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第2章 ADAGIO
op.07 懐かしい土地の思い出(3)
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良い音はそれがただの一音でも音楽になる。
それを知ったのは父の演奏を初めて聴いた時だった。時にヴァイオリンの音色は歌声のように喩えられることもあるが、父が奏でる音色はまさにそれだった。
『自由に弾いてみればいい』
ゆったりとした声音で父はそう言った。
楽譜の完璧な再現を求められる普段のレッスンと父が手の空いた時に教えてくれる音楽はまるで別物だった。
『音楽は真理との対話のようなものだ。人類が組み上げてきた音楽理論は尊ぶべきものだけど絶対ではないよ。決して先人への尊敬を忘れず、だけど同じくらい冒険心も捨てずに挑みなさい』
今のは先生には内緒だけどな、と父は笑った。
侯爵家が治める領地は広く、政務は多岐に渡るのに、その全てを細やかに差配できる人だった。
暇な時などほとんどなかったはずなのに、父は他人に忙しさを感じさせなかった。父のまとう空気はいつだって大らかで、物腰の柔らかさが表れていたのを覚えている。
『ヴィクトル様もいつかお父様みたいになって下さいね』
乳母は事あるごとに幼いヴィオにそう口にし、分別がつくようになる頃には誰もがそれを期待しているのだと了解した。
両親の間にはそれ以上子供は出来なかった。
だから与えられる期待は義務に近いのだと分かって、迷うこともなかった。自分の肩に載せられる期待は、取りこぼした分だけ母の頭上に泥のようにこぼれ落ちる物だと、知っていた。
だけどその言葉の重みは少しも理解できていなかったのだと、今なら分かる。知れば知るほどこぼれ落ちる物を自覚した。足りない物は増える一方で途方もない。
それなのに。
貴方はとても優秀な人間だったはずなのに。
どうして──。
答えのない疑問は堆積するばかりで、未だ出口は見えないままだ。
「ヴィオ君、まだ寝ないの?」
ランプを手に部屋に戻ると、ガスパロが簡易で作ってくれた寝床から起き上がってアルがこちらを見ていた。
「あぁ、もう少しだけ作業しようと思ったんだが。明るいか?」
「ううん。それは大丈夫。てっきり寝るのかと思ったら油を足して戻ってきたみたいだから、まだ当分やるつもりなのかなって」
アルがヴィオの持ってるランプを指差して苦笑する。
「ほとんど出来てるんでしょ? お願いしてる身で言うのも何だけど、あまり無理をしないで欲しいな。リチェルさんも心配してた」
「リチェルが?」
リチェルはヴィオがどれだけ起きてようと、ソルヴェーグみたいに苦言を呈することがないから気にしていなかった。
だが元々よく人のことを見ている子だ。
言わないだけで心配をかけていたのだろう。
「僕のパートなら大丈夫だよ。ヴィオ君の演奏を聞いたらそれなりにアレンジ出来ると思うし。あんまり大っぴらに練習できる環境になかったから、楽譜を見ながら弾く事の方が珍しかったんだ」
「……あぁ、それで」
本来両手で弾く曲目を音を補ってアコーディオンで聴かせて見せるあの応用能力はそう言う所から身についたのかもしれない。
「村長さんに聞いたら、家にピアノがあるみたいで本番は貸してくれるって言ってたよ。練習にも使って良いって」
久しぶりに弾けるし楽しみだなぁ、とアルは頬を緩めている。
きっと演奏するのが本当に好きなのだろう。その気持ちはよく分かる。ヴィオは楽器がヴァイオリンだから常にそばに置いているが、アルの場合ピアノを持ち運ぶ訳にもいかないから喜びもより増すだろう。
横になったからそのまま寝るかと思ったが、アルはまだ話をしたいようで『ヴィオ君はプロを目指しているの?』と聞いてくる。
「僕はヴァイオリンに詳しくないけど、ヴィオ君の音色はすごく良い音だなって思うよ。音楽院に行ってるって言ってたし、きっとすごく勉強も練習もしてるんだろうね。少し羨ましいよ」
