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第4章 RONDO-FINALE
op.15 悲しみと涙のうちに生まれ(16)
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イングリットがその日部屋に下がると、マリアがベッドのシーツを取り替えているところだった。イングリットが入ってきた事に気づくと、穏やかな笑顔を浮かべて礼をする。
その笑みに、何ら含むところがない事はもう分かっていた。
「お仕事はもう終わられましたか?」
「えぇ」
「体調はお変わりないでしょうか?」
大丈夫よ、と返事をするとマリアが嬉しそうに笑う。
「良かった。病み上がりなので、執務に復帰されると聞いて少し心配していたのです。でも奥様がお元気になられたようなら何よりです」
この子がもし、とイングリットは思う。
この少女がもし、伯爵令嬢という地位を欲しがるような子供であれば、イングリットは容赦なく屋敷から叩き出しただろう。
皮肉なことに若い頃から欲深い人間とは関わりすぎていて、この少女に後ろ暗い事など何もないことはすぐに分かってしまった。ただ純粋にイングリットの身を案じ、イングリットの快復を喜んでいる事が分かってしまう自分に今回ばかりは嫌気がさす。
「でも少し疲れたから今日はもう休むわ」
「分かりました。すぐにお休みの支度をしますね」
そう言ってパタパタとマリアが寝巻きを取りに走っていく。
寝巻きに着替え終えて、ベッドに腰掛けると、すぐに出ていきますからとマリアは部屋のカーテンを一つずつ落としていく。外はまだ微かに明るく、マリアがカーテンを落とすたびに少しずつ部屋が暗くなっていく。
「マリア」
名前を呼ぶと、マリアがキョトンとして振り返った。どうして声をかけたのか、イングリットにも良く分からなかった。会うのは今日が最後だと知っていたからだろうか。
「他のメイドに、お前は大層歌が上手いと聞いたよ」
「え?」
暗がりでもパッとマリアが頬を赤くしたのが分かった。決まりが悪そうに口ごもって、『少しだけ、習いました』と消え入りそうな声で答える。
「良かったら、一曲だけ歌ってくれないかい?」
そう言うとマリアは驚いたように目を瞬かせた。だが主人の願いを無下に断るような娘ではない。恥ずかしそうにこくりと頷いて、イングリットの近くへ寄ると、少しだけ視線をさまよわせて、一呼吸置いて歌い始める。
空気が溶けるように、透き通ったソプラノが響いた。
同時にイングリットはその曲がとても耳に馴染む歌であることに気がついた。
オンブラ・マイ・フ。
ヘンデルが作曲したオペラ『セルセ』の中で歌われるアリアだった。
オペラとしての上演回数は少なく、イングリットも実際に上演を見た事はない。だけど第一幕に出てくるこのアリアはとても有名で、単独で演奏されることも多かったからだろう。昔夫のユリウスと共に聴いた事があった。
頭に残っていたのは、きっとこの曲の歌詞がどこか夫を思わせたからだった。優しく、心地よく、愛おしい。そんな木陰を歌ったこのアリアは、ほんの短い詩から成り立っていて、それが全てだ。その旋律は、与えられた詩をそのまま歌に変えたように心を優しく包みこむ。
昔夫と聴いた時に引き戻されるようだった。繋いだ手の感触まで、つぶさに蘇る。自分の手を包み込む大きな手。心地よく、安らかな大木に抱かれているような安心感があった。
少しずつ薄暗くなっていく部屋の中、柔らかな歌声が部屋の中に響く。それは優しく、夜の帳を降ろしていくようだった。
「────」
余韻を残して歌い上げた少女を、しばらく呆然としたまま見ていた。
「……あ、あの。奥様?」
ずっと黙っていたからだろう。おずおずと少女に声をかけられてイングリットは我に帰る。小さくかぶりを振って『見事なものね』と何とか口にした。
「どうして、その曲を?」
そう聞くと、マリアは少し気まずそうに黙り込んだ。だが生来嘘をつけない性格なのだろう。すぐに素直に口を開く。
「実は、その、バルバラさんにお聞きしたんです。奥様が好きな曲はありますか、って」
バルバラか、と腑に落ちた。バルバラはまだユリウスが生きていた頃からリーゼロッテに仕えていた。きっと知る機会があったのだろう。
「あの、バルバラさんにはわたしが聞いてしまっただけで、その……」
「心配しなくても、そんな事で咎めはしないよ。それよりお前はどうしてそんな事を聞いたの? 私のそばにつくのに関係はないでしょう」
「それはそうなのですけれど……」
わずかに口ごもって、マリアは言い辛そうに口を開く。
「せっかくお仕えするのですから、奥様の人となりを、わたしなりに知りたくて……」
それが半分嘘であることは、イングリットにもすぐに分かった。きっとこの少女がそれを聞いたのは、これから仕える主人だからではなく、自分がこの少女の──。
(馬鹿な子……)
素直で心優しい、まるでこの家には似つかわしくない娘だと思う。この少女の立場なら、イングリットを恨んで当然だろうに。
