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第2章 ADAGIO
op.07 懐かしい土地の思い出(5)
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一日目の練習はつつがなく終わった。
今日の練習で気になったところを楽譜に書き込み終えて、ヴィオはペンを置いた。
リチェルとソルヴェーグは元より、双子も『村で一番上手』の自己申告通り歌声や音程の取り方も申し分なかった。
歌い慣れた曲だったのもあるのだろう。
改めてアルのピアノも聞かせてもらったが、こちらも技量には全く問題はない。
独学と聞かなければ恐らくどこかの音楽院に行っていたものだと思っただろう。
元から個々の技量を加味して引き受けた依頼ではあったが、突貫にしては本番も良い演奏が出来そうで安堵する。
そろそろ寝るか、と椅子から立ち上がったところで、アルが部屋に戻ってきた。
「あれ、ヴィオ君も今日はもう寝るって言ってなかった?」
「? もう寝るつもりだが」
「それなら良かった。机の前にいるからまた徹夜するのかと……」
「昨日も一昨日も徹夜はしていない……」
一応きちんと寝てはいるのだが、リチェルにも気を使わせてしまった手前強くは言えない。
今日個々の演奏を聞いて、曲の細かい修正もしたかったのだが、夕方ソルヴェーグにちゃんと休むように念を押されたというのもある。
今回はアルが同室なので誤魔化すことも難しそうだ。まぁ一人だったとて、ソルヴェーグを誤魔化せたことはあまりないのだが……。
寝床に座ったアルはそのまま寝るのかと思いきや横にはならず、『ねぇ』と声をかけてくる。
「ヴィオ君さえ良ければ、少しだけ話をしてもいいかな?」
その様子がいつもより若干の緊張しているように思えて、ヴィオはランプを消す手を止めた。何度か瞬きをして、椅子に座り直す。
「別に構わないが」
よかった、ありがとう。そうモゴモゴと口にして、アルは落ち着かなさそうに視線をさまよわせている。
「あの、さ……」
歯切れ悪く、アルが口を開いた。
「踏み込んだことを聞くんだけど、ヴィオ君は……その、どうして家を継ごうと思ったのかなって。ヴィオ君は音楽の才能があるし、音楽が好きなのも分かる。君の腕なら十分やっていけると思うんだけど……」
確かに踏み込んだ質問かもしれない。
ヴィオはアルに自分が侯爵家の人間であることは話していない。とはいえソルヴェーグの存在もあるから、恐らく裕福な資産家の息子くらいには思っているだろう。
「そういえばアルフォンソも稼業があると言ってたな」
「……うん。そうなんだけど」
だけど。
そうつくということは継ぐ気がないか、迷っているのだろうと分かる。
正直なところ、アルの事情は聞かなくても大体予想出来た。
元々あまり準備もなく、山を越えようとしていたこと。
他でもない音楽の都であるウィーンを目指していたこと。
ヴィオが音楽院の学生である事に興味を示し、純粋に羨ましがっていること。
そして今回のヴィオへの問いだ。
恐らく音楽の道に進みたくて家を飛び出してきたのだろう、と見当を付けていた。
他人の事情だから特に深く聞く気はなかった。
本人が話さないのだから尚更だ。
ただアルの腕前は本物だったから、収穫祭で演奏する時に力を貸してくれるのはありがたい。ヴィオにとってはそれで十分だ。
「俺の答えはあまり参考にはならないと思うぞ。ただお前がやりたいのなら、別に諦める必要はないんじゃないかとも思うが」
一旦無難にそう答える。
アルは元々の気が優しい。
自分の意志を強固に押し通せるタイプではないから、昨夜ヴィオが家を継ぐ、と言ったことできっと決意が揺らいだのだろう。いや、それ以前から家を出てきたことを後悔していたのかもしれない。
自分の意志を押し通したいのか、家へ帰る理由を探しているのか。
