Harmonia ー或る孤独な少女と侯国のヴァイオリン弾きー

雪葉あをい

文字の大きさ
139 / 161
第4章 RONDO-FINALE

op.15 悲しみと涙のうちに生まれ(16)

しおりを挟む
 イングリットがその日部屋に下がると、マリアがベッドのシーツを取り替えているところだった。イングリットが入ってきた事に気づくと、穏やかな笑顔を浮かべて礼をする。

 その笑みに、何ら含むところがない事はもう分かっていた。

「お仕事はもう終わられましたか?」
「えぇ」
「体調はお変わりないでしょうか?」

 大丈夫よ、と返事をするとマリアが嬉しそうに笑う。

「良かった。病み上がりなので、執務に復帰されると聞いて少し心配していたのです。でも奥様がお元気になられたようなら何よりです」

 この子がもし、とイングリットは思う。

 この少女がもし、伯爵令嬢という地位を欲しがるような子供であれば、イングリットは容赦なく屋敷から叩き出しただろう。

 皮肉なことに若い頃から欲深い人間とは関わりすぎていて、この少女に後ろ暗い事など何もないことはすぐに分かってしまった。ただ純粋にイングリットの身を案じ、イングリットの快復を喜んでいる事が分かってしまう自分に今回ばかりは嫌気がさす。

「でも少し疲れたから今日はもう休むわ」
「分かりました。すぐにお休みの支度をしますね」

 そう言ってパタパタとマリアが寝巻きを取りに走っていく。

 寝巻きに着替え終えて、ベッドに腰掛けると、すぐに出ていきますからとマリアは部屋のカーテンを一つずつ落としていく。外はまだ微かに明るく、マリアがカーテンを落とすたびに少しずつ部屋が暗くなっていく。

「マリア」

 名前を呼ぶと、マリアがキョトンとして振り返った。どうして声をかけたのか、イングリットにも良く分からなかった。会うのは今日が最後だと知っていたからだろうか。

「他のメイドに、お前は大層歌が上手いと聞いたよ」
「え?」

 暗がりでもパッとマリアが頬を赤くしたのが分かった。決まりが悪そうに口ごもって、『少しだけ、習いました』と消え入りそうな声で答える。

「良かったら、一曲だけ歌ってくれないかい?」

 そう言うとマリアは驚いたように目を瞬かせた。だが主人の願いを無下に断るような娘ではない。恥ずかしそうにこくりと頷いて、イングリットの近くへ寄ると、少しだけ視線をさまよわせて、一呼吸置いて歌い始める。

 空気が溶けるように、透き通ったソプラノが響いた。

 同時にイングリットはその曲がとても耳に馴染む歌であることに気がついた。

 オンブラ・マイ・フ。

 ヘンデルが作曲したオペラ『セルセ』の中で歌われるアリアだった。

 オペラとしての上演回数は少なく、イングリットも実際に上演を見た事はない。だけど第一幕に出てくるこのアリアはとても有名で、単独で演奏されることも多かったからだろう。昔夫のユリウスと共に聴いた事があった。

 頭に残っていたのは、きっとこの曲の歌詞がどこか夫を思わせたからだった。優しく、心地よく、愛おしい。そんな木陰を歌ったこのアリアは、ほんの短い詩から成り立っていて、それが全てだ。その旋律は、与えられた詩をそのまま歌に変えたように心を優しく包みこむ。

