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第2章 ADAGIO

op.07 懐かしい土地の思い出(4)

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 翌日から収穫祭に向けての練習が始まった。
 
 リチェルが朝の家事を一通り終えた頃、双子の家に訪ねてきたヴィオに今日から練習を始めようかと告げられて、リチェルも表情を明るくする。

 ちゃんとした場で歌うのは初めてなので緊張はするが、同時に楽しみでもあった。

「曲が出来たのね」
「あぁ。リチェルはもう手は空いたのか? もし大丈夫なら一度通しで聞いてもらいたいんだが──」
「ヴィオお兄ちゃん!」

 ちょうどいいタイミングで裏で遊んでいた双子が玄関へ戻ってきて、そのままの勢いでリリコがヴィオの腰に飛びついた。

「リリコちゃん!」

 幸いヴィオはその不意打ちのタックルに驚いただけで転ぶようなことはなかったが、危ない事に変わりはない。
 いきなり人に飛びつくのはダメよ、とリチェルが注意すると『はーい』と全く悪びれない態度でリリコは答える。

 どうにもリリコはヴィオが気に入っているようで、しがみついた腕から離れないまま、ヴィオの持つ楽器を見上げてぱっと笑顔になった。

「ヴァイオリン!」
「曲出来たの? 聞きたい聞きたい!」

 リリコの後から入ってきたリートも興味津々という感じでヴィオのそばに寄っていく。

「ヴィオ兄ちゃん、弾いてみせてよ!」
「ちょうど聞かせようと思っていたところだから、二人とも落ち着いてくれ」

 そう言うとリリコもリートも『はーい!』と元気よく返事をしてヴィオから離れた。
 ヴィオはまだ双子の扱いに戸惑っているようだったが、不思議とリリコもリートもヴィオの言うことは素直に聞くから、ヴィオも少しずつ対応に慣れてきているようにリチェルは感じる。

「じゃあ──」

 ヴィオがヴァイオリンを構えて、当日演奏する曲を弾き始める。
 ルフテンフェルトの村の様子をイメージしてヴィオがこの二日で書き上げた曲だ。

 のどかで明るいメロディーがゆったりと流れる牧歌的な曲調で、時折跳ねるようなメロディーが入ってくる。合間で説明を挟みながら、ヴィオは流れるように主旋律を演奏する。

「ここはピアノ、アルフォンソだな」

 コロコロと跳ね回るような動きは確かに鍵盤楽器の得意とする動きだ。ヴァイオリンで聞くとまた違って聞こえるが、きっとピアノで聞くと可愛らしい音になるのだろう。

「そしてここからがソプラノ。途中からリートとリリコにも歌ってもらう」

 少し曲調が変化する。そのメロディーを耳にして、双子は目を輝かせた。

「あー! これ村のお歌だ!」
「ヴィオお兄ちゃん! あたしこれとっても上手に歌えるの!」

 リチェルも驚く。
 中盤でヴィオが弾いたメロディーは、リチェルも先日リートとリリコに教えてもらった子守唄だったからだ。

 そうして曲は元々のメロディーに戻り終わった。ヴァイオリンを下ろすと、リートとリリコが『すごーい!』と二人揃って拍手をする。

「リチェルはともかく二人はあと数日で新しく覚えるのは難しいだろうから、リートとリリコが歌っていた歌を少し編曲して組み合わせてみたんだ。タイトルもないし曲自体を聞いたことがないから、多分口伝で伝えられてる曲なんだろうな」

 明るい曲調は伸びやかでテンポも良い。子供たちがコーラスで参加するのにピッタリで、村で歌われている曲なので村の人たちに親しみもあるだろう。

「間に歌が入るのね。すごいわ。全然思いつかないもの」
「交響曲にも合唱が取り入れられている曲は幾つかあるから、発想自体は新しい物じゃない。ベートーヴェンの九番が先駆で、今でも一番有名だと思うよ」

 リチェルも聴いたことがあるんじゃないか? とヴィオがヴァイオリンを鳴らして主旋律を弾いてくれるがリチェルは首を振った。

 クライネルトの楽団は室内楽が中心だったし、大規模な編成で行う交響曲はリチェルにはあまり馴染みがないのだ。
 きちんと編成されたオーケトストラの演奏を聴いたのは、リンデンブルックでヴィオと一緒に見に行ったオペラがリチェルにとっては唯一だ。