そのどちらかは分からないが、アルはヴィオの答えを聞いて安心する材料を見つけたいのだろう。
案の定アルは驚いた顔をした。何でわかるの? と顔に書いてある。
「でもヴィオ君は、諦めたんでしょ?」
アルの衣を着せない率直な物言いに心中で苦笑した。
「ヴィオ君は、僕から見てもすごく実力のある人だと思ったんだ。そのヴィオ君が家を継ぐために諦めるなら僕なんか、って勝手に自信がなくなっちゃってさ。いや、本当に勝手なんだけど……。君みたいなすごい人には諦めて欲しくないなって。家とか、そういうの。自分のやりたいことを押し殺してまで縛られなきゃいけない義務ってあるのかな……」
ほとほと素直だなと思う。馬鹿正直と言ったほうがいいかもしれない。人によっては激怒しそうなことを、悪意なく言ってしまう。
ヴィオはアルに『家を継ぐから音楽の道に進む気はない』とは言ったが、それがヴィオの意志に反しているとは言ってない。恐らくヴィオに共感して、必要以上に自分自身と重ねてしまっているのだろう。
だとすると今の言葉はアル自身の言葉だ。
(……義務、か)
共感はしないが、理解が出来ないわけではない。生まれた時に定められている事を抑圧だと、束縛だと感じる感性は別に異質じゃない。
「俺は、そういう風に考えた事はないな」
少し考えてそう答えた。アルが目を丸くする。
「確かに決められていたのは間違いじゃないが、最終的には俺は自分の意思で決めたから。家を継ぐことが何かの枷だと感じた事はないんだ」
生まれた時から当然のように肩に乗っていた立場も責任も、負って当たり前のものだった。守らなければいけないものは明確で、その事自体に迷うことはなかったのだ。
「それに別に音楽の道を諦めた訳でもない」
「諦めてないの? だって家を継ぐって」
「別に両立出来ないわけでもないだろ。どこかの楽団で専属で所属するのは難しくても客演なら出来るだろうし」
実際ヴィオの父親は領地を収めながら、時たま客演で演奏していた。
もちろんそれが非常に難しい事だとは分かっているが、不可能ではない事も見てきて知っている。
「元から迷っていないんだ。だから参考にならないと始めに言っただろ?」
「そ、っか……」
アルがうつむく。
きっと望んでいた答えは得られなかっただろう。それでもヴィオにはアルに言える言葉はあまりない。
「あまり役に立つことが言えなくてすまないな」
「そんなことないよ! ありがとう、話をしてくれて」
もう寝るね、と会話を切るとアルは寝ようとする。
それで終わりで良かった。
結局のところ、最後は自分で決めるしかないのだ。アルは人に影響を受けやすい性質で、ヴィオの言葉にそのまま影響を受けるだろう。だから何も言わないほうが良い。
今までならきっとそう思っていたし、それで──。
『後悔、して欲しくないんです……』
思い出したのは、ベルシュタットでリチェルがマルコを追いかけた時の事だった。
きっと自分のことを優しい、と言った少女ならこんな時迷っている人間を決して突き放さないだろうと、そう思考をかすめて──。
「アルフォンソ」
気づくと呼びかけていた。
寝ようとしていたアルが振り返る。
「俺にはお前の事情は分からないが──」
普段ならきっと言わない。だから迷いながら、告げる。
「大なり小なり選択には責任が伴うし、その責任を負うのは選択したお前自身であるべきだ。だけど多くの場合何かを選択する事は他者を巻き込む。人は一人ではいられないから。だから、それも含めて考えてみればいいんじゃないかと、俺は思うよ」
「…………」
珍しくアルは黙ってヴィオを見ていた。それはヴィオの言葉を受け止めるために必要な時間のようだった。
やがてアルは『そっか……』とポツリと呟いた。
「……うん、そうだよね」
ヴィオにと言うより、まるで自分に言い聞かせるようにアルはそう呟いて──。
「ちょっと、考えてみるよ……」
そう言うと、今度こそ寝床に横になって毛布をかぶった。
(……これで良かったんだろうか)
