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日向の香り
しおりを挟むあの後、イアンは大人しくなり、静かに書類にサインをした。そして邸内で待っていた父に連れられてハネス家に帰っていった。
これから父とハネス伯爵の間で正式に婚約破棄の手続きが行われる。
既に夫人は逮捕された後だろうから、これからきっと修羅場が待っているだろう。
ハネス伯爵がイアンにどんな処遇をするのかはわからない。
彼の中に、血は繋がらなくとも今まで共に暮らしてきたイアンに対して、父親としての感情が残っていると信じたい。
彼にだってイアンを救う事はできたのだから。
唯一あの母親を何とかする事が出来たのは夫であるハネス伯爵だけだ。
彼にだけはイアンを責める資格はない。
『リジー・・・・、君は最後まで否定して信じてくれなかったけど、僕は本当に君を愛してたよ───でも・・・、だからこそ僕の醜さを、君にだけは知られたくなかった・・・っ』
去り際に、イアンが吐露した嘆きが耳にこびりついている。
『傷つけてごめんね・・・、さよなら、リジー』
泣き笑いの表情が、目の奥にこびりついている。
やっと婚約破棄出来たのに、全然スッキリしない。
裏切られたのは私なのに、後味悪すぎて胸が詰まる。
イアンは、本当に私の事が好きだった・・・?
それを信じて私も同じ思いを返せていれば、こんな事にはならなかった───?
真っ暗な執務室で机に突っ伏していると、ゆっくりと扉が開けられ、廊下の明かりが部屋に差し込む。
「ブリジット───」
「……………」
「───大丈夫か?」
「…………大丈夫じゃない」
「…………入るぞ」
部屋にワゴンが運びこまれる。
エゼルは明かりをつけて応接セットのテーブルにお茶と軽食のセッティングを始めた。
「—————あまり食欲ないんだけど…」
「甘いものだけでもいいから少し腹に入れておけ。ほら、お前の好きなフルーツティー持ってきたぞ」
フルーティな香りが鼻腔をくすぐる。
口に含むと、ずっとダルくて重かった体が緩んだ気がした。
「レンス様が戻ってきたぞ。落ち着いたら話したいそうだ」
「————そう。手続きがすべて終わったのね」
これで私は、傷物令嬢になった。
私はもう18歳だ。家の為を思うなら、カーライルの後継を産むためにまた誰かと婚約を結ぶべきなんだろうけど、今は何も考えられない。
—————イアンの覗き行為と、影の仕事になんの違いがあるのだろう。
人のプライベートを覗いて秘密を暴く事になんら変わりない。
「………私ね、影の仕事って、国に仇なす悪い奴をやっつける正義のヒーローみたいに思ってた。そんな仕事をしている両親のことを、かっこいいってずっと尊敬してたの。お母様とお父様が、どんな気持ちで仕事してるかなんて想像もしなかった。ホント、おめでたいよね私。資質を試されて当然だわ」
前世の記憶も相まって、影の仕事を必殺仕事人か何かだと勘違いしていた。実際の影の仕事はこんなに泥臭くて負の感情に塗れているのに。
今両親から受けた忠告を、この身に受けている。
こういうことは、この先何度でもある。影の仕事をする限り一生ついてまわる。
それでも私は、当主を継ぐ覚悟があるのか————。
「今日、私はイアンの未来を潰したわ」
「……ブリジットのせいじゃない。アイツのやった事が跳ね返っただけだ。これはなるべくしてなった結果だよ」
「……ふふっ、エゼルの方がよっぽど影に向いてるかもね」
「そうか?それは嬉しい誉め言葉だな」
「—————嬉しいの?」
「ああ。お前の隣に並び立つことが出来るからな」
「………そ…そっか……」
エゼルの優しい笑顔に、思わず声がどもってしまう。
普段はいつも小言ばかりだから、何だか調子が狂うわ。
「お前には俺がいる」
「………え?」
「俺がお前を一生支えてやるから、影の仕事が辛くなったら泣けばいい。お前の弱さは俺が引き受けてやる」
「……言うようになったじゃない。昔は泣き虫の引きこもりだったくせに」
「ちゃかすなよ………ったく、母娘して何年前の話を持ち出してんだ」
お母様にも似たようなこと言われたんだ?
「……ふふっ。ちゃかしてごめん。ありが……と…っ」
途中で声が震えて詰まり、堪えていた涙がこぼれた。
—————重い。
影の仕事は、人の人生を潰す仕事だ。
対象は必ずしも犯罪者だけではない。
キャサリン様達をけしかけておいて、私が怖気づいてどうするの。
私は、————私達はこれから、彼らの人生も潰すのだ。
自分たちが犯した行いの責任を取ってもらうのだから。
これが仕事だと自分にそう言い聞かせていると、日向の香りが私を包んだ。
「———お前には、俺がいる」
「……ふっ……っ」
「辛かったな」
「ふっ……うぅぅぅ~っっ」
イアンとは違って、エゼルは香水をつけない。
服に染み付いた太陽の香りと、エゼルの匂いが混じって私を包む。
とても落ち着く香りで、私は気が緩んで涙腺が決壊してしまった。
「何よ…っ、エゼルが急に甘やかすから、我慢できなくなったじゃないよぉ~…っ」
「じゃじゃ馬のお前を甘やかしてやれるのなんて、お前の親以外で言ったら俺くらいだろ。気にせず大いに泣くがいい」
「アイメイク落ちる…っ、目の周り黒くなる!…目が腫れる!」
「大丈夫だ。そうなったら指さして笑ってやる」
「笑うな!!」
「はははっ」
「ううぅぅぅ~っっ」
一度決壊した涙腺はなかなか元に戻らなくて、私はエゼルの腕の中で泣き続けた。私の頭をなでる彼の手が心地よくて、私はそのまま泣き疲れて寝入ってしまった。
「———————だから、俺の前で無防備になるなよ。……はあぁ、ったく。…………落ち着いたら全力で口説くから覚悟しとけよ」
その翌朝、鏡の前には目が腫れ上がったブサイクな私がいて、悲鳴をあげたのは言うまでもない。
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