 昔夫と聴いた時に引き戻されるようだった。繋いだ手の感触まで、つぶさに蘇る。自分の手を包み込む大きな手。心地よく、安らかな大木に抱かれているような安心感があった。

 少しずつ薄暗くなっていく部屋の中、柔らかな歌声が部屋の中に響く。それは優しく、夜の帳を降ろしていくようだった。

「────」

 余韻を残して歌い上げた少女を、しばらく呆然としたまま見ていた。

「……あ、あの。奥様?」

 ずっと黙っていたからだろう。おずおずと少女に声をかけられてイングリットは我に帰る。小さくかぶりを振って『見事なものね』と何とか口にした。

「どうして、その曲を?」

 そう聞くと、マリアは少し気まずそうに黙り込んだ。だが生来嘘をつけない性格なのだろう。すぐに素直に口を開く。

「実は、その、バルバラさんにお聞きしたんです。奥様が好きな曲はありますか、って」

 バルバラか、と腑に落ちた。バルバラはまだユリウスが生きていた頃からリーゼロッテに仕えていた。きっと知る機会があったのだろう。

「あの、バルバラさんにはわたしが聞いてしまっただけで、その……」
「心配しなくても、そんな事で咎めはしないよ。それよりお前はどうしてそんな事を聞いたの? 私のそばにつくのに関係はないでしょう」
「それはそうなのですけれど……」

 わずかに口ごもって、マリアは言い辛そうに口を開く。

「せっかくお仕えするのですから、奥様の人となりを、わたしなりに知りたくて……」

 それが半分嘘であることは、イングリットにもすぐに分かった。きっとこの少女がそれを聞いたのは、これから仕える主人だからではなく、自分がこの少女の──。

(馬鹿な子……)

 素直で心優しい、まるでこの家には似つかわしくない娘だと思う。この少女の立場なら、イングリットを恨んで当然だろうに。

「……お前は、エリーの母の話は知っている?」

 ポツリと落とした言葉に、マリアが目を瞬かせる。そうして、正直にこくりと頷いた。その事にもまた苦笑した。この子は素直すぎる。

「それなら、私が娘に何をしたかも知っているのだろうね」

 どうしてそんな事を口にしているのか、イングリットにも良く分からなかった。ただ分からないまま、出てくるがままに言葉を連ねる。

「リーゼロッテは、最後まで私を許さなかったよ。私もそれでいいと思っている」

 目を閉じると昨日のことのように思い出す。

 
『だけど私は、絶対に貴女を許さない』


 真正面からこちらを見据えるエメラルドの瞳。
 あの子が大切にした物を全て奪い取った。

 泣き叫ぶあの子から、産まれたばかりの赤子を取り上げるよう命じたのは自分だ。
 指先さえ触れることを許さなかったのは、自分だ。


『一生貴女を許さないわ、お母様』


 憎まれて当然のことをしたのだ。

 何を口にしているのだろう、と自分でも思う。
 何のために? と自問する。
 だけどどうしてか、言葉は止まらなくて。


「だからお前が、私に心を砕く必要などないよ」


 そう、告げた。

 目の前にいる少女は、黙ってイングリットを見ていた。
 当然だ。こんな事を言われて、ただの使用人が言葉を返せる訳がないのだ。選ぶべき言葉に正解はなく、ただ戸惑うだけだろう。下がっていいよ、と言葉にしようとした瞬間、ふと目の前に影がさした。マリアがイングリットの前に膝をついたのだ。

 一瞬ためらって、恐る恐るマリアが両手をイングリットの手に重ねた。

「奥様」

 マリアが呼ぶ。最後の最後まで、己の立場を崩す事なく。

「わたしには、お嬢様が何を想っていたのかは分かりません。お嬢様の苦しみも、悲しみも、想像することしか出来ないのです」

 だけど、と柔らかな声で少女は紡ぐ。

「一つだけ、わたしにも分かる事があります」

 何を、と少女の声に顔を上げて息が詰まった。イングリットを見つめる瞳は、柔らかな若葉の色をしていた。ハーゼンクレーヴァーの血筋が持つ緑の瞳に、まるで陽が差したようなペリドット。

「エアハルト様は、お母様のことも、お祖母様のことも、心から愛していらっしゃいます」
「────」

 言葉を失くした。

 呆然とするイングリットを見上げる少女が穏やかに笑う。それ以上少女は何も口にしようとしなかった。ただゆっくりと立ち上がると、残っていた近くのカーテンをゆっくりと下ろした。

