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二章
夜が明けるまで
しおりを挟むもう顔を見せないでくれ、とエリオットに言われてから数日が経った。
ノーチェが使用人という立場である以上、主人であるエリオットの言葉には従わなければならない。
ノーチェは元々エリオットの身の回りの世話を担当していたメアリーと仕事を替えてもらい、今は基本的に屋敷の清掃をしている。他の仕事も覚えたいから、と適当な理由を付けて替わったけれど、メアリーは特に何も言わずにわかりましたと頷いただけで、その無関心さがその時ばかりはありがたかった。
ノーチェがエリオットの姿を見られるのは、渡り廊下の掃除をしている時だけだ。廊下の窓からは丁度エリオットの部屋のバルコニーが見える。
今日も窓辺に立ってノワの姿を探すエリオットのことを、ノーチェもまたガラス越しに見つめていた。
冬が近づく朝。
窓ガラスは氷のように冷えていて、指で触れるとその冷たさに僅かに皮膚が粟立った。
人間であるエリオットにはもっと冷たく感じられるのだろう。薄い寝巻きのままで窓辺に立つから、エリオットの手はいつも冷えていた。
きっと今日もあの指先は冷え切っている。
『…ノワ、きみがいてよかった。一人じゃないって、安心できるよ…』
ノーチェは結局、エリオットをまた一人にしただけなのかもしれない。
*
「どうかしたのか、メアリー」
「エリオット様が体調を崩されたんです」
「またか」
「はい。ですが今回は咳も出ているので風邪を引かれたようです。そのせいかいつもより熱も高く、水分も摂れない状態で」
慌ただしく廊下を走るメアリーに声をかけると、焦った様子でそう返された。
どんなに忙しくても淡々と仕事をこなす彼女にしては珍しいその態度に、エリオットの具合がそれほど悪いのだとわかる。
「医者は?」
「それが…本邸に行って旦那様にエリオット様の状態をお伝えしたのですが、必要ないと言われました」
「はあ?」
どれだけクソなんだその男は。
「とりあえず前にお医者様から頂いたお薬があるので、それで様子を見ることにします」
「ああ。やばそうだったら言え、俺が医者に連れて行くから」
「わかりました」
失礼します、と頭を下げてメアリーはまた廊下を駆けて行く。
エリオットが風邪を引いたのは間違いなくノーチェのせいだ。毎晩窓を少し開けて眠るのも、一日中薄着のままで窓辺に立っているのも、全てはノワがいなくなったことが原因なのだから。
だから言ったのに、という苛立ちと、自分が猫のままでいればという後悔が押し寄せる。
エリオットのことが心配でたまらなかったけれど、冷たい目で拒絶されたことを思い出すとその場から動けなかった。
薬が効いたのか、少しは容体が落ち着いたとメアリーから報告されたのはそれから一時間後のことだった。体力が尽きたのかエリオットはそのまま眠りについたらしい。
流石に今回はずっとそばについて様子を見ていたようで、メアリーにも僅かに疲労の色が見えた。
それを程のいい言い訳にしてノーチェは交代を申し出た。エリオットが眠っているなら自分がそばにいても許されるはずだ。
数えてみれば大して日が経ったわけでもないのに、エリオットの部屋を訪れるのは随分と久しぶりな気がした。猫の姿をしていた頃から毎日ここにいたのだから、そう思うのも仕方ない。
「エリオット」
一人で使うには余りにも広すぎるベッドの真ん中で、蹲るようにしてエリオットが眠っている。
苦しいからではなく普段からエリオットがそうやって眠ることをノーチェはよく知っていた。そうして腕の中に大切そうに自分のことを閉じ込めて、「おやすみノワ。明日も僕のそばにいてね」と囁くのだ。お願いと言えば可愛らしいが、それはある種の呪いのようにも聞こえた。
それを言われる度にノーチェは思うのだ。
自分が明日いなくなったら、この一人ぼっちの人間はどうやって世界を生きていくのだろうと。
温もりを求めるように、一人じゃないと思い知るように黒猫を抱きしめていたあの腕は、眠っている間に逃げてしまわないようにという思いも確かにあったはずで。
