはじっとサラの瞳を見つめていた。唇が小さく震えている。投げた石が波紋を広げるように、瞳の奥が揺れていた。
やがてポツリと、リチェルが零した。
「いたい、です」
透明な雫が頬を一筋、伝い落ちる。
「どうして、サラさん。わたし……」
嬉しいのに。嬉しいはずなのに、と小さい唇がこぼす。
「胸が、痛いの。サラさん……っ」
ポロポロと堪えきれないようにリチェルの瞳から涙がこぼれ落ちる。その肩を引き寄せて抱き締めた。
リチェルの身体は小さくて、包み込むと今にも折れてしまいそうだった。ゆっくりと背中を撫でながら、ごめんなさい、とリチェルに聞こえないよう唇だけで、サラは呟いた。
『交通路は見張られるでしょうから、もう出立したと思わせた方がいいでしょう。マイヤー殿も間に合わなかったと報告するでしょうし、それなら辻褄も合います』
ソルヴェーグの進言に頷いた。叔父は苛烈な人間だ。一度連れ戻すと言えば連れ戻すために手を尽くすだろうし、屋敷へ戻れば再度自由に行動するのは難しくなるだろう。ヴィオとしてはそれが一番困る。
『最後に確認させていただきますが、屋敷へ戻るつもりはありませんかな?』
ソルヴェーグに聞かれて、それこそ知っているだろうと気の知れた執事を一瞥すると、短く『ない』と答える。
『父上を見つけるまでは是が非でも家に連れ戻される訳にはいかない』
ヴィオの言葉にソルヴェーグは恭しく首を垂れる。
『であれば、微力ながらお力になりましょう。元よりそのつもりで来たのですから』
朗らかに笑う執事に苦笑する。実のところソルヴェーグがいる事はヴィオにとって心強かった。
残るところの気掛かりはリチェルだった。一緒にいるといやが応なく巻き込むことになってしまうし、身を隠している内は別行動の方が良いだろうと言うことになった。置いていく気などもちろんない。だから──。
『この町の劇団で歌わないかと言ってくださったの。そうしたらわたしの身元も引き受けてくださるとおっしゃって下さって』
リチェルの言葉は、ヴィオにとって予想もしていなかったものだった。
離れる、という選択肢がある事を、思い当たることさえなかった。無論いつかはそうしなければならないと知ってはいたが、まだ先の事だと思っていた。それまでは当然のように連れていくものだと、いつからそう考えていたのだろう。
窓から見下ろす町の景色は、雲が多いからからかねずみ色をしていた。ため息をついて、遠くに見える劇場が目に留まる。
(リチェルにとっては、これ以上ない良い話だ)
リンデンブルックは大きな町だ。この町の劇場で歌えることは、リチェルにとって財産になるだろう。彼女が歌い続けられる事は、ヴィオにとっても喜ばしいことのはずなのだ。
(それなのに……)
どうしてこんなに気が重いのだろう。
今頃どうしているだろう、と昼に離れたばかりなのに考えてしまう。別れ際のリチェルは笑顔だった。最後まで、ヴィオの事を気遣っていた。
そう考えて、引っかかる。
動揺してしまって、あの時は気づかなかったが、あの時のリチェルの笑顔はどこかいつもと違っていた。いつもよりどこかぎこちなかったような気がして。
(考えすぎだろうか……)
リチェルはサラを慕っているし、サラもリチェルを大事にしてくれている。劇団で歌えることもリチェルにとっては喜ばしいことで、彼女が憂慮する事など何一つない。喜んでいて当然なのだ。
(ダメだな……)
思考がまとまらない。冷静に考えているつもりでも、どこからか私情が入っている気がして仕方がない。
何が起きても、もう少し冷静に判断出来ると思っていたのに──。
◇
翌朝、ヴィオがサラの屋敷を訪ねた時にはもうサラに話は通っていた。恐らくソルヴェーグが手を回してくれたのだろう。
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多くは話せなかったが、大まかなこちらの事情を話すとリチェルの迎えはサラが引き受けてくれた。今更かもしれないが、あまりヴィオとリチェルが一緒にいるところを見られない方がいいだろうとの判断だった。