「まだタイトルだけ決まっていないんだが、今後大きく直すことはないからこれで練習してもらえれば──」
「おはようリチェルさん。リート君とリリコちゃんも」

 その時村長の家に行っていたアルが、扉を開けて家に入ってきた。

「おはよう、アルさん」
「あ、アルお兄ちゃんだ! おはよう~!」
「おはよう!」
「ピアノ、借りれそうだよ。明日以降になるけど合わせるなら村長がピアノのある部屋を貸してくれるって。今日は村の教会のオルガンを少し使わせてもらえるみたい」

 アルの報告にワッと双子がわいた。
 まぁオルガンとピアノって鍵盤がついてるだけで全然別物なんだけどね~、とアルが苦笑する。

 アルに少し遅れて、ソルヴェーグも家の中に入ってくる。
 と、ソルヴェーグが抱えているものを見てリチェルは目を瞬かせた。

「ソルヴェーグさんも演奏されるんですか?」
「本当だー!」
「大きいヴァイオリンだー!」

 双子が一直線にソルヴェーグの方に駆けていく。

 ソルヴェーグが抱えて戻ってきたのはヴァイオリンよりも二回り以上大きな楽器で、チェロと言うんですよ、と双子に向けてソルヴェーグが答えた。
 チェロ! と双子が楽しそうに楽器の名前を繰り返す。

「借りれたのか?」
「えぇ。村長さんにお聞きしたら快く貸してくださいました」

 あまり乱暴にしてはいけませんよ、と双子をたしなめながら、ソルヴェーグはリチェルに向けて笑う。

「手慰み程度ですから、ヴィオ様のような演奏は期待しないでください」
「そんな……、弾けるだけですごいです! それにソルヴェーグさんでしたらきっと演奏も丁寧できっとお上手だと思います!」
「ほっほ。そう言われては半端な演奏は出来ませんな」

 ソルヴェーグが冗談めかして笑う。

「長い間使っていなくて埃をかぶっていたらしく、喜んで貸していただけましたよ。張替え用の弦も頂きました」
「そうか。じゃあ出来たら呼んでくれ。調律しないとな」
「はい、では私はガスパロ殿の家で作業をして参ります」
「ソルおじいちゃん、調律ってなあにー?」
「張り替えって何するの?」

 チェロを持つソルヴェーグに双子は興味津々なようで、くるくると周りを回りながら矢継ぎ早に質問を浴びせている。
 『一度には答えられませんな』と笑いながら出ていくソルヴェーグの後をアヒルの子どもみたいにくっついて双子は家から出て行く。

(……良かった)

 その光景を見てリチェルはホッとする。

 多かれ少なかれアガタがいないことで寂しい想いをさせてしまっているだろうが、思ってたよりリートもリリコも元気だ。
 収穫祭で歌えることもきっと後押しになっているのだろう。ヴィオに感謝しないといけない。

「じゃあ僕は楽譜を軽くさらっとこうかな。お昼ご飯を済ませたら、教会へ練習に行ってくるね」

 楽譜を机に置いて、アルがアコーディオンを抱えたまま手近な椅子に座る。

「わたしも頑張らなきゃ。ヴィオ、もし良かったら一度わたしのパートを弾いて聴かせてもらってもいい?」
「あぁ、もちろん」

 練習する音が重ならないようにと、リチェルとヴィオは外へ出る。
 少しずつ秋も深まってきているが、まだ日中はそこまで寒くない。今日は外で練習するのにもちょうどいい気候だった。とりあえず双子の家の前にある木の下まで移動する。

「ヴィオ、作曲お疲れ様。きっと疲れたでしょう?」
「好きでやってることだから、そんなに疲れてないよ。悩んでるのはタイトルくらいか……」
「曲名? そうね、編成もバラバラだし共通するものがある訳でもないものね……」

 何か役に立ちたいとは思うものの、今まで曲名を聞かされることすらなかったリチェルにはハードルが高い。
 ごめんなさい、役に立てそうにないわと肩を落とすと、ヴィオが苦笑した。

