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第4章 RONDO-FINALE

op.15 悲しみと涙のうちに生まれ(17)

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 私室に呼んだリチェルがエリーの部屋を訪れたのは、もう随分と暗くなってからだった。

「すみません、姉様。こんな遅くに呼び出してしまって」

 マティアスに連れられて部屋を訪れたリチェルを見て、平静を保つのは少し苦労した。イングリットの執務室に呼ばれてからもうずっと、うまく笑う事が難しい。

「向こうだと使用人の耳もあるかもしれないので、こちらまで来て頂く方が安全だと思いまして」
「全然大丈夫よ、気にしないで。今日は奥様ももうお休みになられたし、わたしもあとは寝るだけだから」

 ふわりと笑うリチェルはいつもと変わりない。マティアスに下がるように促すと、エリーはリチェルに向き直った。

「…………」

 うまく、言葉が出てこない。明日にはもう下がらせろと言われているから、今伝えないといけないのに、うまく伝えられる自信がない。こんな事は初めてだった。

「エリー?」

 リチェルが首を傾げる。

(ダメだ)

 これ以上黙っているときっと不審に思われてしまう。

 だって元々そういう約束だったのだ。イングリットが元気になるまでの間、終われば必ずリンデンブルックまでリチェルを送り届けると、ヴィクトルとも約束した。

 この数週間で、イングリットにリチェルを認めてもらおうとしていたのはエリーの勝手な願望だ。元々筋道も立てられていない。具体的な方法は何一つ思い浮かんでいない。希望的観測で何とか形を整えただけのものが成就するほど、現実は甘くない。

(そんな事、わかってたはずなのに──)

 どうしていつものように、うまく切り替えられないのだろう。

「エリー、大丈夫?」

 気付くとリチェルが近くに来ていた。覗き込んだ目がエリーのことを案じる目をしていた。その優しさを意識したら、平静ではいられなかった。

「……ごめん、なさい」

 うつむいて、エリーがかろうじてこぼした言葉にリチェルが驚いたのが分かった。

「ごめんなさい、姉様……」
「どうしたの? 何かあったの?」

 貴女をお祖母様に認めさせることが出来なかった。

 あまりに自分勝手な言葉は、流石に声に出せなかった。
 だってそんな事、リチェルが望んだことは一度もないのだ。

(そうだ。姉様が望んだ訳じゃないんだ)

 条件はエリーが何をするまでもなく揃っていて、リチェルを認知することに損はないはずだった。リチェルにとっても決して悪い話ではない。リチェルの性格であれば家にとっても毒にはならない事を、イングリットだって分かったはずだ。

(それに姉様が言ってた通り、もし姉様の性格が父親譲りなら……)

 きっと姉の性格は、エリーの知らない祖父にも似ているのだろう。

 イングリットは祖父のことを頼りにしていたと聞く。大事に思っていたのだと、母から聞いた。それなら尚更どうしてイングリットがリチェルを拒否するのかエリーには分からない。だからもう、これ以上何をすれば良いのか思いつかなくて──。

(だけどそれも全部。全部僕だけの都合の話なんだ)

 リチェルに押し付けて良い話じゃない。

「……何でも、ないんです」

 残った意地を必死で拾い集めて、口を閉ざす。最後まで笑顔で、リチェルに何ら負わせる事なく送り届けないと、ヴィクトルにも申し訳が立たない。

 信じて任せてもらったのだ。

 あんなぐちゃぐちゃの説明、破綻していることが分かっている説得を、ヴィクトルは受け入れてくれたのだから。

 ギュッともう片方の腕を握りしめる。曖昧に笑って、エリーは続けた。

「お祖母様が元気になられたので、もう明日からはお付きは必要ないと連絡がありまして。お伝えが遅くなってすみません。その、姉様の馬車も近日中にすぐに手配しますので、手配するまでは客間を空けますね」
「奥様が? 良かった。奥様は本当に元気になられたのね」