悔やみはしないが、結局突き放すような言葉になってしまったことは否めない。
考えても仕方ない、とランプに付いていた火を消すと、ヴィオもベッドに入って横になる。ここ二日の作業で疲れていたのか、横になるとすぐに眠気は訪れた。
(そういえば……)
薄暗い天井を見上げながら、ヴィオはふと気付く。
昨日まで抱えていた折り合いのつかない感情は、いつの間にか随分と薄れていた。
重く濁った感情が、溶けおちるみたいに掻き消えたのは、何がキッカケだったのだろうか。
考えようとしたけれど、意識が重い。
『──さえ良かったら今の時間だけでも少し休んだらどうかしら』
落ちていく思考の中で少女の声が、耳の奥に微かに響く。
彼女の周りにある時間はどこかゆっくりで、まとう空気は春のようだ。
『わたしにとっては、名前よりも貴方だと言うことが大切だもの』
彼女はヴィオの父を知らなくて、ヴィオの家の事情も、育ってきた環境も知らなくて。
だけど大切だと言ってくれるその声はあたたかで、そばにいると陽だまりの中にいる心地がする。
(あぁ、だから──)
ただあるがままの自分を認めてくれる人がいるということが、きっと──。
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確かに踏み込んだ質問かもしれない。
ヴィオはアルに自分が侯爵家の人間であることは話していない。とはいえソルヴェーグの存在もあるから、恐らく裕福な資産家の息子くらいには思っているだろう。
「そういえばアルフォンソも稼業があると言ってたな」
「……うん。そうなんだけど」
だけど。
そうつくということは継ぐ気がないか、迷っているのだろうと分かる。
正直なところ、アルの事情は聞かなくても大体予想出来た。
元々あまり準備もなく、山を越えようとしていたこと。
他でもない音楽の都であるウィーンを目指していたこと。
ヴィオが音楽院の学生である事に興味を示し、純粋に羨ましがっていること。
そして今回のヴィオへの問いだ。
恐らく音楽の道に進みたくて家を飛び出してきたのだろう、と見当を付けていた。
他人の事情だから特に深く聞く気はなかった。
本人が話さないのだから尚更だ。
ただアルの腕前は本物だったから、収穫祭で演奏する時に力を貸してくれるのはありがたい。ヴィオにとってはそれで十分だ。
「俺の答えはあまり参考にはならないと思うぞ。ただお前がやりたいのなら、別に諦める必要はないんじゃないかとも思うが」
一旦無難にそう答える。
アルは元々の気が優しい。
自分の意志を強固に押し通せるタイプではないから、昨夜ヴィオが家を継ぐ、と言ったことできっと決意が揺らいだのだろう。いや、それ以前から家を出てきたことを後悔していたのかもしれない。
自分の意志を押し通したいのか、家へ帰る理由を探しているのか。
そのどちらかは分からないが、アルはヴィオの答えを聞いて安心する材料を見つけたいのだろう。
案の定アルは驚いた顔をした。何でわかるの? と顔に書いてある。
「でもヴィオ君は、諦めたんでしょ?」
アルの衣を着せない率直な物言いに心中で苦笑した。
「ヴィオ君は、僕から見てもすごく実力のある人だと思ったんだ。そのヴィオ君が家を継ぐために諦めるなら僕なんか、って勝手に自信がなくなっちゃってさ。いや、本当に勝手なんだけど……。君みたいなすごい人には諦めて欲しくないなって。家とか、そういうの。自分のやりたいことを押し殺してまで縛られなきゃいけない義務ってあるのかな……」
ほとほと素直だなと思う。馬鹿正直と言ったほうがいいかもしれない。人によっては激怒しそうなことを、悪意なく言ってしまう。
ヴィオはアルに『家を継ぐから音楽の道に進む気はない』とは言ったが、それがヴィオの意志に反しているとは言ってない。恐らくヴィオに共感して、必要以上に自分自身と重ねてしまっているのだろう。
だとすると今の言葉はアル自身の言葉だ。
(……義務、か)