わかりながらそばにいたのは、離れてしまえばエリオットが悲しむことがわかっていたからだ。
苦しそうな呼吸にたまに咳が混じって、ひゅうひゅうと喉が鳴る。
何かを探すように動いた左手が空を切って、薄く開いた唇が縋るような声で名前を呼んだ。
「…ノワ、」
馬鹿な人間は夢の中でまで自分を探していた。
溺れながら波の隙間に手を伸ばすように、唯一の温もりを忘れられずに今もまだ。
日の光を知らないかのような白く透き通った肌がシーツに埋もれて同化する。このまま溶けてなくなってしまうような気がした。
だから、つい。
その手が探し求めているのは自分じゃないと知りながら、そっと指先に触れた。
手の平を重ね合わせて、それからゆっくりと握る。
久しぶりに触れたエリオットの体温は火傷しそうなほどに熱かった。それがぎゅっと、ノーチェの手を握り返すからなんだか泣きそうになってしまう。
いつか自分のことを撫でていた手を思い出して、当たり前だったはずのものがそうではなくなったことを知る。
これだって、ノーチェに差し出されたものじゃない。
「…ああ、いるよここに。エリー」
ずっとそばにいる。
お前の一番そばに。
たとえそう伝えられる声があったとして、エリオットはそれを素直に受け入れて、喜んでくれただろうか。もしかしたら、自分がノワだと告げたところで黒猫の姿でなければ価値はないのかもしれない。
ノワじゃない自分のことを、ノーチェとしての自分を愛してくれればいいのにと思う。
もしもやわらかいその声で名前を呼んでくれるのなら、死んだ後だってそばにいてやるのに。
だけど。
「…お前は、俺の名前なんて知らないか」
自虐のような呟きがきっと真実で、だから素直に傷ついた。
エリオットが付けた名前も、褒めてくれた色も、気に入られていたやわらかい毛も。なに一つ持たないノーチェにエリオットの関心と目線が向くことはない。それでもいつか、と無垢な幼子のように夢を見る。エリオットが、自分を見て笑ってくれる日を。
それはきっとこの上ない幸福だろうなと考えながら、握った手の力をほんの少し強めて魔力を流し込んでいく。
このか弱い人間の毒にはならない程度に。
あまり知られていないことだが、何かを癒すことができるのはなにも天使だけではない。力の使い方を変えれば悪魔にだって天使のそれと同じような使い方をすることはできる。わざわざそれをする者がいないだけで。ノーチェだって、エリオットに出会わなければこんな使い方をする日はきっと来なかった。
「早く元気になれよ」
荒かった呼吸が落ち着きを取り戻し、苦しげに強張っていたエリオットの表情が緩むのを見てノーチェは微笑んだ。
天使になれなくたって、エリオットの苦しみをほんの少し取り除くくらいのことならできる。
「…っ、」
けれどそれとは反対に心臓を強く握られたような息苦しさと繰り返しナイフで刺されるような鋭い痛みがノーチェを襲った。
魔法の代償だろう。壊そうとするそれに抗って無理矢理力を使ったせいで、咎めるように痛め付けられる。
このまま死ぬんじゃないかと思うような、こんな夜がエリオットには幾度となくあったのだろう。いつも一人きりで、最後の瞬間にもそうかもしれないと考える絶望はどれほどのものだろうか。
そんな日々に突然現れた自分以外の温もりは、たかが猫だとしてもきっと世界の全てだと思えたことだろう。
ノワがいればそれでいいと言ったエリオットのことも今なら理解できる。あの時吐いた言葉は取り返しがつかないのだということも。
出会い方さえ違っていれば、そうすれば、ノワの位置にいたのはノーチェだったのかもしれない。
ノワを知らないエリオットと出会って、その孤独を埋めるのが自分だったら。きっと今頃、なんて。
馬鹿馬鹿しい妄想に苦笑を漏らして、ノーチェは眠るエリオットを見つめた。
美しく穏やかな寝顔。そこに苦しみが混ざっていないだけで、ノーチェがここにいる意味もあると思えた。
夜が明けるまで手を握って、その目が覚めてしまう前にそっと部屋を出る。
その日からエリオットが体調を崩す度に、ノーチェは同じことを繰り返した。
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