「お前は違うのか?」
稼業は別にある、とそういえば言っていた。ほとんど独学であのレベルで弾けるのであれば、相当練習したのではないだろうか。
「そりゃ隠れて練習はしてたよ。
近くの教会の神父様が教会に古いピアノを持ち込んでてさ。神父様とオルガン奏者の人に基本は教えてもらったんだ。ミサに行くって言えば親父も怒れないしね。でもやっぱり家の仕事が最優先だから好きなだけって訳にはいかなかったかな。どうしても諦めきれなくて、意を決して音楽の道に行きたいって言ったら、言い終わる前に麺棒が飛んできたよ。まぁ、それでも諦めきれないからここにいるんだけど──」
「…………」
少し眠たくなってきているのだろう。ポツポツと話すアルの言葉はいつもより無防備で、だからこそ本音のように思えた。
小さく息をついて、ヴィオは先程の問いに答える。
「確かに機会にも人にも恵まれてきたとは思うが、俺は音楽を本職にしたい訳じゃないよ」
「え? そうなの? 何で?」
アルの声には言外に勿体無い、という感情が見てとれた。羨ましいという感情も。だけどそれらには気づかないふりをして簡潔に返事をする。
「家を継ぐから」
アルが眠たげな表情をしながらも、少し意外そうな顔をした。
「……そうなんだ。……そっか。まぁ、みんな色々あるよね。でも、きっと立派な稼業なんだろうなぁ」
「……もう寝ろ。お前さっきから半分寝てるだろう」
「……うん? そうだね、もう寝るよ……。おやすみ。ヴィオ君も無理しないでね」
「あぁ」
それきりアルは黙った。
やがて五分もたたないうちに規則正しい寝息が聞こえてきた。息をついて、ペンに手をかける。
(羨ましい、か)
感情をうまく咀嚼できない。
どうしてだろうか。
環境に恵まれていることも、だからこそ伴う責任も。
目指す場所が遠いことだって──。
(当に分かって納得していることなのにな……)
どうしてだろう。それが今になって喉に引っかかるようだった。
今朝ガスパロの話を聞いてからずっと、折り合いのつかない感情が心の中で揺れている。
小さく首を振って意識を切り替える。
やるべき作業があるのが今は有り難かった。
それを知ったのは父の演奏を初めて聴いた時だった。時にヴァイオリンの音色は歌声のように喩えられることもあるが、父が奏でる音色はまさにそれだった。
『自由に弾いてみればいい』
ゆったりとした声音で父はそう言った。
楽譜の完璧な再現を求められる普段のレッスンと父が手の空いた時に教えてくれる音楽はまるで別物だった。
『音楽は真理との対話のようなものだ。人類が組み上げてきた音楽理論は尊ぶべきものだけど絶対ではないよ。決して先人への尊敬を忘れず、だけど同じくらい冒険心も捨てずに挑みなさい』
今のは先生には内緒だけどな、と父は笑った。
侯爵家が治める領地は広く、政務は多岐に渡るのに、その全てを細やかに差配できる人だった。
暇な時などほとんどなかったはずなのに、父は他人に忙しさを感じさせなかった。父のまとう空気はいつだって大らかで、物腰の柔らかさが表れていたのを覚えている。
『ヴィクトル様もいつかお父様みたいになって下さいね』
乳母は事あるごとに幼いヴィオにそう口にし、分別がつくようになる頃には誰もがそれを期待しているのだと了解した。
両親の間にはそれ以上子供は出来なかった。
だから与えられる期待は義務に近いのだと分かって、迷うこともなかった。自分の肩に載せられる期待は、取りこぼした分だけ母の頭上に泥のようにこぼれ落ちる物だと、知っていた。
だけどその言葉の重みは少しも理解できていなかったのだと、今なら分かる。知れば知るほどこぼれ落ちる物を自覚した。足りない物は増える一方で途方もない。
それなのに。
貴方はとても優秀な人間だったはずなのに。
どうして──。
答えのない疑問は堆積するばかりで、未だ出口は見えないままだ。
「ヴィオ君、まだ寝ないの?」
ランプを手に部屋に戻ると、ガスパロが簡易で作ってくれた寝床から起き上がってアルがこちらを見ていた。
「あぁ、もう少しだけ作業しようと思ったんだが。明るいか?」