 ホッとしたようにリチェルが口にする。きっとそれが当たり前の反応だ。それに落胆することが、そもそもおかしいのだ。

 これ以上一緒にいると平静を装うのが難しくなりそうで、リチェルに退室をお願いしようとした時、リチェルがとても自然に『それでエリーは?』と尋ねた。

「え?」
「エリーは、どうしたの?」

 それが当然のように、リチェルが聞いてくる。動揺を隠せずに『何が、ですか?』と震える声で訊いたエリーに、リチェルは眉を下げる。

「だって、元気がないでしょう?」

 もし勘違いだったらごめんなさい、とリチェルが申し訳なさそうに続ける。

「エリーはわたしなんかに比べてとても頭の良い子なのだと思うし、心配するのも失礼なのかもしれないけれど。その、時々無理をしているんじゃないかって気がして。今は無理して笑ってる気がしたから……。わたしじゃ頼りにならないかもしれないのだけど……」
「…………」

 かけられた言葉が信じられなくて、目の前の姉を見た。

 どうして、とかすれた声が漏れる。

「え?」
「どうして……、そんなに気にしてくださるんですか?」

 気付けば、溢れていた。

 だってエリーとリチェルでは状況が全く違う。
 エリーにはリゼルという接点が元からあり、ずっと前からリチェルのことを知っているし、何よりエリーは今まで何不自由ない暮らしをしてきた。リチェルを心配する余裕があるのは自然だ。ヴィクトルからの同じ問いに、家族だからです、と答えた言葉に嘘はない。だけどそんな綺麗事を言えるのは、エリーが恵まれた環境にいたからだ。

(だけど、姉様は……)

 リチェルは違う。生まれた時から親はおらず、孤児院に押し込められていた。明日も分からない暮らしを強いられて、そんな姉を迎えに行く家族は誰もいなかったのだ。なのにどうして、この人はそうする事が当たり前のようにエリーに手を伸ばしてくれるのだろう。

(いや、聞かなくても分かる。姉様は優しい人だからだ)

 エリーとは違って、芯から他人を思いやれる心を持っているからだ。その事をどう思っていいか分からなかった。姉が優しい人であることを望んでいたはずなのに、その事が今ここにきてとても寂しく感じる。自分勝手な心の動きに吐き気がした。

「……それは多分」

 リチェルの声が聞こえる。

 自分から聞いておいて、答えを聞くのが嫌だった。そう思う自分がもっと嫌で、情けない。

 しかし──。

「エリーが姉様、って呼んでくれるからよ」

 リチェルが口にしたのは、エリーが予想もしていなかった言葉だった。

 思わず顔を上げたエリーに、リチェルは少しだけ照れたように笑った。

「わたし、家族がいなかったからとても嬉しかったの。エリーが迷いもなく、わたしを姉様って呼んでくれるのが、とっても嬉しかったのよ」

 だから、とリチェルがそっとエリーの手を取る。手の大きさは多分もうエリーの方が大きくて、だけどそっと包み込まれた手の温かさに泣きたくなった。胸の奥が熱くなる。

「頼ってくれて嬉しかった。わたしは今までエリーにずっと何もしてあげられないお姉さんだったけれど、少しでも役に立てるんだって思えたから」
「……だって、それは……」

 思考がぐちゃぐちゃだった。

 冷静な言葉なんて何一つ組み上がらない。
 どうしたらいいか分からないまま、エリーは『ちがうんです』と答えた。

「だって僕は……っ。そんな純粋な気持ちで、姉様を頼ったわけじゃありません……!」

 言うつもりなんてなかった。

 嫌われたくなかった。ずっと最後まで、嫌われない弟でいようと思っていた。リチェルはとても心の綺麗な人だから、自分の内側の醜いところはずっとしまっていようと思っていたのに。

 本当は最初の会合がうまくいかなかった事にだって、心底落ち込んでいたのだ。

『分かってる。でもね、マティアス。やってみずに諦めることを、僕はしたくない』

 だって前を向かないと僕はダメだから。失敗してもめげないで、いつだって笑顔でいないと。諦めずに前を向かないと、立派な跡継ぎになんてなれない。誰も安心させてあげられない。

