追放された聖女は、辺境で狼(もふもふ)とカフェを開く

橘 あやめ

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第七話 金色の目の男

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 低い唸り声が、響いた。

 地鳴りのような、腹の底を震わせる音。
 あの夜の街道で聞いたのと同じ――ルークの声だった。

 カフェの奥から、銀白色の巨体がゆっくりと歩いてきた。

 昼間に姿を見せたのは初めてだった。
 人前に出てきたのも初めてだ。

 町の人たちが悲鳴を上げて道を開けた。
 ルークは誰にも目をくれず、アーシャの横を通り過ぎ、――まっすぐ、イレーネに向かって走り出した。

「きゃあああああっ! なっ、何よ、この獣――!」

 イレーネが後ずさる。神官たちが剣を抜いた。

 しかし、誰もルークを止められなかった。
 ルークはイレーネの法衣の内側に刃をひっかけ、そのまま引き裂いた。イレーネがよろめく。

 法衣の裏地から、何かが転がり出た。

 黒い石だった。手のひらに収まるほどの、小さな石。
 けれど石の中で、どす黒い光が脈打っている。見ているだけで背筋が泡立つような、禍々しい波動が――。

「――っ、返しなさいよ!」

 イレーネの声が裏返った。清楚な仮面が砕けた、地の声だった。
 取り繕うことすら忘れて、黒い石にイレーネは手を伸ばした。

 しかし、素早くルークの前足が黒い石をとらえる。

「返して! それは私のものよ! それがなくなったら、私は――!」

 イレーネの言葉に耳を傾けるそぶりも見せず――ルークの前足は、黒い石を踏み潰した。

「いやぁああああああああっ!!!!!」

 イレーネが金切り声を上げた。もう、聖女の微笑みも、か弱い妹の演技も、何もかもが剥がれ落ちていた。

 膝をつき、砕けた破片を必死でかき集めようとしている。尖った欠片が指を切り、血がにじんだが、それでも構わず、イレーネは破片を握りしめた。

 町の人たちが、その姿を見ていた。
 聖女の法衣を着たまま、地べたに這いつくばって黒い石の欠片にしがみつく女を。

「い、イレーネ様……?」

「なにぼさっと立ってんのよ!あんたたち、早くこの石を集めて、元に戻しなさい!こ、この石がなきゃ……私への贈り物も、称賛も、全部なくなるじゃない!」

 アーシャは呆然と、そんな妹の姿を見ていた。
 すると、アーシャの体の奥で、何かが弾けた。胸の中心から、光が溢れ出す感覚。

 薄膜の向こう側にあった力が、一気に戻ってくる。

 温かい。熱いくらいだ。ずっと感じていた力の薄さが嘘のように消えて、体中に本来の力がみなぎる。

 ――あぁ、そうか。奪われていたのだ。あの石に。

「そう。そういうことなのね……私の力を、ずっと奪っていたのね、イレーネ」

「だとしたらなによ!」

 イレーネは、アーシャを睨みつける。もう聖女らしさをつくろうことすら、やめていた。 

「何が悪いのよ! お姉様はいいじゃない! 何の苦労もせずに、みんなに慕われて、聖女としてちやほやされる――それを少しもらっただけよ! 私がお姉様の力を使って聖女になって何がいけないの! どうせお姉様には、いくらでも特別な力があるんでしょう!」

