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番外編 裏側のお話

(136)先生の贈り物

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(135)話の続き、黛の両親、龍一と玲子の馴れ初め話の一部です。


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玲子は黛先生のカセットテープを返しそびれてしまった。

防音室に置き忘れたからだ。ラジカセとカセットテープを持ち込んで、耳で拾ってコピーしていたのだ。夢中で鍵盤を探っていて―――母親に声を掛けられて慌てて部屋に戻ると、既に黛先生が玲子の部屋で待っていた。その後色々あって……彼女が忘れ物を思い出したのは、既に先生が玲子の家を出た後だった。

翌週玲子はテープを机の上に置き、黛先生が訪れる一時間前から部屋にスタンバイし、まんじりともせず彼の訪れを待った。
そしていつも通り感情の起伏が現れない無表情で、背の高い先生が扉を開けた時―――玲子は先生の真正面に立ち塞がり、テープを両手で捧げ持つとガバッと頭を下げた。

「ごめんなさい!」
「……」

沈黙しか返って来ない事にハラハラして、玲子は頭を上げた。カセットテープを返さなかった玲子を、怒ってはいないだろうか……?恐る恐る先生の表情を覗き見ると―――先生は首をかしげて、表情筋をピクリとも動かさず玲子をまっすぐ見下ろしていた。

「あ、あのっ……」

黛先生の沈黙は妙に迫力がある。何も言われてなどいないのに、玲子の胸は緊張でドキドキと高鳴り始めた。するとスッ……と大きな手が伸びて来て、玲子が捧げ持っていたカセットテープは彼の人差し指と親指の間に収まってしまった。玲子の両掌の中いっぱいに存在感のあったそれが、先生の手に納まるとずっと小さく見えるから不思議だった。



「先生の忘れ物……先週返そうと思ったんですけど……その」
「聞いたのか?」



静かな声に怒りは籠っていない。いつもそうだ、彼が怒るなんて事は一度も無かった。だけど―――玲子は黛先生の前では途端に自信を失ってしまう。先生は玲子の周囲にいる人達と違うのだ。先ず安易に彼女を褒めたりしない。その容姿を賞賛する事も、可憐な笑顔に目を細める事も、弁えた態度や勉学に真面目に取り組む姿勢に感心する事すら無い。

彼はただやるべき事として、課題を出し採点し、分からない所があれば、玲子の足りない部分ピースを丁寧に最小限の大きさで補足してくれる。先生の処方箋はいつも適格で―――的を射ている。

彼はお琴の先生のように、ピシャリとキツイ物言いをするわけではない。香道を教える父のように春彦と比べて残念な視線を向ける事も無い。

だけど玲子はいつも、静かに圧倒されるのだ。

そしてあんなに誰にも安易に褒められたくない……と思っていた玲子に『褒められたい』と言う欲望を抱かせる。駄目なら駄目でも良い、先生に強く叱られても構わない。いや怒りの矛先を、その感心を向けられたいとさえ思ってしまう―――そんな歪んだ欲望さえ浮かんで来る。

先生の感情を動かしたい。好悪どちらの感情でも良い、玲子に対して強い感情を、僅かでも他より濃い関心を向けて欲しい―――あのカセットテープを繰り返し聞くうちに、そんな強い衝動が身の内でギシギシ音を立て始めるのを、彼女は感じている。

玲子は期待していたのだ。怒られたいとさえ、思っていた。

けれども結局彼の感情は髪の毛一筋ほども動きはしない。

細やかで傲慢な期待を裏切られた玲子は、溜息を吐いて正直に告白した。

「はい」

すると、思ってもみない問いかけが重ねられる。

「―――聞いて、どう思った?」
「カッコ……良かったです」

正直に答えると、柔らかい同意が返って来た。

「……だよな」

俯いていた玲子の耳に、喜色が滲む声音が届く。顔を上げると、僅かに彼の口元が上がっているように思えた。それだけで―――玲子の心臓は高鳴った。もしかして、と言う期待に胸が膨らむ。

「あの……それで、つい弾きたくなって。ピアノの部屋に持って行ってしまったんです。だからその、先週返すのを忘れて。ワザとじゃないんです」
「―――弾いて?耳でコピーしたって言うのか?アレを」
「あ、はい」
「……」
「あの、黛先生。聞いて……くれますか?その、完璧では無いと思うんですけど。譜面も無いですし」






頷いてくれるなんて思わなかった。余計な寄り道を認めるような人だと思っていなかったから―――黛先生が玲子の目を見てコクリと頷いた時、彼女の心はフワフワと浮き上がったのだった。

心臓が爆発しそうなくらい緊張していた。けれども指が鍵盤に落ちた途端―――静寂に包まれた錯覚に陥る。耳から鼓膜を通じて伝わった電気信号は―――脳のある場所に記憶された。それを指先を通して織物を織る様な気持ちでつないでいく。

長い様な短いような時間が過ぎ―――玲子が膝にポトリと手を付き、息を弾ませて振り向いた時。―――これまで目にした事の無い光景が、目の前に存在していた。思わず彼女は息を飲む。

黛先生が、ハッキリと微笑んでいたのだ。そしてその瞳には、玲子に対する何らかの関心が浮かんでいる。

そうして微笑んだまま彼は、無言で玲子に歩み寄り―――彼女の目の前に掌を差し出した。すると玲子は反射的に、小さな掌からスッと伸びる少女にしては長い指をその掌に乗せてしまう。

黛先生は、溜息を吐きながらこう呟いた。



「玲子ちゃん、君の指はギフトだね」
「……『ギフト』……?」



意味が分からず、先生の言葉を愚直に繰り返した。



「―――『天からの贈り物』って意味だ。大事にすると良い」



雷に打たれたような気がした。



彼が触れた指先が……熱せられた鉄に触ったかのように熱く痺れて―――じんじんと痛むような気がするほど。
その時玲子はまだ気が付いていなかった。その日から―――自分が身の内に焦げ付くような焦燥感を飼い始めたのだと言う事に。



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お読みいただき、誠にありがとうございました。

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