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帰らず
伍
しおりを挟む着替えの用意を整えて脱衣所に入り、洗面台の前に立ち結びっぱなしだった髪を解いた。引っ張られていた髪の緊張が緩んで、同時に私の気も抜ける。ズルズルとその場に座り込んだ。
桃の花の髪紐は砂埃を被って花びらが少しくすんでいる。お風呂から上がったらちゃんとお手入れしなければ。
身体もあちこち軋んでいるのでしっかりマッサージしないと。それにしても久しぶりのお布団だから、恵衣くんの言う通り明日の夕方までは起きないだろうな。
明日のご飯当番誰だっけ、そういえば今日って何曜日だろ?
そんなことを考えながら緋袴の紐に手をかけたその時だった。
テレビをザッピングするかのように次々と脳裏に色んな映像が浮かんでは消えて、繁華街の雑踏のように色んな音が同時に聞こえ出す。
直ぐに先見の明が発動したのだとわかって、床に手を付き静かに目を閉じた。
抗わず、身を任せる。波長を合わせるように慎重に。
やがて意識と意識の中の身体が繋がり始める感覚がして、切り替わる映像が鮮明になっていく。
これは────ここだ。薫先生の家だ。廊下も天井も壁も家中が燃えている。青い炎が迫ってくる。これは怪し火だ。
『皆逃げろ!』恵衣くんが叫んで、皆が廊下を駆け抜けている。身体中が熱い。呼吸する度に喉が焼け付く。
『そう逃げるでない。話をしようじゃないか』
『クソガキども、筆を盗んだのはあんたらやろ!』
振り返る。炎の先に人影が二つ。後頭部がやけに伸びた老人と、獣耳を生やした若い女。
知っている。あの二人を私は知っている。
『おい! さっさと走れ死にたいのか!』
『慶賀はどこいった!?』
『さっきまで一緒にいただろ!?』
必死に辺りを見回す。慶賀くんの姿だけどこにもない。
『死ねぇッ!』
女が手の平に出した狐火を投げつけた。すんでのところで略拝詞が間に合って、青い火花を散らして消え散る。
その時、身体と意識の繋がりが途切れ始める感覚がした。意識の中の私よりも、私自身の声が大きくなる。
このことを、今すぐ皆に伝えないと────!
「ハッ……!」
勢いよく顔を上げた。青白い顔が鏡に映る。額には汗が滲んでおり前髪がベッタリと張り付いていた。
両手が痺れて震えている。もつれそうになる足を必死に動かし廊下を駆け抜けた。
勢いよく居間の襖を開け放った。激しく枠にぶつかって大きな音を立てる。驚いた皆が飛び起きた。その中にはまだちゃんと慶賀くんの姿もある。
「ど、どうしたの巫寿ちゃん」
「ビックリするじゃねぇか! 襖は優しく開けろよな~!」
はっはっ、と短い呼吸を繰り返して必死に息を整える。乾いた喉で唾を飲み込んだ。
「……ッ、隠れ家がバレた!」
みんなの顔つきが変わった。
恵衣くんが腰を浮かして、部屋の隅に適当に置いてあったリュックを皆に放り投げた。
「先見の明で見たのか!?」
「見た……! ぬらりひょんと妖狐の伊也が襲撃に来るッ!」
それだけで皆には十分に伝わったらしい。リュックを背負った私達は迷うことなく廊下を駆け出した。
「待って、筆は!?」
来光くんが悲鳴をあげるようにそう尋ねた。
「蔵に仕舞ってあるが取りに行く時間はない!」
そうだ、払日揮毫筆は家に着いてすぐ一番厳重な結界が貼ってある蔵へしまったんだった。
でもぬらりひょん達がいつ来るか分からない以上取りに戻る時間はない。あの蔵の結界ならちょっとやそっとじゃ破られることはないだろうし、ぬらりひょんたちも私達が持っていると思って追いかけてくるはずだ。
「アレを盗られるとヤベぇんだろ!?」
最後尾を走っていた慶賀くんがそう叫ぶ。
「蔵にあるから安全だ、いいから走れ!」
「でも……やっぱ俺、取りに行ってくる!」
先行ってて!とだけ言って廊下をもどり始めた慶賀くんに皆が足を止めた。
行くな戻れというみんなの叫びは届かず走っていってしまう。
「あのバカ! 人の話を聞けよッ!」
悪態を吐いた恵衣くんが足を止めた。ばくんばくんと心臓が徐々に大きくなっていく。
駄目だ、これじゃ私が見た未来と同じになる。
「あのバカを連れ戻す!」
「恵衣! 行くなら全員でだ!」
すかさず噛み付くようにそう答えた嘉正くん。苦虫を噛み潰したような顔をした恵衣くんが「行くぞ!」と私たちに怒鳴った。
まだ焦げ臭い匂いは感じない。伊也たちは来ていない。もしかしたらあの襲撃は今日じゃなかったのかもしれない。そんな淡い期待を胸に抱く。
ドタバタと廊下を駆け抜ける。蔵へ行くには台所の勝手口を通っていく方が早い。
恵衣くんが勝手口の扉に手をかけたその時。
目の前の扉が青白い炎に包み込まれた。ぼわりと熱風が吹き付けて私達は足を踏ん張る。
「恵衣ッ!」
「問題ない、下がれ!」
瞬時に手を引いたのか、炎に当たることはなかったらしい。
恵衣くんの怒号に私達は飛ぶように後ろへ下がる。燃え盛る扉が弾けるように外へ吹き飛んだ。
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