「どうしたら良いかもう分からなくて。姉様が、そんな人だから……。お祖母様のそばにいてくれたら、お祖母様の気も変わるんじゃないかって僕は……」

 その為の言い訳をたくさん並べて、重ねて。それが歪な形をしていると分かっていても、止めることが出来なかった。

『今日が最初で最後のチャンスって訳でもないし、まだ時間はあるんだから』

 そんなの全部強がりだ。

 だって母様は死んでしまった。時間なんてなかった。突然切り立った崖に立たされたみたいに、時間はプツリと消えて無くなった。だったらお祖母様だって、いつまで元気でいてくれるかなんて分からない。

 あの夜お祖母様が倒れたと聞いた時、今じゃなきゃダメだって思ったんだ。

「どうしたら引き留められるか考えて。姉様は優しい人だから、ああ言う頼み方をしたら断れないんじゃないかって思って……っ」

 卑怯だと分かっていても、動かずにはいられなかった。その事が周りの人の信頼を損なう行為だと分かっていても、止める事ができなかったのだ。

 視界がボヤける。ボヤけた視界に映る絨毯に、ポツポツと濃いシミが落ちた。情けなくて、顔を上げられなかった。目の前の人に失望されるのが怖くて。そんな目で見られたら、もう耐えられない事が分かっていたから。

 それなのに包み込まれたままの手は離されることなく、逆にギュッと強く握られた。

「……っ」

 信じられなくて目を見開く。

「それでも──」

 頭上から優しい声が落ちた。

「それでも、わたしは嬉しい。だって引き留めたい、ってエリーは思ってくれたんだから」

 どうして、と思う。

 恐る恐る顔を上げると、優しい瞳がエリーを見ていた。

「理由なんて要らないわ」

 どうして、この人はこんなにも優しく笑ってくれるのだろう。

「エリーがそばにいて欲しい、って思ってくれるなら、理由なんて要らない。だってわたしは、エリーの姉様だもの」

 それだけで十分理由になり得るのだと、当たり前のように愛情を注いでくれるのだろう。

 目頭が熱くなる。止める間も無く熱い雫が頬を伝い落ちていく。

 それだけで、良いのだろうか。
 ただ姉だと言うだけで、そばにいて欲しいと願っても良いのだろうか。

「だって、僕が弟だって、姉様はずっと、知らなかったのに……」
「うん。でも今は知ってるわ」

 少しだけ悪戯っぽくリチェルが笑う。その笑顔は、どこか母に似ていて。面影が重なった瞬間、ぐっと胸の奥を押しつぶされるみたいに熱いものがこみ上げた。

 うつむいて、嗚咽をこぼしたエリーをリチェルがそっと抱き寄せる。ヴィタリの町で最後にリチェルがしてくれたのと同じ遠慮がちな抱擁は、だけどあの時よりずっと、優しくて、温かくて。心がすぐ近くにあるように感じた。

 本当はきっと、リチェルにそばにいて欲しかったのは寂しかったからだ。

 母が死んで、屋敷には祖母と自分の二人だけで。もちろん屋敷に使用人はいたし、マティアスだってずっとついてくれていたけれど、心には穴が空いたようだった。

 だけどその空白を振り返ることは自分が弱いと認めることのようで。叶わない願いを口にすることは、自分が無力な子供に戻るようで。そんな事は許せなかった。

 だけどきっと、この人はそんな自分を許してくれるのだろう。
 大丈夫、と笑って抱きしめてくれるのだろう。


『神様に近い場所で育ったからですね、きっと』


 バルバラはリチェルのことをそう言っていた。だからきっと、あんなにも優しくいられるのだろう、と。

(うん、本当に──)

 この温かさは、誰かの心を救うものだと思う。今自分のそばにリチェルがいてくれるのは、奇跡みたいな話だと思う。
 この優しさが祖母にも届いてほしいと願うことは、わがままだろうか。

(ねえ、お祖母様)

 心の中で呼びかける。

 今までずっと言えなかったけれど。

(僕は、貴方にも幸せになってほしいのです)

 どうかもう、自分を許してあげて欲しいのです。
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