 むき出しの、醜い本音だった。
 嘘泣きすらできていない。そこにあるのは、ただのむき出しの欲望と逆恨みだった。

 これが、イレーネの本当の顔だったのだ。十二年間、ずっと。

 ふと、アーシャは足元にぬくもりを感じた。
 ルークだ。アーシャを支えるように、傍に寄り添ってくれている。

 ――そうね。いつもあなたは、あなただけは、私の傍にずっといてくれたね。
 
 アーシャはしゃがんで、ルークの身体を抱きしめた。

 聖女の力が体からあふれ出してくる。
 触れたものの不調を正す力。それがアーシャの意思とは関係なく、波紋のようにルークにも伝わっていく。

 ――銀白色の毛が、金色の光に包まれた。

 輪郭が揺らぐ。大きな狼の体が、光の中で形を変えていく。

 光が収まったとき、狼の姿は消えていた。

 そこに立っていたのは、銀髪の長身の青年だった。金色の目。端正な顔立ち。肩には銀白色のマントがかかり、胸元に紋章が刻まれている。

 ウィンウッド辺境伯家の紋章だった。

「……やれやれ」

 低い声だった。穏やかで、少し面倒くさそうで――あの、ルークが「ふん」と鼻を鳴らすときと同じ温度の声。

「もう少し静かに暮らせると思ったんだが、何だってこうも騒ぎ立てる者が出てくるんだ」

「ル……ルーク……?」

「ルークじゃない。本来の名は、イヴァン・ウィンウッド。ウィンウッド辺境伯……まぁ、元だな。半年前に何者かに呪いをかけられて狼にされていた」

 イヴァンの金色の目が、地面に座り込んだままのイレーネに向けられた。

「呪いをかけられた身だから、呪物の気配には敏感でな。お前がずっと持っていたその石、アーシャの力を吸い取る呪物だ。大聖堂にいた頃から使っていたのだろう」

 ざわざわと神官たちが騒ぎ出す中、イレーネの顔が歪んだ。血の滲む手で黒い粉を握りしめたまま、目だけが忙しなく左右に動いている。
 逃げ道を探している。いつもそうだ。イレーネはいつだって、自分の非を認める代わりに、逃げる方法を探す。

 しかし、今回はもう、全ての逃げ道が封じられていた。

「もう砕いた。だがお前がそれを使っていたことは、ここにいる全員が見ている」

 イヴァンは群衆を見回した。
 パン屋のおじさん、マーサ、腰痛のお爺さん、常連のおばさんたち――全員が、地面に這いつくばったイレーネを見ていた。

 さっきまで聖女として優雅に微笑んでいた女が、地面で石の欠片にしがみついて金切り声を上げている。
 もう、誰の目にも明らかだった。

「辺境伯の名にかけて保証する。アーシャ・フォーリスは、俺の呪いを解いた恩人だ。そして、本物の聖女だ。呪物で力を奪い、聖女を騙っていたのはそちらの方だろう」

 イレーネは地面に座り込んだまま、動けなくなっていた。
 法衣は汚れ、髪は乱れ、血の滲んだ手は黒い粉で汚れている。
 聖女の仮面を剥がされた顔には、もう何の取り繕いも残っていなかった。

 アーシャは、一歩前に出た。

 イレーネを見た。地面に這いつくばって石の欠片を握りしめている妹を。

 同情は、もう湧かなかった。

 「何が悪いのよ」と言ったのはイレーネだ。姉の力を奪い、帳簿を改ざんし、十二年間を嘘で塗り固めて――それを「少しもらっただけ」と言い放った。
 悪びれもせず、反省もなく――。

「イレーネ」

 自分の声が、思ったより静かに出たことに驚いた。

 言葉を選ぶ。十二年間、飲み込み続けてきた言葉。あの大聖堂の白い床の上で、口を開きかけて閉じた言葉。

「私は横領をしていない。帳簿を改ざんしたのは――イレーネ、あなたでしょう」

 声は震えなかった。

 イレーネの目が見開かれた。アーシャの口からこの言葉が出るとは思っていなかったのだろう。
 正直、アーシャ自身も思っていなかった。

 けれど、もう止まらなかった。

「十二年間、あなたのために黙っていた。妹だから。家族だから。あなたが困ると思ったから。でも、あなたは『何が悪いの』と言ったね。私の十二年を『少しもらっただけ』と」

 イレーネの顔から、血の気が引いた。

「いい加減にして。もうあなたは妹でも、家族でも、何でもない――赤の他人よ」

 それだけ言って、口を閉じた。

 イレーネは何も言い返せなかった。

 神官たちが慌てて駆け寄り、腕を引いて立たせた。イレーネはよろめきながら馬車に押し込まれた。自分の足で歩くことすらできていなかった。

 馬車が、坂を下って去っていく。

 店に静寂が戻った。残されたのは、アーシャと、元狼の辺境伯と、唖然としている町の人たち。

 マーサがトビを抱いたまま、アーシャに駆け寄った。

「アーシャさん! 大丈夫? 怪我は?」

「大丈夫。大丈夫だよ、マーサさん」

「もう心配したんだから! 出ていくなんて言わないでよ!」

 マーサの目が赤い。泣きそうな顔をしている。

 ――ああ、この人は、本気で心配してくれていたのだ。

「……ごめんなさい」

「謝らないで! アーシャさんはうちのトビの命の恩人なの。どこにも行かせないから!」

 トビが小さな手を伸ばして、アーシャの指を握った。
 ぎゅっと。小さくて、温かい手だった。

 アーシャはイヴァンを見上げた。
 銀髪に、金色の目。あの夜、月の光の下で見た銀の毛並みの色が、そのまま髪になっている。

「……あの」

「何だ」

「先ほども、それから、これまでも。助けてくれて、ありがとうございました」

「別に……。暖炉の前を借りていたからな」

「それと――ルークのときの方が、もふもふで好きだったんですけど、もう狼にはなれないんですか?」

 イヴァンの金色の目が、一瞬だけ大きくなった。

 それから、笑った。声を出して笑った。

「そう言われたのは初めてだ」
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