「……お前は、エリーの母の話は知っている?」
ポツリと落とした言葉に、マリアが目を瞬かせる。そうして、正直にこくりと頷いた。その事にもまた苦笑した。この子は素直すぎる。
「それなら、私が娘に何をしたかも知っているのだろうね」
どうしてそんな事を口にしているのか、イングリットにも良く分からなかった。ただ分からないまま、出てくるがままに言葉を連ねる。
「リーゼロッテは、最後まで私を許さなかったよ。私もそれでいいと思っている」
目を閉じると昨日のことのように思い出す。
『だけど私は、絶対に貴女を許さない』
真正面からこちらを見据えるエメラルドの瞳。
あの子が大切にした物を全て奪い取った。
泣き叫ぶあの子から、産まれたばかりの赤子を取り上げるよう命じたのは自分だ。
指先さえ触れることを許さなかったのは、自分だ。
『一生貴女を許さないわ、お母様』
憎まれて当然のことをしたのだ。
何を口にしているのだろう、と自分でも思う。
何のために? と自問する。
だけどどうしてか、言葉は止まらなくて。
「だからお前が、私に心を砕く必要などないよ」
そう、告げた。
目の前にいる少女は、黙ってイングリットを見ていた。
当然だ。こんな事を言われて、ただの使用人が言葉を返せる訳がないのだ。選ぶべき言葉に正解はなく、ただ戸惑うだけだろう。下がっていいよ、と言葉にしようとした瞬間、ふと目の前に影がさした。マリアがイングリットの前に膝をついたのだ。
一瞬ためらって、恐る恐るマリアが両手をイングリットの手に重ねた。
「奥様」
マリアが呼ぶ。最後の最後まで、己の立場を崩す事なく。
「わたしには、お嬢様が何を想っていたのかは分かりません。お嬢様の苦しみも、悲しみも、想像することしか出来ないのです」
だけど、と柔らかな声で少女は紡ぐ。
「一つだけ、わたしにも分かる事があります」
何を、と少女の声に顔を上げて息が詰まった。イングリットを見つめる瞳は、柔らかな若葉の色をしていた。ハーゼンクレーヴァーの血筋が持つ緑の瞳に、まるで陽が差したようなペリドット。
「エアハルト様は、お母様のことも、お祖母様のことも、心から愛していらっしゃいます」
「────」
言葉を失くした。
呆然とするイングリットを見上げる少女が穏やかに笑う。それ以上少女は何も口にしようとしなかった。ただゆっくりと立ち上がると、残っていた近くのカーテンをゆっくりと下ろした。
部屋の中が薄暗い闇に包まれる。
小柄で細い手が、イングリットをベッドに促した。そっとシーツをイングリットにかけると、マリアは柔らかに微笑んだ。
「どうぞゆっくりお休みになってください、奥様」
告げられた声が、少しも似ていないのにどうしてか古い記憶と重なった。
『ゆっくりおやすみ、イングリット』
その笑みに、何ら含むところがない事はもう分かっていた。
「お仕事はもう終わられましたか?」
「えぇ」
「体調はお変わりないでしょうか?」
大丈夫よ、と返事をするとマリアが嬉しそうに笑う。
「良かった。病み上がりなので、執務に復帰されると聞いて少し心配していたのです。でも奥様がお元気になられたようなら何よりです」
この子がもし、とイングリットは思う。
この少女がもし、伯爵令嬢という地位を欲しがるような子供であれば、イングリットは容赦なく屋敷から叩き出しただろう。
皮肉なことに若い頃から欲深い人間とは関わりすぎていて、この少女に後ろ暗い事など何もないことはすぐに分かってしまった。ただ純粋にイングリットの身を案じ、イングリットの快復を喜んでいる事が分かってしまう自分に今回ばかりは嫌気がさす。
「でも少し疲れたから今日はもう休むわ」
「分かりました。すぐにお休みの支度をしますね」
そう言ってパタパタとマリアが寝巻きを取りに走っていく。
寝巻きに着替え終えて、ベッドに腰掛けると、すぐに出ていきますからとマリアは部屋のカーテンを一つずつ落としていく。外はまだ微かに明るく、マリアがカーテンを落とすたびに少しずつ部屋が暗くなっていく。
「マリア」
名前を呼ぶと、マリアがキョトンとして振り返った。どうして声をかけたのか、イングリットにも良く分からなかった。会うのは今日が最後だと知っていたからだろうか。
「他のメイドに、お前は大層歌が上手いと聞いたよ」
「え?」
暗がりでもパッとマリアが頬を赤くしたのが分かった。決まりが悪そうに口ごもって、『少しだけ、習いました』と消え入りそうな声で答える。
「良かったら、一曲だけ歌ってくれないかい?」
そう言うとマリアは驚いたように目を瞬かせた。だが主人の願いを無下に断るような娘ではない。恥ずかしそうにこくりと頷いて、イングリットの近くへ寄ると、少しだけ視線をさまよわせて、一呼吸置いて歌い始める。
空気が溶けるように、透き通ったソプラノが響いた。
同時にイングリットはその曲がとても耳に馴染む歌であることに気がついた。
オンブラ・マイ・フ。
ヘンデルが作曲したオペラ『セルセ』の中で歌われるアリアだった。
