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第4章 RONDO-FINALE

op.15 悲しみと涙のうちに生まれ(18)

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「……そう。エリーがそんなことを」

 寝室でマティアスの報告を聞いて、イングリットは重い息を吐き出した。

 マティアスはユリウスの友人の息子で、エリーが幼い頃からそばに付けている。イングリットにとって数少ない信を置く従者の一人だ。元々エリーの事は逐一報告を受けているけれども、淡々と報告するマティアスの口調に私情が滲み出ていることをイングリットは気付いていた。

「奥様」

 呼ばれた声に、目線で先を促すと、マティアスがためらいがちに口を開く。

「出過ぎたことだとは分かっていますが、エアハルト様は次期当主であろうとする為に、幼さを無理矢理切り捨ててきたような所がおありです。ですがご子息は、まだ十四歳なのです」
「…………」
「己の力不足を露呈するようで面目ない事ですが、私では埋めきれないものもあります」

 それだけ言って、マティアスが静かに頭を下げた。

「……明日の朝、エリーを呼んでくれる?」
「承知しました。火は消していきますか?」
「そのままでいいわ」

 マティアスが流れるように礼をして、退室する。
 その背中を見送って、揺れるろうそくの火を見つめる。ふと視界に、マリアが飾ったアドベントリースが目に入った。

 眼鏡をかけてようが、髪を上げてようが、あの子に似た顔を見間違うはずがないのだ。だからこそそばに置くわけにはいかないと思っていた。いや、今も思っている。

 目を閉じれば、脳裏に散らつく姿がある。

 亜麻色の髪。
 エメラルドの瞳。
 お日様のように勝ち気に笑う、一人娘。

 ユリウスを亡くしたあの頃、落ち込むことなど許されず、愛する夫の死を忘れるようにイングリットは執務に没頭していた。生前ユリウスが『次の誕生日にはショールが欲しいとリゼルに言われたんだ』と言ってたのを思い出したのは、リゼルの誕生日を随分と過ぎてからだった。イングリットは祝いの言葉一つすらかけていなかった。

 どうしてそんな気になったのか。ユリウスが残した約束だったからだろうか。それともただの罪悪感だろうか。

 リゼルに、贈り物をした。

『──お母様が、選んでくれたの?』

 今まで娘の誕生日はユリウスが全て手配していた。だからイングリットが無言で差し出したそれを、初めリーゼロッテは信じられないように見ていた。これまで一度もイングリットが直接娘に贈り物をしたことなどなかったのだ。

『ありがとう、お母様……』

 多分あれが、イングリットが娘の笑顔を見た最後だった。あの臙脂のショールはいつからか見なくなった。当然だろう。イングリットはリーゼロッテに恨まれていたのだから、自分の贈ったものなど早々に捨ててしまったに違いない。

(マティアス。貴方の言うことももちろん分かっているわ)

 それでも──。

 もうこれ以上、家族を傷つけたくはなかった。柔らかに笑うあの心を損ねてはいけないと思うのだ。
 自分の手は、誰かを傷つけることしかできないのだから。





   ◇





 翌朝イングリットの執務室に顔を見せたエリーは、昨日のことを引きずってかいつもより大人しい様子だった。目元がかすかに腫れている気がするから、きっとマティアスの報告通り随分と泣いたのだろう。

「お祖母様、どうしましたか?」
「ずっと執務を任せていたから疲れているのではないかと思って、様子を確認したかっただけよ」

 その様子だと少し休んだほうが良さそうね、と口にするとエリーはかすかに頬を赤らめてうつむいた。

「あの子は……、マリアはいつ発つの?」
「明日には。ヴィクトル様との約束で、リンデンブルックまでは僕がお送りすることになっているので、僕も一日家をあけます」
「そう、分かりました。好きになさい」

 そう言うと、エリーはホッとしたようだった。

 沈黙が部屋を満たす。エリーが居心地悪そうに身じろぎしたのが分かった。分かっている。自分が下がっていい、と言わなければエリーも黙って下がれないだろう。

「あの、お祖母様……?」

 しびれを切らしたエリーに問いかけられて、イングリットは口ごもった。下がっていい、とは言えない。だってここに呼んだのは、エリーに尋ねたいことがあったからだ。

 だけどそれを訊くことは、イングリットにとっても勇気のいる事だった。

(勇気がいる?)

