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第3章 MENUETT

【幕間】夜想曲Ⅲ

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 隣の部屋からかすかに嗚咽の声が響いていた。

 一言も発さずに静かな部屋の中で座っていると、どうしても隣室の音は聞こえてくる。聞いてはいけないと思っていても、生来聞こえのいい耳はかすかな声を拾ってしまう。

 だからリチェルが泣いていることは、分かっていた。
 詳しい事情を聞かなくても、マルタが渡した手記はリチェルの心を揺らすものだと言うことくらいは想像がつく。

(今すぐ、会いにいけたら──)

 無意識にそう考えて、ヴィオは首を振った。考えなくてはいけない事はたくさんあるはずなのに、何も手につかない。
 その代わりにカスタニェーレで抱いた肩の温もりを思い出して、自分の手に視線を落とした。


 いつからか、リチェルはヴィオの手を怖がらなくなった。


 元々触れると分かっていれば怯える事もなかったが、リンデンブルックにいた時はまだ不意に手を伸ばすとこわばっていたそれが、気付けば無くなっていて。

 カスタニェーレでは強引に手を引いたにも関わらず、リチェルは少しも怯えた様子を見せなかった。名残惜しくて握ったままの手は、サルヴァトーレの店に近づいて、どちらともなく離すまで、ずっとそのままだった。

 離した時後ろを振り返ると、ゆらゆらと揺れる若葉の瞳と目が合った。言葉もなくお互い見つめ合う中で、勘違いでないのならリチェルも名残惜しく思っているように感じて。

 どこかで彼女の特別を許された気がした。

(いや、多分もっと前からだな)

 そう自嘲する。
 最初にリチェルを助けたのがヴィオだったからだろう。リチェルが一番初めに心を許したのが自分であることを、ヴィオは承知していた。

 それが分かって距離を取ってこなかったのはヴィオ自身だ。彼女の信頼を、そばにある温もりを、心地よい物だと感じていたのは他でもない自分だった。

 
『リチェル殿の、お陰も大きいのでしょうな』


 大きいどころか、と心中で呟く。
 ヴィオが良い方向に変わったとしたら、それはきっとリチェルの影響だ。彼女がいなければ、ヴィオはきっとこの旅でこんなにも多くの人の関わりを持つことはなかった。リチェルを外へ連れ出したのはヴィオだったとしても、人と関わる事で広がる世界を教えてもらったのはヴィオも同じだ。

(どう言うつもりで、ソルヴェーグはリチェルのことを話したのだろうな……)

 純粋なリチェルへの感謝からか、それともあの老執事なりにヴィオの振る舞いを諌めているのか判断がつかない。こんな事は初めてだった。今までソルヴェーグの思惑はそれなりに察せたはずなのに、今回ばかりは冷静に考えられない、

 だけどソルヴェーグがそれ以上追求しなかったことに酷く安堵した時点で、もう言い訳をするのも限界なのだろう。


(本当は、今すぐそばに行きたい)


 一人で泣いているリチェルのそばにいたかった。

 隣で聞いている事しか出来ない自分が情けない。壁にもたれかかったまま、ぐっと拳を握りしめる。

 響いているのはわずかな声で、リチェルが必死で嗚咽を押し殺しているのが分かる。そんな風にしか泣けないのだと分かるから尚更──。

『昨日みたいにフニャフニャ泣くの、私にじゃなくてお隣の方にすれば?』

 マルタが最後に発した言葉がまだ胸の内に引っかかっている。リチェルは聞かなかった事にして欲しい、と言っていたが、本当なら無理にでも聞きだしたかった。

 だけどそれは、これからも一緒にいる事ができる人間だから許される行いだろうとわかっている。

(無理だ)

 一言でそう断じた。
 ヴィオ・ローデンヴァルトなら出来るかもしれない。何も持たないただのヴィオであるなら。

 だけどヴィクトル・フォン・ライヒェンバッハは侯爵家の一人息子だ。たった一人の後継ぎで、そう在ることを望まれ、自らその責を負うことを当の昔に決めている。

(リチェルを巻き込むことは出来ない)