「本番までには決めるよ。リチェルが気に病むことじゃない」

 そう言うヴィオの口調はやはりどこか──。
 チラリと隣にいる青年の顔を見上げて、リチェルは意を決して口を開く。 

「ヴィオ。その、体調は大丈夫?」
「体調?」

 ヴァイオリンを構えようとしたヴィオが首を傾げる。だがすぐに合点がいったようで、あぁ、と生返事を零した。

「昨日はそれなりに早く寝たつもりだが。リチェルこそ、そんな時間まで起きてたのか?」
「ううん。でもアルさんから夜遅くまで作業していたって聞いたから」

 みんなの練習時間を考えて短期間で仕上げてくれたのだと思うし、その才能は尊敬するが、あまり自身の体調に頓着しない人であることをリチェルはもう知っている。
 それに少しだけ、リチェルの勘違いかもしれないのだけど。

「その、いつもより、少し元気がないように思えて……」

 ためらったけれども口に出した。
 ヴィオの様子がいつもと少し違うような。何か悩んでいるような。そんな気がしていた。

「あの、わたしのパートを教えてほしいのは本当なんだけれど、もしヴィオさえ良かったら今の時間だけでも少し休んだらどうかしら。ヴィオがさっきメロディーを演奏してくれたし、楽譜の読み方ももう分かるから、音を拾うことはわたしだけでも出来ると思うし。眠らなくても目を閉じてるだけで少しは身体が楽になるでしょう?」 

 ちょうど双子もソルヴェーグの所に行ってるし、ここは日陰で静かだ。
 双子の家から聞こえてくるアルのアコーディオンの旋律は伸びやかで、邪魔になる音色ではないように思う。

 ヴィオは驚いたようにリチェルを見ていた。

「もしかしてその為に連れ出してくれたのか?」
「……迷惑だった?」

 途端に不安が首をもたげた。

 ヴィオの体調については、ソルヴェーグがリチェルよりもずっと目を配ってくれているのは知っている。
 余計なことだっただろうかと恐る恐るヴィオを見る。ヴィオはしばらくリチェルを見ていたが、やがてふっと力が抜けたように笑った。

「いや。そうか。それなら少し休ませてもらうよ。わからないことがあったらいつでも声をかけてくれ」

 そう言って木の根元に腰を下ろすと、そのまま背中を預けてヴィオは目を閉じた。

「……うん」

 良かった、と胸を撫で下ろす。
 ヴィオの為にリチェルに出来ることはいつだって少ないけれど、ほんの少しくらい助けになれたらといつも思っている。

 同じように木の根元に座り込んで楽譜を広げる。
 サラの家で色んなことを教えてもらったから、楽譜を見れば旋律は掴むことが出来るようになっていた。細かい記号なんかはまだ分からない事もあるけれど、聞くのは後からでも遅くはない。

 音を取りながらメロディーを口ずさむ。
 その声自体が邪魔にならないかとヴィオに目をやるが、ヴィオは目を閉じたままだったから大丈夫だと思うことにする。

 木漏れ日がゆらゆらと揺れている。
 日の光はあたたかく、少し冷たい秋の風が心地よい。

「…………落ち着くな」
「そうね。今日は日差しが温かいし、とても過ごしやすい気候ね」

 思わずこぼれた、と言うようにつぶやかれたヴィオの言葉に答える。

「それもあるが……」

 ヴィオが穏やかに続ける。


「多分リチェルがいるからだろうな」


 パサリと楽譜が手元から滑り落ちた。
 弾かれたようにヴィオの方を見ると、ヴィオは木に背を預けて目を閉じたままだ。

「リチェルの周りの空気はいつも穏やかだから、そう感じるのかもしれない」
「……そう、かしら」

 動揺を悟られないようにかろうじてそれだけ絞り出した。

 トクトクといつもより早く鼓動を刻む心臓の音がうるさい。それなら嬉しいわ、と平静を装って返すと、落ちた楽譜を気づかれないように拾い集める。

 自分の反応に戸惑った。答えた言葉の通りそれはとても嬉しい言葉で、ただそれだけで良いはずなのに──。

(どうしてだろう──)

 頬が熱を持って、ひどく落ち着かない。
 今はヴィオがこちらを見ていないことがただありがたかった。



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