恋が温まるまで

yuzu

文字の大きさ
7 / 17
#3 昨夜のつづき

3

しおりを挟む
 会社のエントランスを抜けたとき、私はようやく肩の力が抜けた。

 田上さんとは課が違う。普段、顔を合わせる機会なんて、滅多にない。

 そう気がついた私は、前を向いてタイムカードを押し、静かに席へと向かった。

 いつも通りパソコンの電源を入れ、いくつかのファイルに目を通すと、すぐに資料作成に取り掛かった。

 ——仕事に集中すれば、きっと余計なことは考えずに済む。

 と、そのときだった。

「おやつにどうぞ。手作りのクッキーです。」

 あの甘い声が、今日もまたオフィスに響く。順番に配られ、誰もが笑顔で「ありがとう」と受け取っていく。

 でも、私のデスクの後ろに差し掛かると、ひと言もなく、笑顔のまま素通りした。

 別に驚かない。

 むしろ、納得。

 でも、どうしてそこまで?と、面白く無い気持ちにはなる。

 そのときだった。

「阿部さんいますか?」

 突然、背後から響いた低い声に、私の指が止まった。

 まるで心臓が急に外の空気に触れたように、跳ねる。

 振り返ることもせず、私はただ背筋を伸ばし、手元の資料に目を落とす。

 「あ、田上さん!お疲れ様です。これ、手作りなんですけど良かったら」
 
 誰もが笑顔で受け取っていたそのクッキーを、田上さんは一瞬冷たく一瞥した。

 「そのクッキー、駅前に新しく出来た話題のカフェの商品だよね。ナチュラルが売りなんだっけ?さすが、磯崎さん。情報通だね。」

 田上さんのその返答に、オフィスの空気が一瞬だけ揺れた気がした。

 「……や、やだぁ。私のクッキー、そんなにですか?お褒めいただいて光栄です。」

 背中越しに聞こえる磯崎美優の声に甘さは消え、代わりに氷の様な冷たさを含んでいた。

 その磯崎美優になんのフォローもせず、阿部さんの席のほうへと向かって歩き出した——その途中、ふいに私のデスクの前で立ち止まり、何かを置いた。

 手元を見ると、小さく折られたメモ。

 そっと開くと、そこには一言だけ。

 「忘れ物だよ」

 包みの中には、ピアスが入っていた。

 昨日、私がつけていたお気に入りの……あの——片方だけ落としたと気づいて、あきらめたはずのピアス。

 体の奥が、ほわっと温まった。

 お礼が言いたくて視線を上げたとき、彼の背中はすでに阿部さんの席に向かっていた。

 声もかけられず、ただその紙片を指先で握りしめたまま、私は、自分の鼓動を抑えるように胸に手を当てていた。

しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

デネブが死んだ

ありがとうございました。さようなら
恋愛
弟との思い出の土地で、ゆっくりと死を迎えるつもりのアデラインの隣の屋敷に、美しい夫婦がやってきた。 夫のアルビレオに強く惹かれるアデライン。 嫉妬心を抑えながら、妻のデネブと親友として接する。 アデラインは病弱のデネブを元気付けた。 原因となる病も完治した。それなのに。 ある日、デネブが死んだ。 ふわっとしてます

溺婚

明日葉
恋愛
 香月絢佳、37歳、独身。晩婚化が進んでいるとはいえ、さすがにもう、無理かなぁ、と残念には思うが焦る気にもならず。まあ、恋愛体質じゃないし、と。  以前階段落ちから助けてくれたイケメンに、馴染みの店で再会するものの、この状況では向こうの印象がよろしいはずもないしと期待もしなかったのだが。  イケメン、天羽疾矢はどうやら絢佳に惹かれてしまったようで。 「歳も歳だし、とりあえず試してみたら?こわいの?」と、挑発されればつい、売り言葉に買い言葉。  何がどうしてこうなった?  平凡に生きたい、でもま、老後に1人は嫌だなぁ、くらいに構えた恋愛偏差値最底辺の絢佳と、こう見えて仕事人間のイケメン疾矢。振り回しているのは果たしてどっちで、振り回されてるのは、果たしてどっち?

勘違い

ざっく
恋愛
貴族の学校で働くノエル。時々授業も受けつつ楽しく過ごしていた。 ある日、男性が話しかけてきて……。

25年の後悔の結末

専業プウタ
恋愛
結婚直前の婚約破棄。親の介護に友人と恋人の裏切り。過労で倒れていた私が見た夢は25年前に諦めた好きだった人の記憶。もう一度出会えたら私はきっと迷わない。

実在しないのかもしれない

真朱
恋愛
実家の小さい商会を仕切っているロゼリエに、お見合いの話が舞い込んだ。相手は大きな商会を営む伯爵家のご嫡男。が、お見合いの席に相手はいなかった。「極度の人見知りのため、直接顔を見せることが難しい」なんて無茶な理由でいつまでも逃げ回る伯爵家。お見合い相手とやら、もしかして実在しない・・・? ※異世界か不明ですが、中世ヨーロッパ風の架空の国のお話です。 ※細かく設定しておりませんので、何でもあり・ご都合主義をご容赦ください。 ※内輪でドタバタしてるだけの、高い山も深い谷もない平和なお話です。何かすみません。

友達婚~5年もあいつに片想い~

日下奈緒
恋愛
求人サイトの作成の仕事をしている梨衣は 同僚の大樹に5年も片想いしている 5年前にした 「お互い30歳になっても独身だったら結婚するか」 梨衣は今30歳 その約束を大樹は覚えているのか

今宵、薔薇の園で

天海月
恋愛
早世した母の代わりに妹たちの世話に励み、婚期を逃しかけていた伯爵家の長女・シャーロットは、これが最後のチャンスだと思い、唐突に持ち込まれた気の進まない婚約話を承諾する。 しかし、一か月も経たないうちに、その話は先方からの一方的な申し出によって破談になってしまう。 彼女は藁にもすがる思いで、幼馴染の公爵アルバート・グレアムに相談を持ち掛けるが、新たな婚約者候補として紹介されたのは彼の弟のキースだった。 キースは長年、シャーロットに思いを寄せていたが、遠慮して距離を縮めることが出来ないでいた。 そんな弟を見かねた兄が一計を図ったのだった。 彼女はキースのことを弟のようにしか思っていなかったが、次第に彼の情熱に絆されていく・・・。

疑惑のタッセル

翠月るるな
恋愛
今、未婚の貴族の令嬢・令息の中で、王国の騎士たちにタッセルを渡すことが流行っていた。 目当ての相手に渡すタッセル。「房飾り」とも呼ばれ、糸や紐を束ねて作られた装飾品。様々な色やデザインで形作られている。 それは、騎士団炎の隊の隊長であるフリージアの剣にもついていた。 でもそれは──?

処理中です...