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第一章:何度でも癒して差し上げましょう
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王都ランデルグの、中流貴族の屋敷。
名のある家ではなかったが、主人は穏やかな人物で、使用人たちも互いに助け合いながら暮らしていた。
食事は質素だが温かく、仕事は忙しいが理不尽ではない。ミラもまた、ささやかながら安定した日々を送っていた。
だが、ある時期から屋敷の空気が変わった。
きっかけは夫人だった。
夫人は頻繁に外出するようになり、帰ってくるたび苛立った様子で使用人に当たり散らすようになった。些細な粗相で怒号が飛び、理由もなく仕事を取り上げられる者が出る。皿が割れる音が、以前よりずっと頻繁に廊下に響くようになった。
帳簿係の侍女が、ある夜、ミラにこっそり耳打ちした。
「奥方様、かなりの額の借金を抱えていらっしゃるらしいの」
どこで借りたのか、いくらなのか。
詳しいことは分からない。
ただ帳簿の数字がどう見ても合わないのだと、その侍女は声をひそめて言った。
やがて使用人が、ひとり、またひとりと減り始めた。
料理番の若い娘、庭師見習いの少年、そしてミラに借金のことを教えてくれた、あの帳簿係の侍女――。
ある朝、気がつくといなくなっている。
「夜のうちに逃げ出した」と夫人は言った。屋敷の環境が悪化していたのだから、逃げる者がいてもおかしくない。ミラはそう思っていた。
「まさか、自分が奴隷として売られるとは……思ってもいませんでした」
ミラの声がかすれた。
あの部屋の光景がよみがえる。脂ぎった男のねっとりした視線。夫人の乾いた声。帳簿に書き足されていく嘘の罪状。手首に食い込んだ縄の痛み。
「命からがら、逃げてきました。追手の声が聞こえて、足が血だらけになって、もうどこを走っているのかも分からなくて……それでも、止まったら終わりだと思って……」
言葉が途切れる。ミラは唇を噛んだ。
しばらくの沈黙が降りた。
窓の外で、風が路地裏の木の葉を揺らす音がした。ランプの炎が一度だけ揺れ、ふたりの影が壁の上を這う。
イレーネがワインの杯を静かにテーブルに置く。
「消えた使用人たち」
声の温度が変わっていた。ミラを見る目も、先ほどまでの柔らかさとは別のものだった。氷を一枚、嵌め込んだような冷たさ。
「あなたと同じく、売られたのね」
ミラは息を呑んだ。
「そ、そんな……! そしたら、もう、今頃は……!」
「奴隷として働かされているでしょう」
――運が良ければ五体満足。悪ければ欠けているか、あるいはもうこの世にいないかもしれない。
ハッとミラは顔を上げた。
「まだ働いている仲間たちがいます! 彼らに、このことを伝えないと」
「そうね。でも、あなたの言葉を信じて、今ある働き口を、簡単に捨てることができるかしら?」
「そ、それは……」
ミラは侍女長のことを思い出した。彼女が言いくるめてしまえば、ミラの言葉はきっと届かない。むしろミラ自身も危険に晒される。
イレーネは窓辺から腰を上げた。
ドレスの裾が音もなく床を撫でる。
ミラの前まで歩み寄り、視線を合わせるように少しだけ身を屈めた。
「あなた、許せるの? 夫人のこと」
「ゆ……許せるわけがありません! けど……私には何も……。貴族でもない、力もない。ただの女が……」
イレーネの唇が、ゆるやかに弧を描いた。
微笑みと呼ぶには冷たく、残酷とも違う。
何かを決めた人間の、覚悟のある笑みだった。
「力を持てばいい。簡単なことよ――私たちに依頼するの」
「依頼……?」
「えぇ。“私の代わりに、夫人に復讐してください”ってね」
イレーネはティオのほうをちらりと見た。ティオが微かにうなずく。
「復讐代行」
その一言が、薄暗い部屋の空気を変えた。
「不当な目に遭った方の代わりに、私がきっちりと報いを届ける。――それが月影亭の裏の商売ですわ」
口調が変わった。
柔らかさの中に別の質感が混じる。妖艶で、気品があり、そして刃物のように冷たい。
ミラは、この女性の本当の顔を見た気がした。
「どうする? このままどこかへ逃げて、幸せに暮らす? それとも――私たちと共に、仲間の分も復讐しましょうか?」
ミラはイレーネの目を見返した。
そして――。
「します。依頼します。夫人に、復讐したいです!」
