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第3章 秋

第7話 大雨

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 その日の椎谷の里は朝から大雨だった。地面に当たる雨音が屋敷の中まで響き渡っていた。それはまるで葵姫を里に留めようとしているかのようだった。今日は葵姫の迎えの者が来ることになっていた。だがいつまで待ってもその者たちは現れなかった。

「この雨では迎えの方は来られないかもしれぬ。いや、こちらに向かわれて途中で道に迷っておられるかもしれぬ。」

百雲斎はつぶやいた。その一行を迎えるため、葵姫や紅之介は母屋に来ていた。迎えの者が来るというのに葵姫は華やかな着物姿ではなく、馬に乗る時の袴姿だった。一人で馬に乗って里への未練を捨てて、そのまますぐに麻山城に帰ろうというつもりか、それとも・・・。
 紅之介と葵姫は一夜を共に過ごした。あれから朝になり、誰にも見られぬように葵姫は自分の寝所に戻った。そして今、2人が母屋で顔を合わせた時、お互いに恥ずかしそうに微笑んだ。それは愛を交したという2人だけの秘密を持ったからだった。よく見れば2人の様子はいつもと違う・・・だが周りの者はそれに気づかなかった。
 葵姫と紅之介は何気なく横に並んで座っていた。じっと外の雨を眺めているふりをしながら、誰にも見られぬようにそっと手を重ねていた。互いに声をかけることはなかったが、たまに顔を見合わせて微笑んでいた。2人はお互いの心の中がわかり、愛を確かめたことで心に落ち着きがあった。たとえ別れることになったとしても、この愛の心だけは持ち続けていけると信じていた。

 外では雨がひどくなっていた。ごうごうと風が鳴り、落ちてくる雨粒も激しくなった。これでは外を歩くのさえ難儀である。たとえ迎えの者が来ても葵姫を送り出すことはできない。葵姫が城へ帰るのは延期しなければならないだろう。

「今日は無理かもしれぬ。いやこの雨ではしばらくお帰りが伸びるかも・・・」

空を見て百雲斎が独言した。彼は天気のことを外したことがない。長くこの地にいて経験的にわかっているのだ。その言葉を聞いて、葵姫と紅之介は別れの日が延びたことに少し安堵していた。

「しかしひどい雨じゃ。山道で迷っておられぬとよいが・・・」

百雲斎はいつまでも到着せぬ一行のことが心配になっていた。雨で道がわからなくなって、そこから逸れてしまったら山奥をさまようことになる。百雲斎は紅之介に命じた。

「すまぬが紅之介。見て来てくれぬか。迎えの方々が途中で難儀しているかもしれぬ。」
「はっ。では行ってまいります。」

紅之介はそう答えるとそのまま出て行った。その後ろ姿を葵姫は優しい目でじっと見ていた。それは昨日までの葵姫の様子と違っていた。愛する者を見送るしぐさであった。また紅之介も戸を開ける時、そっと葵姫に目線を合わせた。
 百雲斎はそれに気づくどころではなかった。どうにもならぬ事態にため息をついて葵姫に言った。

「姫様。申し訳ありませぬ。少し延びるかもしれませんが、必ず城には戻れますぞ。ご安心ください。」
「ええ、いえ。気にしておりません。」

葵姫は微笑みながら答えた。その心の中では

(このまま迎えが来なければいいのに。このままずっと・・・)

と思っていた。


 大雨の中を紅之介は山道に馬を走らせた。その道は水につかったり崩れたりしており、その途中にある川は増水し、橋は所々流されていた。こんな雨が降るのは数年ぶりか・・・いやこれほどまで激しい雨を経験したことがないのかもしれない。何とか今は道を通れぬことはないが、これ以上激しくなれば椎谷の里に通じる道はすべて潰れ、孤立してしまうかもしれない。紅之介は向こうの山の雲の状態を見た。

(この分では明日まで降り続く。当分、止むことはない・・・)

それは紅之介にもわかった。とにかくこの分では迎えの一行は引き返しているかもしれない。

(これではお迎えの方々はしばらく来られぬ。それなら・・・いやいや、そうではない!)

紅之介は気を引き締めて、もう少し辺りを見て回ろうとした。急に何か嫌な予感を覚えたのだ。しばらく馬を走らせてみた。すると何かの音が遠くから聞こえてきた。馬を止めてふと耳をすませば、雨の音に交じって人の叫び声、怒鳴り声、悲鳴が入り混じって聞こえてきた。

(この近くで戦?  一体、誰が戦っているのだ?)

紅之介はその声がする方に馬を進めた。


 紅之介がさらに馬を進めて山嶽を越えていくと、行く先々で鎧を着た兵の屍が転がっていた。この辺りまで戦が広がったらしい。紅之介は馬から降りて、その近くに打ち捨ててある旗印を拾った。

(これは東堂家の旗印!)

紅之介は目を見開いて驚いた。信じたくはないがこの様子から見ると、万代の兵に御屋形様の軍勢がさんざんに打ち破られていたように思われた。幸いそこには万代の兵は姿を現さなかったが、すでに近く来ていることは確かだ。もしかすると万代勢がその勢いに乗じて椎谷の里にも押し寄せるかもしれかった。

「一刻も早く頭領様にお知らせしなければ・・・」

紅之介は急いで馬に飛び乗ると、椎谷の里に走らせた。
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