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第4章 RONDO-FINALE
op.12 月に寄せる歌(1)
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忘れもしない春の日。
その日は僕にとって運命の日になった。
『ねぇ、そこのあなた』
後から何度思い返しても、その時の彼女の声は助けを求める女性の声ではなかった。
高みで鳴る鐘の音のように、今まで人生で聞いた中でも一際明るい、歌うような呼びかけ。
『僕のことですか?』
『そう。あなたよあなた。どうか助けてくださらない?』
彼女はとても美しい顔をしていた。
着ている外套は薄汚れていて、地面に座り込んでいるというのに、その姿は不思議と優雅で気品があった。背中を真っ直ぐに流れ落ちる亜麻色の髪は、よく手入れされた人形のよう。深い緑の瞳は勝ち気で生き生きとしていて、物怖じすることなく僕を真っ直ぐに見つめている。
それなのにその唇から出てきた言葉は、僕の想像から随分とかけ離れていた。
『お腹が空いて一歩も動けないの。もう三日もまともに食べていないから、疲れて立てなくなってしまったのよ。何でも良いから、何か食べ物をくださらない?』
ポカンとして、次にはこれは大変だと慌てた。工房に帰る途中だったが、困っている人がいるのであれば放っておくわけに行かない。
親方には悪いが、急いで少女の為にパンを買いに行った。
懐具合が寂しかったから彼女の容姿に釣り合うような品は用意できない。だけど差し出した硬いパンを彼女は文句も言わずにゆっくりと全部平らげると、ありがとう、と花のように笑った。
『ねぇ。ついでと言っては何だけど、一晩だけ貴方のお家に置いてくれないかしら? それに、女性が一人で働ける場所があると助かるのだけど。難しいかしら?』
少女の可愛らしい唇からこぼれる言葉はあまりに非現実的で不用心で、僕は頭を抱えたくなった。あまり見知らぬ男にそんな事を言うもんじゃないよ、と優しく諭すと少女は僕の憂いを一蹴するみたいにおかしそうに笑った。
『大丈夫。私、人を見る目はあるつもりよ。実際正解だったでしょう? だって悪い方ならきっと『我が家でよければ是非どうぞ』って言うわ』
いっそ清々しいくらい堂々とした少女の態度に、これは大変な子と出会ったぞと思った。家はどこだと聞いても、少女は首を振って答えなかった。
男の家に泊まるなんてとんでもないよ、と言うと『それなら泊まる場所がないわ』と繰り返す。
『貴方じゃない方に頼んでも良いけれど、貴方みたいに優しそうな方にはなかなか出会えないでしょう? それこそ貴方が心配するようなことになってしまうかも』
ちっとも悪びれない少女の言葉に、結局折れたのは僕の方だった。
とは言っても僕は住み込みで工房に置いてもらっている身で、少女を泊める場所などなかったから、一緒に親方に頼んでみるよと伝えた。
思い返せば、きっとこの時には僕はもうこの少女に参ってしまっていたのだろう。それくらい彼女は印象的な女性だった。僕の人生には一度として現れた事がないタイプで、きっと今後も現れる予定がない。神様の手元がちょっと狂って出会ってしまったとしか思えない。
一晩だけ、と前置いて、僕は少女を家に連れて帰った。
『ミケーレ・パストーリだよ。みんなからはミケと呼ばれてる。君の名前は?』
何にしても、一緒にいるのなら名前を聞いておいた方がいい。そう思って尋ねると、少女は顔を明るくした。
『リー……』
『リ?』
口を開きかけて、少女が黙る。不思議に思って首を傾げると、少女はにっこりと笑って口を開いた。
『リチェルよ。どうぞリチェルと呼んで下さいな』
忘れもしないあの春の日。
それは僕が人生で何よりも愛した、春の妖精と出会った日だ。
その日は僕にとって運命の日になった。
『ねぇ、そこのあなた』
後から何度思い返しても、その時の彼女の声は助けを求める女性の声ではなかった。
高みで鳴る鐘の音のように、今まで人生で聞いた中でも一際明るい、歌うような呼びかけ。
『僕のことですか?』
『そう。あなたよあなた。どうか助けてくださらない?』
彼女はとても美しい顔をしていた。
着ている外套は薄汚れていて、地面に座り込んでいるというのに、その姿は不思議と優雅で気品があった。背中を真っ直ぐに流れ落ちる亜麻色の髪は、よく手入れされた人形のよう。深い緑の瞳は勝ち気で生き生きとしていて、物怖じすることなく僕を真っ直ぐに見つめている。
それなのにその唇から出てきた言葉は、僕の想像から随分とかけ離れていた。
『お腹が空いて一歩も動けないの。もう三日もまともに食べていないから、疲れて立てなくなってしまったのよ。何でも良いから、何か食べ物をくださらない?』
ポカンとして、次にはこれは大変だと慌てた。工房に帰る途中だったが、困っている人がいるのであれば放っておくわけに行かない。
親方には悪いが、急いで少女の為にパンを買いに行った。
懐具合が寂しかったから彼女の容姿に釣り合うような品は用意できない。だけど差し出した硬いパンを彼女は文句も言わずにゆっくりと全部平らげると、ありがとう、と花のように笑った。
『ねぇ。ついでと言っては何だけど、一晩だけ貴方のお家に置いてくれないかしら? それに、女性が一人で働ける場所があると助かるのだけど。難しいかしら?』
少女の可愛らしい唇からこぼれる言葉はあまりに非現実的で不用心で、僕は頭を抱えたくなった。あまり見知らぬ男にそんな事を言うもんじゃないよ、と優しく諭すと少女は僕の憂いを一蹴するみたいにおかしそうに笑った。
『大丈夫。私、人を見る目はあるつもりよ。実際正解だったでしょう? だって悪い方ならきっと『我が家でよければ是非どうぞ』って言うわ』
いっそ清々しいくらい堂々とした少女の態度に、これは大変な子と出会ったぞと思った。家はどこだと聞いても、少女は首を振って答えなかった。
男の家に泊まるなんてとんでもないよ、と言うと『それなら泊まる場所がないわ』と繰り返す。
『貴方じゃない方に頼んでも良いけれど、貴方みたいに優しそうな方にはなかなか出会えないでしょう? それこそ貴方が心配するようなことになってしまうかも』
ちっとも悪びれない少女の言葉に、結局折れたのは僕の方だった。
とは言っても僕は住み込みで工房に置いてもらっている身で、少女を泊める場所などなかったから、一緒に親方に頼んでみるよと伝えた。
思い返せば、きっとこの時には僕はもうこの少女に参ってしまっていたのだろう。それくらい彼女は印象的な女性だった。僕の人生には一度として現れた事がないタイプで、きっと今後も現れる予定がない。神様の手元がちょっと狂って出会ってしまったとしか思えない。
一晩だけ、と前置いて、僕は少女を家に連れて帰った。
『ミケーレ・パストーリだよ。みんなからはミケと呼ばれてる。君の名前は?』
何にしても、一緒にいるのなら名前を聞いておいた方がいい。そう思って尋ねると、少女は顔を明るくした。
『リー……』
『リ?』
口を開きかけて、少女が黙る。不思議に思って首を傾げると、少女はにっこりと笑って口を開いた。
『リチェルよ。どうぞリチェルと呼んで下さいな』
忘れもしないあの春の日。
それは僕が人生で何よりも愛した、春の妖精と出会った日だ。
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