 部屋の中が薄暗い闇に包まれる。

 小柄で細い手が、イングリットをベッドに促した。そっとシーツをイングリットにかけると、マリアは柔らかに微笑んだ。

「どうぞゆっくりお休みになってください、奥様」

 告げられた声が、少しも似ていないのにどうしてか古い記憶と重なった。
 

『ゆっくりおやすみ、イングリット』


しおりを挟む
感想 2

あなたにおすすめの小説

🥕おしどり夫婦として12年間の結婚生活を過ごしてきたが一波乱あり、妻は夫を誰かに譲りたくなるのだった。

設楽理沙
ライト文芸
 ☘ 累計ポイント/ 190万pt 超えました。ありがとうございます。 ―― 備忘録 ――    第8回ライト文芸大賞では大賞2位ではじまり2位で終了。  最高 57,392 pt      〃     24h/pt-1位ではじまり2位で終了。  最高 89,034 pt                    ◇ ◇ ◇ ◇ 紳士的でいつだって私や私の両親にやさしくしてくれる 素敵な旦那さま・・だと思ってきたのに。 隠された夫の一面を知った日から、眞奈の苦悩が 始まる。 苦しくて、悲しくてもののすごく惨めで・・ 消えてしまいたいと思う眞奈は小さな子供のように 大きな声で泣いた。 泣きながらも、よろけながらも、気がつけば 大地をしっかりと踏みしめていた。 そう、立ち止まってなんていられない。 ☆-★-☆-★+☆-★-☆-★+☆-★-☆-★ 2025.4.19☑~

冷徹宰相様の嫁探し

菱沼あゆ
ファンタジー
あまり裕福でない公爵家の次女、マレーヌは、ある日突然、第一王子エヴァンの正妃となるよう、申し渡される。 その知らせを持って来たのは、若き宰相アルベルトだったが。 マレーヌは思う。 いやいやいやっ。 私が好きなのは、王子様じゃなくてあなたの方なんですけど~っ!? 実家が無害そう、という理由で王子の妃に選ばれたマレーヌと、冷徹宰相の恋物語。 (「小説家になろう」でも公開しています)

結婚相手は、初恋相手~一途な恋の手ほどき~

馬村 はくあ
ライト文芸
「久しぶりだね、ちとせちゃん」 入社した会社の社長に 息子と結婚するように言われて 「ま、なぶくん……」 指示された家で出迎えてくれたのは ずっとずっと好きだった初恋相手だった。 ◌⑅◌┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈◌⑅◌ ちょっぴり照れ屋な新人保険師 鈴野 ちとせ -Chitose Suzuno- × 俺様なイケメン副社長 遊佐 学 -Manabu Yusa- ◌⑅◌┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈◌⑅◌ 「これからよろくね、ちとせ」 ずっと人生を諦めてたちとせにとって これは好きな人と幸せになれる 大大大チャンス到来! 「結婚したい人ができたら、いつでも離婚してあげるから」 この先には幸せな未来しかないと思っていたのに。 「感謝してるよ、ちとせのおかげで俺の将来も安泰だ」 自分の立場しか考えてなくて いつだってそこに愛はないんだと 覚悟して臨んだ結婚生活 「お前の頭にあいつがいるのが、ムカつく」 「あいつと仲良くするのはやめろ」 「違わねぇんだよ。俺のことだけ見てろよ」 好きじゃないって言うくせに いつだって、強引で、惑わせてくる。 「かわいい、ちとせ」 溺れる日はすぐそこかもしれない ◌⑅◌┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈◌⑅◌ 俺様なイケメン副社長と そんな彼がずっとすきなウブな女の子 愛が本物になる日は……

拾われ子のスイ

蒼居 夜燈
ファンタジー
【第18回ファンタジー小説大賞 奨励賞】 記憶にあるのは、自分を見下ろす紅い眼の男と、母親の「出ていきなさい」という怒声。 幼いスイは故郷から遠く離れた西大陸の果てに、ドラゴンと共に墜落した。 老夫婦に拾われたスイは墜落から七年後、二人の逝去をきっかけに養祖父と同じハンターとして生きていく為に旅に出る。 ――紅い眼の男は誰なのか、母は自分を本当に捨てたのか。 スイは、故郷を探す事を決める。真実を知る為に。 出会いと別れを繰り返し、命懸けの戦いを繰り返し、喜びと悲しみを繰り返す。 清濁が混在する世界に、スイは何を見て何を思い、何を選ぶのか。 これは、ひとりの少女が世界と己を知りながら成長していく物語。 ※週2回(木・日)更新。 ※誤字脱字報告に関しては感想とは異なる為、修正が済み次第削除致します。ご容赦ください。 ※カクヨム様にて先行公開(登場人物紹介はアルファポリス様でのみ掲載) ※表紙画像、その他キャラクターのイメージ画像はAIイラストアプリで作成したものです。再現不足で色彩の一部が作中描写とは異なります。 ※この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。

