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4.飢えた野獣(キリアン)

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 汗だくでうつ伏せになるグレイスの横で、ベッドに腰掛けていた俺は目を疑っていた。

「また漏れてる……これで何度目だ?」
「仕方ないわよ。避妊具だって完璧じゃないんだし」

 むくりと上半身を起こしたグレイスが諭してくる。銀色の美しい長髪が乱れる彼女を横目に、先の破けてしまった避妊具をゴミ箱へと投げ入れた。

 ぼんやりと室内を照らすブラケット照明の灯りが、やけに虚しく感じる。

 ふと壁掛け時計を見上げたら、時刻は午前9時を回っていた。閉まっているカーテンの隙間から陽は漏れておらず、天気も悪そうだ。

 すると、グレイスが豊満で柔らかな胸を、背中へ押し付けるように抱きついてきた。

「ねぇ……そんなことより、もう1回シない? 朝一の貴方、まるで飢えた野獣みたいに情熱的だった……2ヶ月前の夜を思い出したみたいに……」

 耳を唇で甘噛みしてこられ、鬱陶しがるように腕を払い除ける。

「よしてくれ……もうそんな気分になれない」

 1週間ぶりの再会。それに歓喜するグレイスから夜通し付き合わされた俺は、起きたばかりの今朝も一発せがまれた。
 妖艶な身体を骨の髄まで堪能できたとはいえ、おかげで俺自身は上から下までクタクタだ。

「どうして……? せっかく気兼ねなくホテルで会えるようになったんだから、もっと楽しみましょうよ……ね?」

 腰をなぞるように後から伸びてきた細長い指が、躊躇うことなく股間へと向かってきた。届く寸前で手を握り、やんわりと制止する。

「お前ほど性欲に飢えた野獣も、そうはいないだろうな」
「急にどうしたのよ? まだ先週のこと気にかけてるとか?」

 不服そうな声色で問い掛けられ「いや、そういうわけでは……」と言い掛けた途端――婚約破棄を告げた際の、哀しみに満ちたマエルの顔が思い浮かんできた。

『……やだよ……別れたくないよ……――』

 その泣き顔を見た時に受けた胸を痛みが、未だに忘れられない。それほど苦渋の決断だった――。

 思い耽るように黙り込んでいると、グレイスが向かい合うように、肉付きの良い滑らかな太ももで跨ってきた。

「うふふ……もうあんな女、忘れちゃいなさいよ。証拠写真を届けに来た男も『愛し合ってるように見えた』って、ハッキリ言ってたんでしょ?」

 力が抜けたように「ああ……」と返す。

「あんな下級貴族の尻軽女なんて、切り捨てられて当然じゃない。フロリアンさんの気持ちまで裏切ったりして。正直、貴方が低俗なカスカリーノ家なんかと婚約だなんて、疑問しかなかったわ」
「……俺がマエルに惚れて説得したんだ。元々、父はカスカリーノ家と婚約することに反対気味だった」

 不敵に微笑んでいたグレイスの表情が一変して、極端に不機嫌そうな無表情へと変わる。

「……何? どうやって説得したわけ?」

「カスカリーノ家の商会が傾いたのは、明らかに当主であるモリス卿の経営方針が間違っていたからだ。そこを『商会がウチの傘下に入れば、俺が必ず立て直す』と父に断言したんだ。無論、その算段もついていた」
「算段?」
「即座に会長のモリスを解任して、生産性の低い既存農家を全て追い出すんだ。そして、ポグバ家管轄の自営農家として再構築する……ってな」

 そこへグレイスが、興味なさげな薄目で首を傾ける。

「あっそ。でも結局は浮気女のせいでこの惨劇でしょ? この先は単純に私と婚約すれば、フロリアンさんも懸念なく安心出来るんじゃない?」
「いや……婚約破棄して間もないんだ。世間体もあるし、今そんなこと出来るわけないだろ? せめて半年くらい期間を空けないと」

 不意に口角を緩めたグレイスが下を向き、両手でお腹を抑える。

「うふふ、そんな半年なんて、悠長なこと言ってられないのよ?」
「どういうことだ?」
「だって、私のお腹には……すでに“新しい命”が宿ってるんですもの」

 あまりの衝撃的な言葉に、目を見開いて尋ね返す。

「……な、何だと!? いつわかったんだ!?」
「生理が来なくなった、つい最近よ」

 そう言って、にんまりと笑うグレイス。
 眉間に力を込めて「確かに俺の子なのか?」と念押しで問うと、彼女は深い吐息を漏らして、ガックリと肩を落とした。

「貴方以外に……誰がいるのよ……」
「そ、そうか」

 が紛れていたのが、今となって仇になったようだ。不本意ではあるが、こうなった以上は責任を取らなければなるまい。

「……産婦人科の診断もちゃんと受けたわ。いいじゃない。ポグバ家にとっても、うちとの婚約なんて願ったりでしょ?」
「まぁ、確かにラクラル伯爵家となら、父からしても申し分ないだろうな」

 両手を後ろについて投げやりな言葉を放る。すかさず眉を顰めたグレイスが、見下ろすように冷たい視線を送ってきた。

「ねぇ、何なのその態度? けどって何よ? まさか、まだ“マエルに未練がある”とか言いたいわけ?」
「……彼女を愛してたのは事実だ。裏切られたこの悲しみは、お前なんかに解らないさ」

 執拗に探ってこられることに苛立ちを覚え、睨みつけてくる視線から顔を背けた瞬間だった。

「知らないわよそんなのッ!」

 とグレイスが叫び、俺の両肩を強く掴んで、強引に向き直させてきた。

「いい加減、あの女に幻想抱くのやめてッ! 言ったでしょ!? あいつは“私の男を奪った小悪魔”だって!」
「が、学園時代の話だろ……! そんな昔の話を持ち出すな」
「昔だろうと関係ないわ! 貴方が私を抱いたのは、マエルに愛想を尽かしてたからなんでしょ!?」
「それは違う。元はといえば酔っていた時に、お前から誘ってき――」
「ふざけないでッ! 夜会で私をその気にさせてきたのは、貴方の方じゃない! 大喜びで私の身体を散々グチャグチャにしてきたクセに、今更『酔った勢いで』なんて言わないでくれる!?」

 徐々にヒートアップしていく彼女の腕を掴み、軽く押し返す。

「お、落ち着けよ! もう、わかったから……」
「何にもわかってないッ! 何度も何度も……人目を盗んでまで、身体を重ね合わせてきたのに」

 突然グレイスが手で顔を覆ったかと思いきや、今度はしくしくと泣き始めた。

「キリアンの頭に、あの女がいることに我慢出来ないの……。今話した妊娠のことだって、貴方の喜ぶ顔が見たかったのに……『俺の子か?』なんて……酷過ぎるわ……」
「すまん……。も、もう、マエルのことは忘れるよ」
「私、貴方のことが愛しくて愛しくて、たまらないの……だからお願い、私だけを見てよ……」
「グレイス……」
「頭がおかしくなるくらい、いっぱい愛してよ……! そしたら、誰もが羨むこの身体で……一生貴方のこと、癒してあげるから……!」

 潤んだ瞳で切望してくるグレイスを、手繰り寄せて強く抱き締めた。
 小刻みに震える彼女の頬に手を添え、濡れたまつ毛を親指でゆっくりと拭う。そして、開いた彼女の眼を見つめながら、俺は小さく囁いた。

「愛すると誓う……だから、結婚しよう」

 そう言って彼女の身体を、力強く引き寄せた――。
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