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第3章 MENUETT
op.11 孤独の中の神の祝福(14)
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二階の窓から、リチェル達が孤児院を出ていくのをじっと見ていた。
パウロやロゼがリチェルとの別れを惜しんでいるのが、遠目に見ても分かった。どれだけマルタが嫌ったところで、リチェルが周りのみんなに好かれる人間であることはこれっぽっちも変わらないのだ。
だけど──。
『だってシスターのこと、忘れてたもの……っ!』
悲痛な声だった。
『寒いから眠っちゃダメかなとか、明日はご飯もらえるかな、とか。どうか見つかりませんように、とか。毎日、そんなことばっかり……』
拠り所のない子どものような、幼い声だった。
(シスター・ロザリアは、リチェルのことをちょっと神聖視しすぎじゃないかしら)
あの子は、ただ優しいだけの女の子だった。
罪悪感に潰されて泣いてしまうような、そんな子だ。
それを自分がちゃんと知っていることに、悪い気はしなかった。
(私は貴女のことが嫌いだけど──)
幼い頃、貴女というただ優しいだけの女の子がそばにいたことをこれからもきっと忘れないと思う。
「どうか貴女の道行きが幸いでありますように──」
小さな声で呟いた。
それは古い友人に捧げる、最初で最後の祈りだった。
◇
マルタの言った通り、シスター・ロザリアの手記には、リチェルの父親のことが書かれていた。毎年カステルシルヴァから届く細やかな寄付金は、リチェルの父親が必ず引き取ると約束した証のようなものだったと。
『ならリチェルの行き先もクレモナだな。アルの店に少し寄って、すぐに向かってかまわないか?』
そう聞かれて、リチェルはもちろんと頷いた。
朝の内にラクアツィアを出ることができたのが幸いして、その日の夜にはカスタニェーレの近くまで来ることができた。夜間にアルの家を尋ねるのは流石に迷惑だろうからと、隣町に宿に一晩滞在することになった。
宿の一室で、リチェルはマルタから預かった手記をめくった。
日記はシスター・ロザリアが部屋を移された、十月八日から始まっていた。
『読んでも、シスターを嫌いにならないであげて』
そうマルタが言っていた意味が、少しだけリチェルにも分かった。
日記に書かれる、まるで懺悔のような言葉は、リチェルの知っているシスターとは全然違っていた。
正しい言葉を口にする人だと思っていた。
祈りの言葉を、希望を、息をするように紡げる人だと思っていた。
だけど手記の中身は、迷いと、葛藤と、懺悔のような言葉がとめどなく綴られている。
『 この子が汚れてしまえば、本当に美しいものなど存在しないのではないかと思ってしまう 』
そんな美しい心など持っていない。リチェルはただの幼い少女で、教えられた通りに、誰かに優しくしただけだ。
『 あの子の無垢は、私にとって最後の救いだったから。
それを損なうことが恐ろしかった 』
そんな立派なものじゃない。嵐に翻弄される、小船のようなものだ。損なう時は、きっと容赦なく崩れるのだろう。
『 だから代わりに、私は呪いを口にした。
いつかあの子が千々に傷つくことがわかって、あの子に呪いをかけたのだ 』
だけど、と思う。
たとえシスターが呪いだと思って口にしたとしても、リチェルはシスター・ロザリアの言葉を信じたのだ。
『貴女は、人の善き行いを愛しなさい』
人の善意を信じ──。
『どんなに辛くても、他人の罪を赦し、他人に優しくするのです』
他人の悪意を赦し──。
『決して他人を憎まず、生きなさい──』
誰かを憎むことなく、生きてきたのだ。
「だから、ヴィオに出会えたの……」
それだけは、揺るぎない真実だった。
ぽつ、ぽつと、床に涙が滲んでいく。昨日から泣いてばかりだ。だけど、止まらなかった。
「呪いなんかじゃ、ないわ……」
シスター。と声にならない声で、リチェルはその名を呼んだ。
「呪いなんかじゃなかった……っ」
貴女がその言葉をなんと呼ぼうと、絶対に否定させない。リチェルにとって、シスター・ロザリアの言葉は嵐の中の道しるべだった。
辛くて、苦しくて、例え全てを忘れてしまっても。
ただそれだけは覚えていたから、ここまで来れたのだ。
「シスター……っ」
嗚咽が漏れる。
手記を抱きしめて、リチェルは泣いた。
貴女にもう一度会いたかった。貴女の言葉のおかげで今があるのだと、伝えたかった。
『リチェル』優しく名を呼ぶその声を。
『ダメですよ』と穏やかに叱ってくれた思い出を、もう二度と取りこぼしはしない。
「どんなに、辛くても……」
辛いことはいつか終わる。だけど神の恵みは命ある限り続くのだ。どれだけ嘆き悲しんだとしても、いつか喜びがやってくる。
「人を、愛して、生きなさい──」
シスターの教えを繰り返す。
「どんなに辛くても……」
きっと夜は明けるから。
静かに目を瞑る。浅く呼吸を繰り返す。
それならいつかきっと、自分の痛みも無くなるのだろう。
(だったら、わたしは)
瞼の裏に浮かぶのは、自分に手を差し伸べてくれた青年の姿で。