「ううん。それは大丈夫。てっきり寝るのかと思ったら油を足して戻ってきたみたいだから、まだ当分やるつもりなのかなって」
アルがヴィオの持ってるランプを指差して苦笑する。
「ほとんど出来てるんでしょ? お願いしてる身で言うのも何だけど、あまり無理をしないで欲しいな。リチェルさんも心配してた」
「リチェルが?」
リチェルはヴィオがどれだけ起きてようと、ソルヴェーグみたいに苦言を呈することがないから気にしていなかった。
だが元々よく人のことを見ている子だ。
言わないだけで心配をかけていたのだろう。
「僕のパートなら大丈夫だよ。ヴィオ君の演奏を聞いたらそれなりにアレンジ出来ると思うし。あんまり大っぴらに練習できる環境になかったから、楽譜を見ながら弾く事の方が珍しかったんだ」
「……あぁ、それで」
本来両手で弾く曲目を音を補ってアコーディオンで聴かせて見せるあの応用能力はそう言う所から身についたのかもしれない。
「村長さんに聞いたら、家にピアノがあるみたいで本番は貸してくれるって言ってたよ。練習にも使って良いって」
久しぶりに弾けるし楽しみだなぁ、とアルは頬を緩めている。
きっと演奏するのが本当に好きなのだろう。その気持ちはよく分かる。ヴィオは楽器がヴァイオリンだから常にそばに置いているが、アルの場合ピアノを持ち運ぶ訳にもいかないから喜びもより増すだろう。
横になったからそのまま寝るかと思ったが、アルはまだ話をしたいようで『ヴィオ君はプロを目指しているの?』と聞いてくる。
「僕はヴァイオリンに詳しくないけど、ヴィオ君の音色はすごく良い音だなって思うよ。音楽院に行ってるって言ってたし、きっとすごく勉強も練習もしてるんだろうね。少し羨ましいよ」
「お前は違うのか?」
稼業は別にある、とそういえば言っていた。ほとんど独学であのレベルで弾けるのであれば、相当練習したのではないだろうか。
「そりゃ隠れて練習はしてたよ。
近くの教会の神父様が教会に古いピアノを持ち込んでてさ。神父様とオルガン奏者の人に基本は教えてもらったんだ。ミサに行くって言えば親父も怒れないしね。でもやっぱり家の仕事が最優先だから好きなだけって訳にはいかなかったかな。どうしても諦めきれなくて、意を決して音楽の道に行きたいって言ったら、言い終わる前に麺棒が飛んできたよ。まぁ、それでも諦めきれないからここにいるんだけど──」
「…………」
少し眠たくなってきているのだろう。ポツポツと話すアルの言葉はいつもより無防備で、だからこそ本音のように思えた。
小さく息をついて、ヴィオは先程の問いに答える。
「確かに機会にも人にも恵まれてきたとは思うが、俺は音楽を本職にしたい訳じゃないよ」
「え? そうなの? 何で?」
アルの声には言外に勿体無い、という感情が見てとれた。羨ましいという感情も。だけどそれらには気づかないふりをして簡潔に返事をする。
「家を継ぐから」
アルが眠たげな表情をしながらも、少し意外そうな顔をした。
「……そうなんだ。……そっか。まぁ、みんな色々あるよね。でも、きっと立派な稼業なんだろうなぁ」
「……もう寝ろ。お前さっきから半分寝てるだろう」
「……うん? そうだね、もう寝るよ……。おやすみ。ヴィオ君も無理しないでね」
「あぁ」
それきりアルは黙った。
やがて五分もたたないうちに規則正しい寝息が聞こえてきた。息をついて、ペンに手をかける。
(羨ましい、か)
感情をうまく咀嚼できない。
どうしてだろうか。
環境に恵まれていることも、だからこそ伴う責任も。
目指す場所が遠いことだって──。
(当に分かって納得していることなのにな……)
どうしてだろう。それが今になって喉に引っかかるようだった。
今朝ガスパロの話を聞いてからずっと、折り合いのつかない感情が心の中で揺れている。
小さく首を振って意識を切り替える。
やるべき作業があるのが今は有り難かった。
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