 リチェルには後ろ盾も何もない。
 否、後ろ盾があったとしてもだ。ヴィオのいる場所は生易しい場所ではなく、心の優しい人間ほど傷つく場所だと知っている。ずっとそばにいられるわけでもないのに、安易に守るだなんて口にできるわけがない。

 だから、泣いているリチェルにその場の感情だけで手を伸ばす資格は自分にはないのだ。

(リチェルには、幸せになってほしい)

 今日みたいに泣くことなく、ただ笑って、あの穏やかな春の歌声を絶やす事なく生きていてほしい。

(だから、本当に本心なんだよ。アルフォンソ)

 カスタニェーレのレストランで、ヴィオがアルに言った言葉は心からの言葉だ。幸せになってほしい。ヴィオには、それが出来ないから。
 アルが怒る意味も今なら分かるけれど、こればっかりはどうしようもない。


 あと少し。
 きっとこの旅は、あと少しで終わる。
 
 予感があった。
 リチェルと一緒にいることが出来るのも、きっとあと僅かだ。

 
(だからせめて最後は、君が笑えるように──)


 いつの間にか、隣の部屋の嗚咽は途切れていた。訪れた静寂に、リチェルが少しでも安らかに休めることを祈った。



   ◇



 翌朝、リチェル達は朝早くに宿を出た。
 これから少しだけアルの家に寄って、夜にはカステルシルヴァに入る予定だという。

 隣の部屋だったから泣いていたことに気づかれていないか心配だったけれど、翌朝顔を合わせてもヴィオは何も言わなかった。その事にリチェルはホッとする。

「よく眠れたか?」

 代わりにそう聞かれて、リチェルはうん、と頷いた。本当は考え事をしてなかなか寝付けなかったのだけど、昨晩もそうだったせいか昨夜は気付かない内に意識が落ちていた。それでもクライネルトにいた頃に比べると格段によく眠れているから問題はない。

 馬車のある場所までヴィオは当たり前のように鞄を持ってくれた。いつものように自分で持つ、と言おうとしてやめる。きっとヴィオはリチェルがそう言ってもやんわりと断るだろうと分かったからだ。
 当たり前のように女性として扱ってくれる事に、段々と違和感は感じなくなってきていた。こういう時遠慮してはいけないのだという事も少しずつ分かってきた。

 代わりにありがとう、とお礼を伝えると、ヴィオはかすかに笑った。

 夜通し考えて分かったけれど、やはりリチェルは幸運なのだ。
 クライネルトの家での四年弱を差し置いても、今はサラという後見人がいて、ヴィオやソルヴェーグがこうしてリチェルの旅を助けてくれる。

(信じられないほど、恵まれているのね)

 マルタの言った言葉の中で、報われたと言う言葉は少なくともリチェルにとって事実だった。

 
 だからもう、十分だ。


 馬車に乗り込んで、ソルヴェーグの隣に腰を下ろす。前に座ったヴィオと目が合って、リチェルは心配をかけないように笑った。

 今でもヴィオの事が好きなことに変わりはない。日を追うごとにどんどん強くなるこの気持ちは、まるで消えない炎のようだと思う。だけどこの火がいつかヴィオとリチェルの間にある物を全て焼いてしまうのなら、リチェルにはそんなものは必要ないのだ。

(大丈夫。どんなに辛くても朝は来るのだから)

 代わりに、自分自身にそう言い聞かせる。

(わたしの幸せは、貴方が幸せである事だから)

 だから、この気持ちは胸に閉まったまま──。
 ヴィオは貴族の嫡男で、リチェルのような身寄りのない孤児が心を寄せることは迷惑になってしまう。

(ううん。ヴィオは優しいから、きっと困ってしまうわ)

 ソルヴェーグを始め、ヴィオを大切に思う周りの人達も困らせてしまう。言いたくもないのにその人達がヴィオを責めるような事には、絶対になってはいけないと思う。
 

 旅の終わりはもうきっと近くて。
 母と父のことが分かれば、いつかリチェルはサラの元へ帰るのだろう。

 
 その時は笑顔で別れよう、と決めた。


 ヴィオの優しい心に、わずかも傷を残さないように。


(貴方がずっと、笑っていられるように──)


 馬車が音を立てて動き出す。
 それは多分、終わりに向かう始まりの音だった。
 
 




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