オペラとしての上演回数は少なく、イングリットも実際に上演を見た事はない。だけど第一幕に出てくるこのアリアはとても有名で、単独で演奏されることも多かったからだろう。昔夫のユリウスと共に聴いた事があった。
頭に残っていたのは、きっとこの曲の歌詞がどこか夫を思わせたからだった。優しく、心地よく、愛おしい。そんな木陰を歌ったこのアリアは、ほんの短い詩から成り立っていて、それが全てだ。その旋律は、与えられた詩をそのまま歌に変えたように心を優しく包みこむ。
昔夫と聴いた時に引き戻されるようだった。繋いだ手の感触まで、つぶさに蘇る。自分の手を包み込む大きな手。心地よく、安らかな大木に抱かれているような安心感があった。
少しずつ薄暗くなっていく部屋の中、柔らかな歌声が部屋の中に響く。それは優しく、夜の帳を降ろしていくようだった。
「────」
余韻を残して歌い上げた少女を、しばらく呆然としたまま見ていた。
「……あ、あの。奥様?」
ずっと黙っていたからだろう。おずおずと少女に声をかけられてイングリットは我に帰る。小さくかぶりを振って『見事なものね』と何とか口にした。
「どうして、その曲を?」
そう聞くと、マリアは少し気まずそうに黙り込んだ。だが生来嘘をつけない性格なのだろう。すぐに素直に口を開く。
「実は、その、バルバラさんにお聞きしたんです。奥様が好きな曲はありますか、って」
バルバラか、と腑に落ちた。バルバラはまだユリウスが生きていた頃からリーゼロッテに仕えていた。きっと知る機会があったのだろう。
「あの、バルバラさんにはわたしが聞いてしまっただけで、その……」
「心配しなくても、そんな事で咎めはしないよ。それよりお前はどうしてそんな事を聞いたの? 私のそばにつくのに関係はないでしょう」
「それはそうなのですけれど……」
わずかに口ごもって、マリアは言い辛そうに口を開く。
「せっかくお仕えするのですから、奥様の人となりを、わたしなりに知りたくて……」
それが半分嘘であることは、イングリットにもすぐに分かった。きっとこの少女がそれを聞いたのは、これから仕える主人だからではなく、自分がこの少女の──。
(馬鹿な子……)
素直で心優しい、まるでこの家には似つかわしくない娘だと思う。この少女の立場なら、イングリットを恨んで当然だろうに。
「……お前は、エリーの母の話は知っている?」
ポツリと落とした言葉に、マリアが目を瞬かせる。そうして、正直にこくりと頷いた。その事にもまた苦笑した。この子は素直すぎる。
「それなら、私が娘に何をしたかも知っているのだろうね」
どうしてそんな事を口にしているのか、イングリットにも良く分からなかった。ただ分からないまま、出てくるがままに言葉を連ねる。
「リーゼロッテは、最後まで私を許さなかったよ。私もそれでいいと思っている」
目を閉じると昨日のことのように思い出す。
『だけど私は、絶対に貴女を許さない』
真正面からこちらを見据えるエメラルドの瞳。
あの子が大切にした物を全て奪い取った。
泣き叫ぶあの子から、産まれたばかりの赤子を取り上げるよう命じたのは自分だ。
指先さえ触れることを許さなかったのは、自分だ。
『一生貴女を許さないわ、お母様』
憎まれて当然のことをしたのだ。
何を口にしているのだろう、と自分でも思う。
何のために? と自問する。
だけどどうしてか、言葉は止まらなくて。
「だからお前が、私に心を砕く必要などないよ」
そう、告げた。
目の前にいる少女は、黙ってイングリットを見ていた。
当然だ。こんな事を言われて、ただの使用人が言葉を返せる訳がないのだ。選ぶべき言葉に正解はなく、ただ戸惑うだけだろう。下がっていいよ、と言葉にしようとした瞬間、ふと目の前に影がさした。マリアがイングリットの前に膝をついたのだ。
一瞬ためらって、恐る恐るマリアが両手をイングリットの手に重ねた。
「奥様」
マリアが呼ぶ。最後の最後まで、己の立場を崩す事なく。
「わたしには、お嬢様が何を想っていたのかは分かりません。お嬢様の苦しみも、悲しみも、想像することしか出来ないのです」
だけど、と柔らかな声で少女は紡ぐ。
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何を、と少女の声に顔を上げて息が詰まった。イングリットを見つめる瞳は、柔らかな若葉の色をしていた。ハーゼンクレーヴァーの血筋が持つ緑の瞳に、まるで陽が差したようなペリドット。
「エアハルト様は、お母様のことも、お祖母様のことも、心から愛していらっしゃいます」
「────」
言葉を失くした。
呆然とするイングリットを見上げる少女が穏やかに笑う。それ以上少女は何も口にしようとしなかった。ただゆっくりと立ち上がると、残っていた近くのカーテンをゆっくりと下ろした。
部屋の中が薄暗い闇に包まれる。
小柄で細い手が、イングリットをベッドに促した。そっとシーツをイングリットにかけると、マリアは柔らかに微笑んだ。
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