転生『悪役』公爵令嬢はやり直し人生で楽隠居を目指す

RINFAM
ファンタジー
 なんの罰ゲームだ、これ!!!!  あああああ!!! 本当ならあと数年で年金ライフが送れたはずなのに!!  そのために国民年金の他に利率のいい個人年金も掛け、さらに少ない給料の中からちまちまと老後の生活費を貯めてきたと言うのに!!!!  一銭も貰えないまま人生終わるだなんて、あんまりです神様仏様あああ!!  かくなる上はこのやり直し転生人生で、前世以上に楽して暮らせる隠居生活を手に入れなければ。 年金受給前に死んでしまった『心は常に18歳』な享年62歳の初老女『成瀬裕子』はある日突然死しファンタジー世界で公爵令嬢に転生!!しかし、数年後に待っていた年金生活を夢見ていた彼女は、やり直し人生で再び若いままでの楽隠居生活を目指すことに。 4コマ漫画版もあります。

課長と私のほのぼの婚

藤谷 郁
恋愛
冬美が結婚したのは十も離れた年上男性。 舘林陽一35歳。 仕事はできるが、ちょっと変わった人と噂される彼は他部署の課長さん。 ひょんなことから交際が始まり、5か月後の秋、気がつけば夫婦になっていた。 ※他サイトにも投稿。 ※一部写真は写真ACさまよりお借りしています。

婚約破棄を申し入れたのは、父です ― 王子様、あなたの企みはお見通しです!

みかぼう。
恋愛
公爵令嬢クラリッサ・エインズワースは、王太子ルーファスの婚約者。 幼い日に「共に国を守ろう」と誓い合ったはずの彼は、 いま、別の令嬢マリアンヌに微笑んでいた。 そして――年末の舞踏会の夜。 「――この婚約、我らエインズワース家の名において、破棄させていただきます!」 エインズワース公爵が力強く宣言した瞬間、 王国の均衡は揺らぎ始める。 誇りを捨てず、誠実を貫く娘。 政の闇に挑む父。 陰謀を暴かんと手を伸ばす宰相の子。 そして――再び立ち上がる若き王女。 ――沈黙は逃げではなく、力の証。 公爵令嬢の誇りが、王国の未来を変える。 ――荘厳で静謐な政略ロマンス。 (本作品は小説家になろうにも掲載中です)

公爵家の秘密の愛娘 

ゆきむらさり
恋愛
〔あらすじ〕📝グラント公爵家は王家に仕える名門の家柄。 過去の事情により、今だに独身の当主ダリウス。国王から懇願され、ようやく伯爵未亡人との婚姻を決める。 そんな時、グラント公爵ダリウスの元へと現れたのは1人の少女アンジェラ。 「パパ……私はあなたの娘です」 名乗り出るアンジェラ。 ◇ アンジェラが現れたことにより、グラント公爵家は一変。伯爵未亡人との再婚もあやふや。しかも、アンジェラが道中に出逢った人物はまさかの王族。 この時からアンジェラの世界も一変。華やかに色付き出す。 初めはよそよそしいグラント公爵ダリウス(パパ)だが、次第に娘アンジェラを気に掛けるように……。 母娘2代のハッピーライフ&淑女達と貴公子達の恋模様💞  🔶設定などは独自の世界観でご都合主義となります。ハピエン💞 🔶稚拙ながらもHOTランキング(最高20位)に入れて頂き(2025.5.9)、ありがとうございます🙇‍♀️

処理中です...