 自分で考えて、おかしくなる。

(まだこんなに、何かを怖いと思えたのね。私は──)

 心など、もうとっくの昔にどこかへ落としてきたと思っていた。

 そうしなければこの家を守ってこれなかったから。
 だけど──。


『エアハルト様は、お母様のことも、お祖母様のことも、心から愛していらっしゃいます』


 あの少女が告げたのは、優しい願いを込めた、祈りのような言葉だった。

「エリー」
「はい」

 らしくもなく声が震えた。小首を傾げた孫は、亡くなった娘によく似ている。瞳に宿る意思の強さは、きっとそのまま娘の受け売りだ。

「お前に、訊きたいことがあるの」
「……何でしょうか」
「構えないで。これはとても私的なことだから。お前が嫌なら答えなくてもいいの」
「は、はい」

 返事をしながら、エリーが居住まいを正す。深呼吸をすると、イングリットは震える声で吐き出した。

 

「リゼルはお前に、私を嫌いだと話したことはある?」



 リーゼロッテは最後までイングリットを許さなかった。

 そして息子のエリーは心から母を愛していた。だけどエリーは、自分を憎んだ娘の子であるエリーは──。

「いいえ?」

 心底不思議そうに、そう答えた。

「母様からそんな言葉は、聞いたことがありませんが……」

 そう答えて、だけど頭の良い孫は質問の意図を察したのだろう。ハッとしたように、あの、と言葉を続ける。

「母様は……、確かにお祖母様と折り合いが悪かったですけど、僕にお祖母様への愚痴をこぼした事は一度もありません」

 母様に言われたのは、とエリーが続ける。

「母様の感情は母様だけのものだから、僕がそれを真似する必要はないんだって。色んなものを自分で見て、聞いて、考えて。誰をどう思うかは自分で決めたらいいんだと、そうおっしゃいました」



『お母様』



 幼い娘の声が、耳元で聞こえた気がした。

 思わず口元に手を当てる。

「……ありがとう。もう下がっていいわ」

 かろうじてそう口にすると、エリーは何か言いたげにしていたが、結局黙って踵を返した。『お祖母様』と部屋を出る直前、エリーが振り返って口を開く。

「お祖母様は、冷たい人なんかじゃありません。だってちゃんと、僕を愛してくれています」

 それだけ言って、エリーは礼をすると部屋を出ていった。取り残されたイングリットは、呆然としたままエリーが出ていった扉を見つめていた。

『一生許さない』

 そう娘は言って、確かにその言葉通りになった。

 だけどリーゼロッテは、その感情を息子に引き継がせようとはしなかったのだ。リーゼロッテの気持ちはもう何も分からなくても、それだけは事実だった。

(だけど、それが何だと言うの──)

 イングリットがした事が変わる訳ではない。そしてきっと、イングリットはいつだって、同じ選択を選ぶことしかできない。

 だけど。

 だけど──。

「……っ」

 唇を噛み締めた。リゼル、とか細い声が呟く。

 そんな資格はきっとない。娘を想って泣く資格なんて、一番自分が持ち合わせていないものだ。
 それでも──。

 

『どうか覚えていて。イングリット』



 夫の声が蘇る。

 最後まで認めなかった、愛する人の言葉を。



『君はちゃんと、リーゼロッテを愛しているよ』



 使用人の少女の姿が蘇る。

 一目見た瞬間、時が巻き戻ったようだった。
 姿が違おうが、眼鏡をかけていようが、あの子に似た顔を見間違うはずがないのだ。

 誇らしくて、憎らしくて。

 ──愛おしくて。
 

 耐えられなくて、手に顔を伏せた。
 

『お祖母様は冷たい人なんかじゃありません。だって、ちゃんと僕を愛してくれています』


 愛せるのだろうか。
 まだ自分は、誰かを慈しむことが出来るのだろうか。


『冬の厳しさは、春の喜びを育てるものだと、わたしはそう思います』


 あの子達を愛することが、許されるのだろうか。

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