「ヴィオさん」
不意にサラに声をかけられて、振り返った。いつになく真剣な表情でサラがヴィオを見つめている。
「何でしょうか?」
「一つだけ聞いて良いかしら?」
「……はい」
頷くと、サラはヴィオの目をじっと見て、静かに尋ねた。
「本当にいいのね?」
サラの言葉に目を瞬いた。それで良いも何も、元々サラが提案したことだ。納得した上でのことの筈なのに、サラの言葉に一瞬動揺した自分を自覚して、すぐに平静を装う。
「あぁ。貴女が引き取ってくれるのなら心強い。きっとリチェルも安心する」
そう言うと、サラは小さくため息をついた。だけどすぐにいつもの柔和な笑みを浮かべると、そうだと嬉しいわ、と答えた。
「リチェルのことは責任を持ってお預かりします。貴方もどうかお気をつけて」
「ありがとうございます」
必ずこの町を出ていく時には会いにきてあげてほしい、とサラに念を押されてヴィオもそれは約束した。
これでいい、と自分に言い聞かせる。どこか不自然な自分の心の動きに蓋をして、ただこれで良かったのだと、そう思うしかない。
◇
屋敷に引き取られたリチェルは、孤児だったと思えない礼儀正しい仕草で、ルーデンドルフ夫妻に挨拶をして二人を驚かせた。
思えばリチェルには元々品のようなものが備わっていた。育ってきた環境から知らないことは多いが、リチェルの振る舞いには粗野なところが一つも見られなかったから、きっとすぐに驚くような淑女になるのでしょうと夫妻は笑って言った。
『これではサラの方がまだ跳ねっ返りだったわ』
そう冗談みたいにノーラ夫人が笑ったのはつい昨日のことだ。
ルーデンドルフ夫妻は穏やかな人柄で、リチェルの気質ともよく合っている。きっとうまくやっていけるだろうとサラは信じていたけれども、反面ずっと笑っていた少女の様子に一抹の不安を感じていたのも事実だった。
『おやすみなさい』
昨日部屋の扉を閉める直前に見たリチェルの表情は、サラのもう随分と古くなった傷を思い出させる。
『ごめんなさい』
そう言って、笑った。
『──あなたと一緒には、行けません』
それは綺麗な別れなんかじゃなかった。納得した訳じゃなかった。本当はついて行きたい、とずっと心が叫んでいた。
だけど正しいと思ったのだ。母と父を裏切れないから、代わりに自分の心を裏切った。
サラが帰ったその日、娘の帰りを歓待してくれた両親に自分もまた笑みを返したのだ。ちょうど、昨日のリチェルのような──。
(あら?)
朝の廊下に、澄んだ空気を震わせる美しい調べが微かに響いていた。
サラが向かっているのはリチェルの部屋だった。朝食の準備が出来たからとリチェルを呼びに行こうとした使用人を引き止めて、代わりを引き受けたのだ。彼女はまだ使用人がいる生活に慣れていない。
そっと扉を開くと、窓辺に立ってリチェルが歌っている後ろ姿が見えた。
歌っているのはシューベルトの歌曲、『菩提樹』。
シューベルトが死の床で編集していた歌曲集『冬の旅』の中の一曲だ。
編纂された二十四曲は元々テノールのために書かれた曲で、孤独を感じさせる暗い曲調が多い歌曲集ではあるが、菩提樹はその中でも穏やかに夢を見るようなメロディーを奏でる。
リチェルのソプラノが歌い上げると、まるで大きな木々に抱かれてるかのような優しい懐かしさを感じた。
美しくて、だけどどこか悲しげな歌声。
(……貴女の安らぎは、一体どこにあるのでしょうね)
リチェル、と小さく名を呟く。その名に糸を引かれたかのように、リチェルがこちらを振り向いた。歌が、途切れる。
「サラさん」
「ごめんなさい。邪魔をしてしまったわ」
「いえ、そんな事ありません」
リチェルが首を振る。どうぞ、と笑って椅子をすすめてくれるが、その表情がどこか無理をしている事にはもう気付いていた。