貴方の幸せを愛して生きていたいと、心から思うのです。
(──ヴィオ)
パウロやロゼがリチェルとの別れを惜しんでいるのが、遠目に見ても分かった。どれだけマルタが嫌ったところで、リチェルが周りのみんなに好かれる人間であることはこれっぽっちも変わらないのだ。
だけど──。
『だってシスターのこと、忘れてたもの……っ!』
悲痛な声だった。
『寒いから眠っちゃダメかなとか、明日はご飯もらえるかな、とか。どうか見つかりませんように、とか。毎日、そんなことばっかり……』
拠り所のない子どものような、幼い声だった。
(シスター・ロザリアは、リチェルのことをちょっと神聖視しすぎじゃないかしら)
あの子は、ただ優しいだけの女の子だった。
罪悪感に潰されて泣いてしまうような、そんな子だ。
それを自分がちゃんと知っていることに、悪い気はしなかった。
(私は貴女のことが嫌いだけど──)
幼い頃、貴女というただ優しいだけの女の子がそばにいたことをこれからもきっと忘れないと思う。
「どうか貴女の道行きが幸いでありますように──」
小さな声で呟いた。
それは古い友人に捧げる、最初で最後の祈りだった。
◇
マルタの言った通り、シスター・ロザリアの手記には、リチェルの父親のことが書かれていた。毎年カステルシルヴァから届く細やかな寄付金は、リチェルの父親が必ず引き取ると約束した証のようなものだったと。
『ならリチェルの行き先もクレモナだな。アルの店に少し寄って、すぐに向かってかまわないか?』
そう聞かれて、リチェルはもちろんと頷いた。
朝の内にラクアツィアを出ることができたのが幸いして、その日の夜にはカスタニェーレの近くまで来ることができた。夜間にアルの家を尋ねるのは流石に迷惑だろうからと、隣町に宿に一晩滞在することになった。
宿の一室で、リチェルはマルタから預かった手記をめくった。
日記はシスター・ロザリアが部屋を移された、十月八日から始まっていた。
『読んでも、シスターを嫌いにならないであげて』
そうマルタが言っていた意味が、少しだけリチェルにも分かった。
日記に書かれる、まるで懺悔のような言葉は、リチェルの知っているシスターとは全然違っていた。
正しい言葉を口にする人だと思っていた。
祈りの言葉を、希望を、息をするように紡げる人だと思っていた。
だけど手記の中身は、迷いと、葛藤と、懺悔のような言葉がとめどなく綴られている。
『 この子が汚れてしまえば、本当に美しいものなど存在しないのではないかと思ってしまう 』
そんな美しい心など持っていない。リチェルはただの幼い少女で、教えられた通りに、誰かに優しくしただけだ。
『 あの子の無垢は、私にとって最後の救いだったから。
それを損なうことが恐ろしかった 』
そんな立派なものじゃない。嵐に翻弄される、小船のようなものだ。損なう時は、きっと容赦なく崩れるのだろう。
『 だから代わりに、私は呪いを口にした。
いつかあの子が千々に傷つくことがわかって、あの子に呪いをかけたのだ 』
だけど、と思う。
たとえシスターが呪いだと思って口にしたとしても、リチェルはシスター・ロザリアの言葉を信じたのだ。
『貴女は、人の善き行いを愛しなさい』
人の善意を信じ──。
『どんなに辛くても、他人の罪を赦し、他人に優しくするのです』
他人の悪意を赦し──。
『決して他人を憎まず、生きなさい──』
誰かを憎むことなく、生きてきたのだ。
「だから、ヴィオに出会えたの……」
それだけは、揺るぎない真実だった。
ぽつ、ぽつと、床に涙が滲んでいく。昨日から泣いてばかりだ。だけど、止まらなかった。
「呪いなんかじゃ、ないわ……」
シスター。と声にならない声で、リチェルはその名を呼んだ。
「呪いなんかじゃなかった……っ」
貴女がその言葉をなんと呼ぼうと、絶対に否定させない。リチェルにとって、シスター・ロザリアの言葉は嵐の中の道しるべだった。
辛くて、苦しくて、例え全てを忘れてしまっても。
ただそれだけは覚えていたから、ここまで来れたのだ。
「シスター……っ」
嗚咽が漏れる。
手記を抱きしめて、リチェルは泣いた。
貴女にもう一度会いたかった。貴女の言葉のおかげで今があるのだと、伝えたかった。
『リチェル』優しく名を呼ぶその声を。
『ダメですよ』と穏やかに叱ってくれた思い出を、もう二度と取りこぼしはしない。
「どんなに、辛くても……」
辛いことはいつか終わる。だけど神の恵みは命ある限り続くのだ。どれだけ嘆き悲しんだとしても、いつか喜びがやってくる。
「人を、愛して、生きなさい──」
シスターの教えを繰り返す。
「どんなに辛くても……」
きっと夜は明けるから。
静かに目を瞑る。浅く呼吸を繰り返す。
それならいつかきっと、自分の痛みも無くなるのだろう。
(だったら、わたしは)
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貴方の幸せを愛して生きていたいと、心から思うのです。
(──ヴィオ)
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