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第一章:何度でも癒して差し上げましょう
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夕暮れの光が、屋敷の廊下を橙に染めていた。
ミラは洗い上がった白布を両腕に抱え、洗い場から居室へと戻る途中だった。乾いたリネンの匂いと、窓から差し込む光の温かさ。いつもと変わらない夕方のひととき。
そのはずだった。
「ミラ」
名前を呼ばれて足を止めた。
振り返ると、侍女長が廊下の奥に立っていた。視線が合った瞬間、相手はすっと目を逸らした。
「奥方様がお呼びです。すぐに来るようにと」
「いま、ですか? 洗い物がまだ、」
「すぐに、と仰っていました」
何か、声の調子がおかしかった。叱責を伝える時の硬さとも違う。もっと別の、喉の奥に何かを飲み込んでいるような、そんな響き。
ミラは白布を廊下の棚に置き、スカートの裾を整えてから夫人の居室へ向かった。
扉を叩く。中から返事があり、ミラは静かに扉を開けた。
最初に鼻を突いたのは、嗅ぎ慣れない甘い香だった。
安物の香水を大量に振りかけたような、むっとする匂い。
次に目に入ったのは、見知らぬ男の背中だった。
太い体躯に、高価そうな布地の上着をまとっている。だが仕立ての良さよりも先に目につくのは、首筋を伝う脂汗と、生地の合わせ目に滲んだ染みだった。
ワインの杯を手にしたまま、男は振り返った。
目が合う。
ねっとりとした視線が、ミラの顔から首筋へ、首筋から肩へ、肩から胸元へと這っていく。礼儀を装おうとすらしない。まるで市場で家畜の品定めでもするように、何度もミラを眺め回した。唇の端がぬるりと持ち上がる。
「ああ、これが?」
男はワインを一口含み、夫人のほうに目をやった。
「悪くねぇ。若いし、肌もきれいだ。まあ、値はつくだろうよ」
意味が、分からなかった。
ミラは視線を夫人に向けた。夫人はソファに腰を下ろし、手元の紙に何かを書きつけている。こちらを見ようともしなかった。ペンが紙の上を走る音だけが、部屋の沈黙を埋めている。
「奥方様、お呼びと伺いましたが……」
「ミラ」
ペンが止まった。夫人がゆっくりと顔を上げる。
ミラはこの屋敷で三年間、夫人に仕えてきた。
夫人の苛立つ顔を何度も見たことがある。不機嫌な顔も、嘲るような笑みも。
だが今、夫人の目に浮かんでいるものは、そのどれとも違っていた。
感情が、ない。
用を終えた道具を見るような——それだけの目だった。
「あなたには今日をもって暇を出します」
血の気が引く感覚を、ミラは生まれて初めて味わった。
「お、奥方様?御冗談ですよね!?」
「あら。覚えがあるでしょう?」
夫人は立ち上がり、紙を取り出した。新たな紙に、ペンを走らせ始める。
「先月、銀の燭台が食器棚から二組消えたこと。あれはあなたの仕業よ」
「わ、私ではありません!」
「それから、小口金から毎月少しずつ抜いていたでしょう。帳簿の記録にも差異が出ていたわ。調べは全部ついています」
嘘だった。全部、嘘だ。燭台の紛失のことは知っていた。だがミラは触れてすらいない。小口金など、存在すら知らなかった。
「奥方様、お願いです!私は何も盗んでいません! 不正なんて、一度も!」
「黙りなさい」
冷たく、乾いた一言だった。ペンは止まらない。もう一行、また一行。嘘の罪状が次々と書き連ねられていく。ミラがどれだけ声を上げても、夫人は一度も手を止めなかった。
「よい子にしていなさい」夫人はペンを置き、指先で紙を整えた。「暴れたところで同じことですのよ」
背後から太い腕が伸び、ミラの両肩を掴んだ。脂と酒精の混じった息が、首筋にかかる。
「ひっ!?」
「動かねぇほうがいいぜ。傷がつくと値が下がる」
ハッとミラは夫人の書いている書類を見た。そこには、ミラの名前、年齢、身体的特徴、そしてページの下部に「売却」の文字が連なっていた。
「もう決まったことなのよ、ミラ。長年、仕えてくれてどうもありがとう」
夫人の顔が、下品に歪む。
「――そして、これからも、我が家のためにその身を捧げてくださいましね?」
「い、いやぁっ!もがっ!