「朝食が出来たから呼びにきたの。食べる気分にはならない?」
「いえ、ありがとうございます。頂きます」
そう言って、部屋を出ようとしたリチェルをそっと呼び止める。振り向いたリチェルは不思議そうな顔をしていた。
「リチェル。私が言うことではないのかもしれないけれど、無理はしていない?」
「無理、ですか?」
困惑した声だった。自身の傷に無自覚でいようとしているような、そんなものは無いのだと押し込めようとしているような、その事にすら気づいていないような──。
だから一足飛びに問うた。
「ヴィオさんについていきたかったんじゃないかと思って」
若葉の目が驚いたように見開かれた。開きかけた唇が、出すべき言葉を見失って霧散する。だけどリチェルはすぐにいいえ、と首を横に振った。
「だってわたしがついて行ったら、ヴィオに迷惑がかかるだけです。わたしは元からどこかで別れるはずで、それがサラさんの元であったのはとても幸運な事だと思っています」
まるで自分に言い聞かせてるみたいに、リチェルが続ける。
「だって、わたしはとても嬉しいです。サラさん。歌を歌えることも、サラさんが家族にして下さると言ってくれたことも」
だからこれはとても幸せなことなのだと繰り返しながら、キュッとリチェルの手がスカートを握りしめる。
「わたしには、本当に勿体無いほどの幸せで……、だから」
「えぇ」
スカートを握りしめたリチェルの手を上からそっと握る。分かっているわ、と繰り返す。
「貴女が感謝してくれていることも、私の申し出に喜んでいてくれることも分かっているのよ。だけど……」
サラがそっとリチェルの胸に手を当てる。
「貴女が選んだ最善が、貴女の心にとって同じように最良のものだとは限らないのよ」
驚いたようにリチェルがサラを見た。
ゆらゆらと、無垢の瞳が揺れている。きっとこの子は、サラの言ったことが理解できない。リチェルの最善はいつだって周りの人の為にあって、それが自分の心にとっても最良であるべきだと、この子はきっと無意識にそう言い聞かせている。
だってリチェルは、自分に酷い境遇を強いた屋敷の人間さえ恨んでいない。そう言う子なのだ。
以前言った事を覚えている? と優しくリチェルに尋ねる。
「貴女は、きっと感じて当たり前のことをこれまでたくさん落としてきてしまっているのだと言ったわね。それを拾い集めることは時に苦しかったり、悲しかったりするかもしれないけれど、その気持ちを大事にしてあげてって」
ねぇ、リチェル。と続ける。
「痛みは悪ではないの。その痛みは、私の元へ来た事を否定している訳では決してないのよ。どんなに正しいと思っても、いつでも心が従ってくれる訳ではないというだけなの」
「でも……」
戸惑ったようにリチェルがサラを見る。髪の毛を優しくすいて、大丈夫、と繰り返す。
「リチェル。苦しいのだと口に出しても大丈夫なのよ」
そうしないと、これから先もずっとこの子は自分の苦しみを殺し続けるだろう。その痛みは罪なのだと、自分を罰してしまう。
「どうにもならない事はもちろんあるわ。だけどその時感じた心は大事にしてあげて。決して、殺してしまわないで」
リチェルはじっとサラの瞳を見つめていた。唇が小さく震えている。投げた石が波紋を広げるように、瞳の奥が揺れていた。
やがてポツリと、リチェルが零した。
「いたい、です」
透明な雫が頬を一筋、伝い落ちる。
「どうして、サラさん。わたし……」
嬉しいのに。嬉しいはずなのに、と小さい唇がこぼす。
「胸が、痛いの。サラさん……っ」
ポロポロと堪えきれないようにリチェルの瞳から涙がこぼれ落ちる。その肩を引き寄せて抱き締めた。
リチェルの身体は小さくて、包み込むと今にも折れてしまいそうだった。ゆっくりと背中を撫でながら、ごめんなさい、とリチェルに聞こえないよう唇だけで、サラは呟いた。
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