共感はしないが、理解が出来ないわけではない。生まれた時に定められている事を抑圧だと、束縛だと感じる感性は別に異質じゃない。
「俺は、そういう風に考えた事はないな」
少し考えてそう答えた。アルが目を丸くする。
「確かに決められていたのは間違いじゃないが、最終的には俺は自分の意思で決めたから。家を継ぐことが何かの枷だと感じた事はないんだ」
生まれた時から当然のように肩に乗っていた立場も責任も、負って当たり前のものだった。守らなければいけないものは明確で、その事自体に迷うことはなかったのだ。
「それに別に音楽の道を諦めた訳でもない」
「諦めてないの? だって家を継ぐって」
「別に両立出来ないわけでもないだろ。どこかの楽団で専属で所属するのは難しくても客演なら出来るだろうし」
実際ヴィオの父親は領地を収めながら、時たま客演で演奏していた。
もちろんそれが非常に難しい事だとは分かっているが、不可能ではない事も見てきて知っている。
「元から迷っていないんだ。だから参考にならないと始めに言っただろ?」
「そ、っか……」
アルがうつむく。
きっと望んでいた答えは得られなかっただろう。それでもヴィオにはアルに言える言葉はあまりない。
「あまり役に立つことが言えなくてすまないな」
「そんなことないよ! ありがとう、話をしてくれて」
もう寝るね、と会話を切るとアルは寝ようとする。
それで終わりで良かった。
結局のところ、最後は自分で決めるしかないのだ。アルは人に影響を受けやすい性質で、ヴィオの言葉にそのまま影響を受けるだろう。だから何も言わないほうが良い。
今までならきっとそう思っていたし、それで──。
『後悔、して欲しくないんです……』
思い出したのは、ベルシュタットでリチェルがマルコを追いかけた時の事だった。
きっと自分のことを優しい、と言った少女ならこんな時迷っている人間を決して突き放さないだろうと、そう思考をかすめて──。
「アルフォンソ」
気づくと呼びかけていた。
寝ようとしていたアルが振り返る。
「俺にはお前の事情は分からないが──」
普段ならきっと言わない。だから迷いながら、告げる。
「大なり小なり選択には責任が伴うし、その責任を負うのは選択したお前自身であるべきだ。だけど多くの場合何かを選択する事は他者を巻き込む。人は一人ではいられないから。だから、それも含めて考えてみればいいんじゃないかと、俺は思うよ」
「…………」
珍しくアルは黙ってヴィオを見ていた。それはヴィオの言葉を受け止めるために必要な時間のようだった。
やがてアルは『そっか……』とポツリと呟いた。
「……うん、そうだよね」
ヴィオにと言うより、まるで自分に言い聞かせるようにアルはそう呟いて──。
「ちょっと、考えてみるよ……」
そう言うと、今度こそ寝床に横になって毛布をかぶった。
(……これで良かったんだろうか)
悔やみはしないが、結局突き放すような言葉になってしまったことは否めない。
考えても仕方ない、とランプに付いていた火を消すと、ヴィオもベッドに入って横になる。ここ二日の作業で疲れていたのか、横になるとすぐに眠気は訪れた。
(そういえば……)
薄暗い天井を見上げながら、ヴィオはふと気付く。
昨日まで抱えていた折り合いのつかない感情は、いつの間にか随分と薄れていた。
重く濁った感情が、溶けおちるみたいに掻き消えたのは、何がキッカケだったのだろうか。
考えようとしたけれど、意識が重い。
『──さえ良かったら今の時間だけでも少し休んだらどうかしら』
落ちていく思考の中で少女の声が、耳の奥に微かに響く。
彼女の周りにある時間はどこかゆっくりで、まとう空気は春のようだ。
『わたしにとっては、名前よりも貴方だと言うことが大切だもの』
彼女はヴィオの父を知らなくて、ヴィオの家の事情も、育ってきた環境も知らなくて。
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