ミラは声を上げようとした。しかし、男の分厚い手が、ミラの口を塞ぐ。
そのまま手際よく、両手が背中で縛られた。縄が手首に食い込み、皮膚が擦れる痛みが走る。
麻袋をかぶせられ、視界まで塞がれてしまった。
「じゃあ、こいつはもらってくぜ」
ミラは思った。
おそらく、あの侍女長はミラに訪れる未来が分かっていたのだ。だから、気まずそうに目を反らして――。
ミラは洗い上がった白布を両腕に抱え、洗い場から居室へと戻る途中だった。乾いたリネンの匂いと、窓から差し込む光の温かさ。いつもと変わらない夕方のひととき。
そのはずだった。
「ミラ」
名前を呼ばれて足を止めた。
振り返ると、侍女長が廊下の奥に立っていた。視線が合った瞬間、相手はすっと目を逸らした。
「奥方様がお呼びです。すぐに来るようにと」
「いま、ですか? 洗い物がまだ、」
「すぐに、と仰っていました」
何か、声の調子がおかしかった。叱責を伝える時の硬さとも違う。もっと別の、喉の奥に何かを飲み込んでいるような、そんな響き。
ミラは白布を廊下の棚に置き、スカートの裾を整えてから夫人の居室へ向かった。
扉を叩く。中から返事があり、ミラは静かに扉を開けた。
最初に鼻を突いたのは、嗅ぎ慣れない甘い香だった。
安物の香水を大量に振りかけたような、むっとする匂い。
次に目に入ったのは、見知らぬ男の背中だった。
太い体躯に、高価そうな布地の上着をまとっている。だが仕立ての良さよりも先に目につくのは、首筋を伝う脂汗と、生地の合わせ目に滲んだ染みだった。
ワインの杯を手にしたまま、男は振り返った。
目が合う。
ねっとりとした視線が、ミラの顔から首筋へ、首筋から肩へ、肩から胸元へと這っていく。礼儀を装おうとすらしない。まるで市場で家畜の品定めでもするように、何度もミラを眺め回した。唇の端がぬるりと持ち上がる。
「ああ、これが?」
男はワインを一口含み、夫人のほうに目をやった。
「悪くねぇ。若いし、肌もきれいだ。まあ、値はつくだろうよ」
意味が、分からなかった。
ミラは視線を夫人に向けた。夫人はソファに腰を下ろし、手元の紙に何かを書きつけている。こちらを見ようともしなかった。ペンが紙の上を走る音だけが、部屋の沈黙を埋めている。
「奥方様、お呼びと伺いましたが……」
「ミラ」
ペンが止まった。夫人がゆっくりと顔を上げる。
ミラはこの屋敷で三年間、夫人に仕えてきた。
夫人の苛立つ顔を何度も見たことがある。不機嫌な顔も、嘲るような笑みも。
だが今、夫人の目に浮かんでいるものは、そのどれとも違っていた。
感情が、ない。
用を終えた道具を見るような——それだけの目だった。
「あなたには今日をもって暇を出します」
血の気が引く感覚を、ミラは生まれて初めて味わった。
「お、奥方様?御冗談ですよね!?」
「あら。覚えがあるでしょう?」
夫人は立ち上がり、紙を取り出した。新たな紙に、ペンを走らせ始める。
「先月、銀の燭台が食器棚から二組消えたこと。あれはあなたの仕業よ」
「わ、私ではありません!」
「それから、小口金から毎月少しずつ抜いていたでしょう。帳簿の記録にも差異が出ていたわ。調べは全部ついています」
嘘だった。全部、嘘だ。燭台の紛失のことは知っていた。だがミラは触れてすらいない。小口金など、存在すら知らなかった。
「奥方様、お願いです!私は何も盗んでいません! 不正なんて、一度も!」
「黙りなさい」
冷たく、乾いた一言だった。ペンは止まらない。もう一行、また一行。嘘の罪状が次々と書き連ねられていく。ミラがどれだけ声を上げても、夫人は一度も手を止めなかった。
「よい子にしていなさい」夫人はペンを置き、指先で紙を整えた。「暴れたところで同じことですのよ」
背後から太い腕が伸び、ミラの両肩を掴んだ。脂と酒精の混じった息が、首筋にかかる。
「ひっ!?」
「動かねぇほうがいいぜ。傷がつくと値が下がる」
ハッとミラは夫人の書いている書類を見た。そこには、ミラの名前、年齢、身体的特徴、そしてページの下部に「売却」の文字が連なっていた。
「もう決まったことなのよ、ミラ。長年、仕えてくれてどうもありがとう」
夫人の顔が、下品に歪む。
「――そして、これからも、我が家のためにその身を捧げてくださいましね?」
「い、いやぁっ!もがっ!
ミラは声を上げようとした。しかし、男の分厚い手が、ミラの口を塞ぐ。
そのまま手際よく、両手が背中で縛られた。縄が手首に食い込み、皮膚が擦れる痛みが走る。
麻袋をかぶせられ、視界まで塞がれてしまった。
「じゃあ、こいつはもらってくぜ」
ミラは思った。
おそらく、あの侍女長はミラに訪れる未来が分かっていたのだ。だから、気まずそうに目を反らして――。
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