「よろしい!」
パンと手を鳴らし、イレーネは頬に手を当てて首を少し傾げた。
「素敵な復讐を、果たしましょうね? ミラ」
名のある家ではなかったが、主人は穏やかな人物で、使用人たちも互いに助け合いながら暮らしていた。
食事は質素だが温かく、仕事は忙しいが理不尽ではない。ミラもまた、ささやかながら安定した日々を送っていた。
だが、ある時期から屋敷の空気が変わった。
きっかけは夫人だった。
夫人は頻繁に外出するようになり、帰ってくるたび苛立った様子で使用人に当たり散らすようになった。些細な粗相で怒号が飛び、理由もなく仕事を取り上げられる者が出る。皿が割れる音が、以前よりずっと頻繁に廊下に響くようになった。
帳簿係の侍女が、ある夜、ミラにこっそり耳打ちした。
「奥方様、かなりの額の借金を抱えていらっしゃるらしいの」
どこで借りたのか、いくらなのか。
詳しいことは分からない。
ただ帳簿の数字がどう見ても合わないのだと、その侍女は声をひそめて言った。
やがて使用人が、ひとり、またひとりと減り始めた。
料理番の若い娘、庭師見習いの少年、そしてミラに借金のことを教えてくれた、あの帳簿係の侍女――。
ある朝、気がつくといなくなっている。
「夜のうちに逃げ出した」と夫人は言った。屋敷の環境が悪化していたのだから、逃げる者がいてもおかしくない。ミラはそう思っていた。
「まさか、自分が奴隷として売られるとは……思ってもいませんでした」
ミラの声がかすれた。
あの部屋の光景がよみがえる。脂ぎった男のねっとりした視線。夫人の乾いた声。帳簿に書き足されていく嘘の罪状。手首に食い込んだ縄の痛み。
「命からがら、逃げてきました。追手の声が聞こえて、足が血だらけになって、もうどこを走っているのかも分からなくて……それでも、止まったら終わりだと思って……」
言葉が途切れる。ミラは唇を噛んだ。
しばらくの沈黙が降りた。
窓の外で、風が路地裏の木の葉を揺らす音がした。ランプの炎が一度だけ揺れ、ふたりの影が壁の上を這う。
イレーネがワインの杯を静かにテーブルに置く。
「消えた使用人たち」
声の温度が変わっていた。ミラを見る目も、先ほどまでの柔らかさとは別のものだった。氷を一枚、嵌め込んだような冷たさ。
「あなたと同じく、売られたのね」
ミラは息を呑んだ。
「そ、そんな……! そしたら、もう、今頃は……!」
「奴隷として働かされているでしょう」
――運が良ければ五体満足。悪ければ欠けているか、あるいはもうこの世にいないかもしれない。
ハッとミラは顔を上げた。
「まだ働いている仲間たちがいます! 彼らに、このことを伝えないと」
「そうね。でも、あなたの言葉を信じて、今ある働き口を、簡単に捨てることができるかしら?」
「そ、それは……」
ミラは侍女長のことを思い出した。彼女が言いくるめてしまえば、ミラの言葉はきっと届かない。むしろミラ自身も危険に晒される。
イレーネは窓辺から腰を上げた。
ドレスの裾が音もなく床を撫でる。
ミラの前まで歩み寄り、視線を合わせるように少しだけ身を屈めた。
「あなた、許せるの? 夫人のこと」
「ゆ……許せるわけがありません! けど……私には何も……。貴族でもない、力もない。ただの女が……」
イレーネの唇が、ゆるやかに弧を描いた。
微笑みと呼ぶには冷たく、残酷とも違う。
何かを決めた人間の、覚悟のある笑みだった。
「力を持てばいい。簡単なことよ――私たちに依頼するの」
「依頼……?」
「えぇ。“私の代わりに、夫人に復讐してください”ってね」
イレーネはティオのほうをちらりと見た。ティオが微かにうなずく。
「復讐代行」
その一言が、薄暗い部屋の空気を変えた。
「不当な目に遭った方の代わりに、私がきっちりと報いを届ける。――それが月影亭の裏の商売ですわ」
口調が変わった。
柔らかさの中に別の質感が混じる。妖艶で、気品があり、そして刃物のように冷たい。
ミラは、この女性の本当の顔を見た気がした。
「どうする? このままどこかへ逃げて、幸せに暮らす? それとも――私たちと共に、仲間の分も復讐しましょうか?」
ミラはイレーネの目を見返した。
そして――。
「します。依頼します。夫人に、復讐したいです!」
「よろしい!」
パンと手を鳴らし、イレーネは頬に手を当てて首を少し傾げた。
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